本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

生まれいずる大変さ

2020-06-28 17:35:41 | 住職の活動日記

27日九州地方は豪雨

九州自動車道路も道の白線が

見えないほどの降りようです。

 

 

本蔵院のアジサイも

重たげに頭を垂れています。

 

ところが一転

28日はいい天気になりました

日差しもきつく

外での庭掃除で薄っすら肌が

日焼けする程です。

その中で妙なものを発見、

池の金網の上に何やら黒い塊

よく見るとセミの赤ちゃんに

アリがたくさん群がっています

 

 

アリたちを口で吹き飛ばし

手の上に取ってみると

生まれたての蝉です

 

多分、昨夜の豪雨の中に

土の中から出てきたのでしょう

一日違えば

今日のいい天気に元気に

出てこれたのに

ほんの数時間の違いが

運命を決めてしまいました

 

 

昨日の雨で羽根が上手に

開かなかったようです

曲がってしまい

もうきれいには開かないでしょう

手足を動かしていますが

木の枝にも止まることができません

しばらくは家の中に置いて

様子を見ていたのですが

ここでも生きられないでしょう

 

天気になり

よし頑張って仕事仕事と

巣から出てきたアリさんたち

何と目の前に

生まれたての美味しそうなセミが

いたのです

これはご馳走と

仲間を呼んでたくさんでご馳走に

ありつけたところです

ところが

私が出てきて吹きとばされ

せっかくのご馳走も

なくなってしまいました。

 

生まれ出ることの難しさを

思い知ります。

もし、このセミも

何とか生きていかないかと

アリさんのいなさそうな枝に

置いてあげたのですが

セミももぞもぞしているうちに

とうとう落ちてしまったようです

置いた場所の下にはいないし

何とか生き延びたかと

思った瞬間

少し外れた場所に落ちていました

 

どうやってアリは見つけるのでしょう

匂いでもするのでしょうか

もう、真っ黒になるほどの

アリがたかっています

セミももはや動く力も無くし

ジッとしています

これも自然の摂理

アリにとっては雨上がりの

何とも美味しそうなごちそう

 

セミにとっては

ほんの数時間、

出る時を間違えてしまいました

やっと出てきたのに

地上でも短いいのちは終わって

しまいました。

 

残念ですけど

身を挺して

アリさんへ捧げたのです。

 

これから久しぶりの

護摩法要です

お参りの方も

ソーシャルディスタンス

間隔開けてゆっくりとした

位置を取り

お不動さまのお膝元で

場の力を感じつつ

お参りされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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涅槃・「ニルバーナであることが人間本来の姿」

2020-06-25 20:18:33 | 十地経

苦集滅道の四聖諦のところで

「道諦は薬です」

「それは智慧の薬を与える」

ということが出てきます

やはり、苦集滅道のことを

医者の見立てとその治療方という

形で説明されています。

その智慧がニルバーナを開くと

という話が続き

「ニルバーナであるということが

人間の本来の状態なんだ」

と述べておられるのです。

 

ここの箇所がどうもわかりません

ニルバーナ・涅槃といえば

お釈迦さまが亡くなられたことを

涅槃といいます

そのことが人間の本来の姿、?

 

涅槃ということは

インドの言葉ニルバーナを音写

した言葉で、

翻訳すると、滅、寂滅、滅度

という言葉になります

解脱、離繋リゲ(煩悩を離れる)

という言葉と同じ意味です。

亡くなった時お位牌の上に

新円寂とか大円寂と書きますが

この円寂が涅槃ということです

 

ニルバーナも元々の意味は

火を吹き消すということで

人の場合は燃え盛る煩悩の火を

吹き消した

ということで

そこから、

煩悩の火を滅尽して、

さとりの智慧(菩提)を完成した

境地ということになります。

 

そこから仏教徒にとっての

究極的な実践目標となります

そういうことからすると

成れる成れないは別として

涅槃ということは

人類の本来の姿ということに

なるのでしょう。

 

よく三浦先生から聞かされたのは

「無住処涅槃」ムジュウショネハン

ということです

本来は、

迷いの世界にいるのでもなく

衆生を救うために

涅槃にも住しないし

という、定まった所を持たない

というのがその意味です。

 

そのことを実践的に捉えると

その場その場で主となる

ものそのものとなる

ということです。

ホームグランドというか

自分の居場所というか

安心できる場所

そういう決まった所を持たないで

行った先々で落ち着いていける

 

そういえば、

校長でありながら

(校長室はあるのですが)

そこに留まっておられる

ことはなく、

職員室だったり

構内を見て回ったりと

その場その場で溶け込んで

おられたようでした。

 

涅槃ということも

迷った世界から涅槃の世界と

固定的に考えると

死んでから行くのが涅槃の世界

と思いがちですが、

実践的に考えると

智慧を開くということが

涅槃ということですから

智慧が開けばどのような世界でも

そこは涅槃の世界になる

ということなのでしょう。

 

感じ取ることは出来ないのですが

智慧が開けば

それが人間本来の姿と

なるのでしょう。

 

智慧と涅槃ということを

「智慧は生ずべきもの

 涅槃は表されるもの」

といっておられます。

なかなか含蓄のある言葉です。

このことも考えるヒントになる

のではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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色とりどりアジサイのお供え

2020-06-24 21:09:00 | 住職の活動日記

母の好きだった

「あかねさす」の銘菓を

思い出したのはやはり

命日が近かったからですね

今日が祥お供えする月命日

そして、師匠も同じ命日です。

 

今一番美しいアジサイを

お供えするお供えするつもりで

アップします。

 

 

ガクアジサイ

 

 

アジサイといえばこの色ですね

 

 

これは花火という名前

いわれてみれば

花火がドンとなって開いたような

姿です

 

 

これは姫アジサイという種類

 

 

上手に名前を付けるものです

 

 

ガクアジサイでも伊豆半島の

ものです

 

 

ガクアジサイでも

こちらはヤマアジサイ

 

 

色鮮やかなピンクの

名前はロシタといいます

 

 

この白いアジサイは

レグラ

 

 

見方によっては一つ一つが

ハートのような形にも見えます

レナーニシュタイニゲルという

舌を噛みそうな名前

こういう横文字の名前の

アジサイもあるのですね

 

 

夏椿・沙羅双樹の花です

今が見ごろ

 

 

半夏生も緑から葉が半分

白くなっています

 

 

この半夏生も見ごろです

 

 

人目に触れない所で

ひっそりと咲いています

 

 

こんもりした木立の陰で、

 

 

この紫陽花は頭が重すぎて

上がらぬ頭になってしまいました

地面に着くほどに、

 

 

半夏生とツーショットです

 

 

この紫陽花も珍しい

 

 

小さな虫を狙っています

葉と同化して

体まで緑色をしているのです

 

 

やはり最後は本来の紫陽花色で

締めくくります

 

 

ぽっかりと蓮が空に向かって

伸びています

明日の朝には見事な開敷蓮華が

見ることができるでしょう。

 

アジサイ尽くしでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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欧米か、見えるか、持続か補助金

2020-06-23 20:50:46 | 漢字

「持続化給付金」、「見える化」

という言葉を耳にし、

この「か」ということを

可能の「可」となんとなく

思っていたのですが、

化けるの「化」の方です。

当たり前のことなのですが

どうにも私には理解しがたく

自分なりに調べてみると、

 

「化」という字

にんべんに匕(サジ)からなり

部としては「匕部」になります

この部の漢字も少なく

北という字があります

この字は

人が背中を向け合っているさま

をあらわし、人に背くという意味

それが、

家は普通南向きに立てるので

その反対をあらわす方角

ということで北となったようです

 

それで、

「化」という字ですが

人とさかさまになった人からなり

上の人が下の人に教えをおよぼす

というのが原義です

そこから、変わるとか

化けるという意味があります。

 

見える化とか持続化というのは

「化」を付けることによって

なになにするようにする

という、進行形のような形を

表すのでしょうか。

 

しかしまた、

この字は仏教になると

「化」(ケ)と読み

非常に沢山の意味を含んでいます

まず第一に

衆生を教え導いて転化・改変

させる、とあります。

教え導くことを教化(キョウケ)といい

教え導く人を能化(ノウケ)

教化される人を所化(ショケ)と

それで、お寺によっては

管長さんの事を「能化さん」と

いうところもありますいう。

 

それから仏のことを化主(ケシュ)

といいます

「極楽化主阿弥陀如来」と

人々を極楽へ導く主である

阿弥陀如来ということです。

 

縁に随い適宜に衆生を教化する

ことを、隨縁化物といいます

ここでいう物とは衆生のことで

物故者の物も同じです

たまに仏故者と書かれる人も

おられるようですが、

 

それから、亡くなることを

遷化(センゲ)といいます

特に僧侶の場合が多いようです

人が遷移化滅(センイケメツ)して

死ぬということです

人は移り変わり(遷移)して

化という字にはものを生成させる

働きという意味もありますから

その働きが滅するということです

 

仏教では物が生まれる方法を

「胎卵湿化」という四つで

表しています

胎生は母体から生まれるもの

卵生は卵から生まれるもの

湿生というのは湧いて出るという

今どこからともなく出てくる蚊の

ような存在です

そして、化生(ケショウ)

という生まれ方、

忽然として生ずること、と

辞書には出ていますが

父母とか雌雄などからではなく

業の力によって生まれる

例えば地獄に生まれるという

そういう生まれ方を化生と、

 

化という字には

調べていっても面白くなるほど

いろいろの意味を含んでいます。

 

「け」という読み方はおおむね

仏教的なことであり

「か」と読めば普通に使う

言葉のようです

ただ、女性の化粧だけは

「け」と読みます

これも不思議なところですね。

 

 

 

 

 

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あかねさす 紫野行き 標野行き …

2020-06-22 20:36:00 | 住職の活動日記

額田王の歌

 

「あかねさす 紫野行き

  標野(シメノ)行き

野守は見ずや 君が袖振る」

 

万葉集の有名な歌です

この枕詞の「あかねさす」

という言葉

母が好きな言葉、というか

お茶のお菓子に

熊本の香梅さんの「あかねさす」

をよく使っていたので

耳に残り、またその響きもよく

「あかねさす」という言葉を

聞けば母を思い出すのです。

 

この歌もいろいろ説があって

額田王のラブソングか?

天智天皇7年(668)5月5日

天皇は弟の大海人皇子ほか諸臣を

連れて近江の蒲生野に宴を開いた

その中には天皇の愛人で、

歌人としても名高い額田王もいた

宴たけなわ

額田王が大海人皇子におくる

歌をよんだのが

この歌です。

 

それに対して

大海人皇子が返歌をよむ

 

「むらさきの にほえる妹を

  憎くあらば

 人妻ゆえにわれ恋ひめやも」

 

この歌をめぐって論争が起こる

 

額田王は、いまでこそ

天智天皇の愛人だが、その前は

大海人皇子と結ばれていて

十市皇女(トオチヒメノミコ)を

産んでいる。

 

ということでこの歌を見ると

額田王の歌は

「いまはあなたの兄の愛人に

なっていますが、心の底では

あなたをお慕いしているのです。

だからそんなに手を振って

合図されては野守に見られ、

二人の秘めた愛が世間に知られて

しまいます」

と読める、

それに対し

大海人皇子は

「そうはいっても

わたしの愛は隠せぬほど

強いのだ」

と訴えた、ともよめる。

 

天智天皇と

弟、大海人皇子(天武天皇)と

額田王との三角関係という

愛のもつれというのが

従来の解釈だったようです。

 

それに対し

額田王の歌の調子からみると

秘められた恋心

なんていうものではなく

宴会の雰囲気を盛り上げる

「戯れ歌」だという解釈も

出てきて、

この時の額田王の年は37、8歳

と思われ、

額田王の立場からすると

三角関係などのトラブルは

起こりえないという

説も出てきています。

 

昔、「紫雲膏」(シウンコウ)

という傷薬を使ていました

紫色のべっとりした塗り薬

何かあれば塗っていました

この薬、なんと

華岡青洲考案の薬で

紫草の根を乾燥させた紫根が

その原料だそうです。

この標野(シメノ)というのは

禁野(キンヤ)ともいい、

紫草が茂り

普通の人が入れない狩りや

薬草を採取した所です。

 

そういうことに由来するのか

「あかねさす」というお菓子

餡が紫がかっています

そういう紫草の根から採取した

ものを使っている

のかもしれません。

 

「あかねさす」

私にとって忘れがたい名前ですが

調べてみると

いろいろドラマがあって

おもしろいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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大賀蓮(おおがはす)

2020-06-21 20:10:10 | 住職の活動日記

2000年前の蓮

ちょうど咲き出したということで

見に行きました

滋賀県の野洲市にある

野洲市歴史民俗博物館

 

 

葉が勢いよく伸びています

朝しか開きませんよ!

という係の方の案内でしたが

 

 

葉の中に埋もれるように

小さな花があります

朝開いて、

今はまた閉じたところです

 

 

その横には蕾が2本伸びています。

 

この蓮は世界最古の生命の発露と

いわれています

1951年・昭和26年

千葉市検見川(ケミガワ)遺跡の

地下7m、泥炭地層の中から

3粒の蓮の実が見つかり

翌1952年大賀一郎博士によって

1粒の発芽に成功したので

「大賀ハス」と命名されました。

 

 

この蓮は

1988年博物館の開館に当たり

鳥取県林業試験場より

移植されたということです。

 

私たちにとって

蓮という花は

切っても切り離せない存在で

お経の中にもたくさん出てきます

『妙法蓮華経』

というお経は有名で、

仏さまの座も蓮の花です

また、人間の菩提心にも喩えられ

心の奥深く眠っている菩提心

いつ目覚めるか分かりませんが

あるのは確かです

この蓮のように2000年も

眠り続け目覚めるハスもある

ということは非常に象徴的です。

 

泥沼にしか咲かない

ということも私たちに教えている

ようです

泥の中にあり泥に染まらずに

美しい花を咲かせる。

 

汚れた泥は住みたくない

できれば美しい世界に住みたい

けど、

蓮が象徴しているように

汚れた泥でなければ

美しい花は咲かないのです。

 

 

泥の中から伸びてきた蕾

この下の泥の中が

どのようになっているか

分かりません。

 

この博物館は銅鐸が有名で

 

 

たくさんの銅鐸が出土しています

この銅鐸レプリカですが

日本最大の銅鐸で背丈ほど大きさ

銅鐸の使われ方

作り方などビデオもあり

とても興味深いものです

 

 

ということもあって

弥生時代の住居が作られて

 

 

この蓮に加えて一瞬

タイムスリップしたような

雰囲気を醸し出しています。

歴史の長さを感じる

場所でもあります。

 

 

 

 

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甘茶の花

2020-06-20 19:44:13 | 住職の活動日記

甘茶もアジサイ科なので

花はガクアジサイと似ています

 

 

周りに白い花弁が付いています

 

 

一見したところ

アジサイと区別がつきません

 

 

今のこの時期がちょうど見ごろを

迎えています

この種類は甘茶でもシロアマチャ

というのもで

 

 

この種類は八重甘茶というもの

周りの花弁がやや紫色

それから

 

 

これが甘茶という名前です

似ているようでも微妙な違いを

見せています

 

 

この若葉を蒸して揉んで

乾燥させたものが「甘茶」に

なります。

 

お釈迦さまが生まれるとき

甘露の雨が降り注いだ

ということから

花祭りには甘茶をかけて

お祝いをします。

 

6月15日は弘法大師の降誕会

立派な花御堂を作り

稚児大師像に甘茶をかけて

そのお誕生をお祝いするのです

 

その頃は立派な花御堂を

皆さんで作り上げました。

5本ほどの小さな花を束にして

それを半紙で巻き

赤金の水引で結んで

それを竹の棒ではさんで

一列の花の段を作り

それを段々に重ねて

屋根を葺くように乗せていきます

大体100束以上の数の花束

になりますので

500から700本の花を必要とします

それは見事なものです。

 

降誕会のお勤めが終わると

花御堂は分解して

一つ一つの花束は

皆さんに配られ

それを一年間仏壇とかに

お飾りするのです。

 

その時にも大量の甘茶を煎じます

ただ、甘茶だけですと

飲みにくいということもあり

番茶と調合して作ります

その配分は飲んだ感じで

決めるというアバウトなものです。

甘茶は漢方薬ということで

求めるのは漢方薬店です。

 

これは確か口内炎とかには

よく効くようで

以前は私も愛飲していました。

甘茶は驚くほどふやけるというか

普通のお茶のつもりで煎じると

あふれんばかりに甘茶が

戻ってきます。

 

昔は甘みというものが

あまりなく

甘茶の甘味が何よりも美味しく

甘露の味に似ていたのでしょう

今では甘みも種類が増えて

この甘茶の甘みは

たぶん何とも言えない

人によっては吐き出したくなる

甘みかもしれませんネ。

 

 

 

 

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捨身の蟷螂(カマキリ)

2020-06-19 20:12:08 | 住職の活動日記

捨身ということは

仏教の話の中によく出てきます

「捨身の誓願」ということも

ありますし

弘法大師の物語にも

幼い頃の話に出てきます。

捨身が岳という山が今でも

ありますが

この山に登り、身を投げて

自分自身が世のため人のために

なるであろうか、と誓われた

すると天女が現れて

その身体を受け止めた

ということです。

 

「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」

というこもあります

もがいていたら沈むだけで

かえって、力を抜いて

身を任せたら身体も浮く

ということのようです。

また、

「身を捨てずに何ができますか」

ということもあります。

自分の身をかばっていたのでは

何もできないということです。

 

教えを聞くために

自分の身を羅刹に捧げるという

雪山童子(せっせんどうじ)の

話があります。

さらに、

飢えた虎を見た修行者が

当に自分の子どもを食べようと

している母親の虎に

修行者が自分の身を捧げるという

物語です。

 

また、

月のウサギの物語も

同じような捨身の説話です

修行者に何も捧げるものがない

ウサギは思い余って

修行者に火を熾してもらい

燃え盛ったところで

その火の中に飛び込んで

自分の身を捧げたというのです

その時帝釈天が現れ

ウサギの身体を受け止めて

そのウサギの行いに報いて

須弥山を絞り

その出てきた汁で

月にウサギの絵を描いたという

説話です。

 

仏教にはたくさんの

捨身という物語が出てきます。

 

さて、

カマキリ君ですが

交尾の後メスに身を捧げ

食べられてしまう。

これを性的共食いといいます

メスがオスを食べる

これがカマキリの世界では

当たり前のことのようです。

これによって

メスはお腹いっぱいになって

たくさんの卵を産むことができる

自然界においては

野垂れ死にするより

愛する妻に食べられ

たくさんの子孫を残すことが

摂理なのでしょう。

 

しかし、

カマキリの世界も微妙なところが

あって、

雄もただ食べられるだけではなく

やはり考えるのでしょう

自分の身を捧げて雌を太らし

たくさんの子を作るより

二匹の雌と交尾して

2倍の子を作るのでは

その方が子孫を残すうえでは

効率がいいのです。

 

ですから、

雄は攻撃的な雌より

おとなしい雌を探す

また、

痩せた雌よりも太った雌を

探すということです。

 

まあ、こういうことを研究

しておられる方もあって

よく観察すると

経験豊富な雄はよく見極め

すぐには近づかず

ゆっくりと近づき

離れたところでじっと待つ

そして、

共食いされないよう慎重に

振舞うということです。

 

逆に経験の少ない雄は

これぞチャンスとばかり

身を捧げるのを厭わず

雌にプロポーズして食べられる

ということです。

 

生きるということは

それほど厳しいということを

教えてくれるようです

生きるということが

ぼやけているような今ですが

生きものたちの生き様をみると

生きることがただ事ではない

ことを教えてくれるようです。

 

捨身という

命を捨てても悔いない

というものを見つけていくのが

生き様のように思います。

 

 

 

 

 

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第八不動地とお不動さま

2020-06-18 20:22:59 | 十地経

「不動」ということも

本蔵院のご本尊は「不動明王」

私も本尊の横の部屋で生まれ

東寺でも御影堂のお不動さまに

10年余り毎日護摩を焚き

熊本に帰ってからも

そして、京都へ移っても

護摩だけは焚きに帰っており

 

不動明王、不動

ということは何かしら

いつも気になている言葉でした。

それは姿形とその意味との違い

明王ですから、

明は智慧、その王様

で姿はあの裸に裙という衣

腰衣のようなものと着て

手には剣と羂索を持つという

智慧とはかけ離れた姿です。

 

『十地経講義』も進み

第八地というところに

差し掛かかってきました。

第八地が「不動地」です。

それぞれの地に名前が付いて、

初地は初歓喜地、

第二地は離垢地(リクジ)

垢を離れる煩悩を離れる

第三地は明地、第四地が炎地、

第五地が難勝地、第六地が現前地

と面白い名前が続きます。

この講義も第七地から始まり

第八地へ進んだところで

そこから初歓喜地、離垢地を

見直していくという

面白い進み方をしています。

 

それで、第七地が遠行地

遠くへ行くと書きますが

行ギョウが完成した

ということです。

第八地が不動地です。

名前がいろいろ付いているけど

一番光っているのは

初歓喜地とこの不動地と

いわれています。

 

その講義では

「不動」ということを

信念と表現されます

どんな矛盾の中にも無碍に生きる

信念と、

逃げ出すのでもないし、

諦めて流転するわけでもないと

矛盾に苦しめられるのでもなく

矛盾の中にあって、

矛盾を超えて、矛盾に住する

それが不動でしょう。

とおっしゃっています。

 

我々の宗教的要求のような

何か動かんものが欲しいという

そういう要求が不動という

ことを表している

人間は常に動かされている

煩悩や考え、

聞いたり見たりしたことに

動かされる

聞けば聞いたことに

見れば見たことに

常にジッとしていることは

出来ない

そこで本当は不動という

何ものにも動かされない

不動の信念というものを求めて

いるということでしょう。

 

こういう話があります

ある時、安田先生のお宅へ

「ものみの塔」の方が来られた

まあ、何も知らずに勧誘に見えた

のでしょう

追い返すこともなく

ま、どうぞということで

上がって話していくうちに、

それから何回も来られた

段々話すうちに

どちらに引き込まれるという

ということではなく

お互いの立場がはっきりしてきた

ということです

自分は「ものみの塔」の教えを

聞いてそれでよかった、

奥様も仏教の話を聞いていたこと

それがますますはっきりしてきた

ということです。

 

私たちは

聞けば聞いた方に引っ張られるか

それが嫌だから

初めから聞かないと決める

なかなか自分の信念ということが

持てないものです

そういう中にあって

不動ということは大切なことです

 

あの火の中に立つという姿

火は智慧の火を表します

また岩の上に立つということも

盤石というような

揺るぎのないということを

表しているのかもしれません。

 

これから不動地というところが

進んで行くのですが

どのような形で不動ということを

『十地経』は語っているか

興味深いところです。

 

 

 

 

 

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「道理」という仏教語

2020-06-17 20:36:05 | 十地経

道理という言葉は

広辞苑にも、

物事のそうあるべきみちすじ。

ことわり。

とか、

人の行うべき正しい道。

と、出ていますので

一般の言葉かと

思っていたのですが、

 

『十地経講義』のなかで

ちょうど、四諦とか真理という

ことが出ていまして、

この諦とか真理は道理をいってます

ということがあり

道理にも「四種道理」と

いうことがあるというように

それについて詳しくは

述べておられないのですが、

気になって調べてみると

仏教辞典に載っています。

 

仏教辞典には、

正しいことわり。

ものごとが存在し変化してゆく

上に必ず準拠している法則。

と出ています。

 

唯識のお経で

『瑜伽論』の中に出てきます。

それで、四種の道理とは

1.観待道理(カンタイ)

2.作用道理(サヨウ)

3.証成道理(ショウセイ)

4.法爾道理(ホウニ)

初めて聞く難しい言葉が並びます

簡単には、

1.それはなぜ生じたのか?

 という問いかけから始まって

2.その具体的な作用は何か?

 と観察の内容を深め

3.それが共通する特質は何か、と

 存在するものの普遍性を観察し

4.最後に、

 「それはなぜそうなのか」

 といえば、

 そうなっているからそうなのだ

 と観察することで終わる。

 

何だか難しい言葉のわりには

結論が、

そうなっているからそうなのだ

というのは

当たり前といえば当たり前

のような答えですが

最後の「法爾道理」というのは

 

自然法爾(ジネンホウニ)

ということがあります

その例として

三浦先生がよく、

「焚くほどに 風がもてくる

  落ち葉かな」

という良寛さんの歌を紹介

されていました。

 

境内の楠が春秋二度

凄まじい落ち葉が散ってきます

掃いても掃いても

あとからあとから

舞い散ってきます

なんとかならないでしょうか

と尋ねた時の

返ってきた言葉が

この良寛さんの歌だったのです。

 

なんだかわけもわからず

散れば掃き、また散れば掃き

その繰り返しが自然の法則

自然(ジネン)という

ことなのだろうか

無理に木を揺らして

葉を落としてしまうこともせず

自然(シゼン)のありようを知る

ということなのか?

と思っていました。

 

辞書の最後には

個々の存在の観察から入って

さらに普遍的な観察に移り

最終的には

個も普遍もその中に融和して

しまう「存在の根底」

ものごとのありよう(法性)を

さとることによって

観察的思考が完成する。

 

と出ていきます。

分からないようでも

何かしら観ずるところも

あるような

まあ、唯識という経典は

当たり前にしている行為を

もう一度厳密に見直し

間違いないようにする

ということのようです。

 

講義の中でも、

「真理は簡明直截であると

人間の方が複雑なんでしょう」

と出てきます。

反対に思ってしまいますが

真理には秘密もないし

公開されたものです

人間が自分で自分を分からなく

していると言えます。

 

いわれてみれば

無明ということから始まり

本当のことが分からないから

本当でないものを本当として

受け止める

そこから、

人間の複雑さが生まれてくる

ように思います。

 

さとりは奥深く深遠で

理解しがたいとおもうのですが

そうではなく

人間の方が複雑怪奇な生き物

ということでしょう。

だから、

その複雑さを解きほぐすには

面倒くさく思える

唯識という経典が

生まれたのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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