本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人の話を聞く時は全身耳となって聞け

2024-10-09 20:26:56 | 十地経

講義もまた新たな所へ入っていきます。

ということなのですが、

また戻っているような同じ所を

講義されます。

その話は聞いた、というのではなく

どういうのか、深く味わっていく

そういう感じがします。

 

講義の中心は「双行ソウギョウ・止観シカン」

ということろです。

そこで、仏教でも一番中心課題

「定」(じょう)ということを

反復します。

この言葉も色々な訳語をもっています。

有名な言葉は「禅」ということ、

この言葉も「定」を表す一つの言葉です。

ドゥヒヤーナを禅那と音写し、

さらに禅那が略されて禅となった、

また「三昧」という言葉もよく聞きます

サマーディを音写した言葉です。

他にも色々ありますが、

ここの講義では、

心一境性(しんいっきょうしょう)

ということが出てきます。

定の一つですが、

心を一つの対象に向けて集中する

という意味をもっています。

 

そこで、講義を見ていきます。

 

「双行というのは止観ですね。

止と観と双、二つという意味です。

止観というものが大体、

精神生活というもの、修道生活

といいますか、そういうものを

表しています。

だから仏教で行といえば、

止観を行というんです。

 

止と観とは必ずしもうまく調和する

という具合にいくものじゃないんです。

この、止の方は止トめるという字です。

これは静というような意味でしょう。

観は、非常に活発な、精神のはたらき

ですから、観察ということですから

動というような … 。

そのように止と観とは動と静という

反対の性格をもっています。

 

だから止めると書いてあるけど、

止めるといった字は、

ちょっと合わんですね。

内観といった方が

よく分かるんじゃないかと思います。

止というのは、

定を表すんであってですね、

これは心一境性(しんいっきょうしょう)

このように定義されています。

まあ、定というのは広いんです。

 

それから観はこれ智のはたらき

といいますかね。

定というのは心が、心一境性

というのは、つまり精神統一です。

精神が一点に集中されていると、

全身が一つのですね、

ものを考えるという場合に、

全身がものとなると。

こういうような状態が定なんです。

精神が内面に集中するわけですね。

仏教の行というのは、内観の行

なんです。

 

これは何といいますか。

ギリシャでいうとプラトンの対話編

を見てみるというと、

そこにソクラテスや何かの人物が

取り上げられとるんですけど、

対話のかたちで、哲学の問題が

語られていますが、

その時に出てくるのは散歩です。

散歩というと、ぶらぶら遊ぶんじゃ

ないんですけど、

逍遥というような意味ですね。

アカデミーという言葉の元ですね。

逍遥するという態度は

何も目的なしにそこを歩くという、

さまようという意味でね。

うろうろ迷っているという意味じゃ

ないんですけど、

さまようという意味で、

まあ雲水じゃないかなないかな。

禅宗なんかの雲水です。

雲の如くに水の如くに流れていく

というわけです。

 

だからして何か歩くということが

思索に一番ふさわしい姿勢に

なるわけです。ものを考える場合。

こういう場合、

仏教でいう止というものが現れて

いるわけです。

散歩で精神が統一される。」

 

よく聞いた言葉が

ものそのものになれ。

話を聞く時は全身耳にして聞け。

するともの自身が語ってくる。

というようなことです。

次には仏教では反対に

止ということを坐で表すのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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