本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

止・正・武・歩

2024-10-11 20:29:23 | 十地経

止・正・武・歩、

一見何のつながりもないような

気もするのですが、

これらの文字は全部、とめへんの

字なのです。

 

止観双行ということが第七地の

中心課題です。

そこで、漢和辞典では止という

ことにはどういう意味があるのか

と調べてみたら面白いことが

出てきました。

 

止は、足あと、足首の象形文字で

足あととか、とどまるという

意味があり、またしずか、静まる

そこから、心が落ち着くところ、

というような意味があります。

 

止観、ということでは

止というのは心を一つにとどめる

ということになるのでしょう。

人間の心は、見れば見るものに

気持ちが引かれ、

聞けば聞いたことに心が動いて、

一時として

じっとしていないものです。

ですから、止観の止はとまるという

意味よりも、とどまるという意味が

近いようです。

 

講義では、面壁九年というように

九年も坐したという、

このすわるということが

止観の止ということを

代表しているというように

出ていました。

 

ところで、

正という字はとまるへんに一と

書くのです。

正月というのは心を一に止めて

また新たに一から出発する、

という意味があるようです。

 

また、武という字は

武士の武とかがすぐ思いつく

のですが、

本来はまたぐ(跨)からきています

ひとまたぎ(一跨ぎ)半歩の意味で

それが、

歩になると、二またぎ(武の二倍)

ということで、

前足に後足がついてゆくことから

あるくという意味になったという

ことです。

 

漢字もそれぞれに意味を

もっていて、その成り立ちとか

文字が出来てくる内容を考えて

いくと興味深いものがあり、

考えていく一つの手助けになり

ます。

 

講義では、

「内面的統一が止なんです。

精神の統一において、精神の集中

において、智慧がはたらく。」

 

と出てきます。

こういう形で、止観ということが

成り立つのです。

 

「観智というのは

智慧をもって観察する

といいます。」

 

東寺の塔頭(たっちゅう)に

観智院というお寺があります。

何気なく言っていたのですが

こうやって聞いて見ると

とても重要な意味があるようです。

宮本武蔵が一乗寺下がり松の決闘

の後に逃げ込んだのがこのお寺で

その時に描いたという

武蔵の見事な絵が残っています。

 

やはり、第一の塔頭であって

そのはたらきを表すような名前が

ついているようです。

 

次には

止と観ということの具体的な

話しが続きます。

 

 

 

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面壁九年(めんぺきくねん)

2024-10-10 19:43:27 | 十地経

西洋の方では思索するとい時

逍遥というか歩くということです。

反対に、仏教では坐(ざ)という

座るということです。

「面壁九年」という言葉も

「だるまさん」と親しみのある

達磨大師(だるまだいし)です。

嵩山の少林寺で壁に向かって9年

ついに悟りを開いたところから

この言葉が始ったようです。

9年間の間一言も発することなく

座り続けたという話しが

伝わっています。

 

「仏教の方では、坐というような

散歩や歩くのじゃなしに、

むしろ一か所に止まるという、

面壁九年というようなわけです。

ああいうようなかたちで坐、

坐禅というようにやっぱり

思索に一番ふさわしい態度と。

歩くのじゃなしに、一か所に

身をとどめて。

しかも面壁九年とはよくいった

ものです。

 

庭なんか作って、池なんか掘って、

眺めのよいような庭を作る、

そういうものではね、

思索できんのです、気が散って。

料理屋みたいなもんだ。

だから、瞑想する場合には、

壁が一番よいというんです。

それから

北向きの壁が一番ふさわしい。

南向いて、光線が入るところでは

思索できんのです。

 

けど、ここに行住坐臥という

ことが出ておってですね。

この双行分に行住坐臥という

ことが出ていてですね。

あの、必ずしも坐といっても、

その、

一か所におるというものじゃ

なしに、

一か所におるような態度をもって、

行住坐臥するというような

意味でしょう。

歩いても、やはり面壁九年の態度を失わずに歩くというようなもので

あってですね。

四六時中、三昧にある

というような。

 

だから、

道元禅師も禅宗だけれども、

行もまた禅、

坐もまた禅といってね。

坐だけが禅じゃない、

行もまた禅である。

もう行住坐臥、禅だ。

こういう具合に道元禅師もいって

おられるように、

ああいうふうな広い意味になって

くるというと、

必ずしも坐と、固定的に坐という

ことがあるわけじゃないでしょう

けれども、

坐で代表されるわけです。」

 

ここを読んでいてふと思ったのは

安田先生のご命日を

「無窓忌」といいます。

何とも意味深いというか

多くの意味を含んでいるような

分からない言葉です。

一つには、

ライプニッツのモナド、

モナドには窓がない、

そこからものがは行ったり出たり

する〈窓〉をもたない(無窓説)

ということがあります。

 

もう一つはここに出てくる

思索するには面壁九年という

思索するには窓はいらないのだ。

そういえば昔のお堂は窓が

ないように思います、

あっても飾のようなもの、

講義の中でも、

東寺の灌頂院を挙げておられます

このお堂も大きな扉はあるけど

窓はない。

護摩を焚くと堂内が煙がこもる

のですが、なにせ

大きなお堂なので

さほど苦にならないのです。

お勤めも終わり扉を開けると

朝日が差し込んできて

その光の中を護摩の煙がでていく

という景色はのは

何とも美しいものです。

壁しろという白い布で仕切られた

中でひたすら真言と唱え続ける

そういうことも一つの

瞑想の世界なのでしょう。

 

東福寺には桜の木は

一本もありません。

坐禅するのに邪魔になる

というので全部切ってしまった。

とことが、紅葉で一躍有名になり

どっと観光客が押し寄せるという

何とも皮肉な結果になってしまい

ましたが、

たぶんあそこの禅堂も窓がない

のではと思っております。

 

まあ、こういう思索を深める

ということも窓というものと大きく

関係しているようで面白いものです。

 

 

 

 

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人の話を聞く時は全身耳となって聞け

2024-10-09 20:26:56 | 十地経

講義もまた新たな所へ入っていきます。

ということなのですが、

また戻っているような同じ所を

講義されます。

その話は聞いた、というのではなく

どういうのか、深く味わっていく

そういう感じがします。

 

講義の中心は「双行ソウギョウ・止観シカン」

ということろです。

そこで、仏教でも一番中心課題

「定」(じょう)ということを

反復します。

この言葉も色々な訳語をもっています。

有名な言葉は「禅」ということ、

この言葉も「定」を表す一つの言葉です。

ドゥヒヤーナを禅那と音写し、

さらに禅那が略されて禅となった、

また「三昧」という言葉もよく聞きます

サマーディを音写した言葉です。

他にも色々ありますが、

ここの講義では、

心一境性(しんいっきょうしょう)

ということが出てきます。

定の一つですが、

心を一つの対象に向けて集中する

という意味をもっています。

 

そこで、講義を見ていきます。

 

「双行というのは止観ですね。

止と観と双、二つという意味です。

止観というものが大体、

精神生活というもの、修道生活

といいますか、そういうものを

表しています。

だから仏教で行といえば、

止観を行というんです。

 

止と観とは必ずしもうまく調和する

という具合にいくものじゃないんです。

この、止の方は止トめるという字です。

これは静というような意味でしょう。

観は、非常に活発な、精神のはたらき

ですから、観察ということですから

動というような … 。

そのように止と観とは動と静という

反対の性格をもっています。

 

だから止めると書いてあるけど、

止めるといった字は、

ちょっと合わんですね。

内観といった方が

よく分かるんじゃないかと思います。

止というのは、

定を表すんであってですね、

これは心一境性(しんいっきょうしょう)

このように定義されています。

まあ、定というのは広いんです。

 

それから観はこれ智のはたらき

といいますかね。

定というのは心が、心一境性

というのは、つまり精神統一です。

精神が一点に集中されていると、

全身が一つのですね、

ものを考えるという場合に、

全身がものとなると。

こういうような状態が定なんです。

精神が内面に集中するわけですね。

仏教の行というのは、内観の行

なんです。

 

これは何といいますか。

ギリシャでいうとプラトンの対話編

を見てみるというと、

そこにソクラテスや何かの人物が

取り上げられとるんですけど、

対話のかたちで、哲学の問題が

語られていますが、

その時に出てくるのは散歩です。

散歩というと、ぶらぶら遊ぶんじゃ

ないんですけど、

逍遥というような意味ですね。

アカデミーという言葉の元ですね。

逍遥するという態度は

何も目的なしにそこを歩くという、

さまようという意味でね。

うろうろ迷っているという意味じゃ

ないんですけど、

さまようという意味で、

まあ雲水じゃないかなないかな。

禅宗なんかの雲水です。

雲の如くに水の如くに流れていく

というわけです。

 

だからして何か歩くということが

思索に一番ふさわしい姿勢に

なるわけです。ものを考える場合。

こういう場合、

仏教でいう止というものが現れて

いるわけです。

散歩で精神が統一される。」

 

よく聞いた言葉が

ものそのものになれ。

話を聞く時は全身耳にして聞け。

するともの自身が語ってくる。

というようなことです。

次には仏教では反対に

止ということを坐で表すのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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豊かさと純化

2024-10-06 20:33:26 | 十地経

大乗経典というのは豊かさの

象徴みたいなものです。

素晴らしく花開いたといえる

ように思います。

しかしそれだけでは堕落していく

という面もあります。

 

ということを講義では、

 

「豊かさということが

これが大乗では第一にいうのです。

それと同時に今度は

豊富なということと、それから純化

これがなかなか面倒なことです。

この二つ要るんです。

豊富であるということと内容がね。

それからしてその内容が

豊富であるとともに、

批判、純化、統一というこいとが

ないといかんのです。

純化していく。

これがなかなか総合することが

面倒なんです。」

 

ということは、

キリスト教にもあって包んでいく

ということがあるようです。

聞きなれない人の名前が

たくさん出てきますが

読んでみてください。

 

「ところが一方では何ぼでもつつんでいく。

イエズス会というようなもの。

プロテスタントでカルビンなんかの

反撃を受けるんだけど、

それでつぶれてしまわずに

反撃されてかえって

自分を改革していくんです。

イエズス会が生まれたんですが、

日本にザビエルが来たのも

そうです。

それなんかもどんどん包んでいく。

ギリシャのアリストテレスの哲学

でも何でも包んで。

それでついに、

ああいうようなトーマスアキナス

みたいなね。

 

何といってもヨーロッパ人が

哲学というものを知ったのは、

その、つまりトーマス、

スコラを通してですから。

スコラ神学を通して哲学を知った。

哲学とはアリストテレスでしょう。

神学を通してアリストテレスに

接したわけっです。

そういうようにアリストテレスでも

何も縁のないものです。

 

そういうものを包んでいく。

そういう結果がついに空中分解

すると。

カトリックが知らん間に、

最後にはお札売ったんです。

それでルターがそれに反撃を

加えたわけです。」

 

しかし、こういう人の名前も

丁寧に見ていくと何かしら

次第に分ってきてその

流れのようなものが見えてきます。

ところで講義によく出てくる人で

トマス・アクィナスという人が

います。

『神学大全』を書き上げたという。

ここでは出てこなかったのですが、

これはなかなかの大作で、

口述筆記によって書かれたと、

その時弟子たちは

神がトマス・アクィナスの

口を借りて言葉が出てくるようだと

言っています。

ところが、全三巻なのですが

三巻目に取り掛かった時

突然、書くのを止めてしまいます。

 

弟子に向かって

今まで書いたものは

全部捨ててしまえと、

しかし、それは出来なくて

後の部分は弟子たちが加筆する形

で完成したといわれています。

 

面白いことに、

安田先生も、弟子の方々が

先生の全集を作りましょうと

言った時、

余計なことはするなと

そんなもの作らんでもいい、

自分の書いたものも全部焼けと

何か、トマス・アクィナスと同じ

ようなことを言っておられます。

 

困った弟子たちがどうしようかと

相談している時、

お釈迦さまのお経は感動した弟子たちが

書き記したものですよね。

と、そこにいた三浦先生が

そうおっしゃると、

それはそうですよ。と仰った。

みながきょとんとして

どうしたものかと思っていると

あなた達は先生の話を聞いて

感動しなかったのですか。と、

感動した人が作ればいいのだ、

ということで、

全集が完成したという経緯が

あります。

 

ところが、この『十地経論講義』

は全集に入っていません。

最初の頃はなぜだろうと思って

いたのですが、

今となっては

やはり入れなくてよかったのでは

と思うようになりました。

この講義も

ひとえに三浦先生に対して

説かれたもので、

その講義の内容が洛南高校を

作り上げていったのです。

 

普通いう講義録というより

実践の講義です。

ですから私にとっては

他の先生の講義よりもより貴重な

ものなのです。

 

 

 

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ぼろは着てても心は錦

2024-10-02 18:51:52 | 十地経

毎日何気なく読んでいる勤行法則

三帰・三竟・十善戒と続きます。

しかしよく考えると、

この中にすべてのお釈迦さまの

教えが詰まっているようです。

普通、お釈迦さまの弟子になると

五戒という戒を授かります。

 

殺生・偸盗・邪淫・妄語・不酒飲

の五つです。

このうち、

十善戒の身業の三つが

殺生・偸盗・邪淫として

取り入れられて、

口業は妄語が代表して

後の、綺語・悪口・両舌は

その中に含まれています。

ただ、意業は入っていません。

まずは、形に現れる身業と

口は禍の元で、妄語が代表し、

お酒という、身近で困った問題も

起こったから取り入れられた

と思うのです。

 

色々な儀式がありますが

私が一番感動するのは得度式です。

お釈迦さまのお弟子になるという。

弟子某ソレガシ

未来際ミライサイを尽くすまで

この戒をよく保や否や、と

戒師から聞かれ、

弟子は、よくたもつ、

と答えるのです。

十の戒それぞれに聞いていきます

いよいよこの子も仏の弟子となり

戒を守り、修行に励むのかと

思うと目頭が熱くなります。

 

そのように戒を護るというのが

仏弟子の第一歩です。

その中で、前回は性戒と遮戒と

いうことが出てきました。

性というのは具わっている

ということで、

性戒というのは本来人間として

具わっている善悪の判断基準

ということで、

殺生・偸盗・邪淫・妄語という

ことがありました。

 

いつも唱えているのですが

どれ一つとっても守れるものは

ありません、

守れないから唱えない

というのではなく、

守れないからこそ毎回繰り返し

唱えるのです。

 

この性戒といわれる

殺生・偸盗・邪淫・妄語は

教えなくても具わっている、

講義では良識・ボンサンスという

理性とか低い意味では常識

ということが言われていました。

 

ある法律家の方が、

法律に頼るようであれば

それは一番低い最低の問題だと

言われてました。

そういうことに頼らなくても

本来具わっている性戒という

ものがあれば法律に訴えなくても

解決できるのです。

 

ザビエルという人も

ただ偶然に日本にやってきた

のではなく、

インドで日本人に出会った

その人を見て勤勉で嘘もつかない

そういう人柄を見て

日本人こそ福音を伝える民族だ

という確信で日本に来たのです。

日本人はみすぼらしい家に住んで

着るものも粗末なものを着ている

しかしその心は

気高く信仰心が篤く

福音を伝えるに十分な素質を

もった民族であるということを

イエズス会の本部に伝えています。

 

その時代の日本人は

嘘をついてはいけない、

怠けてはいけない

そういう、一番下の基本レベルの

性戒というものが

具わっていたのでしょう。

 

今のレベルでは

法律に触れさえしなければ

何をしてもかまわない、とか

また犯したとしても

責任を取ろうともせず

その責任は秘書に押し付ける

本当に良識以前の問題のように

思います。

 

随犯随制で、

犯したらまた新たな法律を作る

作っても、またその抜け道を探す

そこでまた作るというように

人間の最低のボンサンスという

ことが失われてきているように

思うのです。

 

ぼろは着てても心は錦

という歌があったようですが

今の時代、

ブランドは着てても心は疎か

という時代のように思うのですが。

 

 

 

 

 

 

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