昨日は「尊星王供」でした。
厳かな供養に身が引き締まる思いでした。こうして私はこれからの一年を心新たに過ごしていきます。
例年になく暖かな日でした。
私たちは『ヨーガ・スートラ』を初めて英訳されたウッズ博士の供養塔にお参りしました。ウッズ博士のお弟子さんが岸本英夫博士です。岸本博士は『ヨーガ・スートラ』を初めて和訳された先生です。
私ども日本ヨーガ学会のメンバーは星まつりと併せてヨーガの師父を礼讃することはもっとも大切なことと認識しています。
毎年、ご一緒くださる白井欣子さん、そして、今回は熊本から中村文美さんが初参加で嬉しかったです。岐阜からも岡山からもたくさんのご参詣。滋賀ヨーガ連盟の角川五恵教授をはじめとする皆さん、お世話をいただきありがとうございました。
参詣はできないけれど護摩木だけでも…と、ご自分だけではなく、生徒さんたちの申込みをとりまとめてくださった案内者(インストラクター)の皆さん、ありがとうございました。
さて、話は変わりますが、清貧、純潔、従順をかたく守ったのは聖フランシスコです。
そして、驕り高ぶらず、謙遜の人だったことは一昨日投稿しました。
この謙遜をtau(フランシスコ会の十字架のシンボル)を調べることによって考えさせられました。
謙遜は卑下ではなく、自分の能力や功績をおごらない控えめな人のこと。見せかけの謙遜はあっても、なかなかそうはいかないのが凡夫です。
修行の一番の敵は慢心かもしれません。
何年か前のことです。シヴァーナンダ・アーシュラムに行ったときのこと…。
サンスクリットを学んでいる人が偉大なスヴァーミに質問を始めました。しかし、それは質問という名を借りた自己顕示の現れだったのです。当の本人は得意満面です。
しかし…
皆は見抜いていました。その方が「どう、すごいでしょ!」と言いたかったことを…。
その時、その方を見て「私自身にも慢心はないだろうか?」と問いかけました。
人のふり見て我がふり直せ!ですね。
偉い人の判断基準を…
遺伝子研究の第一人者、村上和雄先生はこうおっしゃっていました。
【私は、人を判断する時に、「威張っているかどうか」 という視点でみています。偉い人で、威張っている人を見たことがありません。ダライ・ラマ法王も、まさに 「本物の偉い人」 でした】と。
私が田原豊道先生を尊敬している一つは、まさに驕り高ぶりのないところです。(荻山貴美子)