本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

新茶の茶摘みも異変!?

2020-04-30 20:50:20 | 住職の活動日記

今、ちょうど新茶の茶摘みの時期

なのですが、

京都新聞にはコロナという時期も

あり、ベテランの高齢の方が

が集まらないということです

お手伝いに行こうかと??

しかし足手まといになるでしょう。

そういえば

近くの茶畑も年々減少傾向

のようです

ここも茶畑だったようですが

 

 

美しい紫色のお花畑になって

いました

何の花でしょうか?

 

 

この花、調べてみると

たぶん、マツバウンランという

花のようです

1941年お隣の向島ムカイジマで発見

されたということで

北アメリカ原産の帰化植物

漢字で書くと松葉海蘭となります

多分、今だけでしょう

いずれは何か建つか駐車場になる

のではないでしょうか

 

近くの井川イガワの桜並木も

今年は見れませんでした

 

 

すっかり花も落ち

こんもりとした木陰を作っていて

川は菜の花畑の様相です

 

 

この菜の花、やはり強い植物

今はいたるところで見られ

その子孫を残していく勢いは

凄いものがあります

 

 

コデマリも今が一番の見ごろ

本蔵院の玄関横のコデマリも

咲き誇っているでしょう

好きな花でふと里心がおこります

毎月帰っていたので…

ここ二ヶ月帰っていないのは

寂しい気もします。

 

ふと目をやると

我が家のカトリ草も

 

 

花芽を出しました

 

 

こちらはちょうど日の光を受けて

輝いている瞬間です。

牡丹も終わり寂しかったのですが

小さな花ですがピンクの

可愛い花を咲かしてくれます

 

その下には

 

 

行き倒れなのか?

まだ生まれたばかりのカメムシ

のようです

それともカトリ草の匂いに

あてられたのか

花にも虫にもドラマがあります

 

まして私たちにも

大変なドラマがあるのです

ゆっくりした時期

自分のドラマを

振り返ってみるのも

面白いものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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世界の気温50年で0.86度上昇

2020-04-29 21:00:01 | 住職の活動日記

世界気象機関は22日、

過去50年で世界の気温が0.86度

上昇したと発表した。

という記事が目にとまりました

今後5年間で平均気温は更に上昇

すると見込まれています。

このことも深刻な問題です。

ところが、

新型コロナウイルスの影響で

今年は二酸化炭素などの

温室効果ガスは世界全体で

6%減少するということです。

 

これで一気に温暖化が止まる

ということではなく

さらに努力しなければいけない

ということですが

そういえば、

ここのところ車に乗ることもなく

家でじっとしている

ご近所さんの車もほぼ動かない

この小さなことが世界的に見れば

大幅なCO2の削減ということです

さらには飛行機は飛ばないし

バスも動かない

 

逆説的に見れば

地球にとってはコロナウイルスは

よかったのかもしれません

しかし、

人間とって大切な

経済活動も止まってしまいます

 

コロナウイルスは人間に

大きな課題を与えているようです

アメリカの

ラッセル・ミッターマイヤー

という方は

かつては人間を捕食していた

トラやライオン、ワニなどは脅威

ではなくなった

しかも人類は自分たちの数を増やす

だけではなく

家畜の数も大幅に増やした

その比率は

家畜はその60%を占め

人間が36%、野生の哺乳類は4%

ということです

今でも野生の動物は絶滅している

種類がたくさんあります

このように

種類が単純化するということは

ウイルスや細菌にとっては

好条件になるということです。

それで、

生物資源の多種多様を守り

自然破壊を防ぎ

野生生物を食べたりペットとして

利用する行為をやめるべき

それから

大量の肉の消費を減らし

植物ベースの食品の転換を

図るべきだと

警鐘を鳴らしておられます。

 

また、

筑波大学の久野先生は

外出自粛による三つのリスクを

あげておられます

まず第一に

運動不足が免疫力を低下させる

次に、運動不足による体重の増加

それから、三つめは

趣味や運動サークルへの参加制限

それによって

社会性の低下にともなう

メンタルヘルスの悪化

ということをあげておられます。

 

本当に

考えさせられることばかりです。

テレビを見てもコロナの問題ばかり

本当に切実な問題ばかりですが

 

その陰に隠れて

テレビではあまり報道されない

ようですが

沖縄の辺野古移設の問題です

最初から「マヨネーズ並み」と

いわれいる軟弱地盤

それでも強行し

工期は5年から9年に伸び

総工費も2.7倍の9300億円に

姑息なのは

コロナウイルスで沖縄県が

緊急事態宣言を出している

その最中に、見としては

コロナ問題で対応に

忙殺されている、

そのタイミングに設計変更の申請

というのはどうもおかしい

「粛々と」と

おっしゃるのでしょうが

もっと熟慮を重ねるべきでは

ないかと思うのですが…

 

いずれにしても目が離せない問題

ばかりです。

いろいろなことを総合的に考え

続けていかなければいけない

ような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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本蔵院チャンネル

2020-04-29 16:51:11 | 住職の活動日記

 

本蔵院チャンネル

 

 

 

 

 

という、

本蔵院チャンネルなるものが

送られてきました。

上の白い枠をクリックして頂くと

本蔵院チャンネルに入ります。

その中から護摩の法要を選択して

いただくと

4月28日の護摩の法要が

ご覧になれます

 

今からはこういう時代でしょうか

コロナのことで

お寺ではお参りをお断りして

お申込みの護摩木や献灯を

あげさせて頂き

護摩の法要をYouTubeで

アップしているそうです。

 

宜しければご覧ください。

 

 

 

 

 

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声が聞きたくて!!

2020-04-28 21:15:01 | 十地経

人間の五感の割合は

やはり視覚が87%大部分です

次が聴覚の7%、そして臭覚3.5%

触覚が1.5%で味覚が1%

ということです

意外だったのは味覚です

器官としての働きが一番下

しかし、

今はグルメとかテレビの番組も

料理に関する番組はやたらと

多いように感じます。

 

今の人たちの感覚を割合でいうと

視覚は一番としても

次は味覚でしょう

聴覚は二番で7%と言いますが

自分のことをしゃべる人は多く

人の話を聞かないのでは

ないでしょうか

そして臭覚も触覚も衰えている

ように感じます

動物たちは臭覚と触覚で

相手を認識し撫でること愛情を

感じています。

 

以前は「人の話を聞く」という

教育が盛んでしたが

今は自分の意見を言うということ

に重点が置かれているようです。

 

『十地経』でもそうですが

やはり、聞法といって

法を聞くということが

まず最初の修行でもあるし

三昧を得るただ一つの方法です

 

自分探しということを

よく言いますが

本当は、探しても醜い欲深い

自分勝手な自分しか出てきません

それで、

自分の都合に合う人を求めて

そういう人に出会ったとき

自分探しが出来たと思うのですが

ただ、好都合な人に出会った

ということです。

 

「声がお聞きしたくて」

と電話がありましたが、

やはり声を聞くということは

大事で、文章を読むのと違った

声の高さとか迫力とか

同じ言葉でも聞けば迫ってくる

ものがあります

 

聞法ということも

声を聞くということで

それも自分の欲を克服した

自分に打ち勝った人の話

道を見つけた人の話を

聞かなければ

聞法ということにならないと

思います。

 

『十地経講義』のあとがきに

「安田先生の語られる語調を

そのままにできるところまで

残しておいてよかったと思える

ご感想が多いことに

気づかされます。

どうしても、編集者たちの頭で

整理してしまいたいという傾向を

正してくれるように思います。」

とでてます。

 

安田先生ご自身は一つも本を

書かれなかったのです

話されたことをテープに録音して

それを言葉を文字にしていかれた

のですが、

やはり、あのとか、そのという

言葉は略されて文章として

まとまりのよいように編集され

きれいというか正しい文章に

なってしまったのです。

 

この『十地経講義』だけが

ただ一つ、先生の一言一句

そのままに文字にされました

そこには本当のご苦労があったと

おもうのですが

私にとっては

その時の講義を思い出しながら

読めるということが

何よりもうれしいのです

面白いもので、座る席順も

言わずもがな決まっていて

三浦先生はあそこの席、

まあ、安田先生に一番近い場所

でしたが、

私たち学生は末席の一番後ろで

うろうろとしていて

分からないなりにただ座っている

ということでした。

 

ということもあって

この講義を書写していると

不思議とその光景が思い出され

声が響いてくるような気がします

今でも書き写すということは

その声の響きを聞きながら

書くという、

私にとってはそれが聞法です。

 

読めば分かるということも

ありますが

声を聞くということの

大切さもあります

また、憧れていた人の声を聞けば

声を聞けたということで

内容まで理解できなかった

ということもあります

お会いしただけで胸が一杯になり

聞こうと思っていたことの

なにも聞けなかったということも

あります。

 

視覚ということが

一番大きな割合を占めますが

もう少しせめてもう少し

10%くらい上がればいいのでは

と思います。

せっかく耳は二つあるのですから

 

 

 

 

 

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第二地・離垢地(りくじ)

2020-04-27 21:05:11 | 十地経

第二地は「離垢地」ですから、

垢(あか)を離れる、と

垢というのは煩悩ですから

煩悩を離れるというのが離垢地

です

初地は初歓喜地です

『十地経』は面白いもので

到達点からの出発

ということがあります

初めて歓喜した

歓喜した心は仏の心です

それで歩みだせるわけですが

そうかと! 頷いて

それで分かったと、

それで終わりではなく

そこからが出発ということです

 

それで、初歓喜地から第二地

離垢地ということになります

垢を離れるには

その実践は十善業道(十善戒)

になります

悪を離れて善を行じる

七仏通戒偈というのがあって

過去の七仏が仏教とは何か

と言ったとき

すべてに通じる教えということで

この偈があります

 

諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 

はなしは簡単で

もろもろの悪は止めよ

善いことは進んでしましょう

ということです

よくお寺の入り口とかに

掲げてある文句もあります。

 

悪を離れて、善を求めると

ここでいう悪とは煩悩です

善とは仏法ということになります

それでその善を守るには

戒ということの実践になります

ですから、戒の意味は

悪を離れ、

その煩悩から衆生を守る

ということです。

 

十善業道というのは十善戒とも

いわれています

善ということですから

一つ一つの戒に「不」がついて

います

不殺生、いたずらに生き物を

    殺してはいけない

この戒律が第一に出てきます

得度式の時も

汝、不殺生戒よく保つや否や

と問われます

いつも、

「不殺生、不偸盗、不邪淫

不妄語、不綺語、不悪口、不両舌

不慳貪、不瞋恚、不邪見」

と唱えているのですが

 

よく考えれば

「不殺生戒」でつまづきます

生きものの命をとってはいけない

そうすると、

食べることはできません

食べるということは他の命を

頂いているわけです

食べないということになると

自分の命を殺生してしまう

ことになります

食べても食べなくても

殺生してしまう

 

それなのに「不殺生戒」を

誓うのです

このように十善戒すべてが

矛盾したことになります

できないけれど、やります

と誓うのです

 

仏教徒にとっては

生きるということは

絶対の矛盾の中に生きる

ということになります

そこのところをよく考えなければ

いけないと思います

 

そこで、さらに誓うのです

あなたの命を頂きます

頂くからには

必ず命の意味について

答えを出します

そういうことが儀式として

食事(じきじ)作法となって

食べる前のお勤めや五観の偈

ということになったのです

 

戒ということには、そういう

いつも考えておかなければ

ならない意味と

何もかも厳しく諌める

というのではなく、

つまり苦行ということではなく

精神力を外に使わないように

そのエネルギーを内に向けて

内観です

そういうように使うということが

あります

 

これはスポーツ選手でも

一つの目標を持った人は

自分のやる方向にエネルギーを

使い、無駄な動きがなくなってくる

ということがあるようです

戒を守ることによって

集中することが出来ると思います

意識が散乱していたのでは

何事も出来ないようです

 

それで、経典では

その手掛かりになることは

法を聞くという「聞法三昧」と

いうことがでてきます

法を聞くという姿勢をとった時

人間は三昧に入ることが出来ると

 

あまり人前では話さないのですが

どうしてもという時

なぜかしらこの『十地経講義』を

読むのです

話とは全く関係ないのですが

読んでいくうちに

頭が整理され、

今まで聞いたことが思い出され

何かしら話がつながっていく

ということがあります。

 

こういうことも一つの

三昧ということでしょう

法を聞くということは

自然に身が正され集中力が

出てくるように思います。

 

この離垢地というところは

そういう煩悩から離れ

三昧を得ていくという

先生の言葉では

「聞法に集中すればいいわけです

集中する場合は三昧です

そうすると耳が聞いとるんじゃない

全身全霊が耳となるんだ

それが聞法の三昧です」

というように仰っておられます。

 

今、八地というところですけど

また、最初に戻って

二地、三地といかれていく

ところがおもしろいものです。

 

 

 

 

 

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ご近所さんの野の花たち

2020-04-26 20:57:22 | フラワー

ジッと籠りっぱなしというのも

なかなかきついものがあって

ご近所さんをお散歩

 

 

すると目に飛び込んできたのが

小さい可愛い花ながら

草むらの中に一際ピンクの色を

放っている

「ナガミヒナゲシ」

もともとは地中海沿岸に生息し

日本にやって来た帰化植物

今ではどこでも見かけることが

できます

 

 

ケシといってもアヘンの原料になる

アルカノイドは含まれていない

ということです

 

 

こうやって沿線沿いには

群れを成して生えています

 

 

これはつぼみです

ここから二つに割れて

花出してくるのでしょう

 

 

この紫色の小さな花

「ヒメツルソバ」です

漢字では姫蔓蕎麦と書きます

花の姿は金平糖のようで

塊になって咲いているところが

可愛いようです

この花も帰化植物

明治のころに入ってきて

最初は観賞用だったものが

野生化して今では至る所で

見ることが出来ます

蔓(つる)という名前のように

立てに伸びず横広がりに

伸びていきます

11月ごろまで咲き

寒さでピンクに色づいていきます

そうなると一層美しい姿でしょう

 

 

それからこの花にも出会いました

多分有名な花でしょう

ちょっとした公園の花壇に

どなたかが植えたものでしょう

これから美しさを増してくる

ようです

 

 

同じ黄色の花でも

これは小さな花です

我が家のほんの少しの空き地に

もとは芝を植えていたのですが

次第に強い野草たちに押されて

今ではこの花が占領して

子孫を拡大しています

調べてみると

「タンポポモドキ」といい

または「ブタナ」というようです

名の由来は

フランスの「ブタのサラダ」

を直訳したもので「ブタナ」

というようです

葉はタンポポに似ているのですが

花は細い茎が伸びたうえに

咲いています

花が終わるとタンポポのように

白い種を付けそれを飛ばします

それで

我が家にも飛んできたのでしょう

ついには「ブタナ」畑に

なりそうです。

 

『散歩で見かける

   野の花・野草』

 

という本を片手に

名前を探りながら見て歩くのも

なぜかしら、野の花といっても

愛情がわいてくるものです。

 

 

 

 

 

 

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美しい青空「碧空」

2020-04-25 21:10:52 | 住職の活動日記

美しい青空が広がっています

 

 

山法師越しに見上げる青空

新緑と空の青さが

清々しくもあり晴れやかな気分

といきたいものですが

やはり三密を守ってステイホームです

 

気が付かなかったのですが

 

 

あっという間にドクダミが

顔を出しています

この場所は本来ピンカミノールの

住居だったのですが

隣に生えている芝が伸びてきて

この場所まで占領しようと

しているのです

そこにまた、どこからともなく

やって来たドクダミ

地下茎で繋がっているせいか

次々と場所を取り始めています

 

 

このスペースはあえて

目くじらを立てて抜こうとせず

植物たちの陣取りに任せている

ドクダミにしたって

この時期だけで

冬になると枯れてしまい

姿を消します

まあ、今の時期

勢力を拡大しているのです

 

アイビーの葉も新しいものを出し

 

 

これから

勢いを増してくるでしょう

花は咲きませんが

新旧の葉の美しさは

とても好きなものです

 

 

カニサボテンも

新しい花芽を膨らませています

昨年、

熊本で買ったのですが

車に積んで持って帰る途中

揺すられて花芽も落ちたのですが

それでも結構美し開きました

今年も楽しみなくらい

たくさんの花芽が付いています。

 

しかし、

新聞には、

三密で自粛もいいのですが

運動不足にならないよう

注意してくださいとのこと

食べて、テレビを見て、

の繰り返し

体重増加や血圧上昇

血糖値も上がったりと

別な意味での健康被害も

出てきそうです。

なかなか難しい!!

家で自粛しながらも

持っている病気の管理も大切

ということです。

 

無理せず筋トレや柔軟もしてと

ステイホームを上手に

活用しなければといけないと

今日は洗車、次には

納戸の片づけと体を動かし

長期戦も見据えたうえで

自分なりのリズムを作らなければ

と思っています。

 

 

 

 

 

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秘訣は我慢です!!

2020-04-24 20:20:41 | 住職の活動日記

テレビのインタビューで

仲良しそうなご夫妻

多分私と一緒くらいでしょうか

「結婚43年、

 その仲良しの秘訣は?」

と尋ねられて、即座に奥様は

「我慢です!」

の一言。

なるほどと思いつつも

 

ちょうど『十地経講義』でも

慢という煩悩が出てきていて

「我慢」も煩悩の一つか、と

思い出していました。

 

「慢」という煩悩

貪、瞋、痴、慢、疑、悪見

という六つの根本煩悩の一つです

この慢という煩悩も

なかなか厄介な煩悩の一つで

清純な世界にも活動するという

思わぬ一面を持ています

その根本は比較するということで

起こって来る煩悩です。

 

慢の中にも「七慢」といって

七つあります

その中の一つが「我慢」という

煩悩です

普通に使う「我慢する」という

意味とは少し違ってきます

 

何故か分からないのですが

人を見るとすぐ比べたくなるのが

人間の本性です

『唯識』というお経の中には

慢ということを定義して

 

「己を恃(タノ)みて他に於て

高挙(コウキョ)するを性と為す」

 

と書いてあります。

自分をたのんでとありますから

自分の能力とか地位とか身体など

いろいろの面に自信をもち

それを拠り所にして他と比較する

ということです

 

おもしろいもので

比べる相手があまりにも

かけ離れていると

慢という煩悩も起こらないのです

平社員の時、社長に対しては

あまりこの慢は起こりません

友達と出世して

お互い係長とかなると

すぐさまこの慢という煩悩が

起き上がってきます

ですから、比べる水準が同じ

というところに

慢という煩悩が起こってくる

ということです。

 

そこで、

慢、過慢、慢過慢、という

一連の慢というものがあります

慢というのは「等慢」ともいい

等しいというのですから

相手も自分も同じだと

同じであれば比べあうことも

ないように思うのですが

相手は自分より上ではない

自分も相手と比べて下ではない

と、

相手を上げまいとするし

自分は下がるまいとする

そういう心が根底にあるので

慢(等慢)というのです

 

過慢というのは

同じであるのに自分の方が上だ

というのです

また、自分が下であるのに

まあ、一緒だというのも

この過慢になります

 

慢過慢(マンカマン)これは、

自分が下でもあるにもかかわらず

自分の方が上だというのです

これも、自惚れてくると

見境が付かなくなります

何でも相手より下手なくせして

自分の方がいいと思っている人は

案外いるものです

まあ、それほど人間というのは

自惚れが強い生き物だ

とも言えます。

 

それに卑慢、我慢、邪慢、増上慢

を加えて「七慢」といいます

 

そこで、

何も比べるものがなくなると

というか何を比べても

負けてしまう、卑下してしまう

そういうのを「卑慢」といいます

コンプレックスがこれにあたり

劣等感ですね。

師匠から、お前は駄目だ!

といわれて素直にそうですかと

駄目なものは駄目なのだと

受け入れればいいのですが

心の中には負けたくない心がある

しかし、負けたくない心で

負けている

それがなぜ煩悩かというと

明るく負ければいいのですが

自分は駄目だと暗くなる

暗くなるというところに

慢という煩悩が起きているのです

 

次に出てくるのが、

「我慢」です

負けているのに

いや、ぜったに負けてないと

頑張っている姿が我慢です

剛情我慢というか

なにがなんでも負けまいと

いうのを我慢といいます

 

「邪慢」というのも

非常に面白い煩悩で

邪というのは有るものを無いと

否定するのもですが

反対に無いものを有るというのも

邪ということです

自分には能力も技術もない

相手にはそれがある

これを比べるというのです

ひどい話ですが

それでも負けまいとして

頑張っている、これが邪慢

心の中では自分はできる、と

思い込んでいるのです

いざやればできない

そういう時に邪という

無いものを有るという慢なのです

 

最後が「増上慢」

人間が持っているいろいろの能力

それを増上といいます

英語がうまい、パソコンが上手、

ゴルフが上手い、歌が上手とか

いろいろあります

そういう能力を比べるというのが

増上慢です

これも、英語が得意というのと

ゴルフが上手いというのでは

比べる対象にはなりません

ゴルフとか麻雀とかは

遊びというところで同じになり

慢という心が起こってきます

ゴルフは金を食うばかりで

麻雀は儲かるとかいって

比べてくるのです

 

しかし、

この「慢」という煩悩の

こわいところは

遊びとかだけではなく

学問や芸術そして求道の中にも

起こってくるということです

あの人のさとりより自分の方が

上だとかいって比べる

信仰のあり方まで比べてくる

ところに

慢という煩悩のこわさがあります

 

『十地経』のなかでも

その信仰に起こってくる慢の対治

ということを強く言っています

その慢の対治ということが

地から地へと順に進んでいく

ことになります

この「慢」の対治ということは

難中の難、ともいえる

大きな課題となってきます

『十地経』の全編を通しての

問題が「慢」といっても

いいのではないかと思います。

 

 

 

 

 

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桜の木を切った人、桜の木を植えた人

2020-04-23 20:59:31 | 住職の活動日記

モミジで有名な東福寺

このお寺には

桜の木は一本もありません。

ここには「大涅槃像」という

縦15m、横7.3mの大作です

普通の涅槃図には「猫」は

描かれていないのですが

この涅槃図には珍しく猫がいます

これを描いたのは「明兆」です

子供のころから絵がうまく

出家しても絵ばっかり

描いていたのでついに破門され

それで自分の雅号を「破草鞋」と

(はそうかい)破れて捨てられた

ぞうりと、呼んだそうです。

 

ついにこの涅槃像が出来上がって

あまりの出来栄えの良さに

足利義持が褒美を取らそうと、

いったところ

もうこれ以上桜を植えないで、

桜は修行の妨げになると

と返事したらそのことに

感動した義持は境内にあった

すべての桜を切ってしまった

ということです。

 

今は、モミジで有名になり

時期になると人、人、人で

ごったがえします

明兆はこの様子をどのように

見ていらっしゃるのでしょう。

 

秀吉は花見の縁を開くため

醍醐寺の三法院に

これまた見事な桜を植えました。

醍醐桜というしだれ桜です

太閤行列の花見の宴は

さぞかし豪華絢爛だったでしょう

 

青森県の弘前には

「弘前城」があります

ここの桜も見事で

一度は行ってみたいところです

それまでは松しかなかった

のですが

ある一人の方が立ち上がって

自費を投じて桜を植えた

ところが、

時の武士を止めた人たちは

こんなものといって

ほとんどの桜を折ってしまった

それにもめげず

考えた末

亡くなった人たちの供養のため

ということでまた桜を植えた

その事が功を奏し

今ではお城を包み込むように

見事な桜になったということです

かろうじて生き残った一本の桜

樹齢は138年ということで

老木ながらいまだに美しい花を

見せているということです。

 

そういえば

熊本の南阿蘇には

「一心行の桜」というものが

あります。

この桜も樹齢400年とか

これまた大木で見事な花を

咲かせています

戦で亡くなった主人と武士達の

菩提を弔うために植え

一心に行を修めるように

ということから

この「一心行の桜」と

名前が付いたということです。

 

桜もいろいろなご縁です

修行の妨げになるといって

切られた桜

桜を愛でて宴を開くために

植えられた桜

菩提と弔うために植えられた桜

桜はよく田圃にも植えられました

季節を見るため

春の訪れを告げる桜

そこには「たぬかんさ~」

と呼ばれている所もあるようで

田の神様が訛って

こう呼ばれたようですが

昔の人は春になると

田の神様がここにやってくる

そういうことで田圃に桜を

植えたのでしょう。

 

今年は

花見の宴は見ることが

出来ませんでしたが

静かにそっと田の神様を迎え

亡くなられた方々の

菩提を弔っていたことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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初心忘るべからず

2020-04-22 19:33:27 | 十地経

先日のテレビで

「世阿弥」のことが放映されて

いました。

世阿弥の言葉といえば

『花鏡』(カキョウ)の中にある

「初心忘るべからず」

という一文が有名です。

 

ちょうど、

『十地経講義』の中でも

初めに帰るというか

講義も進んで長い第七地が終わり

やっと、第八地というところに

入って来たのですが

この第八地に立って見直して

来るというのか

第初地の初歓喜地から

第二地、第三地、第四地と

始まって来たのです

私にとってはまた全体像を見直す

ということで有り難いのですが

いつも先生が仰るように

繰り返しながら展開していく

ということなのでしょう

やはりこれは実践に立てば

そういうことなのでしょう。

 

世阿弥の「初心忘るべからず」

ということも前後があって

 

「しかれば、当流に、

 万能一の一句あり。

 初心不可忘。

この句、三箇条の口伝あり。

 是非初心不可忘。

(ゼヒノショシン ワスルベカラズ)

 時々初心不可忘。

(ジジノショシン ワスルベカラズ)

 老後初心不可忘。

(ロウゴノショシン ワスルベカラズ)」

 

という三句が述べてあります。

若い時の初心、人生時々の初心、

そして老後の初心。

これを忘れてはいけない

ということです。

 

仏教で志を起こし得度することを

初発心(ショホッシン)といいますし、

その得度する人を新発意と書いて

(シンボッチ)と読みます。

また、

初発心時すでに正覚を成ず

ということがあります

志(初心)を起こした時

その心には正覚(さとり)が

来ているのだということです。

 

なるほど、

得度する方のお顔を拝見すると

きりりとした顔には

これから厳しい修行に

入っていくという決心のような

覚悟した姿が見受けられます。

 

そのときには

正覚が成就しているのでしょう

しかし、

『十地経』ではそこから

第二地、第三地と次々に

地が展開していくのです。

そこには、さとったといっても

まだ、雑夾性が残っている

その対治が次々と出てくる

ということです。

 

講義になかでは、

初歓喜地をなぜ歓喜というのか

ということで、

「歓喜するということは

分別の固執を破るという意味

なんでしょう。

分別の固執を破って初めて

法界というものに触れる」

とありますが、

これは、

人間何がうれしいかといって、

やはり自分の執着というか固執を

破れたということが

一番うれしいのです

自分の妄執を克服できた

ということです

いくら自我を延長したところで

その時は何かいいように

思うのですが

心の底からの嬉しさはないのです

 

講義では

「分かったということの

誇りを破る」

とか、「慢」という表現で

出てきます

自分だけが分かったと

他の人とは違うという慢心

それを克服しないと第五地には

入れない」と

どこまでいっても

「慢」という雑夾性が

なかなか取れない

そういうことの対治が

地が進んでいくということです。

 

『花鏡』の中の、

最後の、

「老後の初心忘るべからず」

ということも、

この「慢心」の対治

ということと相通じるものが

あるように思うのです。

妙なもので、

年と共に慢心というか固執が

強くなってきます

頑迷固陋という言葉もありますが

年が取るほど頑固爺というか

扱いにくくなってくるものです

 

ですから、なおさらのこと

「老後の初心忘するべからず」

ということを噛み締めなければ

「万劫の初事」

ということがあります

出くわすありとあらゆることが

初めて出会うことのように

初々しく受け止められたら

それこそ、

「老後の初心忘るべからず」

ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

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