本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

大工は発見されたり

2023-06-29 18:47:12 | 十地経

大工という面白い表現ですが

煩悩を組み立てている大工を

見つけたというのです

悟りを開いたということを

色々表現はありますが

 

たとえば、弘法大師空海は

室戸の御厨人窟(ミクロド)で

明星が飛び込んできた

というような表現です。

また、

いつも通っている

六角堂

 

 

ここには親鸞堂という

建物があります

 

 

29歳の時、比叡山から

百日間参籠して

聖徳太子が夢の中に現れた

という話しがあります

 

お釈迦さまは

苦行を捨て菩提樹の下で

瞑想されて成道されたと、

悟りを開くというより

成道と道を成した

人間としての本当のあり方

という道を成し遂げられた

 

成道には、降魔成道といって

魔という煩悩を下し

成道されたとあります。

 

講義では

「『阿含経』の言葉ですけど

『大工は発見されたり』

という言葉がある。

大工や。

面白いじゃないか。

三界という建造物ね、

六道とか、五種六道という

流転の大建築を作った大工を

見つけたというんだ。

とどめを打ったんだ。

 

見破ったいうんだね。

見破ったら

もう捨てる必要がない。

根が分かったから、

もうそれ以上、

根を見つけられたら

草ははたらかんです。

 

それを

回心懺悔(エシンサンゲ)という。

回心懺悔というのは

罪が消えることではない、

けど

罪に悩んどることではない。

罪だと分かったことや。

罪に頭が下がった。

罪がなくなったというような

ことではない。

そんな無反省なことではない

罪が浄められた。

 

頭が下がったことが

罪を解脱した証明なんだ。

上げとることではない。

罪に下がったら、

罪がなくなる必要が

ないんです。

 

そういうわけで、

大工は見つけられた、

なんぼ煩悩が起こっても

煩悩がですね、

はたらきをなすことができん

それで釈尊は成道した。

 

だから縁起というのは

迷いの縁起を悟ったんだ。

悟りの縁起を

悟ったんではないんだ。

だから

迷いが見つけられたんだ。

 

その十二縁起というのは、

大工のことや。

十二縁起は迷いの縁起

ですから。

迷いの縁起を

迷いの縁起と見つけられたら

それはもうはたらかんです。

迷いの縁起が分かったことが

迷いの縁起を超えたこと。

それで釈尊の成道ということ

があるわけです。」

 

悟りというと

転迷開悟といって

迷いを転じて悟りを開く

何かしら、すばらしいもの

智慧というかそういうものが

外から来たように

思うのですが

そうではなく自分の中にある

迷いの心が分かったという

そこが面白いところです

外からでなく

自分の中にある迷いの発見

そこはなかなか

分からないところです。

 

 

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初転法輪

2023-06-28 20:26:53 | 十地経

転法輪(てんぼうりん)

法輪を転がす、

今日、散歩の途中で見かけた

 

 

法輪の形

お寺の正面の壁に

掲げてあります

パッと見れば普通のビル

レンガ造りの

しかし、

ここにもお釈迦さまの教えが

あるのですよと

言わんばかりに輝いています

やはり、お寺には必ずと

いっていいほど

この宝輪の形があります

仏教の教えの象徴なのです

 

この法輪の輪というのは

宝輪のことでもとは武器です

あらゆる障礙を

打ち砕いていくということで

武器の中でも最上のもの

投げると回転し

すべてのもをなぎ倒して

いくというものでしょう

インドの映画それも時代物に

よく出てきます

 

煩悩を砕波するということで

象徴的に武器を使っています

独鈷というのも五鈷杵も

やはり武器です

この最高の武器、宝輪を

お釈迦さまの説法に喩え

説法があらゆる人々の

煩悩を砕き目覚めさせる

ということなのでしょう

 

初転法輪といのは

お釈迦さまが

最初に法を説かれたという

ことです

初めて法輪を転がした

ということです

この場所が鹿野園ロクヤオン

というところで

説かれた相手は

五人の比丘といって

お釈迦さまが出家された時

影からずっと見守っていた

5人の人です

 

初めは、

お釈迦さまは苦行をやめて

スジャータから乳がゆを

いただかれたので

そのことを見て離れていった

しかし、

お釈迦さまにとって

最初に伝えるべき人は

この五人の人達だと

 

説かれた内容は

「四諦」の教えです

苦・集・滅・道という

この世は苦である

苦の因は求めて飽くなき

我執の集まりであると

ではいかにして

その苦を滅するのか

というと

道というのは、

八聖道という方法があると

簡単にはそういう内容です

 

講義の中に

「自受法楽」とあります

自分の悟った法に

自らが楽しむという

何かしら自画自賛と似ている

ような気もしますが

 

思うのですが、

自分が発する声を

一番初めに聞いているのは

自分の耳です

自分の声を自分が一番最初に

聞いているのです

安田先生の講義も

先生も自分で頷きながら

たぶん自分の発した声に

自分でうなずきながら

話しが展開しているようです

 

普通には話にのってくる

ということもありますが

そうではなく

自分が自分で自分に頷く

ということがあります

この講義録を読んでいても

繰り返しの言葉が多かったり

えー、とか、うん、とか

という言葉がよく出てきます

 

自分の言葉にうなずき

その言葉に自分が感動して

また

次の言葉が生み出されてくる

自分の心の原生林を

自分で開拓し切り開いて

いかれるようです

それこそ転法輪です

聞いている私たちの

心の闇を切り開いていかれる

そのような思いがします。

 

 

 

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因分可説 果分不可説

2023-06-27 20:10:46 | 十地経

因分可説(インブンカセツ)

果分不可説(カブンフカセツ)

という言葉があります

『十地経』にでてくる

言葉です

辞書を見ると

「因分」

分は分斎ブンサイ(けいじめ)

の意味で、

(分斎は分際とも書きます)

因の範囲を因分、

果の範囲を果分という。

世親の十地経論には

因分は果分の一部分を

あらわすものとする。

というようにありますが

 

果というのは仏の世界で

因というのは仏になる因

ということで私たち人間を

表しています

また、果の世界は

仏果を悟った身分でなければ

知ることができない、

ともあります

 

講義では

「仏智の世界、

仏と仏だけがうなずき合う

世界だ、

これは

仏は仏でなければ

うなずけんと。

菩薩が仏にうなずいたら

そのときには

その菩薩は仏だと、

こういう意味です。ね。

 

『十地経』の序文に、

その偈文の中に …。

華厳に一つ、因分可説

ということがある。

果分不可説と。

このように

因分可説、果分不可説と

いうような言葉、

これが後の華厳の教学に

とっても大事な意味に

なっておりましてね、

これは『十地経』から出た

んです。

 

『十地経』は二菩薩の対話

です、対話編です。

金剛蔵菩薩と解脱月菩薩と。

金剛蔵は因を表すね。

因の菩提心を象徴しています

解脱は果を表す。

解脱涅槃のね。」

 

この金剛ということは

金剛はダイヤモンドです

何ものにも壊されない

という、

金剛不壊ともいいます

私たちがもっている

菩提心は何ものにも

壊されることがない

ということです

そういうことを

金剛の蔵という表現は

なかなかいいですね。

 

それから

ちょっと分からないのが

「それが解脱の方が問うて

因の方が答えるという

形ですね。」

因の方が問うて果の方が

答えるというのなら

分かるような気がしますが

果が問うて因が答える

 

「二菩薩の対話がって、

仏は沈黙しておると。

これが華厳の構造だ。

これは大乗の初転法輪

なんだ。

小乗にも初転法輪がある

のですが、阿含の中に。

それに対して「十地経』と

いうのもはやっぱり、

大乗の初転法輪経と

いうような、

そういう一つの大きな確信

です。

そういう経典精神という

ものに立っとるんです。

 

それで、仏伝という、

仏陀の伝記ですね。

菩提樹下で悟りを開いた

悟りの間は沈黙しとった。

三七日、三週間。

そして自受法楽ジジュホウラク

といってね、

自分の悟った法というものを

自ら受用しとった。

自ら、自らを受用しとった。

 

なで回しとったんです、

これはこれはと。

自分の悟りというものが、

自分が悟りながら

よくもこれで悟れたと

いうことをですね。

なで回しとったんだ。

 

なぜかというと、

自分において初めて

人類の迷いというものが

打ち切られたからだ。

これは

どういう意味かというと、

何が迷わしとったかが

分かったんだ。

 

なぜ人間は迷ってきたか

なぜ迷わしているかが

分からんのですよ。

迷っていることは

分かるけどね、

どこにその迷いの根元が

あるか分からんのです。

 

だから悟ってみようがない。

だからあれに迷い、

これに迷い、

あっちの話聞いたり、

こっちの話聞いたりして、

うろうろしとったんです。」

 

まあ、うろうろしていた

というのはよく分かります

なかなか、これしかない

というところまでは

迷うものです。

時間が迫ってくると

あれもこれも言っている

間がなくなってきて

せめて

「十地経講義」だけでも

書き写し

読んでしまわなければ

という思いになってきます。

 

先はまだ遠い

でも、まだやることがある

ということは

楽しくもあります。

 

 

 

 

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十地経講義雑感

2023-06-26 18:01:16 | 十地経

私が東寺にお世話になったのが

昭和42年

その時にはすでに講義は

始っていました

その頃は先生もお元気で

一泊二日という日程で

講義がなされていました

「これは序文、あなた方も

早大分前の、

十年も前の話で、」

 

という一文が出てきました

この講義は昭和48年6月

ですから、10年前というと

昭和36年頃から始まった

のではないでしょうか

それから途中先生が

ご病気になり中断

その第一回の講義が

昭和46年3月28日に始まり

その冒頭が

 

「ちょうど4年ほど

この会も間ができましたん

ですが、

今度もまたこの東寺で

相応学舎の講義をここで

始めていただくことに

なりました。」

 

とあります

そして

こうやって講義録として

まとめられ、

その講義が第39講まで

昭和56年11月28日が

最後の講義となりました

約10年講義が続いたわけです

 

今回の講義では

珍しく人の名前が出てきます

 

「岩橋君のまだ青春時代に

始った会や。」

この人の名もどういう訳か

「いわばしくん」と

濁って読んでおられました

それから

 

「この会で縁起の話を

大分していたが、

仲野君が来てね、

今日は来とらんか知らんけど

『先生、もうそこらで

第二章へ行かんならんと

違うか』というんだ。

話が長すぎるじゃないかと。

いつまで縁起の話を

しとるんだ。

まあ

聞く方はそうかも知らんけど

僕はまあ、ともかく

外に移るような気持ちが

せんのや。

縁起の道理というものの

意味の深さがね、

味わえば味わうほど

味が出てくるんだ。」

 

この仲野先生も

私が見た最初の印象は

お酒も入り、少々足元も

おぼつかない様子で

入ってくるなり

堂々と一番前の席に座り

するとこくりこくりと

居眠りを始められました

「突然、

先生今日は帰りますわ」

といって座を立たれました

 

なんと失礼な

と思っていたのですが

先生が

「仲野君はまじめやからね

酒でも飲まんと

おれんのでしょう。」

と言っておられました

 

先生の亡きあと

この十地経の講義を

受け持たれたのが

仲野先生です

講義を聞いていると

やはり、

安田先生の目に狂いはなく

仲野先生が正しく

受け継いでおられました

 

講義に対する姿は

いのちがけという感じが

するのです

足元はよちよち

思い余って車椅子を準備

玄関から部屋まで乗せて

行くという

足袋も二足準備され

道中用と講義用と

講義の前には履き替えられ

 

講義はじまると

その姿は大きく見え

荘厳ささえ感じさせる

ものでした

若い頃聞法されている

その求道心を彷彿とさせる

ような態度でした。

 

安田先生も

ご自身の経験や自分の事は

ほとんど語られません

自分のことをいっても

仕方ないだろうと

やはり、

法ということを中心に

経典に沿って語るという

そして

味わうというように

繰り返し繰り返し

でありながら

古さを感じさせない

同じ話でも日々に新しく

感じるような話で

それこそ

歩みの中から話されるので

同じ話に見えて

実は歩んでおられるので

新しい話のなのです。

 

まあ、読んでいる私が

読むたびに新鮮さを感じる

話しなので

それも不思議な話です。

 

 

 

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無価値の世界

2023-06-24 19:38:17 | 十地経

今の価値基準はやはり

お金、儲けた損したという

でも、お金の力とは

凄いものがあります

そういうなかにおいて

仏教では「無価値の世界」と

まあ、世間の価値観とは

まったく違っています

 

お釈迦さまの言葉に

「有田憂田・無田憂田」

(ウデンウデン・ムデンウデン)

ということがあります。

安田先生の

別の本ですけど

「価値は自己を得意にするし

裏には必ず反価値という

ものがある。

一方で専有するものがあれば

反面にはプロレタリアという

ものがあり、価値を失って

怒りをもつものがある。

有田憂田・無田憂田といって

有田でも無田でも、

それによって自己を失う。

 

田というものは

価値がそこで生産される場所

で、単なる土ではない。

土に種をまけば、

そこで収穫が得られる。

努力によって

価値が生産される。

生産するということによって

ものを所有することができる

場所を田という。

 

だからそれを得たものは

失うまいとし、

得ないものは得ようとする。

結局は大きな対立である。

世界自身が有・無の両極に

はさまれて動揺している。」

 

そういうことが

『十地経講義』では、

 

「無限に広い世界というのは

値はないんです。

値を超えているんです。

金では買えない。

そういうのを達磨大師は

無価値の世界といっている。

貨幣価値に換算できない

というので、

無価値とこういっている。

それは、

どんな愚かな者にあっても

減らん。

どんな賢くても増すことが

できぬ世界、

価値の高下というものが

消えてしまう世界です。

そういうような

精神界を生み出すという

それが大事なことだ。」

 

とこのようにあります

今の世の中

貨幣価値優先の世界にあって

無価値の世界と

こういうことが本当に

広くて深い精神の世界

ということでしょう

 

難しいかもしれませんが

こういう世界があると

いうことも知っておくことも

大事なことだと思います。

 

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大乗というのは内面の広さ、豊かさ

2023-06-23 21:37:11 | 十地経

毎月の「十地経講義」

その行き帰りに

洛南高校の前を車で通られる

それだけなのに

安田先生は実によく

観察しておられました

 

「大乗というのは

内が広いという意味です。

大乗というのは仏教の精神を

いうんであって、

精神界というものは内にある

ものです。

大乗というのは内の広さです

外からいえば、

自分の分に安んずるという。

 

職業といったようなものに

不平をいわんです。

高い位置とか低い位と

いうようなことは、

問題でないんだ。

門衛でも誰でもいいんだ。

校長だけが偉いという

ことはないんだ。

 

だからして、

門衛でも掃除番でも、

誰でもいいんだ。

その分に安んじて内面を

開くんだ。

その内面は校長以上の

ものですわね。

 

その同じ内面の広さをもって

各自が分担しとるんだ、

校長の役目も用務員の役目も

平等ですわ、そこで。

そういう世界にはや

共同体というものは

できてくるのですね。

そういうものが一番基礎に

なるんだ。

 

月給とかそういうものでは

ないんですわ。

そういうものが分からんから

月給に迷うんだ。

月給も悪いことはないのです

けどね、

月給一大事と思うんだ。

それが、

えらい大きな誤りで、

一大事というものでは

ないんです。

ほんのわずかな利益です。」

 

若い頃はこの言葉に

救われたのです

こういう言葉が共同体の

中心にあって

それぞれの立場でそれぞれの

役割を果たしたのです

この時代すべてが順調に

行っていたようです

日々の掃除に明け暮れる

ということでも

何かしら堂々と明るく

やっていたような気がします

不平不満が解消されたのです

 

通りすがりに

車の中から用務員さんの

姿を見て

ああいう姿がいい学校の

形ですね、と

仰っておられました

松浦さんという兄弟子のもと

掃除している様子を

眺めておられたのでしょう

 

ただ講義だけ

というのではなく

その場の様子を実によく

見ておられたことに

驚いていました

講義の会所となった東寺の

ありようを見とどけて

おられたのです

そのことが講義のなかで

このように生かされて

話されたことを思い出します

 

 

 

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浄土という心境を開く

2023-06-22 21:16:16 | 十地経

浄土へのあこがれ

浄土という世界を心に描き

それをまさに実現した

平安の頃、貴族たちは

平等院に代表されるように

お寺を建立した

六波羅蜜の池を渡り

その向こうには

阿弥陀如来の待つ浄土がある

亡くなる時は

阿弥陀如来の手から導かれる

五色の糸を握り

口には念仏を称え

浄土へ参っていく

そういう形でもって

表現したのですが、

 

「この『十地経論』を

造った世親菩薩もですね、

『願生偈』というものが

ありますが、

そのときにやはり、

一番最後にですね、

菩薩が出てくるです。

菩薩荘厳という。

菩薩が浄土に生まれる。

凡夫でも浄土に生まれるけど

そんなとき、

まだ浄土ということが

分からないかも知らんけど

心境です。

 

信仰の一つの境地が

開けて来るという、

それを浄土という。

心境が開けて来る。

狭い娑婆の中におって、

無限に広い心境が開けて

来る。

そういうことなんだ、

信仰を得るということは。

 

先の白道のように狭いけど、

白道に立つと、

その中に無限に広い世界が、

全法界を包むような境地が、

心境が開けて来ると、

こういう意味です。

 

だからそれから考えてみても

分かるでしょう。

宗教というものは、

何か、 宗教が、

幸福になるとか、

人間が賢くなるとか、

あるいは

教育のために一つの

利益があるとか、

社会事業の… … 、

そんなことではないのです。

そんなような

世間的利益で

宗教というものが

あるもんではない。

宗教というものを信じたか

信じないかは、

外では分からん。

内に無限に広い世界を

見出していくというのが

宗教の利益なんだ。

 

外にけばけばしとる

もんじゃない。

外にけばけばしとるものは

返って迷わせる、

文化というものは。

外に幻惑させられて

自分を忘れるんです。

 

文化といいうものも

大事だけど、

自分を忘れるという。

宗教心という立場からいうと

かなり害毒のあるもの

なんですわ、一面に。

文化が害毒だと

いうんじゃない。

文化を唯一だと考えるのが

害毒なんです。

それで根元を幻惑されるのが

 

文化に幻惑されるのは

文化の責任じゃない、

幻惑されるのは

人間の方の責任です。

だから文化そのものの

悪口をいうのではないけど

幻惑というのは

非常に危険があるね。

そして

根元的なものを忘却させる。

 

文化人というのは

皆そういうものだ。

非常に浅薄な文化人ね。

人間に深さがないんです。

何か賢いようなことを

言っているから、

文章なんか読めばえらい

大した思想家みたいだけど

その人間に会ってみれば

何でもない人間、

そこらのおっさんと

同じようなのが沢山おる

インテリの中に。

 

つまり、

人間としての修行が

できとらんのや。

それは何かというと、

道徳という意味じゃない、

内面を持たんね。

 

宗教というのは

外にけばけばしいことを

やるんじゃない、

内面の広さというものをね。

それが宗教というもの。

宗教というのは内が広い

という意味です。

精神界というものは

内にあるものです。」

 

そういう世界がある

というのではなく

そういう心境を開く

非常に微妙なことですが

ものは思いよう

ということとは違います

現実を見れば何とも

苦しい厳しい世界ですが

そこに浄土という心境を開く

 

非常に微妙な言葉ですが

とても重要なことのように

思います。

 

 

 

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各発(カクホツ)・共発(グウホツ)

2023-06-21 20:44:55 | 十地経

各発(かくほつ)

共発(ぐうほつ)

こういう言葉があるのですが

講義では

大乗仏教と小乗仏教とを

比較して、大きくは

声聞・縁覚(独覚)という

ことが小乗的で

菩薩からが大乗というように

述べておられます

 

「第七地から何か教理でない

ようなものが出てきた。

これまでは大乗の精神を

小乗の教理を媒介として

表してあったんだが、

今度はもう

裸で大乗の精神というものを

展開していくのが七地、八地

九地、十地というものです。

七地を転機として。

 

それで、声聞・縁覚に対して

大乗というのは何だろうか

というと、

大と書いてあるから、

声聞・縁覚(独覚)という

のは、

独という字があったように、

独という字が表すように

何か、

各発(かくほつ)という字が

仏教にありますが、

各人各人やね。

各発的なんや。

個人的なんだ、立場がね。

 

それは仏教には違いないけど

個人的立場から何かこう、

求道している。

声を聞くのも悟るというのも

個人的な立場です。

個人の悟りなんだ。

どうも何か話が非常に狭いん

です。

個人的立場を脱しておらん。

 

大きいというのは

各発を超える、

そういうときに共同という

ことがある。

共発(ぐうほつ)という。

これは善導というい人の

言葉ですけども、

こういうことこそ何か

浄土教を超えた意味があって

各発ということと共発ね。

共というのは共同でしょう。

共同的ということですね。」

 

うろ覚えなんですが

共発菩提心と各発菩提心と

菩提心という志を起こす

ということは

なかなか一人では無理なんだ

そこに友ということが

大事になってくると

一人では修行でも途中で

腰砕けになる

その時励まし合う友の存在が

とても大事だというのです

それを僧伽というのでしょう

サンガです

 

どんなにいい教えであっても

それを実践する仲間・友が

なかったら実践できない

ある面では

仏法僧というけど

ある人は僧は付け足しでないか

仏と教え(法)があれば

それでいいではないかと

けどそれは間違いで

僧がいなかったら

どんなにいい教えでも

それを表現し実践する

ことができないのです

 

お経の最後の文句に

「願わくばこの功徳を以て

我等と衆生と皆共に仏道を

成ぜんことを」

とあります

ここにも、皆共にという

言葉があるように

「共に」ということが

大乗仏教の真骨頂のようです

 

それから、

「共」ということで

思い出すのは

共業(ぐうごう)

不共業(ふぐうごう)

ということがあります

何かしら子猫が可愛い

とか、あの人とは馬が合う

とかいうことをいいます

それはどこかで

業を同じくしているという

共業で何か心で言い表せない

業を共にしてきたという

共感するものを

感じるのでしょう

 

どうも見ただけでイヤという

中にはヘビが好きな人も

いますが

どうも怖いというか

どこから見ても

可愛いと思えない生き物も

いるもので

それは不共業というか

どの世界においても

業が共通する面が一つも

なかったということでしょう

 

何か書きながら

そう言うことも思い出し

ました。

 

 

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天使突抜!?

2023-06-20 21:06:02 | 住職の活動日記

京都には色々面白い地名

があります

天使が突き抜けた?

と思うのですが

「天使突抜町」という

地名なんです

 

京都アスニーの文化講座で

京都の地名の由来を紐解く

ということで今回は

「下京区」です

 

京都の場合以前は

五条通烏丸東入

というような通りの

東西と南北の道をいえば

大体その場所が分かるのです

ところが最近は

町名で言うようになり

それだけではどの場所かが

分かりにくくなりました

 

近くの「万寿寺通」ですが

東西の通りです

その道を西へ行くと

南北の通り西洞院通という

ところに

「天使突抜町」という

場所があります

 

 

万寿寺という通り

どこらにお寺があったのか

と思っていたのですが

以前はあったのですが

そのお寺は転居して

今は東山の東福寺の

近くにあります

 

天使突抜町も

町名が長いせいか

 

 

天一、天二と略して

書かれているようです

 

 

マンションのゴミのボックス

です

知らない人が見たら

なんだろうと思うのでは

ないでしょうか

 

 

この近くには

「五条天神」という名で

知られる神社があります

普通は

「てんじん」と濁って

呼ばれますが

ここはに濁らなくて

「てんしん」といいます

 

 

とても立派なお宮さんです

「てんしん」と濁らない

ようにお祀りされている方は

 

 

小彦名命と大己貴命と

天照大神の三柱です

ですから普通の

天神さんのように

菅原道真をお祀りしては

いないのです

 

諸説あるようですが

天使というのは

エンジェルではなく

天神の使い、または

天の神(天津神)の意味では

ないかと言われています

また

五条天神は別名「天使社」

とも呼ばれています

 

秀吉の時に

この神宮を分断するように

道を通したのです

それで多分

天神さんの境内を突き抜いて

道を通した

町の人はちょっと皮肉って

天神さんを突き抜いた

天使突き抜いた

「天使突抜」と名前を

付けたのではないかと

思うのです

 

ほんの小さなエリアですが

 

 

このように何気なく

町名が書かれています

 

 

通りからすれば

 

 

このような細い通りです

 

まあ、講義では

下京区は祇園祭にちなむ

名前もあり

調べていくとなかなか

奥が深い町名が多いという

ことです

 

町名もこういう興味を

持って見ると色々な歴史を

感じることができるようです

 

 

 

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主体性の確立

2023-06-19 21:37:27 | 十地経

菩提ということは

ボーディという言葉の音写で

訳すと、道とか、覚という

ように訳されます

菩薩ということも

菩提薩埵ボダイサッタを

略した言葉です

『十地経』の中心テーマが

菩提心ということです

安田先生のこの講義でも

常に繰り返し出てきます

 

大乗経典に出てくる言葉で

阿耨多羅三藐三菩提

アノクタラサンミャクサンボダイ

無上正等正覚と訳されます

必ずといっていいほど

お経の最後にはこの言葉が

出てきます

 

菩提ということも

「道」と訳すことが好きです

なにか、さとりという

固定したものではなく

道程にあるといいうことが

さとりということで

道を歩んでいるという

一つの方向をもって

そのこと自体がさとり

ということなのだと

 

それで講義の続きですが

 

「方向というとつまり、

その、現前の境遇ね、

状況に迷わされん。

それがないというと、

一喜一憂せんならんでしょ。

 

失敗したら悲観する、

成功したら有頂天になる、

そういうわけで

一喜一憂しとるわね。

だから

成功してもそこに安心すれば

それは失敗したことになるし

失敗してもそれを転機として

そこに道に帰ってくれば、

大成功です。

 

失敗だの成功だの、

決まったものはありはせん。

だからそれがですね、

失敗も成功も併せて呑むって

ようなものが大道ですわね。

そうするとそこで

勇敢に迷えるんだ。

 

迷うまい迷うまいなどと

いうことでは、

迷うまいと思うなら

初めから止めとくに限るわ。

必ず迷うけど、

同時にまた迷いを転ずると。

 

迷うのも悟るのも

一つの道の導きなんだ。

自分を大道に預けると。

そういうところに何か

人間がですね、

一喜一憂せんような方向が

できるわけです。

自分を失わんという。

 

教育という場合は

いかなる場合でも

自分を忘れぬということが

教育の原則です。

主体性を確立するという

ことだ。

自己を見失わんという。

 

人間が一番恐ろしいのは

自己を見失うことです。

失敗に悲観して自己を見失い

成功に有頂天になって

自己を見失っとるでしょう。

いつでも自分をもっとると。

 

水火というものを拒まず

水火を超えて行くんだ。

恐れるんではない。

何かそれを冷静に受け取る。

しかしながら

それによって動かされんと。

こういうような、

そういう方向がなんか

与えられてくるという

意味があるんですね。

 

人間に方向が、

無方向に動いているような

人間に一つの方向が

定まるということになって

くるんだ。

そんな話があるんです。

そんな話の方が

どんな教学よりもいい、

何か感動するじゃないか。

根元的なものを思い起こす

ではないかね。

理論体系よりも。」

 

というように続いてきます。

何かしら感動する一文です。

何回読んでも

読むたびに思い起こさせて

くれるような言葉です。

 

 

 

 

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