本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

修行と修業

2017-05-31 15:29:36 | 漢字

修行と修業、

今ではごちゃごちゃに使われる

ということもありますけど、

 

「修業」の場合は、

学業や技芸などを身につける

習いおさめる、ということで

花嫁修業とか板前修業と

いうように使い、

 

「修行」の場合は、

仏道修行というように

仏の道を修める

というように使います。

 

「行」ということも

「業」(ごう)ということも

仏教ではとても大事なことで

意味もいろいろと厳密にある

ようです。

 

「行」(ぎょう)はインドの言葉で

サンスカーラといって、

本来は「造る」という意味

そして、「遷り変る」という

二つの意味があります。

「造る」という意味からすれば

「業」と同じです。

「修行無常」という時の「行」は

遷り変る、という意味です。

 

普通でいう、行くという意味も

あります。

行住坐臥という時の「行」です。

この時は、歩み行くという意味です。

 

簡単には「行」は悟りに至る修行

仏道修行と思っていいでしょう。

 

それに対し、

「業」の方ははるかに複雑です。

インドの言葉ではカルマンといい

羯磨(かつま)と音写します。

造るということでは「行」と同じです

意志による心身の活動、と

辞書にはあります。

 

経典では、

「身口意(しん・く・い)の三業」

といいうように出て来ます。

毎日唱えている「十善戒」です。

その内容が、

で行う業が、殺生・偸盗・邪淫

いう業が妄語・綺語・悪口・両舌

、心で思う業が慳貪・瞋恚・邪見

ということで、

この十で人間の行いをすべて

網羅しているのです。

 

生々しい話ですが、

邪な恋心を起こした、と

心の中に芽生えただけなら

何もアクションを起こさなければ

それは業にならないのではないか

電話をするとか、食事に誘うとか

何か事を起こせば

そこで業が生まれるのではないか

とかいろいろ考えらえます。

 

しかし、意業ということを

最も大切にします。

身業・口業といっても

心の中にあることを

行ってしまうのです。

心にもないことを言ってしまって

といいますが、

それは心に常々あることが

フッと出ただけの話しです。

 

覚鑁(かくばん)上人という方

自らのことを、

その密厳院懺悔発露の文で

「三業所作の斯くの如き無量の罪」

と、述べておられます。

 

何気なく行っている毎日の行動

全てが三業所作、

ということでしょう

日々日々の行い努々(ゆめゆめ)

おろそかにはできないようです。

 

「行」も「業」も

仏教では根本概念

こんなに簡単に語り尽くせる

ものではありません。

 

けれども、心の片隅にでも

考えていかなければならない

問題のように思います。

 

 

 

 

 

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毒矯み

2017-05-30 20:05:02 | 漢字

毒矯み、とも書き

矯めるという字は「矯正」の

「矯」という字です。

ためる、ということは

ただすという意味もあり、

曲がっているものを真っ直ぐにする

という意味もあります。

お花の時、枝を曲げるのも

ためるといいます。

 

この字が心・りっしんべんがつくと

「憍」(きょう)となり、

人間の煩悩の一つです。

「憍慢」という言葉もあり

「憍」は自らおごり高ぶる

「慢」は他人に対しておごり高ぶる

ということです。

 

そこに「八憍」ということがあり、

八つのおごり高ぶる心ということです

 

盛壮憍、(元気なことを誇る)

 「またしても同じ話に子を褒める

  達者自慢に人は嫌がる」

 という歌もあります。

姓憍、(血筋の優れていることを誇る)

富憍、(財産があることを誇る)

自在憍、(自由を誇る)

 今では当たり前ですが、昔は

 自由であるということは大変な

 ことだったのでしょう。

寿命憍、(長寿を誇る)

聡明憍、(頭のいいことを誇るのでしょう)

行善憍、(善いことをしたと誇る)

色憍、(容姿端麗なことを誇る)

 

という八つの憍という誇り

いわれてみれば、

誰しもあるようです。

 

この「憍」という煩悩

これは自分が都合のいい時に

おこる煩悩です。

結局のところ私たちは

都合のいいことが好きで

都合が悪いことが嫌い、

それで、都合が悪いと腹が立ち

都合がいいと調子にのる

ということになってしまいます。

 

だから、「憍」という煩悩は

調子のよい自分を誇る、

ということです。

すると、経典には

「深く染着を生じて酔倣する」

というように出て来ます

自分のいいことに酔ってしまう

倣とは思いあがるということです

 

普通には調子が良くてよさそう

なのですが、

いざ仏道を求めるとなると

あまり調子が良すぎて

本当の話を聞こうとしない

ということで、

求道しなくなるということです

 

お経には

『憍酔(きょうすい)の者は

一切の雑染(ぞうぜん)の法を

成長する』

と説明してあります。

調子のいいことに酔うのです。

雑染というのは我執的経験、

自分の都合のいいように

全てを解釈してくる

ということで、

本当の話を聞こうとしない

ということです。

 

仏道修行においては

真摯に本当の話を聞かない

ということは致命的です。

 

世間生活では他人に誇り

元気があって、血筋もよく富もあり

長寿で頭がよく容姿端麗

ということは素晴らしいことですが

それに酔ってしまうと

真実を求めないということで

「憍」という煩悩は

本当のことを求めるということには

大変、心を傷つけてしまうもので

特に注意しなければいけない

煩悩ということです。

 

矯める、毒矯み(どくだみ)

ということから妙なふうに

なってしまいましたが

「憍」という煩悩も

大変注意深く観なければ

いけないものです。

 

 

 

 

 

 

 

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ドクダミとカトリ草

2017-05-30 19:42:35 | フラワー

我が家の春の花も終り

庭にはドクダミが花を出しています

 

 

まあ、小さくてかわいい花

でも、調べてみると

この花は成長力が強く

あっという間に庭を覆い尽くす

ということで、

除草の方法が書いてあります

 

 

何もないところには

白い総苞に黄色い雄蕊が出て

山法師にも似た感じ

 

 

ところが、根がつながっていて

抜いても切ってもなかなか根絶は

難しいようです。

 

 

ドクダミ、

名前の響きはよくありません

難しい漢字では、

(シュウ)とも書きます。

毒矯み(どくだみ)とも書き、

毒をただす、毒を抑える

という意味からこう呼ばれたのです

 

十薬(ジュウヤク)ともいって

解毒作用もあり

煎じて飲むと色々効き目が

あるようです。

 

 

 

カトリ草も可愛い花が

一杯に咲いています。

 

 

確かに、葉を触ると

独特の香りがします

しかし、あまり

効果がないように思うのですが

こまめに切って新芽を出さないと

虫よけの効果はないそうです。

 

 

新芽が出る時に

独特の香りを発し虫を遠ざける

ということです。

 

まあ、花としては地味な花ですが

楽しませてくれています。

 

 

 

 

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香梅さんの「肥後六花」

2017-05-29 21:34:41 | 住職の活動日記

香梅さんの銘菓「肥後六花」が

お供えにあがりました。

 

 

可愛いとても美しい

練り切りのお菓子です。

 

毎月の勉強会というか輪読会に

頂いたものです。

勉強の後で美味しく頂戴しました

 

「肥後六花」という

熊本には昔から、熊本藩士によって

育てられてきたという花があります

 

肥後椿・肥後芍薬・肥後花菖蒲

肥後朝顔・肥後菊・肥後山茶花

 

という六つの花です。

みなさんで分けながら

それぞれの美しい花を

食べてしまうのが勿体ないような

でもおしそう、

ということで頂きました。

 

 

これは肥後山茶花、

 

 

 

そして、肥後菊

 

 

肥後花菖蒲もおいしそう!!

 

甘い物苦手な私でも

(かといって、辛いものが好き

 といわけでもありませんが)

 

上品な甘さで美味しくて

ペロッと頂きました。

 

そして、

それぞれの花の栞が添えられていて

 

 

ちょっとした厚みもあり

たぶん本の栞として利用して欲しい

という思いも

込められているのでしょう。

裏には花の説明もあり、

 

「肥後椿」見事な花芯が印象的

二百年前から栽培されてきたとも

いわれる、

最も有名な六花の一つです。

一重咲きで、

花芯が花の内側いっぱいに

広がっています。

熊本市の花にも選ばれており、

モチーフとして多く使われています

内面からピンクが

浮き出てくるように、

ピンク色の練り切りを

白い練り切りで包み込んで

椿の花を模りました。

上には練り切りの葉と

網でこして作った花芯を

あしらいました。

 

というような解説がついています。

 

五感で味わい、

いわれも勉強して、

その栞も大事に使えると、

なかなか面白いと

感心させられました。

 

  ですよ!

 

 

 

 

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お不動さま春の大祭

2017-05-28 10:39:09 | 住職の活動日記

五月晴れ、

雲ひとつなく見事に晴れ上がりました。

庭の木々も緑の濃さをまし

 

 

樒(しきみ)の新緑も初々しい

この葉は護摩の時にも、普段のお参りでも

なくてはならないものです。

木偏に密教の密と書くのも

何かしら意味深長な気がします。

 

 

弱りかけていた梅の木

腐った部分を除去したら

元気に緑の葉を伸ばしています

本当に皮一枚で栄養分を吸い上げて

いるのでしょう

 

 

サツキの花も終りかけ

テントウムシもごそごそ這い回って

いるようです

アジサイも色づき始め

 

 

微妙な色の変化を見せています

 

 

これから七変化、

もっともっと色を深め

深紫の色に染まっていくでしょう

 

 

こちらのアジサイは

さわやかな水色、

 

 

また、変化を見ていくのも

楽しいものです

 

 

本堂の準備も整い

大祭とあってもうお参りの方が

お見えになっています。

 

 

護摩壇の荘厳も整い

 

 

その様子を

お不動さまも見守っておられる

ようです

 

護摩の煙で

もう何百年も経つのでしょう

真っ黒いお姿

 

 

あごの部分が黒光りしています

 

よく、先代に当たる祖父が

お不動さまが汗を流すまで護摩を焚け

と、よく言っていましたが

そのように、あぶら汗を流して

黒光りしてきたのでしょうか

 

内陣護摩壇への参拝もあります

是非、身近にお不動さまに接して

いただくのも

また違った感覚があるのでは

ないかと思います。

 

お護摩午後1時より始まります

是非、身を運んでください

有うべからざる事がある

有り難い、という

気持ちを頂けるのではないでしょうか

 

 

 

 

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不動明王 Ⅱ

2017-05-26 22:03:32 | 住職の活動日記

不動明王、不動使者ともいわれる

経典には童子形に作れと言われている

だから、顔は忿怒の相ですが

体つきは柔らかい子供のような

優しい線になっている。

 

しかし、その精神は

大日如来の

教令輪身(きょうりょうりんしん)

といわれ、

教化し難い衆生を大忿怒の相で

導くと言われている。

だから、

大日如来と同体の仏で、

その忿怒の相が不動名王で

慈悲の相が菩薩といわれている。

そして、

明王とは智慧の王様というか

明とは煩悩の闇を照らす智慧の光

のことです。

 

なぜ忿怒の相をとるのか

何に対しての怒りなのか

誰に対しての忿怒の相なのか

知恵の象徴である明王が

なぜそのような姿をとるのか

 

考えてみると、

教化し難い衆生とはだれか?

たぶん、

その中には自分は入っていない

のではないでしょうか。

 

以前、お知り合いの方で、

とても信仰深く、

日々の勤行を欠かさない

という方がいらっしゃいました。

その方がいわれるには

十善戒がどうしても気になり

唱えられないと、

「不殺生・不偸盗・不邪淫…」

まあ、

一般的にはいらぬ殺生はしないし

盗みもしない、

しかし、

邪淫だけはどうもやめられない

と、こぼしておられました。

 

十善戒一つにしても

よくよく考えれば、

何一つ守れるものはないのです。

邪な恋心は起きるし

嘘はつくし、二枚舌は使いうし、

自分勝手に物事を見て、

それに固執するという具合なのです。

 

では守れないから、唱えないのか

そうではなく、

守れなくても、守りますと誓う

大きな矛盾ですが、

出来ないけど誓う、痛みをもって

そこが大事だと思うのです。

 

よくよく考えれば

忿怒相で導かなければならぬのは

私たちのこと、自分のことでは

 

また、修行していると

例えば、『十地経』では

第八地が不動地といい、

第七地は一つの難関がって

ふと、空虚に陥る危険が潜んでいる

その時に諸仏の激励があると

お経には出てくるんですが、

その陥りやすい、スランプのような

ことが起きてきます。

 

第八地の不動地というのは

諸仏の激励によって乗り越えてきた

そういう境地でしょう。

だから、励ましといっても

賛嘆するというより

叱り飛ばすのでしょう。

おだてて頑張れ

というような生ぬるいことでは

七地沈空という

空ということに沈んでしまう

それほど深い落ち込みです

ちょっとやそっとの

励ましぐらいでは立ち上がれない

そのような時、

その叱り飛ばす姿が不動明王の姿では

ないかと思うのです。

 

だから、顔は怒っていても

体つきはやさしさを帯びた

慈悲の姿なのでしょう。

その慈悲というか背景にある智慧

があればこそ叱り飛ばす

忿怒の相を取っているのです。

 

5月はお不動さまの大祭です

心して護摩に臨みたいと思います。

 

 

 

 

 

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不動明王

2017-05-25 21:06:54 | 十地経

本山の醍醐寺でも不動明王の複製が

模写されたという記事が載ってました。

当院のご本尊も不動明王です。

 

『十地経』では第八地が不動地、

第七地は遠行地(おんぎょうち)

遠くへ行くと書きますが

何も遠くへ行ってしまうのではなく

行が完成するということです。

究竟地(くきょうち)ともいい

ものを極め尽くすという意味です。

 

その第七地を過ぎて、

第八地が不動地、

もはや煩悩に動かされない

というような境地です。

 

不動明王のお姿は

瑟瑟座(しつしつざ)という

岩を象徴的に表した台座に座し

利剣と羂索を持ち火炎を背にした

という姿です。

利剣で煩悩を断ち、

火の中にあっても揺るがぬ

精紳を表しているのでしょう。

 

しかし、ふと思うのは

不動という一括りではなく

不と動に分けて考えられるのでは

ということです。

 

『十地経講義』の中で第七地の主題は

 

「寂滅定に入りて

 しかも寂滅定を証せず」

 

ということだと述べておられます。

簡単には、

寂滅という三昧に入ったけど

そこに安住することなく

そこにおいて無限の働きが出て来る

ということです。

 

仏教の中には、

「動静一如」というか

「止観」(しかん)ということが

中心課題のように出て来ます。

 

止はとどまる、

観はみるという動です。

その止と観が一つである

動と静は一つである

普通考えると矛盾のように

思うのですが、

 

事実は実践するというと

当たり前のことだと思うのです。

スポーツを引き合いに出すと

選手はこの動と静が

一つにならなければ

何もできないと思うのです。

ゴルフにしても野球にしても

フィギュアスケートにしても

動静一如ということが

成り立たないと

素晴らしい演技はできないと

思うのです。

 

「行」といっても

双行(そうぎょう)といって

止と観という二つの行

止観という行です

 

ということから、

私が勝手に思うのですが

「不動」といっても

不と動、止と観と同じではないかと

不動という固定したものではなく

不動明王といっても行者ですから

やはり、そのハタラキを

表しているのでしょう。

不動といって煩悩が来ても動かん

ということだけではなく

不動という揺るぎのない精神と

そこから出て来る無限の働き

その二つを兼ね備えているのが

不動明王ではないかと… ?

 

坐っているだけの

お不動さまだけではなく

当院のお不動さまのように

立って働いている姿のお不動さまも

いらっしゃいます。

 

仏教はお釈迦様が説かれた

行の体系である三十七道品

のようにすべてが「行」ということで

貫かれています。

静かな三昧も「行」であるし

身を粉にして尽くすのも「行」、

行住坐臥すべてが「行」という

ことになるのです。

 

きょうのNHK京都放送で

醍醐寺の若き修行僧が密着取材、

皆引き締まった顔つき、

「初発心時すでに正覚を成ず」

という言葉の通り

まさに仏の心で仏の行を行じて

いくのでしょう。

 

不動ということも

もう少し掘り下げて考えて

いかなければと思います。

 

 

 

 

 

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今朝の山法師

2017-05-25 10:44:43 | 住職の活動日記

しとしとと降る雨、

その雨に誘われて

山法師がお辞儀をしています。

 

 

数輪しかないかと、

思っていたのですが、

雨の重みで垂れてくると

結構沢山咲いている画ようです。

 

 

雨にうたれた姿もいいものです。

 

 

この花は白い総苞は枯れかけて

花の実が成長し始めているようです

 

 

 

奥の方にも咲いていました。

 

山法師は俯瞰するように見ると

花も見ることができるのですが

下から見上げる格好では

花を見ることができません。

 

ちょうど、今日の雨が幸いしたのです

垂れ下がってきた花を

沢山見ることができました。

 

こうやって朝から花に出会う

なんとも気持ちがいいものです。

 

 

 

 

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山法師

2017-05-24 20:34:07 | フラワー

静かに数輪ですが山法師が

咲いています。

 

 

白い花です。

しかし、よく見ると不思議な形

頭のある生き物が舞い降りたような

 

 

いぼいぼの塊は実でしょうか?

 

調べてみると

白く花弁のように見えるのは

総苞片(そうぼうへん)といって

蕾を包んでいた葉に一部

ということです。

 

本当の花は

 

 

このつぶつぶがそうらしく

秋には赤く熟してくる

そして、マンゴーやバナナに似た

甘さがあり、つぶ状の触感もあり、

ジャムや果実酒にもなるとか、

 

似たような花にハナミズキがあります

ハナミズキはアメリカヤマボウシと

いわれています。

 

 

JR小倉駅のハナミズキ

もう白い総苞片は枯れてしまい

 

 

中の花のところが

実のようになってきています。

これから成長して

赤い実になっていくのでしょうか?

ほかの写真で見ると

サッカーボールのように

ピンクや赤いボール状になっています

 

山法師とハナミズキ

葉も微妙に違うし、

木の肌は明らかに違います。

 

庭に植えたのは

こういう白い花が咲くというよりも

名前の「山法師」という

こういう「法師」とあるところから

微かに法師という姿を

とどめたかったのです。

 

咲いた姿を見ていると

白い衣で高げた履いて

山を駆け巡る山伏

山法師のように見えなくはない

ような気もします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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断・捨・離

2017-05-23 21:57:33 | 漢字

整理整頓の極意として

「断・捨・離」ということが

いわれるようです。

私にとっても、そろそろ

身辺整理をしなければいけない

という頃です。

幸い京都へ転居したこともあって

その時に一応の断舎離は

必要に迫られて決行しました。

 

しかし、気を緩めるとまたぞろ

なんだか、

だんだんと増えてくるものです。

 

それとは別に、どうも‥‥

「断・捨・離」

この言葉が気になるのです。

坊主根性でこの言葉を見てしまいます

やはり、仏教の言葉にも

とても重要な言葉として出て来ます。

 

、ということですが

お釈迦様が悟りに至る修行の方法

として、

三十七道品という実践項目を

説かれています。

その中に「四正勤」(ししょうごん)

があります、

これはまた「四正断」ともいわれます。

正しい努力ということです。

私たちの怠慢心を断ち、

修行へ向かわせるということです。

 

その四つは、

「律儀断」(りつぎだん)

これはまだ起こらない

悪を起こさせないようにする。

「断断」(だんだん)

すでに生じた悪を断つように努める

「随護断」(ずいごだん)

これは未だ生じない善を

起こさせるように努めること

「修断」(しゅだん)

今起こっている善をさらに

増大させるよう勤める、

ということです。

 

それから、

菩薩の四つの誓いの中に

「四弘誓願」(しぐせいがん)

というのがあって、

その二番目の誓いに

「煩悩無数誓願断」

(ぼんのうむすうせいがんだん)

誓ってすべての迷いを断とう、

ということがあります。

 

「捨」ということですが

一般的には捨てる、

ということになります。

しかし、仏教では平等ということを

あらわしています。

「四無量心」(しむりょうしん)

ということがあって、

(仏が衆生を導く四つの心

というか方法のことです)

 

それは、

無量の衆生に楽を与え、

苦を離れさせようとする

そういう四つの心です。

その四つが

「慈・悲・喜・捨」

(じ・ひ・き・しゃ)

ということです。

 

それぞれは、

「慈」は楽を与えること

「悲」は苦を除くこと

「喜」は他人が楽を得るのを見て

   喜ぶということです

「捨」は他人に対して愛憎親怨の心が

   無くなって平等の心になった。

   ということです。

 

断・捨・離、ということも

物だけではなく、心ということも

大きく関わってくようです。

 

よく、

「心を大切に!」

ということをいいますが

具体的にはどうすればいいか、

それはモノを大切にすることです。

 

一杯の汚れたバケツの水でも

ただ捨ててしまえば、

「水が死ぬぞ!」

汚れた水でも庭木にやれ

どれだけ喜ぶか

といった、

滴水和尚という方がおられます。

一杯の水にも命を見る

そういうことも大切です。

 

最後に「離」ということですが

やはり、煩悩を離れるということや

筆舌に尽くせない、というような

意味合いも持っています。

 

十善戒の中に

不両舌という

二枚舌を使ってはいけない

ということで、

このことは人と人の間を割く

ということで、「離間語」とも

いいます。

こういう意味でも、離を使うし

 

また、

十地経の第二番目は

「離垢地」(りくじ)といって

垢は煩悩のことです。

誤りを起こしたり、戒を破ったり

煩悩を起こしたりする心から

初めて離れることができた。

という位です。

 

それから、

仏さまのさとりの内容は

離言の法性(りごんのほっしょう)

とか、離言真如といいます。

さとりとは言葉や思惟を絶した

ものであるから、

離言と、言葉を離れている

というのです。

 

仏教では離ということも

いろいろ使い方があるようです。

 

まあ、

「断・捨・離」ということも

何気ない言葉かもしれませんが

仏教から見ればとても重要な

修行の根本命題ということのようです。

 

 

 

 

 

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