本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

諸行無常

2019-02-28 18:37:32 | 住職の活動日記

「所行は無常なり

  これ消滅の法なれば

 消滅を滅し終わって

  寂滅の楽となす」

 

という仏教の根本の考え方

四法印があります。

これを弘法大師は

「いろは四十八文字」で

表現されました。

 

色は匂えど 散りぬるを 諸行無常

我が世誰ぞ 常ならむ  是消滅法

有為の奥山 今日越えて 消滅滅已

浅き夢見し 酔ひもせず 寂滅為楽

 

諸行の行というのは

「行く」という意味ではありません

四苦八苦の分け方も

苦苦・壊苦・行苦という三苦

という分け方もあります。

苦苦・壊苦というのは

誰にもすぐ分かる苦しみです。

自分にとって都合が悪くなった

というのが苦苦

自分にとって都合の良いものが

離れていったというのが

壊苦です。

行苦というのは四苦八苦で言えば

生苦と五陰盛苦の二つです。

 

この生苦と五陰盛苦が分からない

生苦というのは生きる苦しみではなく

生きているということは

必ずその背後には死ということが

確約されているという

生を謳歌しながらも

どこか死の暗い影を引きずって

生きていかなければならないという

苦なのです。

 

諸行無常ということも

すべてのものはただの一瞬たりとも

同じ姿ではないということです。

生者必滅

生きているものは必ず滅する

しかし、

その反対も言えるのではないか

とふと思ったのです。

 

 

昨夜の雨、昼間の温かさ

昨日のつぼみもまた一段と

成長してきているようです

これも諸行無常ではないか、

ひと時も同じ姿ではない

滅びていくのもそうですけど

成長するのも

常なるものはないという

変化し続けている。

 

 

つつじのつぼみも一段と

ふくらみを増してきているようです。

 

 

モミジの新芽も一段と

その勢いを強めているような

また今日いただいた

 

 

おいしそうなみそ漬け

人参ときゅうりのお漬物です

しかし、

ちょっと前までは新鮮な野菜

味噌に付け込まれて

また新しく生まれ変わっている

これも諸行無常か

 

諸行無常

すべてのものは一瞬たりとも

同じ形ではない

こういう変化も諸行無常とみれば

面白いのではないか

と思ったりして見ていました。

 

 

 

 

 

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本蔵院も芽吹いている

2019-02-27 22:33:35 | 住職の活動日記

本蔵院の木々も芽吹き始めています。

 

 

ユキヤナギも美しい新芽を

出しています。

 

 

アジサイも初々しい新緑の葉を

膨らませています

 

 

実に美しい!

いのちの力を感じます

 

 

隣では樒(しきみ)の花が

つぼみを膨らませています

 

 

樒の花も可憐というか

純白の白さを際立たせています

 

 

ヒイラギも可愛い花を咲かせています

 

 

その横ではキンモクセイが

まだ青にならない生まれたての

葉を出しました

 

 

これからしっかりした

葉になっていくのでしょう

 

 

つつじも若緑の新芽を出しました

しかし

虫たちも子の新芽がおいしいことを

知っているのでしょう

早速、ごちそうにありついているようです

 

 

椿もつぼみを膨らませています

 

 

そして美しい花も咲かせています

 

 

その横ではイチョウの木が

これから出るぞとばかりに

葉を開く準備をしています。

何かしら勢いを感じます

 

今のころは植物たちの命の輝きを

見ることができます。

ただ花の開いたのを楽しむだけでなく

これから萌え出るいのちのハタラキを

見るのは楽しいものです。

 

 

 

 

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一歩一歩 Step by Step

2019-02-26 20:28:21 | 十地経

千里の道も一歩から

というように何事も一歩一歩の

歩みが大切です。

時には何か近道がないかと

捜してみたりするのですが

結果としては思わぬ時間を食った

ということになります。

 

ちょうど、『十地経講義』では

次のように述べておられます。

 

「道の伝統を十地、

道というものの段階を十地といって

地という字が表したんですね。

地といっても大地といっても

いいですね。

その地というものに地地転入

ということがあります。転入です。

地地転入という言葉が『十地経論』

自身の中に出ている。

転はこれ回転です。

入があるなら出があるわけですね。

入るところがまた出るところでも

あるというような。

地というものは安住する所、

安んずるところが大地だ。

しかしながら、

安んずる所だけど

腰を落ち着ける所ではない。

面倒な話だね。

安んずる所ではあるけれども、

そこへ胡坐をかいておれない所です

胡坐をかこうものなら

いっぺんに引っくり返されてしまう

だから

なんかそこに動いておるですね。

動いておるから、

そこにやっぱり段階があるね。

つまり今日でいえば step だ。

step というものがここに出てくる。

一歩一歩というような歩みです。

それは歩むんです。

やっぱりそこに geist(精神)の

歩みというものがあるんです。

 

つまり、これもまあ問題ですけど、

真理は歩まないのだけど、

真理というもの体験は歩むんです。

そこに時間を超えたものが

時間で歩むんです。

歩むのは人間にあるんです。

真理が歩むということは

ありはしない。

十地はやっぱり真理という意味を

もっておるんですが、

だけどそれに十なんて段階を

つけるのは、

人間を通して真理を語るからだ。

人間を通して真理を語るから

そこに step というようなことが

一歩一歩というようなことが

立てられてくるです。」

 

人間は飛躍が欲しいものです。

何かの拍子にパッと閃いて

一瞬して悟りを開いたと。

まあそういうこともあるかも

知れませんが、

一歩一歩というところに

歩みの大切さ

飛躍を許さない厳密さ

そういうものがあるように思います

そして

安んじてそこに一服することを

許さない

そういう厳しさがあります。

 

「ちょっと一服!」

といって師匠より叱られた

「一服するのは死ぬ時でいい」

歩みをやめてはいけない

「人生は坂道だ!」 とも

足踏みしていて現状維持

ここまで来たのだからと

歩みをやめた途端

それは坂道を下り落ちている

ということです。

 

一歩一歩という言葉には

重みも感じますし

ある種の安らかさも覚えます

たゆまぬ努力を止めない

さとったとかさとらないとか

それは問題ではなく

そういう努力をできる道にいる

ということが有り難いのだと

どこを向いているのか

分からないような無茶苦茶な

努力をしても

どこに辿り着くかわかりません。

 

「『十地経』というものは、

道の伝承ということがあるですね

十地というものがある特定の個人の

記録ではなしに

いやしくも道に触れた人が、

かつて歩み、今歩み、当来もまた

歩むであろうところの道が

そこへ出ておる。」

 

というように出ています。

 

 

 

 

 

 

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記憶にございません!

2019-02-25 19:58:44 | 住職の活動日記

「記憶にございません。」

という言葉もある面からいうと

いい言葉かもしれません?

「忘れました」というと

何とかして思い出せということに

なるかもしれませんが、

記憶にないとなると

やったのやら、やらないのやら

そのこと自体が記憶にないという

便利な言葉かもしれません。

 

しかしながら、

私がそう言うと、

親父ボケたか!、しっかりせい。

と檄が飛んできます。

 

最近は忘れることが多く

また、名前とかのど元まで

出てきているのですが

どうしても出てこないということが

しょっちゅうあります。

 

物忘れと認知症

その違いは

ご飯を食べたけど何を食べたか

食べた内容を忘れるのは

ただの物忘れで心配がいらいない

そうですが、

食べたこと自体を忘れるとなると

これは問題で

朝ご飯食べたのに、

「おかあさん朝ごはんまだですか」

と言い出すと

これは認知症ということになります

 

「記憶にございません」

ということも、

まあ、立派な方がおっしゃるので

認知症ということにはなりませんが

介護される立場からですと

認知症ということになるのでしょう。

 

この忘れるということも

世間では

「忘れました」といえば

罪にもなりませんし

責任も問われなくてすむ

ということになるでしょうが、

仏教の立場から言うと

これは大問題で

忘れるということが罪といわれます

 

大随煩悩の中に

「失念」という煩悩があります

「念」というのは憶念不忘という

言葉があるように

深く心に留めて忘れない

ということです。

ですから、

「失念」ということは忘れる

ということです。

忘れたくらいそこまで言わなくても

と思うかもしれません

たかが忘れたくらいで!

ゴメンナサイで済むのでは

と思うかもしれませんが

 

仏教で特に失念というのは

大事なことを忘れる、

一番問題になるのは自分を忘れる

忘れることはそれだけですまないで

散乱という煩悩を引き起こしてくる

といってあります。

失念という煩悩は次の

散乱という煩悩の拠り所となる

つまり

忘れたということは

それだけで終わらないで次々と

煩悩を引き起こしてくる

ということです。

 

昔の諺に

「御堂は照る照る 御門は曇る

 家に帰れば雨あられ」

ということがあります。

本堂でお話を聞いている時は

なるほどと頷いて

さもわかったような

気になるのですが、

さて、

お寺の門を出る頃になると

あの話は何だったのかな

ああ、こういう話もあった、と

かすかに覚えているのですが

家に帰った頃になると

もうすっかり話のことは忘れ

世間話でチャンチャンバラバラ

ということになってしまう

というのです。

そういう私自身もそうなのです。

 

それで

失念によって散乱という煩悩を

引き起こすということは

大事な自己を失うのですから

それによって心が千千に乱れる

ということになります。

喩として

「猨猴(エンコウ・猿)を繋ぐが如し」

と言ってあります。

あっちへ行ったりこっちへ行ってみたり

心が定まらない。

ということで寂静になれない

物事を静かに考えることが

出来なくなるということです。

 

つまり一番大切な

「三昧」に入れないということで

何も生み出すことが出来ない。

 

仕事をするにも三昧は必要で

逆に言えば、三昧がなければ

何も出来ない

ということになります。

そういうことをさまたげる

失念、散乱という煩悩は

何も人に害を与えるような

激しい煩悩ではありませんが

自分自身を駄目にするという

ことを心に銘記しておかなければ

いけない煩悩です。

 

平気で、

「記憶にございません」

を連発するようでは

他をダマせたとしても

自分自身の煩悩を増上させて

行っているということです。

 

出来ることなら

親父ボケたか!!といわれても

どうも記憶にございませんと

とぼけておられたら

さぞいいかもしれませんが??

煩悩ということを

大切にしている私には

やはり、しっかりと

死ぬまで憶念不忘で失念が

少しでも少ないように

しておかなければ、と

念じております。

 

 

 

 

 

 

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ひと足早く、春を‘先撮り’しませんか!?

2019-02-24 20:12:04 | フラワー

 

穏やかな日和

風もなく日差しが心地よい

京都府立植物園では、

「ひと足早く、春を

  先撮りしませんか」

ということで春満開でした。

 

 

ここだけ春が舞い降りたように

色とりどりの花が

 

 

満開です

 

 

見ているだけで心も晴れ晴れ

 

 

このコーナーは特に

春を先取りして開花させています

 

 

ふきのとうもまさに春を

感じさせる花です

 

 

 

 

 

 

 

この期間は3月10日まで

このハートの形もこれからもっと

花開いてくるのでしょう

 

 

額縁にあしらった花もあります。

 

今日はまた、

天皇陛下御在位30周年を記念して

園内無料

ということもあり、

時を忘れてゆっくり過ごせます。

 

それから、温室も無料開放

 

 

この室内はいつも春ということです

やはり、日本とはまるで違った

原色の色合いの花々を見ることができます

 

 

 

水蓮の横には見かけない魚

ナマズのような長いひげが特徴です

 

 

ポーモンティア・ムルティフロラ

舌をかみそうな名前の花

インドの花のようで

夜にいい香りを出すそうです。

 

 

これは名前が面白い

奇想天外という花

両方に葉が二枚しか出ない

という植物です

 

 

ネオレゲリアという

何かしら美しい紫にひかれました

 

 

これもアンスリム

熱帯の植物らしく赤の毒々しさ

形も面白い

 

 

ちょっとベンチで休憩して

こういう広場はいいものです

 

 

家内が子供のころ遊んだという噴水

周りの木は大きくなっているものの

噴水は変わらず水を噴いている

ようです

その隣には

 

 

稲盛記念館があります

その横には

 

 

京都歴彩館があります

昔の京都資料館でしょう。

 

 

アジサイも葉のつぼみを

膨らませています

 

 

ボタンも芽吹いています

植物も花が咲いたころより

こういう芽が膨らんでくる姿が

いのちの勢いを感じて

とても好きです

 

 

カモものんびりと餌を漁って

いるのでしょうか。

 

 

白梅

 

 

紅梅もこの陽気に微笑んでいる

ようにも見えてきます。

 

 

ひと足早く、

さくらが蕾を膨らませています

カンヒザクラとカラミザクラの雑種

ということです。

 

 

これは珍しい

ニュートンが万有引力を発見した

リンゴの木

その流れを受け継いでいるという

ものなのです。

 

 

クスの並木もこれからは

とてもいい木陰を作りだしてくれる

ことでしょう。

 

こういう植物の間を歩くのは

人の雑踏とは違って

元気をもらうような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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木瓜の花(ぼけ)

2019-02-23 20:50:13 | フラワー

早や2月も終盤、

やっとお正月を迎えてと

思っていたら

もう2月も終わろうとしています。

 

 

ウインドーとかには

ひな飾りが見られます。

 

日差しもよく散歩に出たのですが

風はまだまだ冷たく

うっかりマフラーをするのを

忘れ寒風の中をふるえて

ということになりました。

 

 

いつも通るたびに気になっていた

木瓜の花、まあたくさんの蕾を

付けています

 

 

その姿がなんとも可愛い

枯れ枝にモコモコとピンクの蕾を

膨らませています

 

 

早くも咲いている花も一輪二輪と

あるようです

 

 

「ボケ」 というのは

何かしら響きがよくない

木瓜、「もっこう」から訛って

ぼけになったとか

木に実がなるので(瓜)

そこから木に付く瓜ということで

「もっこう」

 

その実を半分に切った形から

織田信長の家紋「五瓜」も

もっこうです

それから、御簾のヘリにある

上のところの緑色の部分

そこに描かれているのも

「もっこう」の図柄です

 

 

こういう寒い時に

ポッと咲いている木瓜の花は

何かしら心は温かくなります

 

 

珍しく色とりどりの金平糖

きらきらかがやいているようで

見てもよし、食べてもよし

写真うつりもよし

これもホッとする一枚です

 

 

ネコちゃんも日向ぼっこ

寒さの中わずかな日を求めて

じっと暖を取っていました。

 

まだまだ寒いようですが

季節はもうそこまで春が来ています

 

 

 

 

 

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カイロスとクロノス

2019-02-22 21:52:10 | 住職の活動日記

ギリシア人というのは

厳密というのか思考力があるのか

時間というものを二つ考えました。

一つはカイロスもう一つはクロノス

クロノスというのは

何とか分かるような、

セイコーの時計に

クロノスというのがあります。

 

辞書には、クロノスというのは

過去から未来へ一定速度、一定方向で

機械的に流れる連続した時間、

とあります。

普通いう時間です。

過去から現在そして未来へと

過ぎて行く時間です。

それに対して、

カイロスというのは

一瞬や人生の主観的時間を表す。

内面的時間とあります。

 

言い換えれば

クロノスは通俗的時間

カイロスは実存的時間

ということになると思います。

 

「時」ということは

哲学でも宗教でも大切な問題です。

さとりを開いたというのも

いつどこでということが大切です

ただ漠然と、ということはありません

この日この時、という

時間ということが大事になります。

 

人と人との出遇いも

時ということが大切です。

ただ偶然に出会ったことも

そのことを

必然と受け止めるということは

時ということです。

時が満ちるというか

出遇いもただ、

こんにちわ、さようなら、と

終わる出遇いもあります。

この人と出会ったことが

自分の人生を変えたという

出遇いもあります。

 

そいう出遇いが

やはりそれは時が満ちたのです

時熟という

時が熟したということが

あります。

そういう時というものは

カイロスという時間でしょう。

 

出会ってもなんの縁も感じないで

別れていくような出会い

そいう時というものが

クロノスという時間です。

 

たとえば

仏教の歴史を考えるとき

お釈迦さまがさとりを開いて

涅槃に入られて80年後

根本分裂が起こり

大乗仏教と小乗仏教に別れていく

そして小乗仏教はタイとかセイロン

へ伝わっていく南方仏教

大乗仏教は中国から日本へと

伝わってきた、

という時間的流れがクロノス

通俗的時間です。

 

ところが、

教えということを自分の問題として

受け止めて実践していくと

その時間の流れは逆転し

釈迦を生み出したような仏教が

大乗仏教なのだと

そういう考え方、というか

実践したらそう言わざるを得ない

ということが出てきます。

そういう時間がカイロス

実存的時間でしょう。

 

時間というものは

心によって作られるもの

ということが言えます

楽しい時間は

あっという間に過ぎて行き

辛い仕事となると

なかなか時間が過ぎて行かない

とても長く感じるものです。

時間は同じように流れていくのに

短くも長くも感じるのは

私たちの受け止め方です。

そこにクロノスとカイロスという

二つの時間があると思います。

 

未来ということも

仏教では「当来」(とうらい)

といいます

当に来たるべき

という時間です。

未来という時間は

ぼうっとしてても頑張っていても

過ぎ去っていくものです。

しかし、

当来となるとそうではなく

現在の中に未来が約束されている

という時間です

現在の中に未来が約束されている

というか、内包、孕んでいる

という時間です。

 

将来は必ずこうするんだ

という時の時間は

現在が荘厳されてくるというか

現在の在り方が違ってくるのです

将来はこうするといって

今をおろそかにしている人には

自分の望む未来はやってこないのです

将来をこうするということを

願う人は必ず

今現在の行いが改められている

 

そこに「当来」という

当に来たるべき、という

未来を孕んでいるという

現在の時間

というものがあると思います。

 

極論すれば

過去現在未来は同時である

という考え方も出てきます。

現在という時間は

過去にやって来たことの集大成

そして

今やっているということは

未来の自分を作っている時間

ということが言えると思います。

 

出遇いということも

偶然の賜です

しかし、それは必然であった

というところに

実存的時間というものになると

思うのです。

出遇いという何げなく

行なっているあたりまえのことも

その出遇いが必然であったと

受けとめるところに

豊かな人生が開けてくるのでは

と思うのです。

 

 

 

 

 

 

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京都御苑の「貽範碑」

2019-02-21 17:35:33 | 住職の活動日記

京都御苑も広くて行くたびに

新たな発見があります。

「出水の小川」という

 

 

この東側にひっそりと

こんもりとした土盛があり

その上に大きな石碑があります。

 

 

「貽範碑」(いはんひ)と

この字も滅多に使わない字です。

「貽」は残すという意味で

公武合体派の領袖、中川宮朝彦親王

の業績を顕彰した石碑です。

 

朝彦親王は青蓮院門跡それから

天台座主を務められましたが

幕府の日米修好通商条約に反対し、

安政の大獄により蟄居となりましたが

孝明天皇の信任が厚く、

還俗して中川宮を名乗り

天皇を助けました。

その後、

邸宅にあった榧の巨木にちなみ

賀陽宮(かやのみや)と称しました

 

 

石碑を囲むように大きな榧の木があります

その石碑の裏に

 

 

そのいわれを書いた石板が

埋め込まれています。

難しい言葉ですが、

 

「恭しく惟(オモウ)るに

朝彦親王懿親(イシン)[親しい親戚]の

重寄[重き任務]を荷いて夙(ツト)に

国事に盡(ツク)し維新の大業に

獻替(ケンタイ)[君主を助け]する所

少からす後胤(コウイン)[子孫]の

茂栄(モエイ)(立派な名誉)亦

積善の余慶(ヨケイ)[おかげ]を被る

茲に薨(コウ)[みまかる]後四十年に

値し児孫相謀り守正王の題表を

請ひて碑を其邸跡に建て永く報恩

景仰(ケイギョウ)[徳をしたい仰ぐ]

の微衷(ビチュウ)[まごころ]を敬す

   昭和6年10月 」

 

と、あります。

守正王というのは梨本宮守正王で

朝彦親王の第四子にあたる方です。

 

その後、朝彦親王は

伊勢神宮祭主を務め、

粟田宮、賀陽宮(かやのみや)

を名乗り、最後に久邇宮と

改称しておられます。

仏教界でもトップ神道の世界でも

最高の座を務められた珍しい方です

 

京都御苑の梅も見頃

 

 

特に紅梅が咲き誇り

 

 

美し色合いを見せています

 

また蝋梅の美しい姿にも

心引かれます

 

 

本当に蝋細工のような

 

 

透き通るような花弁は

自然のものとは思えないような

姿です

 

 

この梅はまだのようで

これからが楽しみです

 

 

梅林の手前には「桃の林」があり

まだ固い蕾のようです

 

 

こういう雄大に伸びた松の枝

 

 

自然の風雨に堪えながらも

枝を伸ばし、

まるで龍が天に昇っていくような

枝ぶりも見ることが出来ます。

 

自然も楽しみながら

調べていけば面白いことも

発見できていつ足を運んでも

何か見つかるものです。

 

 

 

 

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ご用心!!「スマートキー」

2019-02-20 21:02:05 | 住職の活動日記

最近はなんでも便利になるもので

車も以前と違って

鍵を差し込んで回すということが

なくなって、

ドアにタッチするとドアがあき

ボタンを押すとエンジンがかかる

というものです。

と同時にそれを悪用する

犯罪も増えているということです。

 

先日のテレビのニュース

家のドアの前に一人の男が立ち

何やら手を広げる仕草

すると突然車のエンジンがかかり

その家の車が盗まれるという事件です

 

スマートキーは常に電波を出している

という状態です。

それでドアが開錠できたり

エンジンがかかるのですが

その常に出ている電波を拾って増幅し

車を盗むという手口です。

一人が家の前でアンテナの様なコードを

広げ、もう一人が車の前で鍵の電波を

受けとり鍵を開けエンジンをかける

というやり方です。

 

というわけでいろいろ調べて見ると

そのためのケースも色々あります

けど、どうも形も良くないし

もう少し簡単には??

と思って調べると

アルミ箔が効果があるというので

包んでみると確かに大丈夫

でも毎回するのはめんどう

ということで、

 

 

家内がお手製でスチール缶に

アルミを被せてみた、

大丈夫なのですが、

ちょっとした隙間があると開いてしまう

 

アルミ箔ということであれば

 

 

このアルミの袋は??

これは全く効果がない!

それでは、お茶が入っていた袋は

 

 

これも一応アルミ箔で

お茶を入れるものですから

密封度もいいのではと思ったのですが

これも全く効果なしという所です

ためしに

おつまみの海苔が入っていた

スチール缶は??

 

 

スチール缶は効果なしと書いてあった

のですが、

意外や意外、

この缶に入れると全く反応しない

一応電波を遮断しているようです。

 

まだまだ被害は

そう多くはないようですが

安全のためお金をかけずに出来ることは

身近にあるスチール缶に入れてみる

ことです。

いろいろ試されたらいいと思います。

 

まあ、便利になると

それだけ、

思いもしないような犯罪が

おきてくるものです。

念には念を! ご用心! ご用心です。

 

 

 

 

 

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無窓忌 安田先生三十八回忌

2019-02-19 20:38:16 | 十地経

2月19日は安田先生のご命日

今年で38回忌になります。

ご命日を「無窓忌」(むそうき)

といいます。

こういう命日を何々忌というのです

 

2月は12日は司馬遼太郎さんの

命日で「菜の花忌」といいます。

ちょうど菜の花の咲く頃ということで

この名前が付いたのでしょう。

 

ところが、安田先生のご命日は

「無窓忌」といいます

なぜこの名前なのか分かりません

ずっと疑問なのですが、

先生の残された言葉の中に

ヒントがあるようです

 

「ライプニッツという人が、

これはなかなか独創的な人じゃ

ないかと思うんですがね。

ライプニッツというのは面倒で、

よく分かりませんけども、

モナドというような考え方、

この考え方も非常に独創的じゃ

ないかと思うですね。」

 

ここで「モナド」ということが

出てきます。

モナドというのは、

構成されたものではなく

部分を持たない、

厳密に単純(単一)な実体である。

というような定義が出てきて

「モナドは鏡である」とか

「モナドには窓がない」という

表現が出てきます。

 

『摂大乗論聴記』には

「ライプニッツが根本律ということ

充足理由律という訳語も

当てられおる。

全てのものが存在するには

存在するだけの理由があって

存在しておる。

全てあるものはあるだけの

理由がある。

存在理由。

理性的理由じゃない。

存在理由を因縁という。

理由があるわけですね。

ものが成り立っとるには、

成り立たしめとるだけの理由がある

理由をもって存在しておる。」

 

「Monadologie、

単子という言葉なんです。

単子論です。

何かそこに個性というものがある

龍樹なんかなには、

そんなモナドロギッシュな

考えというものはない。

仏教の中で、

やっぱりモナドロギーというような

考えを持ったのが瑜伽の教学。

非常に特色があるですね、そこに。

一人ひとりが一切をもっとる。

一人一人が人類をもっとる

というようなですね。

だから一人一人だから単子だけど

しかし

それが実は世界全体を持っとると

こういうような考え方ですね。」

 

まあ難しい言葉です。

しかし何回か繰り返し読んでいると

何となくわかるよな?

 

今日のお話の中で、

人間はどっぷり煩悩に浸かっている

煩悩しかないのが人間ではないか

そういう世俗化した世界で

どうやって聖なる世界が

見い出せるのか。

遥か彼方に聖る世界を

見るのではなく、

むしろ世俗の下に見出すような

そういう立場に立つことこそ

そこに聖なる世界が見い出せるのでは

というようなことでしたが、

 

安田先生は

世俗的な一切のことから

離れて生きてこられた。

職にも就かず、お金にも、名誉も

すべて関心がなかった。

若い頃から、ご飯だけ頂ければ

それで充分ですといって

講義をされていた。

結婚されても職に就かなかったので

奥様の内職で生活され

それで夫婦げんかも絶えなかった

ということのようです。

 

淒しい生き方です。

命をかけて求道し聞法された

最後に封筒の中から出てきた言葉

赤鉛筆で

「片肺・老衰・不安に立つ」

と書いてあったということです。

 

 

 

 

 

 

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