ミラノ・スカラ座 魅惑の神殿(TEATRO ALLA SCAL:IL TEMPO DELLE MERVAGLIE、2015伊、103分)
これも先のメトロポリタンと同様、オペラの殿堂の由来とこれまでに関するものであるが、すべてドキュメンタリーではなく、記録映像がない一部分は俳優によるものとなっている。
現在のスカラ座は1776年に建設されたが、その後ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニ等々、優れた作曲家と歌手たちに恵まれ、高い地位を保っていて、現在でもオペラハウスといえば、先ずメトロポリタンとここだろう。
それでも19世紀から20世紀にかかるまでは、いろいろあったみたいで、ドニゼッティとヴェルディには、後に嫌われたようだ。若きヴェルディが貧困にあえいでいたとき、彼を救ったのがここで上演した「ナブッコ」であるのだが。
それでも2001年、ヴェルディが死んだときには、この近くから国葬(!)の葬列が出たのだが、その一部の映像も出てくる。
また関係者で重要なのは楽譜出版をしたリコルディで、この名前は知っているけれど、この人は才覚がきき、スカラにかけあって、チラシを只で刷ってやるから地下室に眠っている楽譜をくれといい、それを出版したことにより、イタリアオペラが各地に普及し、またその活動が著作権概念のはしりにもなったという。。
トスカニーニ以降は、歌手たちや指揮者たちの映像が、そして一部は現代のインタビューが出てくる。このあたりになると、私もリアルタイムで知っている人たちがかなりいるし、スカラ座に行ったことはないが、その日本公演などで、実際に聴いた人たち、また録音で聴いた人たちはかなりいる。
プッチーニもスカラで成功したことはあまりなかったそうだが、20世紀に入って最後の「トゥーランドット」が未完で亡くなった後、ここでそれを初演したトスカニーニは、終盤リューが死ぬところで、タクトを置き、ここでプッチーニは亡くなったと述べたという。こんなことはそれまでなかった。またトスカニーニは、上演の大改革をし、アンコールをなくすなど、音楽の本質本位の方向を出し、その後はどちらかと言えば指揮者が中心になっていったという。
20世紀の歌手たちでいえば、やはりマリア・カラスは特別で、男ではフランコ・コレルリが跳びぬけたスターだったようで、これは先のメトロポリタンと同じである。
歌手たちでは、コッソット、カヴァイバンスカ、フレーニ、ドミンゴなどがインタビューに出てくる。ずいぶんふくよかになってしまったフレーニが24歳ではじめて「ボエーム」のミミで出た時、指揮をしたカラヤンがアリアのあとに彼女にキスをし、私が涙を流したのは母親が死んだときと今このときだけだ、といったそうで、さすがカラヤンと思う。
劇場側の誰かが、日本の招聘者が20年以上かかって熱心に呼んでくれて1981年ようやく日本公演が実現したと言っていた。そうまさにその時、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」(指揮クラウディオ・アバド、演出ジョルジョ・ストレーレル、カップチルリ、フレーニ、ギャウロフ)と、プッチーニの「ボエーム」(指揮カルロス・クライバー、演出フランコ・ゼッフィレルリ、トヴォルスキー、フレーニ)を見ることができたのは、大げさに言えば生涯の宝物である。
さてスカラの合唱はこれがまた飛びぬけていて、ヴェルディのレクイエムが十八番だが、そう昔でないエピソードとして、ムーティが率いてニューヨーク公演をしたとき、ある夜グラウンド・ゼロを訪れた時、皆であの「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」(ナブッコ)を歌ったという。よく思いついたと思う。
もう一つ、エジソンの発明のすぐあと、こんなにまとめて電球を使った施設は極めて珍しいという。なにしろスカラ専用に発電所を作ったらしい。上演のために役立つものにはここまで投資を惜しまなかったとは、驚きだ。
これも先のメトロポリタンと同様、オペラの殿堂の由来とこれまでに関するものであるが、すべてドキュメンタリーではなく、記録映像がない一部分は俳優によるものとなっている。
現在のスカラ座は1776年に建設されたが、その後ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニ等々、優れた作曲家と歌手たちに恵まれ、高い地位を保っていて、現在でもオペラハウスといえば、先ずメトロポリタンとここだろう。
それでも19世紀から20世紀にかかるまでは、いろいろあったみたいで、ドニゼッティとヴェルディには、後に嫌われたようだ。若きヴェルディが貧困にあえいでいたとき、彼を救ったのがここで上演した「ナブッコ」であるのだが。
それでも2001年、ヴェルディが死んだときには、この近くから国葬(!)の葬列が出たのだが、その一部の映像も出てくる。
また関係者で重要なのは楽譜出版をしたリコルディで、この名前は知っているけれど、この人は才覚がきき、スカラにかけあって、チラシを只で刷ってやるから地下室に眠っている楽譜をくれといい、それを出版したことにより、イタリアオペラが各地に普及し、またその活動が著作権概念のはしりにもなったという。。
トスカニーニ以降は、歌手たちや指揮者たちの映像が、そして一部は現代のインタビューが出てくる。このあたりになると、私もリアルタイムで知っている人たちがかなりいるし、スカラ座に行ったことはないが、その日本公演などで、実際に聴いた人たち、また録音で聴いた人たちはかなりいる。
プッチーニもスカラで成功したことはあまりなかったそうだが、20世紀に入って最後の「トゥーランドット」が未完で亡くなった後、ここでそれを初演したトスカニーニは、終盤リューが死ぬところで、タクトを置き、ここでプッチーニは亡くなったと述べたという。こんなことはそれまでなかった。またトスカニーニは、上演の大改革をし、アンコールをなくすなど、音楽の本質本位の方向を出し、その後はどちらかと言えば指揮者が中心になっていったという。
20世紀の歌手たちでいえば、やはりマリア・カラスは特別で、男ではフランコ・コレルリが跳びぬけたスターだったようで、これは先のメトロポリタンと同じである。
歌手たちでは、コッソット、カヴァイバンスカ、フレーニ、ドミンゴなどがインタビューに出てくる。ずいぶんふくよかになってしまったフレーニが24歳ではじめて「ボエーム」のミミで出た時、指揮をしたカラヤンがアリアのあとに彼女にキスをし、私が涙を流したのは母親が死んだときと今このときだけだ、といったそうで、さすがカラヤンと思う。
劇場側の誰かが、日本の招聘者が20年以上かかって熱心に呼んでくれて1981年ようやく日本公演が実現したと言っていた。そうまさにその時、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」(指揮クラウディオ・アバド、演出ジョルジョ・ストレーレル、カップチルリ、フレーニ、ギャウロフ)と、プッチーニの「ボエーム」(指揮カルロス・クライバー、演出フランコ・ゼッフィレルリ、トヴォルスキー、フレーニ)を見ることができたのは、大げさに言えば生涯の宝物である。
さてスカラの合唱はこれがまた飛びぬけていて、ヴェルディのレクイエムが十八番だが、そう昔でないエピソードとして、ムーティが率いてニューヨーク公演をしたとき、ある夜グラウンド・ゼロを訪れた時、皆であの「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」(ナブッコ)を歌ったという。よく思いついたと思う。
もう一つ、エジソンの発明のすぐあと、こんなにまとめて電球を使った施設は極めて珍しいという。なにしろスカラ専用に発電所を作ったらしい。上演のために役立つものにはここまで投資を惜しまなかったとは、驚きだ。