メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

今宵、フィッツジェラルド劇場で

2008-02-11 17:45:10 | 映画
「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(A Prairie Home Companion 、2006年、米、105分)
監督:ロバート・アルトマン、脚本:ギャリソン・キーラー、音楽監督:リチャード・ドウォースキー
メリル・ストリープ、リリー・トムリン、ギャリソン・キーラー、ケヴィン・クライン、リンジー・ローハン、ヴァージニア・マドセン、ジョン・C・ライリー、トミー・リー・ジョーンズ
 
見終わってみるとロバート・アルトマンの気持ちのよい遺作であった。
ただ、それほどアルトマンのファンではないためか、前半は少し退屈しどうなることかと思ったというのが正直なところである。
 
アメリカのおそらく中西部の町で、長年続いたウェスタン音楽主体の公開ラジオショウが、劇場主の都合で最終回を迎え、そのショウと同時にドラマは舞台上と舞台裏で進行していく、といういわゆる群像劇である。
その中で、保安係(ケヴィン・クライン)と謎の女(亡霊?)が綾を出していく役割となり、実在したらしいショウの中心人物でこの話を書いたギャリソン・キーラー自身が出演、そして歌手姉妹(リリー・トムリン、メリル・ストリープ)、妹の娘(リンジー・ローハン)などが、舞台に入ったり出たりし、この種のショウの音楽、しゃべり、コマーシャルなどは、こんなものだったのか、と興味を抱かせる。
 
もっともそれが延々続くのか、と思わせてしばらくが退屈し始めるときで、このあたり日本人だとやはりもう少し早めに展開してくれないと、という感じである。 
 
後半はジェット・コースターというわけには行かないが、人の死、娘の舞台登場、劇場主(トミー・リー・ジョーンズ)とのやりとりなどの中で、主人公は「時間」だというようなメッセージが次第に鮮明になってくる。
 
こちらが迂闊なのかもしれないが、このショウの風俗的な見え方からかなり以前の話と思っていたら、劇場がなくなって皆が集まっているときの携帯電話、ちょっとだけ見える車の年式などから、現代ということがわかって来る。
キーラーは有名な人らしいから、アメリカではそのあたりの受け取り方は違うのだろうが、アルトマンは意識して終盤まで古いものばかりでセットを構成しているようにも考えられる。
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