本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

過去はいつも新しい !? 

2016-06-30 20:32:49 | 十地経

喫茶店でコーヒーを飲んでいると

ふと、一冊の本が目にとまりました。

 

 

蔦屋さんがやっているのでしょう。

珍しい本が天井までも

お洒落に並んでいます。

そのなかの一冊、

 

 

「過去はいつも新しく、

未来はつねに懐かしい」

えっ…??

しかし、コーヒー飲みながら

自分なりに考えてみると

こういう事も言えるのではないか、と

 

過去、現在、未来は同時だともいいます。

今の一瞬は過去の蓄積であり

今のことは未来を作っている

今の一瞬の中には

過去も未来も含まれている。

 

未来のことは当来ともいいます。

当来(とうらい)と読み、

当(まさ)に来たるべき、

ということで、

未来は現在の中に約束されている

未来は偶然来るのではなく

今の行いの中に内包されていると

現在は未来を孕んでいる。

 

過去ということも

過ぎ去ってしまったということですが、

この本の題は

「過去はいつも新しく」

といっています。

過去は変えることはできませんが

見直すことはできる

といった方がいらっしゃいます。

 

見直された過去は

新しくよみがえってくるものです。

失敗ばかりの人生で

ふとしたことがきっかけとなり

「失敗を拝む」

ということがありますが、

 

私自身、

若かりし頃

師匠の目から見たら

どうにもならない、若造にすぎなかった

怒られることばかりで

本当に大変な人間だったのでしょう。

しかし、

今振り返ってみると

「よくぞ叱ってくれた!!」

と思うことばかりです。

 

一つ一つの失敗を見直した時

今の自分が開け

過去のことが新しくよみがえって

くるものです。

 

なぜ仏さんをお参りするのか??

しかし、お参りすると

心が落ち着くものです。

仏さんとは未来の自分の姿

有るべき自分の姿

理想とする自分の姿です。

仏さんにはなれないけど

仏さんに憧れをもつものです。

だから、

未来の自分から見てみると

今の自分とは懐かしい存在である

はずなのです。

仏さまの目から見てみると

今の自分とは

迷い苦しみ、ウロウロして、

愛欲の広海に埋もれている 

なつかしい存在なのでしょう。

 

なんてことを勝手に思っていました。

 

本を取って見てみましたが

どうも内容は違ったもの

のようでもありました。

別な意味で作者の思いが

あったのかもしれません。

 

いずれにせよ、

考える機会を得たことは

とても楽しいものでした。

美味しいコーヒーブレイクです。

 

 

 

 

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新大阪の雑踏

2016-06-29 22:05:20 | 住職の活動日記

いつも新大阪では待ち時間があります。

年齢もそこそこになると

「ジパング」という会員がって

料金も3割引きと

とってもお得な制度です。

しかし、

「のぞみ」と「みずほ」には乗れない、

というと、スムースな連絡がなく

少々の待ち時間が生じるのです。

 

まあ、

急ぐ旅でもないので…

 

九州新幹線は新大阪どまり

京都までとなると、

新大阪で乗り換えるか

めんどうなら、博多で乗り換え

京都までという手もあります。

 

しかし、九州新幹線の方が

座席も豪華で2列席

普通でいうグリーのようなシートです。

 

おもしろいもので

(私だけかもしれませんが)

雑踏を見ているのが好きなのです。

仕事で足早に行く人

家族連れで賑やかな人

などなど、

結構飽きがこないものです。

 

 

ちょうど待合所の前が新鮮なジュース屋さん

 

 

とても流行っているようです。

小松菜のジュースを頂きましたが

ちょっと疲れも取れるような

リフレッシュ感が味わえます。

やはり女性の人が多いようで

グレープフルーツの搾りたて

その場で搾っていただけます。

どのジュースが出るかな??

なんて見ていても面白い!

 

というと、30分ぐらいは

あっという間です。

 

九州を出るときは雨も小降り

だんだん関西に近づくにつれ

雨足も激しくなってきます。

 

 

新大阪ではとてもきつい雨になりました。

 

 

そうこうするうちに

東寺の五重塔が見えてきて

もう京都です。

 

現役の時は分刻みというか

いかに時間をうまく使うか

人など見る余裕もなかったのですが

のんびりした旅行

人の動きを観察するのは

とても面白いものです。

雑踏の中身をおく

以外にも「無」になれる

そのような感じを味わいました。

 

 

 

 

 

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大雨の中の護摩法要

2016-06-28 21:40:59 | 住職の活動日記

熊本は豪雨 !

昨夜から降り続いています。

 

 

この雨ではお参りの方も心配です。

本堂では

 

 

今日の法話の準備でしょうか??

住職より、

どう並べる …?

と質問が飛び出しています。

お釈迦様の御一生を出来事順に

記した「八相成道」のことです。

お釈迦様の一生を八つの相に分けて

説明しています。

それぞれに、面白い答えが

飛び出しているようです。

 

護摩壇の仏具も

さらに磨きがかけられ

 

 

まばゆい輝きを放っています。

手前の仏具は「火舎」(かしゃ)と呼び

香炉のことです。

 

 

その奥は金剛盤に

五鈷杵(ごこしょ)、手前

三鈷杵(さんこしょ)、右

独鈷杵(どっこしょ)、左

奥が五鈷鈴

 

 

六器(ろっき)

火舎を挟んで右左に三個ずつ

右から閼伽、塗香、華鬘と

樒の葉で水とお香と花を表します。

 

雨でお人もまだお見えにならないようで

仏具ウォッチング

 

 

護摩杓(ごましゃく)

これでお洗米と五穀を炉の中にいれ

お不動さまにお供えします。

 

 

導師が座る左には洒水器(しゃすいき)

と塗香器(ずこうき)です。

 

 

これは柄香炉(えごろう)

香炉なのですがそれに柄が付いているので

柄香炉と呼びます。

 

 

五色の花を護摩壇の四方と中央に

立てる花瓶と書いて(けびょう)と呼びます。

 

もっともっとあるのですが

真言宗ではいろいろの仏具を

使います。

 

と写真を撮っていると

時間が迫ってくると

だんだんとお見えになってきました。

 

やはり信仰は代わりがききません。

代わりがきくこともあるのですが

ご飯をいただくことや

トイレは代わりがききません

それと同じでお参りするということも

代わりがきかないのです。

たぶん、

そのことを皆さん身に沁みて

感じておられるのでしょう。

雨もなんのその、

身を運んでこられます。

 

何とも有り難い限りです。

 

熊本は地震に続き豪雨が続きます。

このお寺も100年余り経っているのですが

さほどの被害もなく

雨漏りもせず、 …

と思っておりましたら、

やはり、

震度7を超える余震に、続く本震

そして、

1000回を越える小さな余震が

今尚、続いています。

さすがの本堂もこれだけ揺すられたら

次第にあちこち

ダメージが出てきているようです。

柱が外れだしたり、壁が膨らんできたり

「どぎゃんかせんと  」

というような状態のようです。

 

いま、本堂では

七夕コンサートの練習のようです。

復興に向けての歌もあるようです。

 

本蔵院もいろいろな活動を通して

熊本を元気付けようと一生懸命のようです。

 

 

 

 

 

 

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父の日プレゼント

2016-06-27 22:21:28 | 住職の活動日記

思いがけなくも、

熊本へ着くと、

「おそくなりました」と息子夫婦からの

 

 

プレゼントです。

父の日、すっかり忘れていました。

 

 

そうなんですね!!

母の日は結構浸透していますが

父の日は忘れがちのような ??

 

宇治を出る時は快晴 

暑いほどでした。

九州に入ってくると雨もきつくなり

熊本はしとしとと雨模様、

 

プレゼント開けてみると

アンブレラ

 

 

早速に役立ちました。

外から見る分には紺色の傘

中から見るとストライプの

おしゃれな柄(がら)が入っています。

メイドインジャパンの商標が付いています。

 

 

傘の柄の部分も本物の木製で

しっくりと手になじみます。

 

普通は頂き物は

雨の日は下ろしたくないのですが

傘というと雨の日に使わなければ

意味がありません。

 

 

雨の日にはカエルさんがお似合いです。

かえるの乗る葉っぱの上から

ぽたりぽたりとしずくが落ちています。

今日の日にぴったりの

図柄です。

 

 

熊本市内を流れる白川

先日の豪雨では水かさも増したようです。

橋桁には流木が引っ掛かっています。

夜の白川は穏やかに流れています。

 

思いがけなくも

素敵なプレゼントに感謝  

 

 

 

 

 

 

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一切衆生悉仏性

2016-06-26 21:11:34 | 十地経

「一切衆生悉有仏性」

一切の生きとし生けるものは

悉く生まれながらにして仏性あり

と、辞書には出ていました。

同じような言葉で、

「山川草木悉有仏性」

山や川や草木に至るまで

仏性があると説いているのです。

 

このことも自分のこととして

どのように受け止めるか、

そこには、

「悉有」ということが大事ではないかと、

ことごとくある、という

 

人間誰しも劣等感や優越感に

とらわれるものです。

少し調子がいいと優越感になり

物事うまくいかないと劣等感に

なるという具合に、

修行とは劣等感・コンプレックスの

克服だ、と聞いたことがあります。

 

仏教の言葉では、下慢・高慢

という言葉で出てきます。

下慢、卑下慢ともいい、

下劣心という言葉でも出てきます。

今でいうコンプレックス、劣等感です。

反対に、

高慢、高慢ちきという言葉もあるように

威張るということです。

 

価値があって得意になっているのを

優越感ともいえるでしょうし、

価値ばないことにとらわれているのを

劣等感といえるでしょう。

 

この優越感、劣等感を対治する

というか、その心を

超えていくというところに

「悉有」という意味があるのです。

 

誰にも仏性、仏さまの心がある

というのですから、

優越感劣等感を問題にさせない

ということです。

「悉有」ということは「だけ」という

ことを否定するのです。

 

他の人に比べて

だけは偉いとか

反対に、私だけは駄目だということを

言わせないのです。

劣等感も許さんし威張ることも許さん

そこに本当の平等があり

すべての人に平等に仏心がある

ということが言えるのです。

 

修行がきつく

「もう自分は駄目です。

ほっといてください!

もうやめてしまいます。」

といったことがあります。

そのとき、

とても叱られました。

もう目の玉が飛び出るほど!

なぜか、その時はわかりませんでした。

自分のような根性無しは

捨ててしまえばいいのに、

と、思っていたのです。

しかし、

これは本当の激励だったのです。

もう、あかん。

ということを言わせない。

そこが修行のし時だろう!と

しかし、その時はわからないものです。

 

後になって、わかることなんですが、

自分のコンプレックスを克服できる

絶好のチャンスではないか!!

今この時を逃すな、

そういうための叱咤激励だったのです。

 

「悉有仏性」とうことも

みんなに仏さんの心はるんですよ

とは呑気な話で、

みな悉く仏性有り、ということは

優越感に浸ることも許さんし

また、劣等感に陥ることも許さん

という、非常に厳しい言葉です。

 

優越感に浸っている自分に

平等の世界に引き戻してくれる

そのことが智慧ということです。

劣等感に陥っている自分を

叱咤激励してくるということが

智慧ということでしょう。

 

知識と智慧の違いといっても

なかなかわかりませんけど、

 

読めば読むほど奥が深いものです。

他人事ではなく自分のこととして

どのように受け止めていくか

そこが一番肝心要のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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祇園界隈

2016-06-25 20:45:40 | 住職の活動日記

「祇園」、むつかしくいうと

「祇樹給孤独園精舎」

(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)

というお釈迦さまが雨季の時に

休まれて説法された場所から

長い名前が略されて

「祇園」となったようです。

祇樹というお金持ちが

孤児のために開いた園

という意味です。

 

来月には「祇園祭り」

新聞では「祇園祭」の記事が

連載されています。

 

 

久しぶりに友人たちを案内して

祇園へ繰り出しました。

 

好きな場所で祇園白川の界隈

 

 

「辰巳神社」です。

芸事の神様でしょうか??

 

 

井上八千代さんとかの名前も、

今の代の方がまだ若い頃

よく東寺へ御祈願にお見えになり

顔なじみで、

晴れの舞台とかでは

存じ上げないのですが、…

 

 

こういうところが風情があります。

舞妓さんでも歩いていたら

それこそ画になる風景です。

 

 

「花街健康保険組合」という看板

やはり舞妓さんたちも

健康保険に入っていらっしゃるようです。

 

 

そして授業に日程表がありました。

 

 

白川橋のほとりでは

シラサギが獲物を探しています。

 

 

近くにはこういうお店も

なんともこの雰囲気に合ったお店です。

 

 

こういう昭和レトロなお店も

中は上手に改造して

現代的な店になっているようです。

 

 

そして、今日のお食事場所

一見町屋風、

町屋を改造してレストランに、

かと思いきや、

 

 

中の様子から

一緒にいた設計の方が

これは民家風に一から建てた

ということです。

やはり規制があり

作るにしても外観はその場所に

合うように作らなければいけない

ということのようです。

 

久しぶりの祇園界隈

たまたま人も少なく

少しの間ですがその風情を

愉しみました。

 

 

 

 

 

 

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泥沼の泥に染まらぬ蓮の花

2016-06-24 20:29:11 | 住職の活動日記

美しいハスの花に出会いました。

 

 

白いハスは清楚な感じがします。

 

 

上からのぞくと

黄色い台(うてな)が見えています。

 

「蜘蛛の糸」の話にも出てきます

お釈迦さまが蓮池のほとりを

散歩されていました。

ふと池の底をのぞくと

そこには地獄の罪人たちが

うようよいます。

  …

そのようなくだりで始まります。

 

不思議なもので蓮の花は

きれいな土では育たないのです。

以前、三室戸寺でハスの実を求め

そのままでは芽を出さないので

ヤスリを買って種に傷をつけ

植えてみました。

運よくその傷のところから

小さな芽を出してくれました。

次の年、

ハス用の肥料というものを

買って入れたのですが

そのまま種は腐って芽を出さず

残念ながらハスの栽培は

終わってしまいました。

 

やはりきれいな鹿沼土では

だめだったのです。

泥沼の、とあるように

汚れた泥が必要だったのでしょう。

 

仏教では「蓮の花」というと

とても大切な花の一つです。

仏さまはみな蓮の台に座っておられます。

今は、きれいな蓮の花と仏さまですが

その下の様子は表現はされていません。

古い仏像を見ると

ハスの花の下は茎があって

その下は泥沼があるという

そういう表現をしています。

 

 

私もついつい美しい花にとらわれて

泥の中までは見ませんでしたが、

大きな鉢には泥沼が一杯入っている

 

 

だからこそ、こういう美しい花が咲く、

 

私たちも上ばかり見とれてしまいます。

仏教では

「十界」(じゅっかい)ということを

説いています。

下から、

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅

そして、人間・天人

それから仏の世界が始まり

声聞・縁覚・菩薩・仏

という具合です。

ハスの花ということは

この十界の世界を表現しています。

だから、仏さまといっても

地獄餓鬼畜生の泥沼から

生まれてきているということです。

 

 

汚れた泥沼があればこそ

こういう美しい花が咲き誇る

ということでしょう。

 

きれいなものばかりに

目を奪われがちですが

泥沼があればこそ美しい花を

ささえているということです。

 

花ばかりに目を奪われずに

たまにはそれを支えている

土にも思いをはせてみると

さらに花の美しさが見えてきて

また、愛おしくも

思えるのではないでしょうか。

 

 

 

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公と個人の分水嶺

2016-06-23 21:19:14 | 十地経

「公と個人の分水嶺」

ふと思い出す言葉です。

三浦先生の口癖でした。

京都から熊本へ帰る時にも

お寺を運営していくうえで

最も重要なのは、

「公と個人の分水嶺をはっきり

させることですよ。」

どんなに信仰があるといっても

お寺の財布がごちゃごちゃになっては

それは信仰ではありません。

 

信仰の具体的実践は

公と個人の分水嶺が

しっかり守れることです。

事務がしっかりできれば

お寺は発展します。

ということも教えていただきました。

 

熊本へ帰ってから

公認会計士の方に相談しても

まず、金銭出納帳が元です。

ということを最初に言われました。

これからはますます

こういう事が問われてくるでしょう。

 

このことで問題になり

知事を辞職された方もおられるようです。

わかっていても

ついついこれくらいはと

財布がごちゃ混ぜになってくるようです。

 

そういえば、

信仰心ということも

一点のごまかしのない心

ということができるでしょう。

人は誤魔化せても

自分は誤魔化したことをしても

誤魔化したことを自分自身が

ちゃんと見抜いているのです。

 

経典といっても

そういう人間の細かい心のひだまで

見抜いて書きとめているのです。

それはそのことで悩み苦しんで

克服してきたことの歴史でしょう。

ほっとけば人間とは

何をしでかすかわからない

生き物であるともいえます。

 

お経には

お釈迦さまの説かれた教えがあり

それを解釈した論というものがあり、

さらに、戒律があって

人間の心を厳しく諌めているのです。

 

公明正大な一点の誤魔化しのない

心を持つということが

私たちの修行の根幹かもしれません。

 

 

 

 

 

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新緑の背割提

2016-06-22 11:33:22 | 住職の活動日記

さくらで有名な「背割提」

この時期は大変な人出です。

さくらも終り、

この堤も今は緑で覆われています。

 

ちょっとお散歩 

というのも、日中でも

さくらの緑がちょうどいい日陰を

作ってくれています。

そして、宇治川と木津川の両方から

吹いてくる風がなんとも心地よく

暑い日でも絶好のお散歩コースのようです。

 

 

右に宇治川、左に流れているのは

木津川、

昨日は夕方ということもあって

人影もまばら、

この堤を独占して川風と森林浴を

楽しむことができました。

 

 

この緑の木陰は素晴らしい!!

 

 

このソメイヨシノも見事な

けどもう老木のようです。

何れは植え替える時期が来るのでは、

 

 

その桜にまじりところどころ

ケヤキの大木も見うけられます。

 

 

淀川という石の目印、

この地点から宇治川が淀川になるのでしょう。

 

 

もうすぐ行き止まりのようです。

この先が三川合流地点、

どんなになってるのだろう 

気持も逸るのですが…

 

 

やはり三つの川が流れ込んでいる

所を見ることはできません。

時折、ゴーッという音がします。

川向うを新幹線が走っているようです。

 

 

この合流地点の道には

ここの主でしょうか??

黒猫が悠々と座っています。

 

ここは5時が閉門

もうすぐ閉門です。

カラスもたくさん舞い降りてきています。

これからの時間は

この堤も動物たちの天国になるのでしょう。

 

 

標識には三川合流点から

0.0Kmとあります。

 

ゆっくりのんびり歩いて

往復小一時間

リハビリ兼ねた足には丁度いい

距離かもしれません。

まあ、駐車場も無料、

少々の晴れの日でもOK

とてもいい散歩コースのようです。

 

 

 

 

 

 

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熊本銘菓「香梅」自天翔臨ス!!

2016-06-21 18:28:30 | 住職の活動日記

「風信雲書 銘菓香梅

自天翔臨 之開是食

如接甘露味…」

思いがけなくも熊本銘菓香梅の

お菓子の数々が届きました。

これを開いて食するに

本当に甘露の味に接するようでした。

と、空海の風信帖の一文をもじって

みました。

 

 

いつも親しくして頂いている方から

思いがけなくも、

昨日やっと工場も稼働して

お菓子ができました。

と、お送りいただいたのです。

 

今回の地震でお菓子を作る

行程がストップしてしまい

お店に伺ってもショーケースの中は

寂しいかぎりでした。

熊本を帰るときお土産に

買っていたのですが、

先日来、駅にしても空港にしても

店員さんは居られるものの

工場が再開してないので

すいません、と

申し訳なさそうにしておられました。

 

工場も動き出来ましたと

いの一番にお送りいただいたのです。

そのお心づかいに感謝です。

それにしても、

なによりも工場が動き出し

これからお菓子が頂けるということが

なによりも有り難いことです。

 

熊本にお見えになる方でも

心待ちに

しておられたのではないでしょうか

また、熊本からのお土産も

絶対の人気を誇る「陣太鼓」も

なかったことは寂しいかぎりでした。

 

熊本銘菓が食べられなかった

あれば当たり前に思っていたのですが

ないとなると本当に

なんだか熊本の

大切なものが一つなくなったようで

とても寂しくもあり悲しいものでした。

 

なによりも再稼動できたこと

心よりお喜び申し上げます。

 

 

 

 

 

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