本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

合掌という純粋行

2022-10-31 20:25:08 | 十地経

ここのところずっと

「純粋行」ということが

色々な角度から語られて

います。

 

合掌ということも

「人間が合掌するというと

二面の意義がある。

人間が合掌する、

一面には人間は有限なもんだ

という自覚があるし。

それでないと

合掌する必要はないでしょう

しかし、

無限に触れる

ということがある。

で讃嘆だ。

 

合掌は人間は有限であると

礼拝讃嘆という。

讃嘆ということは、

人間は有限であるけど

有限の身において

有限を知ったということは

無限に触れた証拠なんだ。

 

有限にして無限である

ということが、

非常に貴重だということだ

謙遜、謙譲である

ということと、

そして自重せんならん

ということと、

二つが合掌ということの

中に、合掌という、

一つの純粋行の象徴なんです

 

合掌という身体運動は

別に修行じゃないけども、

純粋行を象徴するんです、

身体運動を通してね。

 

だから、

人間のあらゆる形がある

けれども、

合掌という形が、

まあ、

人間のとりうる形の中で

最も美しい形でしょう。」

 

それから座禅ということも

「道元禅師はやっぱり偉い。

作仏とはかることなかれ

というて、

座禅してそれによって

仏となると考えちゃいかんぞ

仏になるために座禅しとる

と考えちゃいけない、

 

仏になるためじゃない

仏の行なんだと。

一時間座れば一時間の仏だと

一日すれば一日の仏だと、

そういうふうにですね

仏行が仏行に連続していく

仏への行じゃないんだと

仏自身を現行しとる行なんだ

それが、

あらゆる時間を一貫しとる

さすが道元禅師です。

 

そういうときに、

純粋行というものがある。

純粋行という、

仏行ということによって

人生が立体的になったんだ。

人生というものがそこで、

初めてですね、

尊厳の意義をここで、

尊厳なる人生になったんだ。

目的のために生きとるん

じゃない。

 

何のためということは

ありゃせん

これが純粋行というものは

そういうものです。

 

キリスト教の福音書で、

キリストの言葉ですけれども

一日の苦労は

一日にして足りると、

一日の苦労は

一日にして足りるという。

明日の準備ということは

ありゃせんのや。

その日、その日なんだ。

 

こんなものは

キリスト教とか仏教を

超えたもんです。

純粋行というのはね。」

 

純粋行という一言を

あらゆる方面から考え

解釈していかれる

ただ一面的な答えでなく

それこそ

立体的に見ていかれる

ずっと読んでいて

そういうところが

この講義の面白いところ

のようです。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の三面鏡

2022-10-24 20:20:55 | 住職の活動日記

洗面上の正面が鏡に

なっていて

その両脇の鏡が開くように

なっている

何気なくその鏡の扉を

開いたら、

見たことのないおじさんが

いるではありませんか

 

今まで三面鏡なるもの

見たこともなく

まあ、鏡自体あまり見ない

のですが、

こうやって見てみると

自分自身の思いもせぬ姿が

あるのです

 

自分では正面の顔が

自分の顔と

思っているのですが

案外、他人は自分の横顔

とか自分の知らない顔を

見ているのでしょう

 

心の定まらない

ボーッとした自分の顔を

人は見ているのでしょう

自分のことは四辻に立って

聞けと言われていますが

自分が思っている自分と

人が見ている自分とは

まったく違っているようです

 

ちょっと驚きでした

というのも

最近髪の毛がよく抜ける

正面の顔はそれなりに

髪の毛を整えているのですが

横をみて見ようと思って

横の鏡を開いたのがもとで

 

意外や意外、

後の毛は薄くなり始めている

そういう

自分の姿も知ったのです

ですから

自分が見ている自分と

他人が見ている自分とは

まったく

違っているのでしょう

 

「鏡」

三種の神器にもあります

八咫鏡という

ある古代史の先生に

お聞きしたら

鏡を見て自分の先祖を

思い浮かべるというのです

 

それから、

歴史書にも「大鏡」「今鏡」

と鏡がついています

『大鏡』はあの有名な

藤原道長を中心とする

約1000年代のころの

歴史書です

ちょうど日本の歴史が

大きく変わる頃です

遣唐使も廃止され

かな文字が生まれた頃です

 

歴史のありようを映し出す

という意味で「鏡」という

字がついたのでしょう

この物語も宗教色が強く

『大鏡』も

大日如来の智慧である

大円鏡智(ダイエンキョウチ)から

付けられたという

ことです

 

五智如来と言うのがあって

阿閦アシュク、宝生、阿弥陀、

不空成就と東南西北という

方角になります

その中心が大日如来です

 

転識後得智

識を転じて智慧と為す

ということがあって

迷いの識を転じて

さとりの智慧となす

ということです

 

大円鏡智の鏡とは

すべての物事の相を

そのままに映し出す

ということです

 

ですから、

私たちの心の相を映し出す

鏡は

唯識などの心の相を

研究している学問

そういう

教えに照らし出される

そういう自分を見つめる

ということが大切

なのでしょう

 

経典を読むということは

そういう本当の自分を

あぶりだして見つめる

ことになるように

思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霊峰富士を仰ぎ見て

2022-10-23 20:27:42 | 住職の活動日記

秋晴れということもあって

行きも帰りも富士山を

見ることができました

何時もは曇りだったりで

なかなかお見えになることが

なかったのです

まだ雪はなかったものの

美しい姿です

 

 

ちょうど帰りの姿です

夕日も落ち始め

やや薄暗くなりかけています

もう少し遅いと

赤富士になるのでしょうか

 

しかし、最近では

富士山噴火ということが

何かにつけて

取りざたされています

仰ぎ見ながら

どうか静かに治まって

くれますように

祈っていました

 

よく祖父からは

「物見遊山で阿蘇山に

登ってはいけない。

お山はご神体なのだから」

ということを聞かされました 

こうやって富士のお山を

見ると

祖父の言葉を思い出します

やはり神々しい美しい姿です。

 

 

別に、

東京に行っても

どこに行くという訳でもなく

ただ、

 

 

可愛い猫たちと遊んで

 

 

孫たちとの久しぶりの

楽しい集まり

まあ、

とても充実した日々でした

 

今回もう一つ

ワクワクしたことは

新幹線にチケットレスで

乗れたことです

前もって携帯から登録

どうも心配になり

駅に行って

携帯の画面を見せて

これで大丈夫でしょうか、と

「たぶん大丈夫でしょう!」

との説明もあったのですが

どうも心配!

 

改札でスイカをタッチすると

新幹線の列車番号と

座席番号が書いてある小さな

紙が出てきました。

 

ヘエーっと

驚きながらも

何とも便利になったものと

感心することしきりです

年とってくると

こういうことが

不思議なような

驚きいやら感心やら

出来たことが嬉しいような

チケットもいらず

ICカード一枚で

出来ることはなんとも

便利な世の中になったもの

ですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西陣織あさぎ美術館

2022-10-20 18:50:52 | 住職の活動日記

いつも通っている道に面して

立っているビル

何かしら気になって

 

 

ビルの中に入ってみると

そこは西陣織の美術館

なのです

 

 

正面には尾形光琳の

「紅白梅図」のタペストリー

です

金糸をふんだんに使った

見事なものです

 

 

阿修羅像の掛け軸

織の技術でしょう

左右からの見方によっては

立体的に見えるような

色の変化が楽しめます

 

 

涅槃図も織物に

お聞きすると東寺の涅槃図

ということです

 

 

この図も猫ちゃんがいます

 

 

東寺の曼荼羅もあります

 

 

胎蔵界曼荼羅の中大八葉院

のところです

まあ織物でこのように

表現出来るのは驚きです

何かのことで

東寺にご縁があったのでしょう

 

 

風信帖も織られています

こういう書跡までも

そっくりに織れるとは

ビックリもします

 

 

先日書た「自画自賛」の

ブログの中にある

弘法大師の談義の本尊です

ほぼ原寸大で織られています

この字が後宇多天皇の書です

それで書跡として

指定になっているものです

 

 

他にも六字の名号

これも織り

さらに詳しく見ると

 

 

阿弥陀経の文字が

織り込まれています

 

 

風神雷神も織物に

西陣織の技術からすれば

どのようなものでも

織物になるのでしょう

 

 

ゴッホのひまわり

実物はもっと色彩鮮やかで

迫ってくるものがあります

織りになると

原色の画よりも更に沢山の

糸を使うそうです

 

 

同じくゴッホの「星月夜」

立体的に見えるのですが

触ると平面で

織の夜技術と色使いで

そのように見えます

(触ってはいませんよ)

モニターの解説です

 

 

ですから

この宮本武蔵の画も

見事に再現できるのです

 

 

狩野探幽の「雲龍」

絵画よりも迫力があります

それから私体に一番身近な

 

 

お袈裟です

しかしこれは織りの図柄も

細かく緻密に織られて

いるようです

裏を見ると

 

 

このように沢山の糸が

使われています

 

 

 

この中に入り音楽にのせて

映像が映し出され

 

 

織られていく様子が映写され

 

 

その出来上がるまでの

ご苦労というか

その技術の高さに

改めて驚かされます

 

 

光による演出もあり

楽しいものでした

誰もいない空間で

思う存分西陣織の凄さや

美しさに浸りました

 

 

帰りには緑の広がる場所で

ティータイム

歩いても5分ほどの所

まだまだ近くにも

いろいろあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「覚悟決めたら明るくなった」

2022-10-19 20:12:49 | 住職の活動日記

「覚悟」という言葉も

仏教用語ですが

普通一般にも使います

「覚悟はよいか!」

「覚悟のほどを!」

というような

 

文字をみて見ると

「覚」も「悟」もさとる

というような意味になります

辞書によると

「覚」は、目の前がぱっと

明るくなること。

「悟」は、迷いがさめる。

という意味です。

 

続けて「覚悟」というと

仏教辞典では

「真理を会得して菩提

即ちさとりを得ること。

とあり、

広辞苑では、

「迷いを去り、

 道理をさとること」

そこから、

心がまえとか、観念すること

というように出ています

 

ところで気になったのは

テレビ番組『激レアさん』で

マナリスさんという方

ポイントを集めゲーム機を

手に入れようと

アプリのキャンペーンで

ポイントを貯めるという

そして公約として

「獲得したポイントはすべて

『すき屋』で使うと宣言

そこが妙にバズってしまい

一気に万円分のポイントが

貯まってしまった

 

「ほんとに使えよ」

「見ているからな」

という反響があり

毎日食べ続けるという

ことになって

現在、1000日を超え

更にポイントがたまり

あと2年は食べ続ける

ポイントがある

ということのようです

 

毎日となると

いくら美味しいものでも

やはり苦痛になってきます

ところが

 

ある瞬間

食べ続けようと

覚悟を決めたら明るくなった

ということです

 

ここに前にも言った

分段生死と変易生死

ブンダンショウジ、ヘンニャクショウジ

今までの

人生の意味が変わってきた

いやいややってきた人生が

覚悟を決めた途端

明るい心になった

同じことでも

その意味が変わってくる

 

何かそういうことを

感じたのです

 

いやだいやだと

逃げていたことが

よし!と、覚悟を決めた

すると今まで

地獄と思っていたことが

極楽に変わってくる

 

病気を縁として

人生の意義が見えてきた

何気なく過ごしていたら

何も分からなかったことが

病気を宣告された時

なぜ自分だけと

思って苦しんだことが

その病気を引き受けたとき

人生の意義

生まれてきたこの大切さが

見えてくる

ということがあります

 

「覚悟」ということも

そういう大きな転換になる

ということのようです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自画自賛

2022-10-18 20:34:42 | 住職の活動日記

自分の画に自分で賛を書く

ことなんです

一面には

そういうと

東寺に談義の本尊という

掛け軸があります

弘法大師の画に

後宇多天皇が賛を書いた

というものです

絵画なんですが

書跡で指定を受けている

ものです

 

弘法大師を信仰された

後宇多天皇が

弘法大師の御遺号(遺言)

の中から東寺に関する

諌めを書かれたものです

談義をする際に

この絵画を懸けて

真言宗のことを論議された

ということです

 

という自画自賛も

普通には

自分で自分のことを

誉めることをいいます

今の世の中

世界のリーダーたちは

自画自賛する人が

多いようにみうけます

 

しかし

あまりに自画自賛が多いと

その影響を受ける人は

大変迷惑をこうむることも

あるようです

一人のリーダーが

道を誤ると

多くの人が傷つき命を落とし

大きな戦争になっています

 

昔から

自分のことは四辻に立って

聞け、という言葉があります

どのような指導者といえども

そのことは同じではないかと

思います

数の論理で

何でも思い通りにする

自分の思いを通す

ということはときには

大きな道を誤ってしまいます

 

自縄自縛ジジョウジバク

という言葉もあります

昔の中国には

「諫鼓」カンコという

人民が諫言するときに

鳴らしたという太鼓が

あります

それで

「諫鼓苔むす」

という言葉もあり

良きまつりごとが行われ

この太鼓が苔むした

ということです

 

日本でも徳川吉宗は

「目安箱」を置いて

庶民の声を聞いた

ということがあります

やはり

「聞く耳を持つ」

ということが何より

大事なことのようです

 

あちこちのリーダーたちが

自画自賛ばかりしていると

それこそ世界は

大変なことになってしまう

ようです

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

純粋行・内観の行・双行

2022-10-16 20:44:30 | 十地経

純粋の行から内観の行と

そして双行(そうぎょう)と

話が進んできます。

『十地経』では双行と

出てくるようです。

双行とは普通には

「止観」という言葉で

出てきます。

 

この「行」(ぎょう)

ということも

仏教独自のようで

西洋ではどのように

いうんでしょうか。

ある時

比叡山の千日回峰行を

外国のテレビで

1000day ハードトレーと

訳していましたていました。

 

「行」ということは

仏教でも色々な意味を含んで

いるようです

「諸行無常」の行もあるし

「行住坐臥」の行もある

また、実践の意味で

悟りにいたるための修行

ということがあります

 

一般には修行というと

そういう悟りにいたるための

「行」を指すようですが

それが

だんだん特殊なものになり

一般の人には関係ない

滝に打たれるとか

断食をするとか

そういうような行に

なってきているようです

 

内観の行も

その反対は外観の行ですが

一つには

外を変えていくのではなく

自分自身を変えていく、

ということで、

 

講義では

「自己を明らかにすると

どんな世界がきてもそれに

対応できるような自己に

なると。

世界に何も注文せんような

自己になると。

それが内観の道ですよ。」

というように出ています。

 

また、「双行」ということは

双、二つということで

止と観の二つの行です

普通には「止観」という言葉

で出てきます

止と観、この行が

仏教の一番大切な「行」と

いうことです

 

「止」は自分の思いを止めて

心を集中させる

「観」はそれによって

正しい智慧が生まれてくる

というようにあります

それで寂照とか明静とも

いわれます

 

止は心を止め集中する

ということで「定」(じょう)

ということで、

観はそれによって

生み出されるくる智慧

ということになります

 

仏教の根本に

「三学」といって

戒学・定学・慧学という

普通には「戒定慧の三学」と

いっています

この三学ということは

何も仏教だけでなく

すべてのことに当てはまると

思うのです

 

何か為そうとするには

必ず規則正しい生活が

まず大切ですし、「戒」

それによって

心が静かになり

落ち着いて考えることが

出来るようになり、「定」

そこで

初めて物事に対する

正しい判断力が生まれてきて

智慧も生まれ

正しい実践ができる「慧」

 

ということになり

スポーツにしろ仕事にしろ

この三学が揃わなければ

何ごとも成就しないように

思うのです

 

本当の意味の仏教でいう

三学とはこんな浅いものでは

ないと思うのです

「行」ということも

何も特別なものでなく

誰でもが実践できる

ことのように思うのです。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

純粋行(その日はその日のためにある)

2022-10-13 20:59:18 | 十地経

「純粋行」

何かしら惹かれる言葉ですが

自分に置き換えると

不純粋な行しかないように

思うのです。

でも、

こういうことが

人間の根底にあるのでしょう

 

「純粋行というものが

なければ、生活、

生きとるということが

ないのですから。

純粋行と、

この純粋行というものに

応える、

いかにして純粋行が

可能であるかというような

ところから、

般若とか仏教とか、

宗教というものが

出てくるんです。

 

純粋行というものは、

それ、人生、

つまり人類的課題なんです。

その人類的課題なしに、

仏教とか宗教を持ちだすと

それは天下りということに

なる。

重苦しいものになってしまう

 

人生全体が

一つの問いなんです。

人生というものは

問いを持つというという

ところに人生の意義がある。

 

そういう純粋行というものは

まあ言葉はみなさん

知っとられるけれども、

えー、

それがなかなかできんのです

 

純粋行というものを

明かにするというようなこと

が、これが、

そのためにこの『十地経』

ということが

意味があるんです。

純粋行というものに

応えようとするんです。

 

なすものなくしてなす

というんです。

 

で、純粋行ということが

人生問題ということはね、

あの、

もっと別なことをいえば、

純粋行というのは

何かのために対する手段では

ないという意味なんです。

 

何かの目的のために、

手段としてやるという場合は

それは不純粋行です。

純粋行というものが

必要ないということなら、

純粋行がなければ、

人生が手段になってしまう

でしょう。

 

何のために我々が生きとるか

という問題です。

純粋行がなければ、

人生が手段になってしまう。

純粋行ということを

明かにすることによて人生が

目的自身となるわけです。

 

何のために

生きとるんじゃない、

その日はその日のために

あるんです。

明日のためにある

わけじゃないんだ。

 

我々というのはみんな、

年寄りは過去の習慣で

生きとるし、

青年は未来の夢で生きとって

現在に生きとるものは

おらんでしょ。」

 

 

散歩で見かけた一コマ

野良ちゃんでしょう

エサを頂いています

その横では

サギがおこぼれ頂戴と

いわんばかりに

横目で見つめています

 

このこたちも

今日一日を

一生懸命生きている

生きることが目的のようです

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空がはたらくのが空

2022-10-12 20:27:56 | 十地経

持てるものはますます与えら

持たぬものは持てるものまで

失うと、

講義の中でこの言葉は

ずっと残っていた言葉です

聞いた時、何かしら

強烈な印象でした

そのときには

ないものですから

それでは不公平じゃないかと

思っていたのです。

 

「まあ、僕はその空智って

いうのを、そうですね、

主体というもののない

はたらきということですね。

誰かがあって

はたらくんじゃない。

はたらくものなくして

はたらくと、

こういうときに、

空にしてはたらくという

ことが出てくるんです。

はたらくものなくして

はたらく。

 

ま、こういいうようなことが

ここでなっとるですが、

その、

空が悪いんじゃない、

空をはたらかないように

さしとる障りがあるわけです

空が過失じゃないんだ、

空に停滞することが

過失なんです。

 

はたらこうとせんことが

過失なんです。

空にしてはたらく

という場合に、

はたらけんようにさしとる

ものね、

それは、あの、

はたらく必要がないという

一つの考えですね。

 

空に、空に滞るというか、

空を愛着するということが

はたらけんように

させるわけです。

そうするというと、

空まで失ってしまうわけです。

空というものに愛着すると

有になってしまう。

 

これは福音書にある言葉で、

持てるものは

ますますあたえられると

持てるものはますます

与えられると。

持たぬものは

持てるものをも

失うということがある。

 

持てるものはますます

与えられるし、

持たぬものは持っとるもの

まで失ってしまうという

ような言葉がありますが、

 

空がはたらかんようになる

というと空にとどまれば、

空まで失ってしまう。

空がはたらくのが空なんだ、

はたらかんのが空じゃない。

無限にはたらく

ということが空、

空自体なんです。」

 

空に停滞する

七地沈空ということがあって

第七地まで来ると

こうこれでよいといって

空に止まってしまう

そういう難があります

 

修行でももうここまでやれば

これでいいといって

一服してしまう

その心が難で

修行が止まってしまうと

いままでやってきた修行まで

失ってしまうのです

ちょうど

坂道にいるようなもので

止まると落ちてしまう

足踏みしているだけで

やっと現状維持

一旦止まれば落ちてしまう

そこに難、障りがあるのです

 

だから修行でも

やり続けなければ

今までやってきたことが

そのまま保たれるかというと

それまで失ってしまう。

 

持てるものは

ということはやり続ける

ということです

止めてしまえば

今まで持っているものまで

失ってしまうということです

 

そこに修行の大切さが

あると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹵獲

2022-10-11 20:43:03 | 漢字

ニュースで知ったのですが

めずらしい字です

「鹵獲」ロカクと読みます

敵の軍用品などを奪い取る

という意味です

 

今のウクライナとロシアの

問題で出てきた言葉で

知ったのです

 

しかし、辞書を見ると

案外身近な言葉のようです

歯という字にも似ていますが

辞書には「鹵」部という部で

四つの文字があります

 

もとは塩分と関係のある文字

で、しおち、しお、やせた地

というような意味があります

その中に、掠めるカスメル

という意味もあります

そこから「鹵獲」という

言葉も生まれたのでしょう

 

一番身近な言葉は

「塩」という言葉です

古い文字では「鹽」と書き

略して塩と使います

古い字もよく見ると

やはり、「鹵」が入っています

 

それから「石鹸」という字です

今は「石けん」と漢字は

使わなくてひらがな表示です

この石鹸も古くは「鹼」

の字を使っていたようです

この字は「あく」という

水に灰を浸してとった

うわずみの「あく」です

 

ですから、

「鹵」は見かけないのですが

案外身近に使っている

字でもあります。

それが

獲という字がつくと

途端に敵の武器弾薬を

奪い取るという

意味になるのは

何とも不思議です。

 

新聞では、

奪い取った

ということではなく

ロシア兵が武器弾薬を置いて

逃げ出したということで

ウクライナにとっては

苦労することなく

武器弾薬が手に入った

ということです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする