本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

専修念仏と只管打座

2021-08-31 20:29:45 | 十地経

十地経の講義も最初の頃は

二日がかりで行われていました

ですから、

私たちにとっては

毎月この前後は掃除に追われ

肥え汲み

(その当時は汲み取り式)から

その肥を入れる穴掘りと

準備が大変でした。

 

夜はおでんと決まっていて

鍋を囲み酒を酌み交わしと

たまには歌も出たりで

楽しい一時でした

その時始めて

安田先生の歌を聞きました

ドイツ語「リンデンバウム」

を歌われました

また時には厳しい話もあり

講義よりもその時の話の方が

残っているような気もします

 

その後入院されて

暫く中断して

今読んでいる講義は

退院されてからの話です

 

その入院の時の話で

「絶対安静」という

その経験談で

そこに窓があるけど

そこまで行けない

茶一杯、飲みたいときも

顔洗うのも、飯食うのも、

大便も、小便も、みんな

人にやってもらうのが絶対安静

 

そういうところから

専修念仏センジュネンブツ

只管打座シカンダザ

の話が出てきます

 

「親鸞では、専修念仏という

道元禅師では、只管と

これは俗語です。

専修、これは非常に学問的な

概念です。

この二つはただという意味です

ただ。専修念仏。

ただ念仏ということ。

只管打座という。

ただ座禅という。

ただ座るというね。

座っとるだけが座るんじゃない

歩くのも便所に行くのも

みなそれが座禅だという。

座っとるだけが座禅じゃないと

行くのも帰るのも

寝るのも立つのも皆禅だと。

もう禅の他に何もないんだと

只管打座という。

 

念仏するという。

声を出すだけが念仏じゃない

声を出す暇もないというのが

本当の念仏だと。

声を出すような余裕もない

もう全存在が念仏だと。

 

こういう時に行、

行というんですわ。

行で救われるんじゃない。

行が救いだというんです。

 

もうそれによって

治るか治らんか、

あなた任せとだという。

こういうような、

只管、専修ということがね

安静という意味だろう。

そういう理屈、

僕は分かったんや。

病気しとってね。

そういう悟り、そういうような

まあ、悟りを開いた。

 

そしたらね、

どこまでやったら

絶対安静になるかと、

まあ、非常に心配だったやつが

すーと治っちゃった。

けどその、

絶対安静は出来んけどもね、

その道理が分かったら、

気が楽になったんです。

 

その、絶対安静がですね、

道理が分かったじゃない、 

もうそのものになれる

ということは、

これはやっぱり、修行がいる

1年も2年もかかる、

けど、道理が分かっただけで

はや気が休む。

絶対安静はなかなか

うまいこといかんでも、

はやそれによって

うろうろするような

気持ちがなくなる。

こういうのが僕の経験でした」

 

この後退院されてから

家に帰ったら

不心得が出るという

話しが続きますが

生身の先生を見るようで

大変面白いところです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内燃機関からモーターへ

2021-08-30 20:41:51 | 住職の活動日記

今年の8月はまるで梅雨の様な

連日の雨

それも線状降水帯の発生で

局地的な豪雨が続き

世界各国で被害が出ました

 

いよいよ、地球温暖化が

進んできている模様

温暖化どころではない

と警鐘を鳴らしている

科学者もいます

 

そういうこともあってか

世界で一番最初に車を作った

会社が2030年までには

ガソリン車をなくすという

発表をしました

その会社は今次々と

EV (電気自動車)を

発表しています

 

最初の車が1887年ですから

わずか143年で

ガソリンで動く自動車は

終焉を迎えようとしています

子どもの頃

自動車自体が珍しく

隣りの家にやって来た

四角いダットサンを

憧れのまなざしで見ていました

それが、一家に1台ではなく

一人に1台という時代です

 

ということはそれだけ

二酸化炭素を排出している

ということです

ガソリンエンジンも技術革新

が進み、今では

小型車の小さいエンジンで

大型車を動かすことが出来る

程に進んできたのですが

それほど技術革新をしながら

世界の情勢には逆らえず

全部の車をモーターに

切り替えるということです

 

今、その電気自動車が

一番進んでいるのは

中国でしょう

わずか40万円ほどで販売

それが爆発的に売れている

とか、

地方や山林部では

ガソリンスタンドを作るより

家庭のコンセントで充電できる

車の方が普及しやすい

ということです

 

これからは当然

電気自動車が主流になって

くるでしょう

日本ではわずか1社が

本格的なEVを発売しています

世界の流れに取り残される

のでは心配ですが

日本は一歩進んで水素に

力を入れているようです

水素で発電するのですから

二酸化炭素も心配ありません

しかし、

水素ステーションの費用が

とてもかかるようです

そこが普及するのに

一番のネックのようです

 

日本の電気自動車の

勝れているところは

深夜電力や太陽光発電から

V2Hという機械を通して

自動車にも充電できるし

非常の時とかには

車に蓄電した電気を家庭で

使ううことが出来る

 

こういうことは

外国の車ではできないようです

ただ充電して走るだけ

日本は車と家庭とで

電気をやりとりできる

例えば

深夜電力や太陽光発電で

車に充電し

車に乗らないときは

車から家庭に電気を送る

そして、夜には充電する

電気の地産地消ではないですが

我が家でつくりその電気を

我が家で消費する

こうなれば一番理想的な形

のように思います

 

ただ電気だけというと

どうしても発電所が必要です

火力発電では二酸化炭素が

多く出てしまいます

原発は使用燃料の後始末を

どうするか難問が山積みです

そうなると

家庭でつくり、消費する

足らない分は電力会社から

入れるとすれば

電力会社も助かると

思うのですが … ?

素人考えで

そう簡単にいくものでは

ないかもしれませんが

 

しかし

こういう異常気象というものは

地球の悲鳴かもしれません

僅か100年足らずで

地球の資源を食い尽くそうと

しています

少し前の江戸時代までは

地産地消のすべてが

SDGs持続可能な開発目標で

生活していたのです

いまさら

江戸時代に戻ることは

出来ませんが

ほんの少し人間の英知を

目を向ければ

各自がSDGsを持ち

便利さを享受するだけでなく

人間の生きる方向を

見定めないと

大変なことになってくる

ような気がしてなりません

 

車というのは

その一番の代表かもしれません

しかし

電気自動車になると

使われる部品の数は半分以下

になってくるようです

ということは

多くの失業する人がでる

という矛盾も含んでいます

最初に車を作った会社は

電気にするために

今から多くの従業員を

電気自動車に対する学習と

その周辺の整備に充てる

活動をしている

ということです

 

私的には

内燃機関のあの構造は

見ているだけで

科学技術の進歩を見るようで

大変好きなのですが … …

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病門

2021-08-29 17:09:01 | 住職の活動日記

色々の整理を始めたのですが

長年かかって集めた

切り抜きやメモ、資料

捨ててしまう前に

一度目を通してと

(そんなことでは一向に

はかどらないのですが)

まあ、ゆっくり捨てて行こうと

すると

こんな切り抜きが見つかった

のです。

 

「病門」

墨守固滞、偏執我慢、

私欲名利、外飾、巧言令色

因循姑息、薄情、博雑、

私索蛇足、奢侈、放蕩、

圭角、切迫、理窟、法縛、

姦佞、残忍、軽率、怯惰、

痴鈍、自棄、自暴、

(コレラノ病根ヲ去ルヲ

以テ心術ノ要トスベキ

モノナリ)

 

とこういうものなのです

どなたの作かは分かりませんが

その前の文章が

白隠禅師のものなので

関係があるかもしれません

白隠禅師は厳しい修行をされ

病気になっておられます

その時、導かれたのが

白幽仙人で、

「内観修養の秘訣」

を授けておられます。

 

病門ということは

普通にいう鬼門に対して

裏鬼門を指すようですが

この場合は

心の偏りが病気をもたらす

ということで戒めてあります

見慣れない文字が多くあり、

一つだけどうしても

読めない文字もありました

誰という字の下に免を書いた

文字です、その文字の下に

害という字がつく言葉です。

 

まず、墨守固滞ですが

ボクシュコタイと読み

自分の説を堅く守って改めない

墨守という人が城を堅く守った

故事から来ています

そこから融通がきかない

ということです

 

偏執我慢ヘンシツガマン

慢ですから、他と比べて

自分がいいと思う心ですから

自分の偏った心に固執する

ということでしょうか

 

私欲名利シヨクメイリは

名前と利益で

それも私利私欲という

名誉と利益ということです

 

外飾、ガイショクと

読むのでしょう

この言葉もあまり

お目にかかりません

外を飾るという

内容がない人ほど

ブランド物を持ちたがる

ということでしょう

 

巧言令色は

巧言令色鮮スクナし仁

という言葉もあるように

巧みな言葉、口先だけの

そういう言葉には真心がない

ということです

 

因循姑息インジュンコソク

古いしきたりにこだわって

その場しのぎに終始する

と辞書には出てきます

 

薄情ハクジョウは

人に対する思いやりの

薄いということです

 

博雑ハクザツと読むのでしょう

この言葉もよく分かりません

 

私索蛇足

この言葉もよく分かりませんが

私の策略は無駄である

というようなことでしょうか

 

奢侈シャシ

おごりたかぶる

 

放蕩ホウトウ

放蕩息子というように

酒色にふけるということ

 

圭角ケイカク

角があって円満でない

 

迫切ハクセツ

ひしひしと迫ることですが

どういう内容をもっている

のでしょう

 

理窟リクツ

理が窟の中に入ってしまった

屁理屈ということもあるので

これも自分の理屈を

言い張っているのでしょう

 

法縛ホウバク

法に縛られるということで

自分の考えに縛られている

ということでしょう

 

姦佞カンネイ

この字も見かけませんが

心がねじけている

という意味です

 

怯惰キョウダ

臆病で怠けるということです

 

言葉は違いますが

やはり煩悩のことを言っている

のでしょう

そういう心の状態が

病気の門になるということで

修行するときの戒め

要としたようです。

 

薬師如来という仏さまがあって

心身の病を治すといいますから

身と心

そして病は気から

といいますので

心の修養が一番の病の元

として修行に励んだようです。

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身を運ぶ

2021-08-28 20:50:23 | 住職の活動日記

昨日は久しぶりにヨガの教室へ

ほぼ一月ほど休んでいました

自宅にて自主トレと思って

やっていたのですが

なかなか教室でやるようには

いきません

自分の好きなことだけして

それも自分に妥協しながら

ということで

やはり、場に身を運ぶ

ということの大切さを知ります

 

気持ちの良い音楽の中で

ゆっくりと静かに体を動かし

気持ちも集中してきます

その時ふと思ったのですが

時間が止まるというか

その時だけは

日常の生活を遮断している

 

唯識の経典に

「恒転如暴流」ゴウテンニョボル

という言葉がありますが

恒に転ずること滝の如し

というのでしょうか

私たちの日常生活は

まるで勢いよく流れ落ちる

滝のようなもので

次から次へと

見たら見たものに捉われ

聞いたら聞いたことに

心が動いていきます

一時として休まるときが

ありません

 

座禅して心を静めるという

方法もありますが

白隠禅師の話ではないですが

やおら座ろうとすると

ふと、3年前に隣りの婆さんに

米1合貸していたのを

思い出したという

ことがあります

三昧の域に入っていくのは

これもなかなか

達人にならないと

難しいようです

 

ところが

ヨガというのは

体を動かしながら

呼吸を整え

体の動きと合わせていきます

そうすると

短時間で集中できるようです

 

まあ人数も少なく、4人ほど

ということもあって

ゆっくりした動きの中に

心を静めていけるのです

そうしていると

改めて、場の力というか

身をその場所に置くという

身を運ぶことの大切さを

感じます

 

今はこういう時代で

なかなか

集まってお参りするとか

お話を聞くということが

できないのです

今では便利な機器がって

ズームとかオンラインとか

携帯やパソコンに向き合って

参加できるのですが

やはり、身を運ぶということの

大切さを感じます

 

むかし、「時間よとまれ」

というテレビドラマが

ありましたが

日常生活の中で

一時だけでも止まった時間を

持つことが大切なように

三昧とまではいかなくても

集中できて時間が止まるような

感覚を持つことは

大切なことのように思います。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『歸依三寳』安田理深講

2021-08-27 20:20:03 | 十地経

本棚の整理をしていたら

本の間から薄っぺらい冊子が

出てきました

『歸依三寳』という題で

安田先生が講義されたものです

 

 

昔のガリ刷りの印刷で

開けてみると

もう字が薄くなりかけています

 

 

 

以前は先生の講義があると

それを聞いた有志の方々が

聞いた声を文字直し

さらにガリで刷って本に仕立て

聞いた人に配っていました

 

後ろの跋(後書き)を見ると

昭和29年10月5日の発行ですが

講義は8月27日28日の

二日にわたって講義されたと

あります

ちょうど67年前の今日明日に

かけての講義です

昭和29年ですから1954年

今から67年前です

逆算すると先生が54歳の時

ということです

 

知らない人が見たら

ごみとして捨てられそうな

代物です

まあ、一応読んでから

どうするか

悩んでいたのですが

 

雪山童子が四句の偈を聞いて

羅刹に食べられる

その前に

そこらじゅうの木や石に

書き付けたという故事が

あります

「施身聞偈」という

物語です

この話に大変感銘を受けた

聖徳太子は「玉虫厨子」の

扉に物語を絵にして

残しておられます。

 

そういうこともあって

一応、私のパソコンに

書き写すことにしました

新しいことが出来て

嬉しいやら忙しくなるやら

 

まあ誰か何かの折に

私のパソコンを開いて

見るかもしれませんので

これも、見ようが見まいが

私がもう一度

書き写すという勉強です

 

薄くなりかけたページを

開くと

『十地経講義』と重なる

ようなところが出てきます

十地経の講義が先生71歳の時

ですから、

先生の問題意識はずっと

貫かれているようです。

 

ご希望の方があれば

プリントして送ります

もうちょっと先になると

思いますが、

ご連絡ください。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光と闇

2021-08-26 20:23:17 | 十地経

智慧のはたらきが光で象徴され

真理を覆っているものが闇と

ということなんですが

「光と闇」ということについて

ずいぶんと詳しく繰り返し

述べておられます

 

どんな闇でもマッチ一本の光で

明るくなり闇は消えてしまう

分り切ったような話ですが

科学的に考えても

夜に電気を点ければ明るくなり

夜の闇は消えてしまう

なのに、どうして

こうも繰り返し

説明されるのだろう

 

「真理を証するということと

光が真理を証するということと

光が闇を破るということと

その間に、この、間といって、

無間といって、

隔つものがないんでしょう。

つまり、

光が現れるということと

闇が破られるということと

同時なんでしょう。

また

闇が破られるということと

真理があらわになる

ということが同時なんだ。

それを無間というんじゃないか

と思います。」

 

その無間ということを

説明されるのに

光が出れば闇は消える

ということを随分と丁寧に

話しておられます

その次には、

 

「太陽が出て

夜が明けるという。

その、光が出るということと

夜が明けるという間に

媒介するものがない。

闇を倒すというような

第三者がいらない。

何か、

闇を倒すものが別に

そこにあるわけじゃない。

光が出たということが

闇がなくなること。

 

つまり、

光が出てもやね、

闇はわしゃまだおる

というようなことを

いうことはない。

おまえも来たかも知らんけど

わしゃまだおりたい

というようなことを

闇はいわないですわ。

 

光が出れば、

闇は満足して消えていく

いやいや消えるんじゃない

満足して消える

ということは

闇の全体が光になってしまう」

 

というように続くのですが

どうにも分からなかった

何回か読み返していくうち

一つのヒントが分かったのは

闇ということを煩悩と

いうことに置き換えたら

何となく分かるような

 

聞法したり修行したり

するうちに何となく

分かったような気分になる

しかし、

それは気分であって

闇が晴れたわけではない

さとりが来たわけではない

その証拠に

迷いの方が恋しいと

思っているのです

 

「分っちゃいるけど

  止められない」

という歌がありましたが

本当に真実が分かれば

スッパト止めやれるはずです

ところが、

「まあこれくらい」

と、自分を許してしまう

これ以上飲んだら死ぬよ

と言われれば

その場で止めることが

できると思うのです。

 

ですから、

私たちの本心は

光も欲しいけど

まだ闇の部分も捨てがたい

闇が恋しい部分もある

ですから、講義の中で

「闇はわしゃまだおりたい

ということはない、

光が出れば。」

ということがありましたが 

私たちの心は

闇の方がまだおりたい

と言っているのでしょう。

 

これでも分かっては

いないのでしょうが

何か、読み返すうちに

ヒントのようなものが

見えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

工夫(くふう)

2021-08-25 20:44:01 | 住職の活動日記

パラリンピックの競技が

始まりました

水泳の競技を見たのですが

障害の度合いによって

細かく分けられています

その中で、感動したのが

S2 というクラスの水泳

数字が少ないほど障害が

重くなります

 

山田美幸選手

生まれつき両腕がなく

足も短くそれも長さも違う

どうやって泳ぐのかと

思いきや

短い脚を巧みに動かし

予選でも2位通過です

 

両手両足揃っていながら

上手に泳げない私には

神々しくも見えてきます

ないものねだりではなく

あるものを最大に生かす

そういうスタイルを見出す

までにはどれほどの努力と

工夫が必要だったのでしょう

 

今日はパラリンピックの応援で

一日過ぎましたが

持っている障害を最大に

工夫してそれを生かして

自分の武器として

戦っておられる姿に

ほれぼれと見取れます

本当に凄いな

「やればできる」

ということを

身をもって証明されています

 

ところで、

この「工夫」という言葉

仏教用語で特に禅宗で

使われるようですが、

元の意味は

工事に従う作業人夫のことを

いっていたのですが

その黙々として精励すること

から常に修養に心がけ

努力することを表すように

なりました

そこから今使っている

考えを凝らし良い方法を見出す

ということになりました

また、

工面(くめん)という言葉も

同じ意味なのですが

こちらはもっぱら

お金を工面するとか

その方で使われるようです

 

創意工夫、ということもあって

やはりちょっとしたことでも

工夫してうまく行った時には

うれしいものです

私の母も

何だかそういうことが好きで

板の切れ端とか取っておいて

それで上手に棚を作って

お茶の道具類を閉まっていた

ようです

 

今のように使い捨てでない時代

何でも取っておいて

何かに仕えるのでは

何かに工夫できないかと

考えたものです

 

しかしそのことが

今では何でもため込むという

大きな弊害をもたらしています

年とともに断捨離をしなくては

と思うのですが

なかなか捨てられないのが

現実です

 

この「工夫」ということも

原点に返って

黙々と努力し自分の修養に

心がけなければと

思うのです

選手の方々を見ていると

元の意味のように

黙々と努力して

自分にある良いところを

見出し、それを生かす工夫を

されているようです

ですからその試合は

健常者の方々の試合よりも

はるかに面白く楽しい

ものがあります

 

そういえば、

先程の山田美幸選手

早くも銀メダルを取られた

ようです

本当におめでとうございます

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

痛いところを突く

2021-08-24 20:49:08 | 住職の活動日記

パラリンピックが始まりました

日本の旗手を務めるのは

卓球の「岩渕選手」です

これからの入場のようです

 

岩渕選手のドキュメントが

あって

その時の言葉に驚いたのですが

試合になると

相手の選手のハンディーの

ところを攻めるということです

せめてそのハンディーの部分は

遠慮して他のところで

正々堂々と戦うかと思いきや

ハンディーを持ってるところを

あえて攻めるというのです

 

なかなかきつい

岩渕選手は足にハンディーが

あって

左右の動きが苦手

すると

左右に振るような

球を打ってくる

それで岩渕選手は上下の動きで

素早く打ち返す

 

相手の弱点を攻めるというのは

定石かもしれませんが

パラリンピックでもそうなのか

と驚きました

 

しかし、

これは人間を鍛えるには

一番いい方法かもしれません

仏道修行においても

ただ傍から見て立派そうに

見えるような修行は

本当は自分を鍛えないのです

 

師匠もそうでしたが

聞法会の後とか

よく私自身の煩悩を見つけては

今までの人生を

全否定されるような

痛いところを突いてきます

これは堪えます

 

しかし

そこまでしないと

自分に潜んでいる煩悩は

発見できないし

対治する手掛かりも

見つからないのです

それほど煩悩の根は深く

しぶといのです

 

岩渕選手もずいぶん悩まれた

ようです

自分の弱点を見つけては

そこを突いてくる

それでその弱点を超える

練習を積み重ねて

克服していく

それで強くなっていく

その繰り返しのようです

 

師匠も自分でも分からない

煩悩を見つけては

厳しく注意していく

それは自分も同じものを持って

その煩悩に悩まれた結果

私に潜む煩悩がみえてくる

注意できるということは

同じものを自分も持っている

という証拠のようです

 

お釈迦さまも

さとりを開かれたということは

自分にある煩悩をすべて見つけて

その煩悩を克服されて

さらに、その克服できる道筋を

見つけられたというのでしょう

 

自分にとって、

痛いと突いてくることは

反面教師で

それこそが自分を鍛え上げる

一番の教師でしょう

 

優しい言葉だけでは

私たちがもっている煩悩は

対治できないし

本当の自分も出てこないのです

厳しい言葉にこそ

自分が翻るヒントがあるようです

不動明王のあの怒りの表情も

そういう自分で持てあますような

煩悩を対治する一つの

表現のようにも思います。

 

岩渕選手の試合も

楽しみに応援しようと

思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

止観シカン が 双行ソウギョウ

2021-08-23 19:57:22 | 十地経

止観、止と観ということで

二つの行で双行ということが

十地経講義でよく出てきます。

 

「止というのは

非常に静かなこと、三昧です。

そして、観というのは

一つの智慧のはたらきです。」

 

この止観ということを

説明するのに、

止観を妨げる煩悩という面から

みるとよくわかります。

 

「止を妨げるのは掉挙ジョウコ

手偏に卓という字を書く。掉。

そわそわすることです。

それから観を妨げるのを

惛沈コンチンという。

惛、昏睡状態の惛ね。

それから沈はしずむ。

 

それで、この掉挙というのは

そわそわしとる。

それから、惛沈といいうのは

それの正反対で、

何か気分が沈んでしまう。

いやになってくるとか、

憂鬱になってくるとかいって

観というようなはたらきが

できない。

気力がなくなって沈んでしまって

観を妨げる惛沈。

それから止を妨げるという時

何か静かになろうとすると

何かなれん。

静かにしようとすればするほど

騒がしくなる。

 

そこに、

有名な禅僧が、白隠禅師という

えらいきつい顔した禅僧ですわ。

荒っぽいね、禅僧ですけど。

白隠禅師の逸話がたくさん

残っとる、

座禅やろうと思って、

足を組んで瞑想しとった

ところが、

三年ほど前に隣りの婆さんに

米1合貸してあったのを

思い出したという。

とうに忘れとるはず。

米1合くらい

もうどうでもいいんだから、

頭に忘れとるはずなのに

座禅しようと思って

出てきたものは、

婆さんに米1合貸したのを

思い出した。

とんでもないことを思い出す。

それほどつまり、

落ち着けんのです。

忘れとるような意識まで

蘇ってきてじっとしておれん

のが掉挙という。」

 

こういう、掉挙と惛沈

止と観とを妨げる煩悩

静かに坐ってものごとを

考えようとすると

突然、昔のことが思い出して

きて、無性に腹が立ったり

静かになろうとすればするほど

いろんなものが出てくる。

 

あるとき、

立派といわれる管長さんに

このことを聞いたのです

お参りしていて、

心が静かになると

とんでもないことが

心の中に出てくるのですが

どうしたらいいですか、と

すると、

自分もそうだと、

すまして、壇の上に

上がっているけど

心の中はざわついている。と

その話を聞いて

自分もほっとしたことが

あったのですが、

 

今度は年とともに

惛沈というか

心が沈んできて

気力が出てこない

ということがあります。

若い時は何かしら

そわそわうきうきして

落ち着かないのですが

年取ってくると

気持ちが沈んで

元気が出てこないという

ことがあるようです。

 

ですから、

止観の行というのは

気力体力十分でないと

できないようにも思えるのです

しかし、

そこは訓練(行)で

そわそわするといっておれば

なおさらそわそわする

その出てくる心を

あぶくが水の底から出てくる

ようなもので

出たあぶくを追っかけていると

気になってくるので

出た泡をじっと見る

また出た、また出てきたと

その出てくることを

静かに見ていると

自然と気になくなるという

ということがあるようです。

 

奮い立たせるというのも

そういう心を

折に触れて出すことに

切り替えていくと

切り替えた心が次の心を

生み出してくるようです。

 

しかし、

このことも死ぬまでの

行のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一歩一歩

2021-08-19 20:55:51 | 十地経

「三歩進んで二歩下がる」

という歌もありますが、

安田先生も、この

「一歩一歩」ということを

仰っておられます。

 

飛躍をふせぐという意味で

修行の実践は一歩一歩

飛躍はないということです。

 

この「歩」という字は

止へんの部になり、

この意味は足あとということで

そこから、しずか、という

意味も出てきます。

そこで「歩」は二またぎ

ということから

あゆむという意味になった

ということです

 

講義では、

「菩薩の十地というのは

安住するところを地という。

だから、十地と、

一歩一歩、なんか

高いところへ行っているように

も見えるけどもですね、

一歩一歩、空になっている

んです、ある意味で。

減っていっとるんです。

一歩一歩進んで

いきよるのではない。

一歩一歩退歩してきよるとも

いえるんです。

それは行くというよりも、

還るといった方がいい。

一歩一歩本来のものに

還って行くという、

こういうような意味もある。」

 

また、飛躍ということを

許さんということで

 

「むしろ飛躍ということをいう

本当の意味の飛躍は一歩一歩

飛躍しとると。

非連続の連続なんだと。

こういう意味で、

一歩一歩飛躍しとる。

一歩一歩という時には、

もがいて一歩一歩じゃない

安住して一歩一歩なんだ。

そのどの一歩をとってきても、

それは完成しとるんです。

不満だから次へ移って

行くのじゃない。

満足しとるが故に

次に移って行く。」

 

というように、

まだ他にも一歩一歩という

ことは仰っています。

 

ふと、このことで

思い出すのは、

やっていることが

何かしら壁にあったりして

なんとか新しいことを

生み出していこうと

今までのことを変更して

新しいことを企画したり

しようとしたとき、

三浦先生は

今までのことを十分に

できなかったら

新しいことをしてはいけない

ということをよく言われました

 

やはり一つのことが

十分に完成しなかったら

次次と新しいことを

やるのはいけないというのです

たぶん、

この時の講義で、

先の文に続くのですが

 

「AはAとして円満であるが

故に必ず他の円満を

呼び起こしてくる、

Bというね。

Aが不完全であるなら

Bに移れん。

AがAとして完成しとるから

して、

完成したものは完成したもの

に対して完成しとる。

だからBを呼び起こしてくる」

 

ということですが

何かしら難しい気もしますが

一つのものが完成してこそ

次に移れる

ということです。

完成してないから新しいもの

といって移るのは

それは次から次へと

流転というか迷いなのでしょう

 

一つ一つ完成していけば

必ず次のものが生まれてくる

それまでは変えてはいけない

ということです。

そこに

今までの事業を継続するか

新しいものに切り替えるかの

難しい選択があります。

講義の内容からすれば

今やっていることに

満足できなかったら

次の新しいことはできない

ということのようです。

 

話は違いますが

三浦先生はそういうことから

宴席の後、

みな、はしごといって

次から次へと飲みに

行くのですが

先生は絶対にそのことは

禁止されました

その場所で満足できなかったら

次に行っても満足できない

ですから、

食べたり飲んだりする時も

その場所で十分に飲み語り

ということをされていました

そのことは、

知らず知らずのうちに

私にも

身に付いたように思います。

 

話しはそれましたが

一歩一歩、歩むところに

次のものを生み出し

今現在のことに満足できる

ことが出来るのだと

思います。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする