本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

虚空と空虚

2021-12-31 18:21:18 | 十地経

虚空ということは

仏教では重要な言葉です

その言葉を反対にすると

空虚となり、

全く違った意味になります。

 

虚空蔵菩薩という

仏さまがあります

京都では十三参りといって

数え年十三歳になると

智慧を授かるということで

虚空蔵菩薩にお参りします

虚空の蔵

相対するのは地の蔵

地蔵菩薩です

ものを育み育てる大地

その蔵ということで地蔵と

虚空、何もないような

大空、その蔵という

虚空蔵菩薩。

 

十地経では

少し違った内容で出てきます

 

「善く、一切国土の道は

虚空の如くである

ということを知って、

而も浄仏国土の行を荘厳する

荘厳浄仏国土の行を起こす」

 

というような言葉として

出てきます。

講義では

 

「虚空というようなことも

これは無いということを

表してある。

特定なものではないという

ことを表してある、

虚空というのは。

虚空というのは無礙という

意味です。

何にも、

有礙なるものに

障サえられんという。

何ものにも障えられん、

虚空の如しとこういう。

 

つまり

障えられんということは

障えるものを容れん

という意味じゃない。

障えるものを容れとるから

障えられんのです。

はねとばすことじゃない。

好きも嫌いも包むからして

好き嫌いに無礙なんだ。

 

ある、好きとか嫌いとか

特定なものではない、

というでしょ。

特定な、

ある特別にあるものではない

というようなものを表すのが

虚空という。」

 

というように続いていきます

が、ここは何回読んでも

しっくりこない

分からないところです。

 

虚空ということは

辞書には

「一切諸法の存在する場

としての空間。

さわりなく(無礙)

さえられない(無障)のが

特徴。

空界(すきま)と区別して

我々の目に見える空(そら)は

空界であって虚空ではない。

 

というように出ています。

何かしら好き嫌いを超えて

全てを包み込んでいるような

そういうようなものを

虚空というのでしょう。

 

これが反対になって

空虚となると

現代の大きな問題です

ある充たされた方が

今の現在において

欲しいものがなくなったと

欲しいものはすべて

手に入る

ところがな何かしら

満たされない、という

ことを話しておられました

 

ある面では「天人五衰」

のような

望む物はすべて手に入れた

しかし

今の境遇に満足できない

それで、天人が滅んでいく

そして、

俗世間に出て

再び苦労してこい

ということがあります。

 

お金や物や地位があっても

何かしら満たされない

得るものはすべて得ても

空虚であると

こういうことが

現代の問題です。

 

虚空と空虚

どちらも大きな問題を

孕んでいます。

解決することのない問題

忘れるのではなく

やはり考え続けていくことが

私たちに課せられた

問題なのでしょう。

 

 

 

 

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法(任持自性・軌生物解)

2021-12-29 21:02:58 | 十地経

「法」という言葉も

どうしても身に着かない

法といえば法律の法を

考えてしまい

仏教でいう法ということが

すんなり入ってこないのです

安田先生の講義にも

仏教の経典では特に

当たり前のように出てきます

 

篤く三宝を敬え

三宝とは仏法僧なり

という言葉もあるように

仏教の中で中心的問題です

法はダルマを翻訳したもので

道理とか教理、真理、善行と

訳されます。

 

ところがです

法ということも

色々な意味を持った言葉で

そこが、どの法なのか

すぐに入ってこないのです

昔から、

法についても定義は

「任持自性ニンジジショウ

 軌生物解キショウモツゲ」

の二義があります。

辞書を見ると

自体の自性(独自の本性)

を保持して改変せず、

能く軌範となって人をして

一定の事物の理解を

生ぜしめる根拠となるもの

という定義があります。

 

それとは別に

諸法無我という時の法は

存在するすべての「もの」

という意味もあります

ですから、

なになにというもの、

という意味で法が使われる

からややっこしいのです

たとえば、

「色法と心法」という時は

物的なものと心的なもの

という意味になります。

 

法には

法律ともいうように

戒律的な面もあるように

思うのです

特に、キリスト教やイスラム

では内容はほぼ戒律だとも

いいます。

軌範という性格が強いように

思います。

たとえば食事にしても

あれは食べない、など

厳しい決まりがあるようです

 

「法」という言葉が

出てきた時に

前後の関係から

どいう法の解釈に

当たるのかを推察しなければ

経典や講義は聞けないように

思うのです

 

真理としての「法」

存在する「もの」としての法

正しいこと、

規則にかなっていることの法

など、

いろいろ出てくるところが

どうにも難しように

感じてしまい

頭にす-っと入ってこない

のが、困ったことなのです

頭の悪さを痛感します。

 

けど、繰り返し

意義を読み直し、

前後の関係を明らかにして

読み進めなければ…

分からんでも

こういう文章に身を浸して

いることが大事なのでは

と思っているのです。

 

 

 

 

 

 

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楽(ラク・たのしい・ねがう)

2021-12-28 20:29:06 | 漢字

ある新聞社の調査でによると

来年への願いを込めての

漢字一文字は「楽」

ということのようです。

 

来年こそは楽しみたい。

旅行が楽しめるように。

人生一度きり、楽しむ

ことが大事。

 

というような

希望が書いてあります。

まあ、読み方としては

圧倒的に「たのしむ」

ということが多いようです。

 

しかし、この字も

深い意味を持っているようで

仏教でも

楽という言葉は使います。

 

「人生楽ありゃ苦もあるさ」

という歌もありました

楽の反対は苦ですが

苦楽相半ばともいいます

楽は苦の種、苦は楽の種

という熟語もあります。

 

楽という字

真ん中の「白」は

親指の爪を表し

爪で楽器を弾けば

たのしくなるところから

「たのしむ」という

意味が出てきたようです。

 

慈悲という言葉があって

抜苦与楽という

衆生の苦しむを抜く(抜苦)

衆生を愛し楽を与えるのを

(与楽)といいます。

そういう、

苦に対する言葉が楽です。

 

今はできるだけ

「苦」の方は

見ないようにして、

「楽」という、たのしい

楽なことだけを

求める傾向にあるようです。

 

お釈迦さまもひどいことを

仰る

「人生は苦なり」と

楽はないんだと

しかし、

苦もあれば楽もある

ではないかと

思ってしまうのですが、

 

苦というものを見るのに

「三苦」

という見方があります。

それは、苦苦・壊苦・行苦

の三つです。

普通感じる苦は

苦苦と壊苦だけです

この場合は苦もあり楽もある

ということが出来ると

思います

ところが一番問題になるのは

「行苦」ということです。

 

お釈迦さまも

一国の王子であり生活面は

何一つ不自由はなかった

ところが

どうにもならない苦が

襲ってきます

それが「行苦」です

ここでいう「行」は

諸行無常の行で

すべての存在をあらわし

自分も含め、あらゆるものは

何一つ変わらないものは無く

すべてのものは

変わっていくという

そういうものに対して

感じる苦しみなのです。

 

この苦しみを観じたゆえに

「人生は苦なり」

という言葉が生まれたのです

うすうす感じる

のですが

まだまだ、

と思ってついつい

後回しにして

何やかやでごまかしながら

生きているのが

私たちのあり方です。

 

では、

仏教では楽ということは

どういうことなのか

楽が極まったところを

極楽といいますが、

どうも

私たちが考える楽とは

ちょっと違うようです。

 

いろいろあって

天楽テンラクといって

善を修めて天界に生まれる

という楽、

禅楽ゼンラクという、

禅定の境地に入って受ける楽

涅槃楽ネハンラク

涅槃というさとりの境地を

えたという楽

こういう「三楽」という

代表的な楽があります。

私たちが考える楽とは

ずいぶんと違っています。

 

読書が好きで

朝から焼酎片手に本を読む

これを何よりの楽しみに

していた叔父がいました。

それで、

戒名に「楽」の字を

使おうと「三楽」を入れたの

ですが、

「三楽」という名の

焼酎があって、

これは明らかに焼酎の

イメージが強すぎる

ということで、ボツになり。

 

変わって

「信楽」シンギョウという

言葉にしました

この時の「楽」は、ねがう

という意味があり

この時に限ってシンギョウと

読むのです

ということで

叔父の戒名には「信楽」

というじで落ち着きました。

 

楽という字も

なかなか深い意味を

持っているようです。

 

 

 

 

 

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無病憍

2021-12-27 20:22:34 | 住職の活動日記

明日のお不動さま

今年最後の「終いの不動」

ということもあって

行く予定でチケットも

取っていたのですが

またもや、コロナが…

オミクロン株も出て

という状況、

やむなくこちらから遥拝と

あいなりました。

 

今年一年の無事息災の

お礼を込めて

お不動さまへの御礼をと

言ったところ

孫より「任せて!」

なんとも頼りがいのある

言葉を頂き

少し安堵いたしました。

 

「無病息災」

ということ大事なことです

ところがです

仏教よくもまあ

ここまで人間を見抜くかと

いうほどきめ細かく

見抜いているようです。

 

無病憍(むびょうきょう)

ということがあって

無病であることつまり

健康であることを

おごりたかぶるのです

「憍」はおごるこころ

ほこりたかぶるという煩悩

なのです。

健康なことは

大事なことですが

それを自慢する

昔の歌に

 

 達者自慢に他人はいやがる

 

という、老人六歌仙が

あったように思います。

この歳になてくると

話していると

達者自慢か病気自慢が

話題になってきます。

 

講義の中で先生も

「あまりにも病気ばかりでも

話は聞けないし

また、

あまりにも健康過ぎても

仏教の話は聞けないものだ」

ということを

話しておられました。

 

健康すぎても

人の痛みが分からないし

病気がちですと

心まで病んでしまう

ということがあります。

やはり中道というか

自分の弱みを知り

人の痛みも分かるという

そういう微妙な心が無いと

仏法の話は通じない

ということでしょう。

 

それでみてみると、

「憍」にも七つあって

①無病憍

 病気がないことへのおごり

②少年憍

 若さへのおごり

③長寿憍

 長生きへのおごり

④族性憍

 家柄へのおごり

⑤色力憍

 容貌が良いことへのおごり

⑥富貴憍

 豊かであることへのおごり

⑦多聞憍

 教えを多く聞いていること

 へのおごり

 

ということがあります

どれを取ってみても何かしら

思い当たる節があります。

 

私たちは厄介なもので

おごりたかぶるか

さもないと

卑下してしまって

どうにも中庸ということが

ないようです。

 

おごりたかぶらず

それこそ

自重して日々の暮らしに

勤しんでいきたいものです。

 

 

 

 

 

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純粋の行(ギョウ)

2021-12-25 20:50:32 | 十地経

「行」ということも

三つの意味があるようです

一つには、

「諸行無常」の行という、

すべての存在という「行」

それから、

さとりにいたるための修行

という「行」

普通には「行」といえば

この行のことを思います

もう一つは

「威儀即仏法」という

四威儀(行・住・坐・臥)

の中の行です

行くも帰るも坐るも臥すも

という歌があるように

普通に進み行くという意味の

行です。

 

やはり行といえば

私たちが思い浮かぶのは

六波羅蜜の行です

形あるというか目に見える

滝に打たれるとか

断食するとか

苦行の面のことが行として

思うのですが

根本は六波羅蜜の行です

布施・持戒・忍辱・精進・

禅定・智慧の六つです

その中心は

般若波羅蜜というように

智慧(般若)がその基です。

 

『十地経』では

「功徳の法を起こして

増上波羅蜜の行と作す。

而も法として取るべき無し」

という文章で出てきます。

なかなか読みにくい文ですが

これはどうも

インドの方が中国語に

翻訳したところに

何かぎくしゃくした文の

ように思います。

 

講義では

「功徳の法を起こし

増上波羅蜜の行を作す

けれども、波羅蜜に執着せん

という、空だと。

波羅蜜を修行するけれども

修行したという意識はない

んだと、こういうんです。

行を行ずるけど、

行じたという意識はないんだ

それが実は行そのものである

心なんだ。

行じたというようなことを

意識しとったら、

行じゃないんです。 …

みんなそうですわ。」

 

というように出てきます。

ちょっと厳しい行なんかやると

「やった!」という自慢げな

心が顔に出てくるものです。

そういう意識だと

まだ本当の行に

なってないのでしょう。

 

男というのも

何かしら、

どうも自慢したくなるもので

ちょっと手伝いでもすると

すぐに恩着せがましくなり

してやった、という意識が

出てくるものです。

そこを家内に見透かされ

足をさらわれます。

 

「行じた」という意識が

女性には鼻に付くのでしょう

女性には日々やっている

当たり前のこと

ちょっと手伝ったくらいで

してやったと

恩を着せるな

ということでしょう。

 

とても

身近な話になりましたが

そういう行じたという

意識が残るようでは

まだ、行になってないのです

「鳥が飛んだ

飛んだという事実はあるが

跡形はないではないか」

ということを

よく、安田先生は話して

おられましたが。

飛んだという事実はあるけど

跡形は何も無い

そういうことが事実でしょう

なかには

姿形を銅像にしたりして

残す方もおられますが

 

さらりと生きて

気がついたら

あの人亡くなってたわ

といわれるように

そういうところに

「純粋の行」というものが

あるように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

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一子地(いっしじ)

2021-12-24 20:17:09 | 十地経

「一子地」

こういう言葉もあるのですね

辞書には

「すべての衆生を子のように

憐れむ菩薩の地位」

とあります。

 

講義の中では、

「『涅槃経』に

出とるんですけど、仏子地

仏子地というのは、

仏子というのは、この場合

釈迦牟尼仏の一人息子、

羅喉羅(ラゴラ)という。

仏陀の一人息子や。

一切衆生を一子の如く

愛するというものです、

一子地。

その一子地というのが、

慈悲喜捨、大悲 …

四無量心のことを一子地

というんです。

その地に立つというんだね。

つまり、言い換えると

親のところにおって

子どもを憐れんどる

というのじゃない。

憐れまれとる子ども自身の

立場になるという。

 

一切の人類を自分の外にみて

それに大悲心を起こしとる

というようなもんなら、

慈善みたいなもんです。」

 

これは、

なかなか為れないのですが

とくに男には

子どもを、

子ども自身の立場に

立つということは

親がいて子どもがいると

二つになってしまうのです

どうしても外に見てしまい

高いところから低いところ

親から子を見る

というように上から目線で

見てしまいがちです。

 

その話の展開が

さらに進むのですが、

このことは親子に限らず

私たちと仏という関係

仏を信じるということは

どういうことなのか

神のように絶対者として

信じるのかという

問題が出てきます。

 

「信心というと、

信心はこれは衆生の心です。

衆生が如来を信ずる心が、

信心だけれども。

実はそれが親の心だと。

自分を子として自覚するのが

実は親だと、それが。

親というものは

どこにおるかというと、

我々が子が子供が

子どもに目覚めたところに

親があるんだと。

子と親と

二つあるんじゃない。

 

子そのものとなる

というのが親の心だと。

こういう具合に、それは、

平等やわね。

そういうことを

信心という意味で、

信心というものは

我々に起こるけど、

如来の心。

如来を信じるという心は

如来から賜った心や。

 

信心ということは

如来我にありという

ことなんだ、

信心ということは。

如来を向こうにおいて

信じるというのは

それは疑う心なんです、

かえってね。

如来ここにありというのが

信心という意味だ。」

 

大変な問題が出てきます

普通は

仏様がいて

(それを向こうにおいて)

信じるという

仏と私という二つなんですが

そして、

厳密に考えないと

いけないのが

私が信心を起こした

だから信心は私のものと

考えてしまいます

そうではなく

信心は私に起きたけど

それは如来から賜った心

そういう区別を

はっきりしておかないと

信心という心が

間違ってしまいます。

 

如来我にあり

といっても

私が如来だと言ってしまうと

これまた間違ってしまいます

信心、信仰といっても

よくよく考えないと

大きな誤解を起こし

「自分が仏だと」

いう人も出てきます。

 

そこに、

「満と分」という

私たちは如来の一部分を

証した、ということで

全部(満)を証したのが仏で

凡夫だけれども

仏の一部分を証したという

菩薩ということが

凡夫であって凡夫でない

そういう存在が出てくると

思います。

 

なかなか難しい問題です

こういうところを

明かにしていくのが

『十地経』ということが

目指しているところだと

思うのです。

 

 

 

 

 

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引きこもるという三昧

2021-12-23 20:41:18 | 住職の活動日記

「引きこもり」

ということが大きな社会

になっています

若い人よりも最近では

中高年の引きこもりが

ふえているということです。

 

引きこもるということも

仏教的には大切なことで

何かに集中するという

人生問題を真剣に考える

となると

引きこもらないわけには

いかないようです。

 

山にこもるとかいうように

籠山何年とか

社会を遮断して

一つの問題を考え抜く

ということです。

 

お釈迦さまも

国を捨て、妻子を捨てて

出家されます

それからは

人目を避けるように

山や森に入られて

ひたすら修行されたのです

このことも

引きこもって修行さえた

ということです

 

今でいう引きこもりと

少し事情は違いますが

ある時期においては

人間は引きこもって

何かに打ち込むという

そういう時間も大切なように

思います。

 

このようなことを

講義の中ではこのように

述べておられます。

「たとえてみれば、

画家でもものを食べずに

生きているわけには

いかない。

画家でもパンを食べなければ

ならない。

パンぐらいの問題は

つまらないことであると

いっているが、

かならずしもそうではない。

パンを食べなければ

生きられない

身体カラダを持っている。

 

現実的にいえば、

それが実存である。

どんな思想家でも

パンを食べなければならない

ということが実存ということ

パンなんか何だ

というわけにはいかない。

そういう人は

現実に立っている身体を

忘れているから、

そういうことをいう。

人間が身体を持っている限り

パンを食べることは

生理上だけの問題ではない。

人間存在の構造になっている

 

だから、

パンを食べるために絵を描く

というが、

パンを食べられないように

ならないと

画家は絵を描かない。

やむをえずパンが必要だから

希望者と話をする。

いくらで描いてくれと

話をするのは玄関である。

玄関で取引はする。

 

しかし、

いざ引き受けたといって

客と別れてアトリエに入った

ならば、

パンのことは忘れてしまう。

パンのために絵を描くのでは

ない。

絵のために絵を描く。

それが天上界である。」

 

この話はよくされていました

そろばんの世界と

そろばんを外した世界、

どっちも大切で

損得勘定だけだと

息が詰まってしまうものです

かといって

そろばんを外してばかりだと

生活が成り立たない

ということがあります。

 

画家も玄関や応接間では

絵の値段について

取引するのでしょう。

ところが一旦、

アトリエに入るといくらの絵

ということは忘れてしまって

ただ無心に絵を描く

というのが本当の絵描き

ではないかと思います。

アトリエに入るということが

引き籠るわけです。

籠らないと絵は描けません

 

心が散った「散心」では

本当のものは出てこない

三昧に入らないと

本当の絵は出てこないのです

 

引きこもるということも

難しい問題で

なにもやる気をなくして

引きこもるから

問題が起きてきて

かといって反対に

引きこもるからやる気を

なくしてくるという

ことがあります。

 

引きこもるということは

日常的にも宗教的にも

ある種の異常な精神状態です

籠っていしまうと

回りも見えなくなってしまう

また、

周りが見えているようでは

集中して三昧に入っている

とはいえないものです。

 

籠らなければ

智慧は生み出せないし

世間の雑用雑事からは

智慧は生まれてきません。

 

そこに籠るということの

大切さと難しさが

あるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

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稽首唯識性 満分清浄者

2021-12-21 19:50:03 | 十地経

稽首唯識性(ケイシュユシキショウ)

満分清浄者(マンブンショウジョウシャ)

 

という言葉で始まる

世親菩薩が作られた

『唯識三十頌』

(ゆいしきさんじゅうじゅ)

しかし、ここの部分は

世親菩薩がつくられたもの

ではなく、

この三十頌を解釈された

人の言葉です。

 

気になったところは

「満分清浄者」

の部分で、

満に分に清浄なるものに

稽首というのは

首を傾けるということで

南無ということになります。

 

「満に」というのは

法を完全に証して

清浄になった人ということで

つまり仏を指します。

満と分は位のちがいで

満は完全に証する

分は一部分を証する

ということです。

 

私たちが信仰をもった

ということは

信心開発カイホツといって

如来の心が私の上に実現した

ということです。

全体が実現したのなら

それは仏であるが、

如来の心の一分が我々の上に

実現したということです。

 

これは非常に大事なことで

信心が開かれた

ということは、

長い間、

我執に閉じこもっていた

私の天井の一角が

くずれたということであり

針でついたほどの、

ほんのわずかな青空が見た

ということでしょう。

 

これが我々が信をいただいた

ということの意味では

ないかと思うのです。

しかし、誠に

わずかな穴の中から見える

空ではあるが、

それはやはり大空の一部分で

あって、如来と同質である。

この点が大事である。

 

信をえても凡夫である、が

しかし、

凡夫であって凡夫でない

というのもが

なければならない。

つまり、「煩悩を断ぜずして」

ということは凡夫であるが

「涅槃を得」ということは

凡夫ではない。

 

つまり、

仏が実現した凡夫である。

ここをはっきりして

おかなければならない。

これが「分」ということの

大事な意味である。

 

この文章は

安田先生の講義をずっと

聞いてこられた

仲野良俊先生のものです。

安田先生が亡くなられたあと

その後、「十地経講義」を

続けてして頂きました。

安田先生の唯識の講義を

筋道を立てて構成し

一つの本として出されました。

 

今日のところで

感銘を受けるのは

満と分ということで

私達が間違いを起こしやすい

ところがあるのです。

ちょっとくらい話を聞いて

分かった気分になり

何かすべてが分かったような

錯覚に陥るものです。

自分の立場を忘れ、

そうではなく、

あくまでも自分の立場は

凡夫なのだと

ただ、

仏の一部分の心にふれた

そこが信仰を得たという

ことで

何もすべてが分かった

わけではないということです

 

この点を注意しなければ

とんでもない間違いを

起こしてしまうようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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過ちと人間

2021-12-20 21:03:07 | 十地経

「過ちと人間」

(罪を憎んで人を憎まず)

 

自分の中には

『間違いをする部分』と

『間違いを正そうとする部分』

とがあります。

放っておけば人間は楽な方、

易しい方へ行きます。

他人のことより自分だけの

ことを考えるように

なってしまいます。

いかに自分に都合の良い方を

選んでみても、

人間には満足がなく、

どんどん不満が

たまっていきます。

そのくせ心の底では

「これではいけない」

ということを

ちゃんと知っているのです。

このかすかな声が

人間の「あかし」です。

その声に耳をすまさずに、

つい目の前の自分の欲望に

負けてしまうことが

多いのです。

 

人間は誰しも過ちをしない

人はありません。

しかし過ちをしても

すぐそれを正し、

二度と同じ過ちをしない

ようにすることを

「学習」といいます。

 

犬は金網越しに餌を目の前に

置かれるとどうしてもすぐ

それを欲しくて何度金網に

ぶつかっても

そのまま前へ進もうとします

人間も学習しなければ

犬と同じことです。

いや犬よりも悪い。

というのは、

犬はどんなに食べさしても

腹八分目以上は食べませんし

狼でも決して仲間同士

殺し合うことはありません。

そんなことをすれば

自分たちが滅びてしまう

ことを本能に刻み込まれて

知っているからです。

 

人間は動物のように

本能で生きているのでは

ありません。

人間は欲望が強ければ強い程

それに自分でブレーキを

かけていく生き物なのです。

例えば勉強は放っておいて

出来るものではありません。

無理にしていくことによって

進んで出来るように

なるのです。

人に迷惑をかけない、

ゴミを捨てない、

人の物を盗らないという

ことなども

自分で

そのようにしていかなければ

身に着きません。

人間は間違いをする動物です

がまた、

必ずそれを直せるのも

人間です。

生まれつき悪い人はいません。

皆同じ人間なのです。

自分だけが正しいのでは

ありません。

他人の悪い点が分かるのは

自分にも同じものが

あるからです。

同じ条件に置かれたら

自分だって

同じような悪いことを

するでしょう。

 

一つ一つのことについて

つい悪い方を選んできた歴史

が平気で悪いことをする

人間を作っていくのです。

どうかこれからは

よく考えて

どういうことが正しいのか

今何をする方が良いのかを

選び取るようにして下さい。

 

いやでも

しなければならないことは

しなければなりません。

どんなにやりたくても、

してはならないことは

してはなりません。

 

常に学習して

悪い習慣をよき習慣に

かえていかなければ

自分だけことしか

考えられなくなり、

自分だけが正しく、

何でも自分の思うように

なると思ってしまいます。

 

いかに気に食わなくても

相手も正しいのだと

気がつくことが

本当の勇気ある人です。

相手が理解できた時、

初めて相手の間違いが分かり

共にそれを治していく道が

分かるのです。

 

人間は一人で

正しく生きているのでは

ありません。

罪をおかしながら、

それを治し治されて

一緒に生きているのです。

 

この文章は

昭和57年6月5日に

洛南高等学校教育研究会

として書かれたものです

ちょうどこの時期

洛南高校の先生方は

安田先生の「十地経講義」に

参加されていました。

この講義の具体化が

このような文となって

生徒さんたちに

伝えられたのです。

 

文章自体はガリ刷りの

一枚の紙に書かれたもので

ややもすると

なくなってしまいそうなので

こうやってアップさせて

いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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捨(しゃ):惛沈・掉挙

2021-12-19 20:08:39 | 十地経

「捨」ということも

普通でいう、

捨てるという意味でも

仏教ではまた別の意味も

持っているのです。

 

仏教で捨てるということでは

「捨身」シャシンということが

あります

捨身の誓願とか

捨身飼虎シャシンシコという

物語があります

聖徳太子が感銘を受けられ

玉虫厨子の扉に描かれて

います

 

この二つの扉には

一つは施身聞偈

教えを求めるために

自分の身を羅刹に投げ出す

ということが描かれ

もう一枚の扉に

捨身施虎という物語が

描かれています

飢えた虎の母親が

空腹のため

我が子を食おうとしている

そこに修行者である王子が

飢えた虎に我が身を投げ出す

という物語です

 

教えのためというなら

まだしも、

飢えた虎に我が身を投げる

ということは

信じがたいものがあります

その捨身ということに

聖徳太子は深く感銘を受けて

扉にこの二つの物語を

描かれたのです。

 

そういう捨身という

我が身を捨てるということ

があります

そういう「捨」という

ことがあります

もう一つ別の意味で

「捨」ということが

使われます

 

講義では

慈・悲・喜・捨の四無量心

ということで、

「捨というのは悲や喜

というようなものの

両端を捨てることや。

平等という意味です。

悲喜平等ということが

捨という意味だ。

平等の心といってもいい。

だから、悲しむといっても

衆生を悲しむのじゃない。

衆生と悲しみを共にする

という意味だと。

 

捨というと

知らん顔しとるような意味に

見えるわね。

さっき言った無心という

ような意味だ。

それは

実は無心で冷たいのではない

それがほのぼのとした

無心のように見えるところに

静かなあたたかみというもの

が表してある。」

 

というような意味で

「捨」が

悲喜平等という意味で

使われています

 

もう一つの捨があって

それも平等という意味ですが

心がかたよらずにいるという

状態を表すことで

それは

惛沈(こんじん)と

掉挙(じょうこ)という心で

この両方にかたよらない

という心です

惛沈は字の如く

心が沈んでいくという状態

掉挙は

心がうきうきする状態です

 

普通私たちの心は

このどちらかの状態で

思うようにいかないと

沈んでしまって

やる気をなくしてしまいます

また反対に

何かいいことがあると

心がうきうきするもので

そうすると何でも

思うようにできると

錯覚してしまうのです

 

特に修行においては

この二つの心の対治が大事で

お釈迦さまの言葉に

「チャラティ・ビサマム・

 サマム」

という、

平らかでないところを

平らかに歩んでいく

ということがあります

世の中、平坦ではない

浮き沈みがるところを

穏やかに静かに平らかに

歩んでいけよ、と

お釈迦さまが弟子たちに

説いておられます。

 

この惛沈・掉挙

という二つの心を離れる

「捨」ということが

いかに大変で難しいか

ということで

お釈迦様が説かれた

修行の方法、「三十七道品」

の中にも「捨」ということが

説かれてあります。

 

断捨離ということも

ものの執着を離れるという

ことでは「捨」ということが

大事です

物を捨てるということは

モノだけではなく

物に対する自分の思いをも

捨てなければならない

というところに意味があり

また、

ものを粗末に捨て去る

ということにも勿体ない

というモノの冥利を

無くしてしまうという

心が痛むものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

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