メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ブッシュ

2009-05-19 22:27:29 | 映画
「ブッシュ」(W. 、2008年米、130分)
監督:オリヴァー・ストーン
ジョシュ・ブローリン(ブッシュ)、、エリザベス・バンクス(ローラ・ブッシュ)、ジェームズ・クロムウェル(父ブッシュ)、エレン・バーンステイン(バーバラ・ブッシュ)、リチャード・ドレイファス(チェイニー副大統領)、スコット・グレン(ラムズフェルド国防長官)、ダンディ・ニュートン(ライス補佐官)、ジェフリー・ライト(パウエル国務長官)、トビー・ジョーンズ(ローブ補佐官)
 
オリヴァー・ストーンはJFK(1991)、ニクソン(1995)を作っている。この二つは見ていないが、どうもこの二人が大統領としてどうだったかという評価の映画みたいで、見ないでいうのもいけないのだが、見る気がしない。先の「フロストXニクソン」(2008、監督:ロン・ハワード)はそうでもなかったからこれは見て、面白かった。
 
時期的に見ればオリヴァー・ストーンがこれに刺激されたわけでもないだろうが、今回はそうではなくて、なんとブッシュの任期内の公開目指して製作された、「第43代米国大統領ブッシュ」とはどんな「人間」か、という興味で作られた映画である。
 
よく言われるように、父ブッシュから出来そこないといわれ続け、事実やることなすこと失敗、我慢も出来ず、どうしようもなかった息子が、なぜか弾みで政界にでてしまい、大統領になってしまう。その過程と、9.11後のイラク政策の誤算と破綻、この中で、この精神的に弱い男と、それをとりまくホワイト・ハウスの人たちの政治プロセスが、描かれる。
 
もちろん、この時期の政界についてであるから、批評と皮肉はあるのだが、ブッシュ本人は悪意がある人間とも、また失敗を他人のせいにする人間とも描かれてはいない。側近については、元軍人であり戦争経験もあるパウエルがテロ対策と戦争の違いを説くのに対し、徴兵を逃れているラムズフェルドがいい加減な強硬意見を続け、同じく戦争経験のないチェイニーが副大統領としては珍しく、場を取り仕切る。
 
ブッシュには、その間も父ブッシュのトラウマが残り、時に顔を出す。
 
必見という映画ではないにしろ、こういう人たちが率いている恐ろしい世界、そしてそれを生み出しているアメリカという社会、見て損はない。
 
ただ、ハルバースタム「ベスト・アンド・ブライテスト」で描かれるケネディ政権、そしてニクソン、レーガン、クリントンなどなど、よく見ればみな高潔で有能な人たちばかりではない。それでもなんとか出来ているというのが国家というのは、不思議で、皮肉なものである。
チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(2007、監督:マイク・ニコルズ)にも通じるものがある。
英、仏、最近のイタリアだって、おかしな話は多い。
 
オリヴァー・ストーンにしては、ブッシュに感情移入しているとして、内外の評判は必ずしもよくないようだが、それは度量不足というものだろう。大統領は映画で評価されるものでもない。
 
ストーンは最近の週刊文春(5月21日号)で町山智浩のインタヴューに答えている。
ストーンとブッシュは同じ1946年生まれでイェール大に行っている(ブッシュはコネ入学とか)。ついでにビル・クリントンも同年生まれ。
父と息子というテーマに、それが実の親子でなくても、興味があるようだ。
ブッシュは退任前に、この映画を見ただろうと言っている。12月1日ABCTVのインタヴューで、「あなたは歴史においてどのように評価されると思いますか?」と問われ、「歴史になる頃には死んでいるよ」と答えたが、それはこの映画の最後のセリフだからということだ。
 
ブッシュにとって、一番の幸運はその結婚、夫人ローラだろう。最後までその仲のよい光景は見受けられたが、この映画でもそう描かれている。
 
俳優は風貌が似た人を集めていいて、ジョシュ・ブローリンは本人より二枚目、そのほかそこそこ実績のある人を集めているけれど、パウエル、ライスあたりはもう少し存在感のある演技が欲しかった。ストーンはリチャード・ドレイファスのチェイニーを自慢しているが、それはもうものがちがうという感じである。
 
ドレイファスは1947年生まれ、あの「アメリカン・グラフィティ」の作家志望生がいまやこういう歳。そういえば少し若いけれど同じ映画で奥手のお坊ちゃんを演じていたのは「フロストXニクソン」のロン・ハワードである。
 
原題は「W. 」、ブッシュのフルネームはGeorge Walker Bush 、父はGeorge Herbert Walker Bush だから、これはWalkerのWからきているとは思うのだが、なぜG. ではないのか、それはわからない。

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ツール・ド・フランス黄金時代(北中康文)

2009-05-18 21:30:59 | 本と雑誌
「ツール・ド・フランス 黄金時代」 北中康文 著 枻文庫
著者が写真家として追いかけていた1986年から1991年のツール・ド・フランス、そのレース模様の写真と文章、基本的なデータを連ねたコンパクトな本。これを黄金時代ということに、まったく異存はない。そういう人は多いと思う。
 
私も興味を持ち始めたのが同じ1986年であり、NHKの衛星放送でほぼ毎日かなりの時間をさいて放送してくれたから、深夜録画しておいて、仕事から帰り寝る前に夢中で見たものである。
選手について、チームについて、戦略、戦術、駆け引き、取引など、解説を聞いて、何年も見てそれを検証してみないと面白さはわからないのだが、それをのんびり出来たのはありがたかった。
 
1986年はちょうどチャンピオンがイノー(仏)からレモン(米)にかわるときであり、それからロッシュ(アイルランド)、デルガド(スペイン)、レモンが復活し二連覇、そしてインデュライン(スペイン)の五連覇が始まるのが1991年であった。またその中で、以前チャンピオンになったフィニョン(仏)もキー・プレーヤーであった。
 
かなり詳細に見て、インデュラインの強さは途方もなく、個人タイムトライアル、山岳の登り、まったくオールラウンドであり、それはデルガドのアシストをしていたときに早くも予想していたことであった。こういう楽しみもあったのだが、その後中継がフジTVに移り時間も短くなって、全体を見ての面白さは味わえなくなった。もっとも、有料スポーツチャンネルで見たとしても、おそらくその後六連覇したランス・アームストロングでは、このレースしか出ないこともあって、鉄人がやっているという面白さはなかっただろう。
 
この本に望むらくは、もう少し生臭い話を記録しておいて欲しかったということだが、それでも黄金時代がこうしてまとまっているのは便利である。
 
難所ラルプ・エデュエズなどのアルプス、トゥルマーレ峠などのピレネー、ひまわりが咲くフランスの平野、こういう写真は何度見てもじーんとしてくる。この美しさと、おそらくもっとも過酷なスポーツで、その勝者はもっとも賞賛に値するアスリート、その対照がいいのだ。

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ニューポート・フォーク・フェスティバル

2009-05-16 17:42:23 | 映画

「ニューポート・フォーク・フェスティバル」(Festival ! 、2007年、米、90分)
監督:マーレイ・ラーナー
 
劇場未公開。ボブ・ディラン特集として、先日WOWOWで「アイム・ノット・ゼア」に続き放送されたもので、1963年、1964年、1965年のフェスティバルの模様をディラン中心に記録した貴重な映像だ。

アイム・ノット・ゼア」は昨年5月に映画館で見た。ボブ・ディランの多様な面を複数の役・俳優で構成した、非常に興味深いものであった。ただ、ボブ・ディランそのものについて、彼のいくつかの歌以外よく知らないためか、もどかしいところも多かった。
今回このドキュメンタリーを見て、録画した「アイム・ノット・ゼア」を再びみて、かなりよく理解出来たし、ドラマの方の面白さも倍加した。
 
こういうものとして、見るものの知識でこれだけ違うというのはやむを得ないところだろうか。
 
私が知らなかった、あるいはドラマの中で示唆されているのに気がつかなかっただけなのだが、この1963年にはすでにディラン自身は歌でプロテストをすることはやめた、と言っている。そして64年、65年と変わってきて、最後は電気楽器を使い、聴衆とのあいだに衝突もあり、最後はアコースティック・ギターを使って終わる。
 
このことは調べると、ディランについての常識らしい。しかし、である。フェスティバルの映画を見ると、それがどの程度なのか、どんな雰囲気なのかがよくわかるのだが、あんまり激しいものではないのだ。
MC(ピート・シーガー)も演奏時間について行き違いがあったのではと、コメントしていたが、ディランはアコースティックを持って再び登場、誰かEのハーモニカをこっちに投げてくれないかといって、受け取り、演奏を始める。そこからはトラブルもない。
 
1941年生まれのディランを実質的に発見し世に出したのは同年齢のジョーン・バエズらしいが、彼女にしても穏やかだし、1963年に「風に吹かれて」でディランに頼まれ、ピート・シーガー、フリーダム・シンガーズ、PPMなどと一緒に歌うシーン、聴衆も乗っているけれど、今から見れば行儀のよい風景である。
 
東部であり、まだ主たる問題が公民権運動で、ヴェトナム戦争に対する動きはこれから、というところなのか。ディランもただネクタイをはずしただけという姿だし、バエズもあるシーンではスカートにハイヒール、聴衆もいわゆるトラディショナルなカジュアル・スタイルの域を出てない。
 
1965年の最後では、Like a rolling stone 、Mr.Tambourine Man 、It's all over now,baby blue が続けて歌われた。
 
ここでふと考えたのだが、アメリカのフォークというのは何なのだろう?いきなりディランあたりからこっちにも入ってきたからそういうものかと思っていいたのだが、その後のディランの変化との関係、今の新しい音楽にどう影響しているのかはよくわからない。
 
一方のカントリーは、ロックにつながっているのは聴けばわかるし、カントリー歌手がジャズ歌手になっていった例も多い。
 
もしかしたらポール・サイモンが、フォークをモダナイズし、現代の大衆に受け入れられるものにしたのか。ただそれはその後どうなったのか。


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月と六ペンス(モーム)

2009-05-12 22:11:28 | 本と雑誌

「月と六ペンス」(サマセット・モーム、行方昭夫訳、岩波文庫)
サマセット・モーム(1874-1965)が1919年に発表したもの。
一度読んだことがあり、おそらく中野好夫訳(新潮文庫)のはずで、それもそんなに以前ではない、つまり若いときではない。しかし、そこそこいい作品だったという全体の印象はあるものの、この小説がポール・ゴーギャンの生涯に触発されて書かれたということ以外、内容としてはあまり覚えていなかった。
 
今回、新訳が出たということから、それも昨年読んで感心した「人間の絆」の訳者によるもの、という期待で、再度読んでみた。
 
読んでみるものである。少し読めば、主人公はゴーギャンとことなりイギリス人であり、またゴッホとの友達づきあいもない、ということがわかる。これはこの小説だけと考えて読み進めれば、人間の内部でうごめく、人間を突き動かしていくどうしようもない、暗い衝動、というものを持っている人がいて、人間関係、通常の社会生活、道徳などは省みず、それを表に出し、実現させていってしまう、そういう人がいるということを、納得してしまう。
 
それは、小説の後味がどうとかは関係なく、書かなければならない、と作者は言いたげである。その一方で、随所に現れる、他の作品にもある、作者の解説、言い訳、そういう作者の俗物ぶりはあえて隠していない。
 
作家によるいくつかの化粧を忘れて、最後に画家をまっとうした主人公は、見事に残った。
 
さて、初期に画家の才能を誰よりも先に発見した、絵葉書のような絵しか描けない画家、その妻と主人公の話は、なぜか途中でこうなるのではという予想が、そこだけはあたった。前回から覚えていたのか、それとも「人間の絆」、「お菓子と麦酒」などから想像出来たのか。
 
そのあたりで作者が主人公に言わせる台詞はどきっとさせ、この物語が持つ真実を象徴している。
「女は、男が自分を傷つけた場合には相手を許すことができる。ところが、男が自分のために犠牲を払った場合には、相手を許せないのだ。」


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鴨川ホルモー

2009-05-08 18:05:19 | 映画
「鴨川ホルモー」(2009年、113分)
監督:本木克英、原作:万城目学、脚本:経塚丸雄、音楽:周防義和
山田孝之、栗山千明、濱田岳、石田卓也、芦名星、斉藤祥太、斉藤慶太、荒川良々
 
万城目学の原作は読んでないが、この人の次作「鹿男あをによし」のTVドラマが面白かったのにつられて見た。
その期待は半分満たされ、半分は空振りというところ。
 
京都大学のサークルで、陰陽道というのだろうか、その世界の鬼を呼び出し、他の3校の同じようなサークルと鬼同士の戦いをする、という奇想天外、ふざけた世界で、ギャグのような掛け声、動作、CGを駆使した大勢の小さな鬼たちの合戦、それに仲間うちの嫉妬、軋轢など青春ものの定番テーマを加えてなんとかまとめてはいる。
 
ただ、二度ある大きな戦いの最初の方で、細かい面白さ、笑いは出尽くした感があって、後半はドラマとしての勢いが期待されるのだが、どうも息切れしてしまっている。鬼の戦いそのものをもう少しくわしくうまく描いてくれてもよかった、と思ったが、おそらく鬼がどうというよりは、それをけしかける人の「気」の問題なのだろう。
 
配役はまずまず。山田孝之は映画に出すぎの感もあってまたかと思ったが、軟弱なところと骨太なところが同居した主人公をうまく演じて、いい意味で意外。栗山千明は名前だけで演技を見ていなかった(何しろ「キル・ビル」を見ていない)が、こういう見てくれの悪い損な女の子を意味ある存在として演じきれる女優、というのに感心してしまった。
 
クラブの部長に荒川良々というのは、またまたワンパターン。本人の責任ではないけれど、先が読めてしまう配役は一考を要する。
 
レナウン娘のCMソングがいきなり出てくるところは、笑いの一つのポイント。これは一つの手である。ただ、音楽の効果としては、これほど笑う場面ではないが、「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)で「また逢う日まで」が突然使われるシーンに比べると、スコーンと抜ける感じはもう一つ。
 
一方、「鹿男あをによし」は奈良と京都がからみ、また鬼ではなく、現実に存在する鹿を使っていることで、話に落ち着きと奥行きが生まれていた。またTVの連続ドラマであったから、小さい不思議な話を少しずつ味わうことで、結果的に、ドラマとしての息切れ感から逃れていたようだ。

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