日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

汎神論的な神

2017年02月08日 02時59分02秒 | 思うがままに
マーティン・スコセッシ監督は遠藤周作氏の『沈黙』を何度も何度も読んだそうです。
積年の思いをこの映画に託した監督の心中を量り知ることはできませんが、深い深い映画でした。

私は幼児洗礼を受けたカトリックの家系で育ちました。
日曜日に行く教会は何よりも嫌いでした。

信者たちの極端な正、不正の区別。善悪の区別…。このキリスト教的な教育がたまらなく嫌でした。

遠藤周作氏の『深い河』では、ヨーロッパの厳格なキリスト教を受け入れられず落伍者としてインドに転属させられる大津という主人公に、遠藤氏の心情を語らせます。度々語るのはマハートマ・ガーンディーの語録。
特にその一節「さまざまな宗教があるが 、それらはみな同一の地点に集まり通じるさまざまな道。同じ目的地に到達する限り、我々が、それぞれことなった道をたどろうとかまわない」

この大津という主人公は「汎神論的な神」を信じていたので、修道院でも神学校でも異端児扱いをされ、黙々とインドのガンジス河に死者を届け、自分だけの神に祈ります。

私の悶々とした宗教感をスッキリさせてくれたのが遠藤周作氏です。私にとってはお会いしたことはないけれどお師匠さんに近い方。 遠藤周作氏は混沌としたインドに魅了され、確か4回いらしていると思います。遠藤氏によればインドは無意識の世界。ヨーロッパの意識的な世界より、そういうものに興味があり、出来上がった小説が『深い河』だったようです。

さて、映画「沈黙」ですが、命をも差し出す隠れキリシタンの揺らぎのない信仰心は私には理解しがたいのですが、棄教を迫られた神父が究極の選択を余儀なくされた時に聞いた神の「沈黙の声」はナッシングの空虚な静かさではなく、その静寂は表面は無言でも、宇宙のひそかな語りかけだったのでしょうか。

私はインド訪問は20回?あるいは25回。もっとかもしれません。
直に感じたインドで考え方が大きく変わりました。

やはり私はクリスチャンです。それは仏教の教えもす〜と入ってきて、清濁併せ呑む心情に無理なくできている、ある意味いい加減なクリスチャン。

ヨーガに出会えなかったら、田原豊道先生のヨーガに出会えなかったら、私はどうなっていたでしょう。

眠れない夜にこんなことを考えています。(荻山貴美子)

コメント (2)
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