ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指輪」第1夜「ワルキューレ」
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出(プロダクション):ロベール・ルパージュ
デボラ・ヴォイト(ブリュンヒルデ)、ヨナス・カウフマン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ウエストブルック(ジークリンデ)、ブリン・ターフェル(ウォータン)、ステファニー・ブライス(フリッカ)、ハンス=ペーター・ケーニヒ(フンディンク)
2011年5月14日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2012年1月WOWOWで放送
先の「ラインの黄金」(2010年)に続き、いよいよ「ワルキューレ」である。4部作のなかでは、ドラマとしても音楽としてももっとも充実しているし、また楽しめる作品であり、前作からもルパージュによる舞台、レヴァインの練達で大きな期待をしていた。それに違わなかった。
まずこのジークムントとジークリンデの出会いとメロドラマ、こんなに二枚目で立派な観客を圧倒するジークムントが今までいただろうか。これはメトにぴったりというより、やはりこれくらいでなくてはウォータンの無念が強調されない。
ブリン・ターフェルのウォータン、物語としてこのあたりが彼にはぴったりで、エネルギッシュな神々の長のイメージは納得できる。ただ最後の娘(ブリュンヒルデ)との別れでは、少しさびしさがほしいところ。
そしてデボラ・ヴォイトのブリュンヒルデ、美しく強い歌唱でぴったりであった。ただ彼女も、ウォータンの命令でジークムントを倒そうと来たところ彼のジークリンデに対する愛情から考えをかえてしまう場面、最初からジークムントに好感を持っている表情になってしまっている。観客席からはよくわからないかもしれないが、TVではちょっとまずい。最後のウォータンとの別れでも、父親に対する愛情が最初から表情で窺えた。いつもこういう表情なのだろうか。
ルパージュの舞台、今回も24枚の床板がコンピューター制御で効果的な照明とともにうまく使われている。第3幕の冒頭、8人のワルキューレたちが床板一枚一枚を馬に見立ててゆらして登場するところでは、観客がら拍手が出た。幕の最後で拍手のフライングはあっても、ワーグナーでこのタイミングというのは珍しいのではないか。
最後の最後、丘の上に横たわるブリュンヒルデの周りをローゲの火で囲むところは、この装置を駆使したいのはわかるが、ちょっとやりすぎでもう少しシンプルな方がよかった。
細かいところで気になったのは剣(ノートゥング)で、小道具としてちょっとちゃちでかなり軽そうだった。この剣は、そんなに深読みをしなくても、「男性」の象徴でもあることは自然に理解されるものであるから、それなりの道具、それなりの演技上の扱いがほしい。
そしてジークムントがフンディンクを戦おうというとき、ウォータンの槍がこの剣をくだき、ジークムントは敗れて死んでしまうが、ブリュンヒルデがジークリンデを連れて逃げる時に剣の破片を拾い集めていくようには見えない。これも少し気になった。
レヴァインの指揮は、こういう豪華キャストが気持ちよく演技できることがよく理解されるもので、ワーグナーの音楽を本質から自家薬籠中にしているといってよい。
ただ一つ欲を言えば、第1幕の若い二人の愛の場面のはじまり、扉があいて冬の風が入ってきた空気に、いや入ってきたのは「春(レンツ)」だとなる「冬の嵐は過ぎ去って、、、」のところ、ここはメロドラマだからオケはもう少し小さく控えめに始まって、というのが私の理想、メトの大きな舞台でこうはいかないのかもしれないが。
1年前にはつらそうにカーテンコールに出てきたレヴァイン、今回はピットにいたままだった。元気そうで、ご機嫌ではあったけれど。予定通りいけば今年は「ジークフリート」(もしかしてジークムントのカウフマンがジークフリートも? まさか)、来年は「神々の黄昏」だが、なんとか無事に振ってほしい。
なおあらためて思うのはこの「指輪」を通しての「女」の力である。フリッカ、エルダ、ブリュンヒルデ、彼女たちに男たちは結局かなわわず、滅び、滅亡を願う。
特にブリュンヒルデは、ここから最後まで、主役であり続けるわけで、ワーグナーが最も力を注いだキャラクターだろう。
それにしてもワーグナーという人は女性をよくわかっていたと思う。
そしてこの人は、こういう豪華な舞台を、いずれは4つ続けて家庭で高画質で堪能できるということを、生きていればと仮定すると、望んだのではなかろうか。
今回の主なインタビュー役はプラシド・ドミンゴ、なかなか知性的でうまい。