本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

生命のはかなさ

2022-04-23 20:03:15 | 十地経

「財及び身の因事」

というところから

話は進み、

「先の財産は物質だけど、

この生命は意識でもない。

かといって物質ではない。

そういうのを身体。

 

身ということを更に

徹底して明らかにしてくると

いうと、

生命をもったものを身体と

いう。」

 

と続き、次に

「身体ということがあると

必ず環境ということが

出てくる。

身体は食物を必要とする。

身体の食物は環境だ。

環境をもって食物として、

生命は環境を食物として

身体を支えとる。

というのが

生命の構造です。」

 

ここに出てくる

身体と環境、ということも

大きな課題です

弘法大師も

「身境冥会して」と

述べておられます。

身体と環境です。

環境の大切さということ

があるのです。

 

そこから講義は

生命ということになります

「生命は死から区別されとる

実際いうと、

永遠の生命というものは

矛盾概念。

永遠の生命というけど、

そういうのはムードという、

文芸的表現という

ものであって

生命は死ぬるから生命がある

全然死なんようなものに

生命はない。

 

それは石だ。

石は生まれたことがない。

だから死ぬることもない。

生きとるものは

死というものをもっとるから

死というものによって

生というものは成り立っとる

 

人間が生きることは

非常に不安だとか、

僕は病気したから

よくそういうことが分かって

きたけども、

不安におびえる

ということがある。

これは何かというと、

阿呆じゃな。

 

生命に非常に敏感である

証拠だ。

一瞬の後には消えていく

という生命のはかなさ、

そういう自覚は

貴重な生命の自覚なんです。

 

何万年も生きとるんだ

というところには自覚はない。

一瞬の後には消えていくんだ

と。

今日の私の生命は

今日の一日にある。

 

心配するな、

明日も明後日もあると、

そんなところには

生命はない。

はかないというものが

生命の貴重な意味だ。

 

そういうものに対する

デリケートな感覚を

失っちゃならん。

日本の文化は、

芭蕉だろうが何だろうが、

皆、橋でも洪水が出ると

すぐ流れてしまうような

橋架けとる。小屋でも。

そういうものは

非常にはかないものです。

 

日本の文化は

鉄筋コンクリートに対して

幼稚じゃないかと

いうけれども、

そうじゃないんだ。

生命のはかなさというものを

非常に知っとるんです。

 

ゲーテの言葉にあるんです。

瞬間に消えていくものを

神は美しいものにしたと。

それが美しいもの。

いつまでもあるものは

汚れたもの。

美しいものはいとおしむ

という。

いとおしむものなんだ。

そういう感じが

非常に大事なんです。

 

そういうものがなければ

歌も芸術も出てくりゃせん。

歌も生まれてこんような

生命は死んだものだ。

死すべく生きとる。

生まれとる。」

 

一つの経文から

こういうように話は

展開していくのです。

そこが

講義の醍醐味でもあります。

 

 

 

 

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新緑の京都御苑

2022-04-22 20:01:53 | 住職の活動日記

春雨百穀(穀雨)で

緑の色が鮮やかです

東洞院通りを上がっていくと

京都御苑にぶつかります

自転車で約10分の距離

さくらの時期には訪れる

ことができませんでしたが

 

 

豊かに茂る楠木に出会います

その横にさくららしき

 

 

まだ残っている

八重のさくらでしょうか

 

 

かろうじて今年も

会うことができました

 

 

さくらの絨毯も

踏み荒らされることもなく

落ちた花びらも

それなりに美しい

 

 

となりの松の木も

思いっきり枝を広げています

あえて人工的な剪定はせず

出来る限りの自然な形を

残すようにされている

ようです

 

 

近寄ってみると

この枝ぶりの力強さ

片方だけに伸びている

 

 

松も今が旬

枝ぶりのせいでこんな間近に

見ることができます

 

 

御苑のタンポポも

人に踏まれることもなく

ちょっとしたタンポポ畑の

体をなしています

 

 

躑躅も満開を迎え

「出水の小川」の畔

数は少ないものの

 

 

今が盛りと艶やかな色を

一際際立たせているようです

 

 

さくらのあと

緑の中にあって目を引きます

 

 

小さいながら

春の小川の風情です

 

私にとって気になっている

さくら、桜松といいます

 

 

松の木に寄生した桜

松の木が倒れたあとは

 

 

たおれたところから

数本の桜が生え出てきたのです

 

 

最初見たときは

結構か細い枝だったのです

いつの間にか

松の木を肥やしにする

かのように

もう立派な桜へと成長して

います

 

 

ちょっとした

こんもりと小さな森のように

生茂っています

花の自分もさぞ美しかった

のではないでしょうか

 

 

一回りしていると

見ただけで気持ちが落ち着く

楠木を発見

枝ぶりといい

その緑の塊りといい

下にいると

自然に包まれているような

不思議な感覚になってきます

 

東寺の境内も楠が多く

春秋その落ち葉には

悩まされました

掃いても掃いても落ちてくる

しかし

こうやって

掃くことも気にせず

見ることができるのは

幸せな気分です

 

 

桜松の場所は

学習院の発祥の地にあり

それはこの建春門の前

あたりです

 

 

何とも広い自然豊かな空間

有り難いものです

木陰では修学旅行生たちが

お弁当を広げています

これも御苑のお陰ですね。

 

ひと汗流し

春風を切り自転車で

帰りは烏丸通をひとっ走り

机に向かうの日々でしたが

やはりからだを動かすのは

気持ちのいいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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物と心

2022-04-21 19:07:02 | 十地経

「こころの時代」とも

「物より心」ということが

いわれますが

物心両面ということも

いわれます

 

講義では

「物質を否定した

やせた精神ではない」

という言葉も出てきます

物と心、

こころ、心といわれるのは

それほど物質欲が

強いのでしょう

中身がないと

ついつい外目の物で

見栄を張ったりと

ブランドンものとかが

幅を利かせてきます

そういうこともあって

ものじゃない、心なのだと

ということが

言われるのでしょう。

 

講義で

「これは財や身は功徳と

いうものによって

かちとられるものだ。

(財及び身勝因事と)

智慧によってかちとる

ものじゃない。

大功徳というものによって

かちとられるものが

財や身というものです。

遊んどって降ってくる

ものじゃない。

 

けど

それは智慧じゃないでしょう

だけど智慧を助けるものだと

道を助けるものだ。

道を助ける法なんです。

つまり

大功徳というものは

物質的なものだ。

 

財にしても身にしても。

物質的なものは

ただ物質的な快楽のために

求めとるのじゃない。

無上仏道のために

それを求めとるんだと、

こういうわけです

 

無上仏道のために

物質的なものを捨てないと。

物質も無上仏道に

転ずるんだ。

無上仏道の内面的意義に

転ずるんだと。

内面的豊かさに転ずるんだと

物質性というものを。

 

物質を否定したやせた精神

ではない。

物質をもなお精神化

してしまう。

こういう意味で

助道の法なんです。

こういうようなところが

菩薩道というもんじゃないか

 

だから功徳を集める

といっても、

ただけちけち金貯めとる

という意味でもないんです。

資本投資のためでも

ないしね。

物質といっても

個人の享楽を満足するために

物質を求めとるんじゃないし

そうかといって

資本というものを

再生産するために物質を

求めとるんじゃない。

これは個人的感性的努力

じゃないんであって、

かえって超感性的な動機から

物質が求められとる。」

 

私たちが物を求めると

それに執着してしまい

物がすべてだと

物によって人を価値判断

してしまいます

かといって

物を粗末にするのでなく

物の中に

心を見出していく

ということでしょう。

 

滴水和尚と呼ばれた

方がおられました

一滴の水にも命を見る

「水が死ぬぞ!」

という言葉が有名です

弟子が雑巾バケツの水を

捨てようとしたときの

喝、だったのです

「植木にやれ木が喜ぶぞ」

ということがあります

 

しかし、

ここで先生の言われている

ことは

もっと大きな

やせた精神ではないという

内面的豊かさに転じていく

そういうものなのでしょう

 

けど、

物を単なるものとして

使い捨てしまうのではなく

物にも命を見る

そういうところに

今でいう「SDGs」に

通じるものがあるようにも

思います。

 

 

 

 

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存在への勇気・運命愛

2022-04-20 20:25:13 | 十地経

「存在への勇気」

パウル・ティリッヒ

という方の言葉で

その題名の本もあります

ちょうどこの頃

ティリッヒと安田先生の

対談が東寺でもありました

ということもあってか

この方の言葉

「永遠の今」とか

この「存在への勇気」

ということがブームでした。

 

存在への勇気

The Courage to Be

の訳で、また本は

「生きる勇気」という題で

出版されています。

 

同じことをニーチェは

「運命愛」と

いったのでしょう。

それで講義の続きですが

 

「業は必然ですけど

意は自由だ。

つまり業のままで生きとる

というときには

これを凡夫という。

けど

意のままにというときには

どういうことかというと、

これは自由ということです。

 

自由に生きとることを

意に随って取る。

(随所須意取)

必然じゃない。

必然のままになっとるのは

凡夫だ。

それに対して、

その必然の中に

自由を見出してくるという

のが菩薩というものです。

 

必然というところに、

仕方なしに

生きとるのじゃない。

喜んで引き受けたら

それが自由である。

仕方なしにということを

転じて、

仕方ない世界を

喜んで引き受けるという

時にはもうそれは自由

でしょう。

必然を超えとる。

 

それが本当の意味の

勇気というものですね。

必然と自由は

矛盾概念のようだけども、

同じことなんです。

必然というものを止めて

自由ということは

観念的我がままだ。

主観的自由だ。

空想だ。

 

自由のない必然は絶望だ。

だからニーチェが

運命愛というのはそこです。

運命のごとき必然を

自由に愛する。

運命愛と。

 

そういう世界がここに出とる

こういう点がやっぱりその、

… 凡夫から見れば

人生というものは、

身のある世界というものは

身をもっている世界

というのは生死、

あるいは世間といってもいい

 

それは一面からみると

必然の世界で流転ですけど、

人間は流転する。

ところが、

どうにもこうにもならん、

身動きができない

というところね、

それは流転、

 

実はそこが

自由を見出す道場なんです。

人生は一面からいえば

流転だということも言える。

しかし

その流転である人生こそ

道場やと。

流転というところこそ

流転を翻すところの

道を見出す場所だと。

 

浄土が道場じゃないんだ。

流転の現実が道場なんだ。

人生は戦いだというのは

そういう意味です。

こういうように、

財産ということもただ

財のために財を求める

ということではない。」

 

たぶんここのところは

先生も力が入り

のってこられたところ

のように思います。

読んで書いていても

何かしら

分からないのですが

すーっと入ってきます

理解じゃなく

頷けるところです。

 

 

 

 

 

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意取(自分の存在は自分の責任である)

2022-04-19 20:26:50 | 十地経

「財及び身勝因事」

というところで昨日は

財及び身の勝れたる因の事

というところから、

随って財及び身の勝れたる

ことを得る因の功徳を集める

そして、

「随所須意取」というように

進んできて

今度は「意取」ということが

始ります。

 

「それから意取というのは

何であるかというと、

意(こころ)が取るという

これは所須に随うという意味

があると共にまた

意に随って取るという意味

それは身のことだ。

思いに随ってそこに

身を置くという。

 

我々は、考えてみると

仕方なしにおる。

思いのままになるなら

もっといいところに

おるはずだ。

金もないし何もない

ところに、

あきらめて身を置いとる。

 

だから

それは意の通りじゃない。

思うがごとく生きとる

という意味です。

仕方なしに生きとるんじゃい

我々はよく考えてみると、

生きとるように考えとるけど

実相はそうじゃないので

あって、

生きとると

思っとるんであって、

実は生かされとるんだ。

 

生まれさせられとるんだ。

そこへおらせられとる。

おるんじゃない。

おるのなら止めてもいい。

ようやめんわ。

死ぬ時がきても

まだ生きとりたいという。

 

そいうかと思うと、

生きとるくせに死にたいと

いうことを考える。

そして自殺して

夜逃げしたいと、

こんなことを考える。

そういうのは皆思いであって

何と思おうと思うのは

勝手ですけど、

 

そこへ

自分がある時ある場所に

自分としておる

ということだけは

思い通りにならん。

思い通りにならんのを

業というんです。

業の限定だ。

 

私はなぜ

男に生まれてきたか、

仕方ないわ、

生まれてみたら男だった。

男に生まれようと思って

生まれてきたわけじゃない。

もっと頭が賢いようにと

思うけど

どうも仕方がない。

それ全部、

一挙手一投足が決められとる

理由は分からんが、

そういうところに

業という言葉があるんです。

 

何かそれは

偶然じゃないという意味です

恨むわけにもいかん。

それは運命だけど

その運命は

外からきたのじゃなく

自分が求めた運命だと。

 

現在かくあるのは、

かくある責任は自分にある。

こんな阿保に

生んでくれたのは

親の責任だと、

自分の責任を親に持っていく

という。

そういうことも

考えられんわけじゃないけど

考えとして。

けどそういう考え方も

成り立つ。

今の学生、高等学校の生徒が

よく言うように、

こんな悪い頭に

生んでくれたのは誰やと

いうと親に … 

といわれると親も文句が

つけられん。

親の方が議論に負ける。

 

けどさあ、

そこにそういった時に

さっそうたる気持ちに

なるものだろうか。

議論には勝ったけど

何か銭が足らんような

気がする。

議論するのは勝手ですけど、

自分が落ち着かんじゃないか 

 

話しはそこなのです。

仕方がないというのも

落ち着かんし、

そうかといって

人に責任もっていっても

落ち着かんでしょう。

 

理屈は分からんけど、

落ち着くという時に

責任感というものが

あるんじゃないか。

 

自分の存在は

自分の責任であると、

これが一番男らしいんだ。

責任は親だというのは

卑怯な話だ。

それから、

もう仕方がないといって

あきらめとるのは

腰抜かしとることだ。

 

功罪共に背負うという、

そういうところに本当の…

我々の宿業を背負う

ということは

頼りないことのように

思うけど、

そうじゃない、

本当の勇者です。

 

そういうことができるのは

本当の意味の、

実存的勇気

ということによって

初めて自分の存在に

責任がもちうる。」

 

長くなりましたが

どうにも

読んでいただきたくて

全部書きました。

ある方が

「存在への勇気」

ということを仰いましたが

こういうことではないかと

思い、また

身に当てはまることなので

読んでみてください。

 

 

 

 

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随所須意取(必要な時に必要なだけ)

2022-04-18 20:32:48 | 十地経

前の「財及び身勝因事」

という言葉に続いて

「随所須意取」と

出てきます

こういう言葉も

先生の講義を聞かないと

絶対に読めない言葉です

先生も

「文章がどうも読めん」

といいつつも

それを噛み砕いて行かれます

 

「随所須意取」、

所須意取に随うと、

随って財及び身の勝れたる

ことを得る因の功徳を

集めると。

先言った因の事は集める

ことだ。

採集していくんだ。

それが事業、事だ。

 

功徳を集める。

功徳集です。

荘厳というようなことも

功徳集をもって

荘厳するんです。

人間を飾るんだ。

人間が自己の存在を飾るのは

努力が飾るんです。

 

ところで所須と意取、

所須というのは、

須は用いるという字です。

必要なものという意味です。

そういうものが所須という

ことじゃないか。

必要に随う。

 

必要に随って功徳を集める。

必要というものは財という

ことです。

我々の必要を満たすものが

財でしょう。

所須というのは

生活の必要物資じゃないかね

生活が必要とするところの

物資だ。

それを所須という。

所須に随うという。

それを財という。

面白いね。

 

必要なものが必要な時に

必要なだけ欲しい。

必要なものは何でも欲しい

といって蔵に入れとく

というものじゃない。

邪魔になって持って歩けない

 

必要なものが必要なだけ

必要なときに欲しい。

 

雨降るという。

雨が恵みだという場合、

それは必要な時に必要なだけ

降るからです。

必要でない時洪水が起きる。

必要な時に必要なだけ要る。

こんなことが商業ということ

が起こったもとかもしれない

 

よく先生は

心の原始林を切り開いていく

ということを仰ってましたが

繰り返し繰り返し

読んでいく中でこういう

文章を切り開いていかれる

ようです。

ここが面白いところである

ように思います。

 

これから、

「意取」ということが

続いていきます。

 

 

 

 

 

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緑が眩しい日でした

2022-04-17 20:33:41 | 住職の活動日記

今日は空気も澄んでいて

山々も緑が眩しく

爽やかな一日

 

 

我が家の「牡丹」

移動のため短く切ったせいか

葉は緑に生茂って

きたのですが、やはり

花芽はつかなかった

ようです

まあ、緑が美しいと

牡丹をほめていました

自分の遣り損ないを

棚に上げて

 

 

レモンの木も

みるみる新緑の葉が

出てきて

気持ちよさそうに輝いて

います

葉の先には花らしき芽が

出始めています

 

 

アジサイも初々しい緑が

まばゆいばかり

この紫陽花も同じで

切りすぎました

花芽は出てないのです

でも、葉のハタラキこそが

紫陽花のいのちではないかと

思っています

 

 

シクラメンも

よく咲いてくれました

これから

葉のハタラキが養分を蓄え

また来年に備えています

 

 

うちの前の小さな庭にも

新緑が出始めています

 

 

シャガの花もあるんです

眩しい陽を避けるように

日陰を楽しんでいるようです

 

 

アオキも

新しい葉が出てきたところ

この初々しさがいいですね

 

 

フキもあります

小さいながら種類は多い

 

 

スズランでしょうか

それとも馬酔木でしょうか

それに

 

 

めずらしい品種のもみじ

葉の形が面白い

そして

東山を見上げると

 

 

遥か向こうには

清水寺の塔が見えます

 

 

新緑に朱色の塔と門が

いっそう映えているようです

 

そういう美しさから

見下されるように

人間世界は生々しい現実が

あるようです

病気で苦しむ人

人間関係で悩む人

そういう現実を包んでくれる

それが自然のハタラキの

ようにも思えてきます。

 

 

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財及び身勝因事

2022-04-16 20:27:41 | 十地経

「財及び身勝因事」

何とも難しい言葉です

安田先生も

「文章どうもが読めん」

と話しておられます

『十地経』の書かれた時代は

後魏北印度三蔵菩提流支訳

とありますから

西暦400年~500年頃

インドの僧達磨大師が

梁に来たのが527年ですから

今から1700年前の文章を

読んでいるわけです

そう思うと

そういう時代の文章に

触れているということは

凄いことだとも思います

 

「魏の時代の文法を

唐の時代や宋の時代の文法で

読むわけにいかんでしょう。

だから、どうも

文章が僕らの力では十分に

読めんのです。

 

ここはどうかというと

財及び身、財と身と二つだ。

それらの勝れたこと。

財の勝れたこと

身の勝れたこと、

というものをもたらすような

原因。

そういう財と身の勝れたる

ことを生み出すような

因の事業だ。

『財及び身の勝れたる

因の事』や。

 

これは非常に面白い問題だ。

財というものと

身体の勝れたることが

まずそこに求められとる。

こういうことがでるから

『十地経』は面白いんです。

 

えらいこれは世間的な問題だ

智慧が勝れたとか

何とか言わずに、

財及び身の勝れたること

というような。

精神的潔癖じゃないんだ。

無力じゃない。

純粋であるけれども

無力じゃない。

精神主義の無力性

というものじゃない。

 

何かそこに

大乗仏教というものの、

大乗精神というものがそこに

あるんです。

 

一点を開いてくると

更に深い一点、

更に深い一点と無限に

豊潤なね、繫栄やね。

無限に盛んな世界を展開して

いくというのが大乗なんだ。

 

純粋だけど潔癖という

ものじゃない。

それはかえって小乗だ。

それは精神生活からいうと

敗北です。

どこまでも豊かに

繁栄していくという。

ただそのときに

その繁栄が大事なのは

内面的であるということです

 

無限の内面的豊かさ、

そういうものでないというと

そこらの何でもない人に

なれんのです。

何でもないおっさんと

話しできるというのは

何であるかというと、

無限に内面的な豊かさを

もっとるからだ。」

 

ただ清廉潔白という

仏道というものがそのように

とらえられがちですが

そうではなく

『十地経』では

財と身という

経済活動と私たちの身体

どちらも大事です

ただそれが

内面的な豊かさという

ところまで

深めていくという

内面的繁栄。

 

そこまでくると

ただの人

何でもないおっさんと

話しできる

前のところにも

「そこらの普通の

おっさんやおばさんと

話しができるのが

マイスターだ。」

ということが出てきました

 

何でもないそこらの人になる

ということが

私の目的でもあるように

思うのです。

このこと自体も難しいのです

しかし

こうなれたらいいのに

と思っているのです。

 

 

 

 

 

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薫習(くんじゅう)

2022-04-15 21:01:27 | 住職の活動日記

「薫習」

こういう言葉があります

テレビを見ていたら

「香薫」コウクンという

ソーセージもあるようです

このコマーシャルを見る度

この「薫習」ということが

思い浮かぶのです

 

いつもお世話になっている

松栄堂のお香のお店にも

「薫習館」という

別棟が隣にありました

 

 

お香が登っていくところを

表したモニュメントでしょうか

 

薫ることが習うと書きます

辞書には

「香気を衣服に薫じ付ける

ように、

迷悟の諸法(特に我々の

身・語・意の業即ち行為)が

その勢力を他のものの上に

(特にわれわれの心の上に)

薫付し残し留めること。」

と出ています

 

私たちの行いはすべて

そのまま消えていく

ものではなく

それは心の中に残っていく

ということでしょう

そのことを香りに喩えたのは

実に面白いと思います

見えないけども残っている

 

例えば

「朱に交われば赤くなる」

ということも

そういう環境にいれば

自然とそのようになっていく

良い人の側にいると

自然とその立ち振る舞いが

良くなるし

悪い人の側にいると

自然にその素行も悪さが

身についてくる

ということでしょう

 

よく講義の中では

バラの花にハンカチを被せる

とそのハンカチに

香りが写っている

というような表現で

説明されていました

 

だから、

私たちの日々の行い

口で言うことも心で思う

こともすべて

香が染み込むように

私たちの心の中に

積み重なっている

ということです。

 

縁あって、

孫との勉強会が始めました

何とも難しい

私の場合は祖父に反抗する

という形で

仏教に触れていったように

思います

それが、

爺の話でも聞きてみよう

という心は

何とも嬉しいものです

若い魂に響いてくれれば

と思うのです

分かる分からないを超えて

こういう話しに身を置く

ということが

大事ではないかと思います

それこそ

「薫習」です

素直な時に自然な形で

こういう言葉に触れていく

ことが大事ではないかと

秘かに思っています。

 

 

 

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マイスター 一人前

2022-04-14 20:15:39 | 十地経

「これはゲーテの

『マイステル』という

本があるですが、

マイステルというのは

親分という意味です。

学問の親分もあるけど、

大工の親分でも何でもいい。

一人前という意味です。

マイスターは教育の目標だ。

 

だからこういうものは

知識を積んだって

出来るものじゃない。

積んだってできんのだけど

積まなきゃなおできん。

何かそこに、

どういったからいいかね、

各人各人の個性というか、

アイゲントリッヒカイト

(eigentlichkeit)

自分の本来の面目

というものを見出して

こんならん。

それは誰からも学べん

ものだ。

独自のものだ。

そういうものが見つからんと

マイスターになれん。」

 

一人前という

これは東井義雄先生の

こういう一文があります

 

「自分は自分の主人公

世界でただひとりの

自分を創っていく責任者」

 

この自分は自分の責任者

ということがマイスター

ということでしょう

なかなか、

自分は自分の責任者

といっても

なれないものです

 

お経の中にも

「一切顛倒」という言葉が

出てきます

般若心経でもそうです

この一切顛倒ということが

分からない

自分はさかさまではない

と思っているのです

逆立ちしているとは

思えない

 

以前、

師匠に

「ちょっと間違ってました」

といったら

「ちょっとどころではない

頭から指の先まで

全部間違っている」

といわれました。

といわれても

そこまではないだろうと

 

一人前ということも

今までの自分が

すべて逆さまであったと

気がつくことだとも

いえます

本来は

一切は間違っていたと

自覚できたことが

一人前になった

ということではないかと

思うのです。

 

「そういうものを

見出した場合が実は

果なんです。

そのために今度は

いろいろやってきたことの

意味が初めて分かるんです。

このためであったかと。

だからして、

やはり因から成就したものを

果ともいうけど、

また因を成就するものを

果というんです。

 

もし果がないなら

因は無駄になってしまう。

因から成就したものを

果ともいうけど、

また因を成するものを

果という。」

 

という言葉が続きます。

各人各人の個性という

自分本来の面目

というものを各人が

もっている

本来の自分ということを

先生は「因」と

言っておられるのでしょう

 

今まで失敗だらけの自分

というものに頭が下がる

そうであったかと

そういう自分に出会うことが

本来の自分の面目を

見出してくるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

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