本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

明日からは九月!

2018-08-31 21:09:17 | フラワー

暑い日が続き、と思っていましたが

明日からは9月

外を歩いてみると

日差しはまだきついものの

何とはなしに風は少しだけ

心地よさを感じる気がします。

 

爺のお使いで近くのスーパーへ

あまり近いのでちょっと遠回り

二駅ほど歩いて

 

 

野に咲く花を楽しみながら

この花はたぶん

「キバナコスモス」かな?

スーパーへたどりついたのですが

なんと、店内改装中

 

 

「ルリマツリ」の花を見つけ

夏の花も終りに近づき

次の花が咲きだしています。

もどった、近くの駅のスーパーは

ここは閉店、

1時間以上のお使いになり

さすがにもう駄目とばかりに

目的を果たさずに帰宅の途へ

 

 

誰も手を付けなかったのでしょう

咲いたままの姿で枯れ

枯れた美しさを醸しています。

 

家に帰ると

久しぶりに教室があったようで

 

 

清々しい花が飾られています

 

 

もう秋の気配を感じるような

けど、まだ夏の勢いも残るような

 

 

花の姿です。

白と黄色と薄いピンクの花

 

 

面白い取り合わせです

 

 

よく見ると葉も取り揃え

一つの長い線として表現してあります

 

 

今日の花も線の美しさを

表しているのでしょう。

 

花を見て元気をもらい

水分補給のコーヒーブレイクをして

いつものスーパーへ今度は車で

やっと目的のお使いを果たすことが

できました。

 

何とも健康的というか

いろいろな花にも出会い

暑さと風と大地に咲く花と

地・水・火・風の自然にも

接することが出来た

幸せな一日でした。

 

 

 

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六相円融

2018-08-30 21:02:19 | 十地経

十地経も第八地に入ってから

どうも難しく、

なかなか進みません。

読んでいくと丁寧に分類して

説明してあるのですが、

そこに

「六相円融」(ろくそうえんゆう)

という言葉が出てきました。

分からないので辞書を見ると

華厳宗の教義とあります。

 

 

華厳というのですから

まあ奈良の東大寺が華厳宗です。

 

六相というのは

総相・別相・同相・異相

成相(じょうそう)・壊相

の六つです。

すべての存在がこの六つの相を

具えて互いに他をさまたげず

全体と部分、部分と部分とが

一体化してまどかに融けあっている

と、書いてあります。

 

十地経論でも菩薩行について

六相ということを説いている

ということで、

ちょうど出てきたのです。

慣れない言葉なので

難しく感じるものです。

 

一つのたとえとして

家の場合に、

柱・縁・梁など

家を作るすべてのそなわっている物

それを総相といい

それぞれについてみれば

柱・縁・梁は別相となり

家というものは

柱・縁・梁などが力を合わせ

組み立てていることを同相

異相というのは

それぞれの働きが異なっている

柱は縦に梁は横にというように

その場所場所で違う働きを

していることで、

成相(じょうそう)は

すべての材料で家が完成されている

ということをいい、

壊相(えそう)というのは

壊は破壊するのですから

分析ということ

そうして見て見れば

柱・梁などは自分の自相を守って

いるということです。

 

家一つとってみても

建っているといっても

よくよく見て見れば

この六相ということが

うまく融けあって

それぞれの働きの上に

成り立っているということです

 

菩薩行でも

この六相ということが説かれる

のですが、

一つの行でも独立している

ということではなく

一つが出来るということは

すべてが互いに関係し合い

成り立つということでしょう。

 

経文では

「いかんが同相

 同相に三種。

 一つには、

 二種無我を上上に証するが故に

 二つには、

 不住道清浄なるが故に

 三つには、

 彼の方便智の行に摂められて

 助菩提分法を満足するが故に」

 

と続いていくのですが

これから、その一つ一つの話が

展開していくのです。

なかなか難しく

頭にスーッと入ってきませんが

こうやって打ったり

ノートに書いたり読みかえしたり

何とか言葉を馴染ませていかねばと

読み込まなければ、

と思っております。

 

 

 

 

 

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人知るもよし、人知らぬもよし、我は咲くなり

2018-08-28 11:29:17 | 住職の活動日記

人知るもよし 人知らぬもよし

我は咲くなり

という歌がありました

武者小路実篤さんの歌です。

 

 

ふと見下ろすと

小さな白い花が咲き誇っています

たぶん、

ここの場所は誰からも

見ることの出来ないところでしょう

 

 

何だか可愛くも

 

 

可憐な姿にも見えてきます

 

花のハタラキとして

花開き、実を結び

そのいのちを繋げて

精一杯生きているのです

 

見られなくても

自分の精一杯の姿を咲ききる

私たちも見習わなければ

陰日向なく咲く姿は

美しいものです

そういうことが純粋ということでしょう

 

今日28日お不動さまのお護摩です

この花に見習って

自分のハタラキを精一杯務めたいと

思います

 

 

 

 

 

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大乗仏教の人間観

2018-08-27 14:54:53 | 十地経

今は時間も出来て

ゆっくりと書き写したり

また読み返したりと

でも、どこを開いて読んでも

感動する言葉に出会うものです。

 

『十地経』ということも、

十ということについて講義では、

「十という字は数字ですけども

 それは象徴的な意味であって

 十という数は満足完備している

 というような意義がある

 のでしょう。」

と述べておられ、

ちょうど私が聞きだした頃も

七地でしたが

やはり七地ということが中心で

もう何年も七地の講義でした。

一番の眼目なのでしょう。

 

それで七地について、

「七地は遠行地というんです。

 遠く行くと書いてあるが、

 何かそこには努力の限界ですね

 人間の努力というものの限界を

 あらわしている言葉です。

 八地というものになると

 人間の努力というものを超えた

 世界が出ているんです。

 無功用(むくゆう)という

 これは無功用という言葉は

 自然(じねん)ですね。

 自然というのはやっぱり、

 人間の努力というものではない

 これから見るというと

 初地から第七地までというのは

 有功用(うくゆう)になる

 何か努力の世界、

 自然(じねん)ではなく

 人間の努力の世界、

 こういうかたちで、

 菩提心というものの展開が

 述べられています。

 菩提心の歩みが、

 菩提心というものが、

 人間の努力というような形を

 とって、現象しているわけです」

 

ということもあって

七地が努力と

その努力が自然と身につく

もはや努力ではなくなってくる

その転換点ということで

大変重要な地ということでしょう。

 

そこで今日出会った言葉、

「釈迦が仏になったということは

 誰も仏だということを証明した

 むしろ、仏ならざるはない

 というのが大乗仏教です。

 凡夫なんかおりゃせんのです

 まだ目覚めない者を凡夫と

 いうけど、

 ただ不覚というものではない

 それは未覚というものではないか

 まだ目覚めんのであって、

 永遠に目覚めんもんでもない。」

 

「仏といっても

 偉いもんになったという

 意味ではないのであって、

 凡夫はつまらんもんだという

 意味でもない。

 偉いもんになったというのも

 つまらんもんだというのも

 これはコンプレックスです。

 卑下しているのではない

 劣等感ではない、

 劣等感もコンプレックスかも

 しれんけど、

 増上もコンプレックスです

 

 そこらの小僧でもおっさんでも

 みんな、神聖にして侵すべらざる

 尊厳性をもっているのです。

 そういうのが大乗仏教というものです

 だから釈迦だけが仏であったのが

 それが無量無数の仏

 十方衆生ということと

 十方諸仏ということとは同じものだ

 ただ、未来、未だ覚めない場合に

 十方衆生というのであって

 十方衆生が十方衆生に目覚めれば

 十方諸仏だと。

 こういうのが大乗仏教の

 人間観です。」

 

偉いとか駄目だとかいうのは

コンプレックスであって

本来の人間というのが

大乗仏教の人間観なのです。

 

何だか些細なことに比べあっている

自分が浅ましくも思えてくるのですが

こういうところに

大乗仏教という人間像が

あるように思います。

 

 

 

 

 

 

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大文字の「大」の意味は?

2018-08-26 15:49:28 | 住職の活動日記

大文字はお盆の送り火ということは

分かるのですが、

なぜ「大」なのか

やはり諸説があるようです。

 

或る人は

弘法大師が東寺から都を護摩壇と

見立てて、両界曼荼羅の大日如来の

「大」という説や、

佛教大学の八木透先生は

中国の古代思想である「五大」に

由来すると言われておられます。

 

しかし、

「五大」という考え方は

仏教の考え方で、

地・水・火・風・空の五つの要素が

ものごとを構成している、

というものです。

ここから五輪塔婆も出てくるし、

また、空を除いた四つが「四大」

といって、人の身体を指し

病気の時は「四大不調」と言います

 

仏教辞典にはもう少し詳しく

書いてあります。

「大」というのは

大きい小さいの「大」ではなく

「大種」の略であると、

インドの言葉ではマハー・ブータと

いって、すべての物質の拠り所

になるものという意味です。

そして、

この四大(地水火風)を

その本質とその作用について

説明しています。

地は固さが本質で保つことが作用

水は湿り気が本質でおさめ集める

ことが作用と、

火は煖(なん)といって熱さが

本質で成熟させるのがその作用と

風は動きが本質で、

成長させるのが作用であると

このようにその本質的なものと

その働きについて述べてあります。

 

十地経講義でも

そのことがありましたので

少し紹介します。

「法界という言葉がありますが

 界という字も、漢字では

 領域という意味ですが

 インドの言葉では種族という

 意味になります。

 火というものと水というものは

 種族が違う。

 だから、火と水とは各々界を成す

 水というものは

 どこまでさかのぼっても水だと

 火から出てくるわけではない

 水は水から水になる。

 火はどこまでさかのぼっても

 火以外にはならない。

 そういうものは無限にはない。

 だから、地・水・火・風の

 四つになる。

 ギリシャでもインドでも。

 ただ、火になるというときに、

 火大、火界と、大とか界

 という字を付ける。

 それは一般者という意味です。

 だから、火といっても

 ただ燃えている火だけを

 いうんではなく、

 燃えること一般、

 水は潤すこと一般。

 一般者という意味で、

 大という字ををつける。

 川の水も海の水も

 潤い一般においてある。 

 川の水や井戸の水は、

 火大とはいわない。

 蝋燭の火というのは

 ただ火というが火大ではない。

 

 火は無数にある

 蝋燭の火から線香の火、

 電気の火と、同じ火はない。

 けど、熱さ一般というものは

 無数にはない。

 潤い一般においても同じことです

 それらが四つとか六つとか

 それによって、

 あらゆる世界の存在を

 尽くすわけです。

 それで法界という。

 火は火から火になる

 どこまでさかのぼっても 

 他から演繹されないようなもの

 それを海という。」

 

難しいことですが、

読みなおしてみると

何か分かるものが閃きが

あるのかもしれません。

 

大ということは大種ということで

すべての物質の拠り所となる

種ですからそこから生まれ出る

その元になるものを

表したのでしょう。

 

もし、仏教の五大から出たと

考えるなら、

こういうことも言えるのではないか

と、思うのですが、

もう少し単純な発想から大の字が

生れたのかもしれません。

 

まあ、諸説ありです

たまたま、十地経の講義を

読んでいて、

「大」ということに就いて

述べてあった箇所がありましたので

紹介させていただきました。

 

 

 

 

 

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憶念不忘

2018-08-25 20:37:52 | 漢字

「憶念不忘」

聞いたことを心に深く念じ忘れない

ということですが、

これがなかなか難しい!

右から左にすぐ忘れてしまう

のですが、

しかし感動したことは

心のどこかの隅に残っていて

ふと思い出すこともあります。

 

この字を見た時

妙なことが気になるのですが、

「憶」という字は

りっしん遍に「意」と書きます

「意」という字にも心が付いていて

憶というと心が二つもついている

という字です。

「追憶」という字もあり

「記憶」というようにも使います

 

「憶念不忘」という字も

みな心という字が入っています

仏教の言葉にはよく見ると

心という字がよくついています。

それだけ、

人間の心の問題を大切に扱っている

ということでしょう。

 

「憶念不忘」に出てくる

「念」という字も大事な言葉で

一つのキーワードにもなるものです

お釈迦さまが最初に説かれた

修行の方法に三十七道品という

ものがあります。

その中にも「念」ということが

繰り返し出てきます。

◎四如意足の中にも

 念如意足ということがあて

 意欲と精進と心念

 (心に深く念じて忘れない)

 そして思惟、静かに考える

◎五根(根とはすぐれたはたらき)

 念根といって忘れないハタラキ

◎五力(煩悩を打ち破る力)

 念力という憶念不忘の力

◎七覚支(さとりの智慧を助ける)

 念覚支といって

 忘れないことがさとりに至る

 智慧の要素となる

◎八正道の中には

 正念といって

 八正道の目的である正見を

 いつも忘れない

こういうように

憶念不忘という念ということは

修行の根幹をなすということです。

 

また、

よけいなことですがどうも気になる

言葉に「意」といういものがあります

その中で「意地」ということが

普通には「意地を張るとか」

おてもやんという民謡には

「意地と張りの心が

 それが 後生楽たい」

という文句もあり、

それで済んでいるのですが

『十地経』を読んでいることもあり

意に地がついて、意地

なんとも不思議?

元はこの言葉も仏教語で

意というこころは

すべてのモノを生起せしめる場所

すなわち「地」ということから

意地という言葉ができたようです。

しかし、

おてもやんの歌ではないですが

この世の中は、

「意地と張り」がなければ

生きていけないような気もします。

 

般若心経も、心の経

この場合は中心のという意味ですが

気を付けて仏教の言葉を見てみると

心のついた文字の多いことに

驚かされます。

そのことも注意深く見ていき

調べて見るのも面白い

ものになり興味もわき

考えを深めていく手助けになる

のではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

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名勝渉成園(枳殻邸)ライトアップ

2018-08-24 21:19:43 | 住職の活動日記

名勝渉成園(しょうせいえん)

陶淵明『帰去来辞』の一節

「園、日に渉って以て趣を成す」

から、渉成園と名付けられ

周囲に枳殻(からたち)を植え

そこから枳殻邸(きこくてい)とも

いわれています。

三代将軍家光の寄進で

約1万坪の土地に池泉回遊式庭園が

作られています。

 

 

今日明日の2日間だけライトアップです

門を入ると

 

 

高石垣が見えてきます。

よく見るといろいろな素材が使われ

石の配置もおもしろい風情があります

 

 

入っていくと目に飛び込むのが

この大きな玄関

明治天皇がここで休息された際

大宮御所からの移築を約束され

そのご移されたという大玄関です。

 

 

 

月を映すところから名付けられた

「印月池」(いんげっち)

今日は月は望めませんが

夜景を池面に映しています。

 

 

池の向こうに見えるのは

「臥龍堂」(南大島)です

昔は鐘楼堂があったので

その名を取って臥龍堂といっています

青もみじが美しい!

 

 

木造の美しい反橋は

「侵雪橋」(しんせつきょう)

雪の積もったありさまを玉龍に譬え

表現しているということです。

 

 

たくさんの水蓮でしょうか

昨夜の風の名残り

強い風に流されて

大きな塊になっています

よく見ると

 

 

小さな蕾も出かかっています

これだけの水蓮が咲いたころは

また見頃なのではないでしょうか。

 

ふと振り返ると

 

 

明治天皇がお休みなったという

石碑が見えます。

 

 

池の右手には

「漱枕居」(そうちんきょ)

というお茶室です

池に面して手すり付の縁があり

部屋の中から眺めると

水の上に浮かんでいるように

見えるということです。

たぶん、

「漱石枕流」という故事、

石で漱ぎ流れを枕にして寝る

本当は、

「石に枕し、流れに漱ぐ」を

「石に漱ぎ、流れに枕す」

と言ってしまって

それを誤りとは言わずに

こじつけてしまったことで、

負け惜しみの強いことの

喩となったということです。

そこから「流石」という言葉も

生れたようです。

 

 

7時を回っているというのに

まだこのように青い空に映りました

 

昼間の拝観は庭園をぐるりと

廻ることが出来るようです

また違った景色が楽しめるのでは

ないかと思います。

 

 

 

 

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台風20号接近中!

2018-08-23 20:25:37 | 住職の活動日記

外に出てみると

風も強くなってきて

うねるような風の音がします。

 

6時45分

 

西の空は青空があるもの

夕日に照らされた雲は不気味な

 

 

色合いを見せています。

北の方面、京都の方は

 

 

どんよりとした雲に覆われ

たぶん、雨模様でしょう。

 

 

鳥たちも風に流されながら

家路を急いでいるのかもしれません。

 

 

今回はどうも近畿を直撃する気配

今ごろは四国辺りに上陸するのでは

ないでしょうか。

 

JRはいち早く運休するところが

でていますが、

近くの近鉄は動いているようです

しかし、特急は全線運休とか

 

たいした被害もなく

通過してくれるよう

祈るばかりです。

 

 

 

 

 

 

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感動をありがとう!

2018-08-22 20:28:27 | 十地経

高校野球も終り、たくさんの方々に

多くの感動をもたらしたようです。

何はともあれ、

「感動」ということが

ものごとの始まりのようです。

 

『十地経』でも最初の地は

「初歓喜地」(しょかんぎじ)

といって、感動が道を歩ませる

原動力です。

修行ということも厳しいことも

ありますが、

その厳しさに打ち勝つ力の源泉は

歓喜、感動ということです。

 

不思議なもので50年も前に聞いた

『十地経講義』

分からないなりにも何かの言葉に

感動したのでしょう

今もって、新たに感動を深め

読み続けているということです。

 

ちょうど、そういうことを

書いておられた文に出会いました

少し紹介します。

 

「仏道に感動するということは

 我々がね、偶然にも感動する

 ということは、

 仏道の歴史の中に生れてきた

 からなんだ。

 我々は白紙で生まれてきて、

 生まれてから後になって

 仏道に遇うんじゃない。

 『ああこれだったか』という

 感動はですね、

 仏道の中におったからなんです。

 でも、その感動した人が

 偉いんでも何でもない。

 もう人間は、

 みんなそういうものを背負って

 いるんだ。

 ただ縁がないだ、感動する。

 

 このような会を開くのも

 何もたいした力が

 あるわけじゃないけど、

 講義とか何とか。

 けど縁になるでしょう。

 何もせずに寝とって

 牡丹餅を待っとるということでは

 縁にならんでしょう。

 そうかといって

 探し回っても縁にならんけど

 やっぱり我々の、

 人間のやることの限界ですね。

 我々のやることは本当のわずかな

 ことしかやれんのです。

 けどそれが縁になるんだ。

 それをやらなんだら何も

 ないんです。」

 

というところなんですが、

感動するということは

自分の心の中にある

そういう心を持って生まれてきた

その心に響いたのでしょう。

 

「仏道の縁に触れるということは

 いろんな個人個人みんな違う

 ある意味では偶然出会うけども

 何かそこに一つのですね、

 これまでただ流れるままに

 流れておった人間が、

 足を踏みとどまってですね、

 そこにこの、

 内観してくるというような

 ことですね。

 何か言葉というものが

 非常に胸にこたえてですね。」

 

そういう何か一つの言葉に響く

感動する、

そういうことが支えているのだと

思うのです。

いろいろ探し廻ってみても

いろいろ読みあさってみても

触れるのは一言だと思います。

 

そういうことが

50年も続いているのは

なんとも不思議なことだと

つくづく思います。

しかし、出遇えたということは

本当に有りうべからざることが

有ったということです。

(有り難しです)

 

いろいろな感動があると思いますが

湧き上がるような

居ても立ってもおられないような

感動もあります

しかし静かに続く感動も

あるようです。

忘れることが幸いしているのか

何回読んでも初めて読むようで

また感動が起きるのも

有難くも嬉しくもあるものです。

 

 

 

 

 

 

 

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「疑」という煩悩

2018-08-21 16:56:41 | 十地経

三大煩悩に加えて、

慢(まん)と疑(ぎ)と見(けん)

を加えて六大煩悩となり、

その中でも

「疑」という煩悩も

なかなか侮れない煩悩です。

 

疑の反対は信ということで、

信じるとか信仰ということも

ただ信じるとか

不条理なるが故に信じるとか

そういうものではなく

疑というものがはっきりして

初めて信ということが出てきます。

 

「疑」という字も

おもしろい成り立ちで、

疋部に属する文字で

一つの意味は、

子供がよちよちして立ち止まる、

もう一つは、

杖をついてどっちに行こうか

迷っているという形で、

そこから止まるという意になり

ひいて、うたがうという意味に

なったということです。

 

疑というのは

迷って立ち止まり決断しかねている

という状態です。

経典には「猶予」という言葉で

出てきます。

猶予ということは決まらない

ということです。

また、躊躇逡巡

(ちゅうちょしゅんじゅん)

という言葉もあります。

あれこれと決めかねて、

足踏みしているということです。

 

ところが、

疑いということも

科学的なことが解らなくて

猶予しているということは

仏教では問題になりません。

詳しくは

「諦理に猶予する」と

お経にはでてきます。

これは、真理に対して猶予している

「不疑の善品を障える」と

定義してあり、

真理に対して疑い決めかねている

ということです

これは進んで考えると

善が出来ないということになります

反対に、

なにか一つでも心が決まった時には

心は軽く明るくなるものです。

 

そこでもう一つ

「仏教は純粋に生きよ」

ということを教えています。

信心ということも

純粋という意味を持っています。

純粋ということは

一面には後ろめたさもなく

どのような場合にも

非常に強いしまた明るいものです。

これほど幸せなことはないと

教えています。

 

純粋に生きるということは

自分の我に沿って生きるのではなく

仏の心を頂いて

仏の心に生きるということです。

自分の我によって思うがまましたい

その欲望は貪と言ってむさぼりであり

それは不純な心です。

その欲望が公になったというか

純粋になった場合が願、ねがいと

いわれるものです。

 

そういわれても

素直に信じきれないのが私たちです

どうしても疑ってしまう

そんなに純粋な心で生きられるのか

というように、

すぐ私たちのこざかしい知恵が

頭を持ち上げてきます。

 

どうしてなのか

どうしても自分の知恵を信じ

自分の考えを頼りにして

仏の智慧をたのまず疑ってしまう

そこが大きな問題です

 

そこで経典では

文字の厳密さで説明しています

頼む、という字は

自分というものを中心にして

他によって自分の思いを

遂げようとする。

そういう意味です。

ところが、もう一つお経では

憑む(たの)という字を使います

これは普通には憑依というように

のりうつるという意味に使いますが

お経の中でいう憑むは

自分を投げ出し仏をたのむ

ということです。

頼は、…にたのむ。

憑は、…をたのむ。

微妙なところですが

「頼」の場合は、

自分の都合というものに立って

人にものを頼むという

だから依頼の頼は自分を立場に

しているということです。

それに対し

「憑」の場合は、

自分を立場にしてない

仏をたのむという仏が立場に

なっているということです。

 

ということで

なぜ猶予するかといえば

それは我執に立っているということ

なのです。

自分を中心に置くから(たのむ)

真理が受け取れない。

決まらない。

決まらないのは

何か都合を考えているからなのです

自分をたのんでいるから

真理に対して猶予するのだと

積極的に疑いを我執として

とらえているのです。

 

そこに「疑」という煩悩の

重要性があり

このことが大きな妨げになる

ということを表しています。

 

といってもなかなか

いらぬソロバンをはじいて

素直になれないものです。

反対に、

『十地経講義』のなかでは

人間の心は疑いしかない、

人間の心ではっきりする

ということはありえない

人間の心はウロウロししている

というのが本質だと

疑いを疑いと知れば

疑いは消える。

というように述べておられます。

 

そこに問題を深めていく

十地経の道程があるような

気がするのです。

 

 

 

 

 

 

 

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