本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

真空にして妙有

2021-09-30 20:29:51 | 十地経

「真空妙有」

という熟語としてあります

仏教にも大きく二つの流れ

というものがあって

一つは「空」という

一切は空であるというような

般若経に代表される

空という立場です

それとは反対に

一切は有であるという

説一切有部という

学派もありますが

どちらかというと唯識に

代表される

「あるものはある、

ないものはない」

という

何かしら分かりきったような

 

ここで出てきた

「真空妙有」は

本当の空ということは

実に妙なる有である

というように

「妙」という字も

みょうだな~、と

たえ、とも読みますが

なんともみょうな字です

 

妙というのは

不可思議と訳されます

他と比べることが出来ない

それで、

勝れて不可思議な法を

「妙法」といいます

 

最近、ふしぎちゃん

ということを耳にしますが

ちょっと変な人?

なんともつかみどころのない

そういう人のことでしょうか

妙なる人なのです

不可思議ですから

自分の物差しで計りきれない

そういう人を言うのでしょうか

 

講義では

「真空が成り立つのは第六地

真空というものにおいて

妙が成り立つと。

それで、真空が妙有、

はたらかんのはなんか、

真空は間違いないけど、

またそこに

過失を含んでいる。

 

真空の真理は間違いないけど

真空に執着するということが

真空がいかに立派であっても

真空に執着すると

汚れてしまうと。

どんないいものであっても

それを私有化したら

所有したら汚れるんです

 

だから、その真空の障りを

対治するということは

真空をやめにするんじゃない

真空が妙有するんだ。

得た真理がはたらいてくる

障りを対治することによって

ね。

真空妙有という。

真空と妙有と

二つあるわけじゃない。

真空が真に、空が真に

空となるということが

有なんです。

有こそ空そのものなんだ。」

 

このこととは

少し違うかもしれませんが、

ロボット工学の森政弘先生が

「物が人を育てる

  物は先生」

ということを言われてました

「物と人」

物ということを

「有」と考えるならば

人という心をもった生き物

ということは

心という形の無いものは

「空」といえるのでは

 

そう考えると、

人という心の空なるものは

物という有なるものによって

自由に発想することができる

心だけでは空回りする

物というものがあってこそ

心で考えたものが

現実のものとなる、

といえるのではないかと

思うのです。

 

空というのは人間の分別を

対治するのです

あれやこれや思う心を

対治する

何でもかんでも空であると

一切は空と、

人間のいろいろ考える考えを

一蹴していくのは

それはそれでいいと

思うのですが

その後の蹴とばした後の

整理はどうするのかというと

あるものはある

ないものはないと

整理整頓していくのが

唯識の学問ののようです。

 

有ということと

空ということ

空ということが

本当にはたらく場所は

有ということでしょう。

 

難しい問題ですが

また出てきますので

考えていきます。

 

 

 

 

 

 

 

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玉ねぎの花

2021-09-29 20:23:39 | フラワー

ご近所を訪ねたら

玄関先にめずらしい花

お聞きすると

「玉ねぎの花」と

 

 

こんな可愛い花が咲くのです

花博の時に求めたそうで

普通はネギ坊主の様な球形の

花なんですが

この花は特別に改良して

こういう花にしたのでしょう

 

 

初めてみる花に

とても感動しました

 

 

次の日、また

訪ねたら、

その日は雨のせいか

つぼんでいました

 

 

気温の変化でつぼんだり

咲いたりするようです

 

 

今頃、

近くで見かける野の花たちは

 

 

この白い小さな花

コヒルガオのような

 

 

沿線沿いに今一番誇っています

なんともたくましい花です

 

 

その中にあって一際

色彩を放っているのは

七変化

次第に変わっていく色の変化

を見ていくのも楽しいもです

菩提樹苑にもたくさんあって

夏のきつい日差しの中でも

元気に咲いている姿は

お参りしていてもほっとする

好きな花です。

 

韮・大蒜(ニラ、ニンニク)

というネギ類は

修行中は口に出来ません

やはり精が付くということで

いらんエネルギーを出す

元になるということでしょう

しかし、

今日、見たような

玉ねぎの花は

心を静めてくれるものです

可愛い花との出会いでした。

 

 

 

 

 

 

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無意味の意味

2021-09-28 20:26:34 | 十地経

「無意味といっても

意味がないことではない

かえって

無が意味なのです。

無の意味があります。

意味がないのではない。

無こそ本当の意味を

あらわしている。」

 

この言葉は

とても心に響いた言葉です

そして考えさせられます

 

若い時に聞いた言葉に

「鳥が飛んだ

飛んだという事実はあるが

跡形は残らない」

聞いた時には

ピンときませんでした

当たり前のことではないかと

しかし

この歳になってくると

なんだか、身に沁みて

感じてくることがあるのです

 

反対に考えると

誰でも自分の生きた証を

残そうとするものです

生きたという事実を

何か形として

残しておこうとします

 

生きたという事実だけで

いいのではないか

自分が精一杯生きれば

自分が自分で自分に頷けたら

それこそが

最高の生き方ではないかと

思います

 

あれやこれやと

言うてるうちは何か一物

あるのでしょう

無から生まれ無に帰っていく

それが一番自然のようです

 

無ということが

本当の意味を表している

なんとなく

腑に落ちる言葉です。

 

 

 

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自己肯定感 あるがままの自分を愛する

2021-09-27 20:24:13 | 住職の活動日記

リビング新聞でしたか

あるがままの自分を愛する

大人のための自己肯定感

という題で

記事が載っていました

 

何となく納得できるような

年をとってくると

自分を否定されるより

自分をどこかで認めてもらう

ことの方が心地よいようです

しかし、

修行時代は全く逆で

自己を否定する

ということから始まります

まあ少しくらいいいところが

あるように

思っていたのですが

頭から足の先まで一切合切

すべて否定されるのです

 

この修行は他のいかなる

修行よりも精神的に堪える

ように思います

滝に打たれたり断食なぞ

これに比べたらなんのことは

ないように思います

 

ここでいわれている

自己肯定感とは

それとは違って

お互いの違いを認めるという

ぞうさんの歌を例にとり

「ぞうさん ぞうさん

おはなが ながいのね

そうよ 

かあさんもながいのよ」

この歌のように

自己肯定感の本質は

それぞれの動物には

優劣つけがたい特徴があり

それは人間一人一人も

同じなんだということを

いっておられます

 

「みんなちがって

  みんないい」

という、金子みすゞさんの

詩がありますが

違っているということが

当たり前で、

同じであることの方が

気持ち悪いような

そんな気もしますが

 

また、

「自己肯定感は

愛情でふくらませるもの」

ともいっておられます

それは

私たちはみんな自己肯定感

という浮き輪を持っている

それが愛情で十分に

ふくらんでいれば

気持ちよく

海に浮かんでいられる

ということです

 

これは、別の言葉で言えば

復元力ということでしょう

どんなに嵐が来ても

もとに帰る復元力を具えて

いれば大丈夫

その復元力は母親の愛情

ということができます

 

修行時代

全否定されるということは

まるで嵐のようです

その時の辛さを支えて

くれるものは母の愛情

だったようです

 

お釈迦さまは

さとりを開かれたあとも

布薩会フサツエということがあって

そのとき、もし自分に

戒を犯したところがあれば

遠慮なくいってほしいと

常に自分を戒め

自分を肯定することなく

自分を否定する立場に立たれ

たということです

 

それは『十地経』でも

このお経そのものが

自分の過失を見つけ

それを対治していくという

さとりの中にも過失がある

ということです

それが十という段階を

設けているのです

お釈迦さまでも、これでいい

ということはなく

常に歩み続けて

自分の非を見つけておられた

ということです

 

あるときには

自己肯定感というのは

心の糧になるでしょう

それはとても大切なことです

しかし、

自分を肯定するばかりでは

本当のことは

見えてこないようです。

 

難しい、一点ですね。

 

 

 

 

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中隋煩悩(無慚・無愧)

2021-09-26 21:01:50 | 十地経

煩悩という

見や心を煩わせ、悩ませ、

かき乱し、惑わす、汚す、

そういう心の状態ですが

その煩悩にも、三大煩悩から

始まって

大隋煩悩・中隋煩悩・

そして小隋煩悩とあります

大中小というのは

大きい小さいという

ことではなく

煩悩がおこる範囲のことです

幅広く、いろんな心に対して

起こるのもあれば

狭い範囲で起こる

そして単独で起こる煩悩も

あるということです

 

この中隋煩悩チュウズイボンノウ

は無慚ムザン・無愧ムキという

二つだけです

次の大隋煩悩は八つあって

掉挙ジョウコ・惛沈コンチン

不信・懈怠ケタイ・放逸ホウイツ

失念・散乱・不正知で

これはあらゆる染心について

起こるという煩悩です

 

無慚・無愧ということですが

修験の方々がお山に入るとき

「慚愧懺悔六根清浄」

と唱えながら歩かれます

慚愧に堪えない、

ということがあるように

自分自身についても

社会についても恥じ入る

というようなことでしょう

 

この中隋煩悩は

人間を確保するという

倫理の問題で

それに対して

反倫理的な心理を

無慚・無愧といっています

ところが

信仰というものには

時々危険があって、

倫理をはねとばすという

ような考えの人がいますが

それは行き過ぎだと

思います

それは倫理ということは

人間が人間らしさを

確保するということです

 

仏道を行じるということは

人間にして初めて成り立つ

人間を失うならば

仏道も成り立たない

ということです

 

面白いのもで

仏からほめられるか、

嫌われるか

これが人間として根本的な

分かれ道であります

我執のある人間というのは

仏の目からは嫌な人間である

仏にきらわれる

我執とはそういうことで

世間からは何もきらわれる

ものではない

我執で慈善事業をやっている

人もあります

我執で人の世話をしている

人はたくさんおられます

その人は世間からは

なにも嫌われてはいない

しかし

そういう人を嫌うのは

仏だけということがあります

そういうように

染心という隋煩悩は

非常に範囲が広くはたらく

ということで

世間でいう善をも包む

ということです

 

お経の中に

「無顧の悪人

  他の勝徳を破す」

ということがでています

自己を顧みない、また

真理を顧みない

そういう悪人は、今度は

他人がいいことをしていると

それをかえって壊す

というのです

 

自分ができないから

恥ずかしいということがなく

出来ないから申し訳ない

ということで終われば

いいのですが

今度は他人のやっている

勝れた徳まで壊しにかかる

というのです

 

無慚というのは

自と法とを顧みないと

ありますが

自暴自棄ということが

あるように顧みない

ということは

悪い意味で

自分を投げ出している

そして法ですから心理までも

尊重する心がない

ということです

 

それで、無慚無愧のところに

罪がおこると言われています

 

反対に、慚・愧を大切にする

ということは

自己に忠実だということです

これは非常に大事なことで

現代は自己が壊れている

といってもいいでしょう

犯罪ということは今の世相を

よくあらわしているようです

結局、

この自分を顧みる

ということが

なくなってきているところに

慚愧という問題があるようです

 

 

 

 

 

 

 

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仏教でいう救いとは

2021-09-24 20:23:21 | 十地経

宗教というと救いとか救済とか

今ではご利益ということが

お参りの中心になるようで

何でもそちらの方引っ張られ

ご利益があることが

そのお寺とか神社の価値観に

なってきているようです

 

若い頃から、

どうにもそこらのことが

疑問があって

心の中ではご利益だけが

宗教じゃないだろうと

思いながらも

答えが

見つからなかったのです

 

十地経の講義は

ずっとここの段は

真理ということについて

いろいろな見方で説明されて

おられます

 

「これ(真理)は

誰にでもあるというような

ものじゃないかと

思うんですね。

それはその、

仏にだけあるもんじゃない。

凡夫にもある。

凡夫というあり方でも

失わんものです。

仏だけにあるものじゃない

凡夫にもあるものだと。

ただそれを、

それに出遇わんだけだ。

出遇わぬから凡夫に

なっとるだけの話だ。

出遇えば仏です。

そういうのが、まあ

自覚というもんじゃないか。

人間が自分を自覚するんです

自覚道ですね。

 

救済ということも、

キリスト教の救済と違うのは

仏教の救済は自覚という

意味が救済。

まあ救済でもいいけど、

本当に救われるということは

自覚するということが

本当に救われることだと。

自覚こそ本当の意味の

救済だと。

 

自覚の後に救済というものが

ついてくるんじゃない。

自覚ということの中に

救済があるんだと。

真理という見出された真理に

満足するということが

救いなんだと。

その真理を使って何か利益を

得るというのが救いじゃない

 

信仰を得たということが

救いなんですわ。

信仰を得れば、

それ以外のことを求めん

という。

それが救いじゃないか。

 

だからして、

流転というのも

信仰の中で流転する

そうすれば、

流転も流転ではないと。

かえって流転ということが

信仰を磨くものになってくる

あえて流転して差し支えない

と。

こういうものになってくる。

そういうのが仏教の意味の

救いじゃないかね。」

 

自覚が救いであると

自分自身を自覚することが

救いであると

述べておられます

なるほどと思うのですが

もう一つ考えてみると

分かったようで分からない

 

自覚ということが

本当の自分自身を知る

本当の自分とは

文中には

出遇えば仏、

出遇わぬから凡夫なんだと

と出てきますが

本当の自分とは自分の中に

眠っているほとけ

ということでしょうが

 

ほとけというと

何か立派なものを考えて

しまいがちですが

一面にはそういうことも

あるでしょう

しかし現実には

自分の本当の姿とは

悩み苦しんでいる自分

ということで

迷いの中にある自分という

そういうなかから

その迷いを

信仰を磨く糧にする

 

迷いという流転を排除する

ということではなく

迷いということを自覚する

迷いということが分かるのは

迷わぬものに触れているから

なのです

そういう自覚の仕方が

あるように思うのですが

 

まあ、理解しようとせず

そのまま読み込んでいけば

それでいいのでしょう。

何かしら難しいのですが

楽しいものです。

 

 

 

 

 

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若宮八幡の彼岸花

2021-09-23 20:22:39 | 住職の活動日記

少し南へ走ったところに

若宮八幡という小さなお社が

あります

 

 

この近くには石清水八幡宮が

あるのでその末社でしょう

そこの境内に群生する彼岸花

 

 

木立の中に自然発生的に

生えだしたようです

その塊塊が密集しています

 

 

もう少し間隔をおいて

生えそろえばもっと美しい

のかもしれません

 

若宮八幡社も各地に

たくさんあります

八幡神といえばいろいろ説が

ありますが

一応、応神天皇とその両親の

母の神功皇后、父の仲哀天皇

といわれています

東寺にも最古の八幡神があり

とても大きく立派なお姿です

 

若宮というのですから

応神天皇の子(皇太子・若宮)

をお祀りしたものですから

仁徳天皇ということになります

ここにも伝説があり

宇治の地名のもとになった

莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)

という、

応神天皇の寵愛を受け

次の皇太子だったのですが

異母兄弟の応神天皇に

皇位を譲るべく自殺した

という美談があります

 

それで莵道稚郎子は

宇治橋の近くに祀られています

莵道ウジ→宇治になり

御陵がある近くの地名は

莵道と書いて、トドウと

読んでいます

 

そういうことを思いながら

不思議な縁を感じ

お参りもしながらの

彼岸花の中の散策となった

ということです

 

 

行儀よく並んだ姿もあり

 

 

木の割れ目の中に根を張った

ものもあります

どうやってここまで来たのか

考えてしまいます

 

 

欅と椎の木でしょうか

根を絡み合わせた

これでお互い共存共栄の

いのちを守っているようです

その下の小さな葉っぱ

 

 

表からみると緑色

こうやって裏からみると

紅葉し始めているようです

 

 

木の根っ子には子供たちが

集めたのでしょう

どんぐりがあるのですが

この中から一つでも

芽が出てくると

楽しいですね

我が家でも二本出てきました

 

 

最後にもう一枚

この力強い彼岸花達を

見てください。

 

 

 

 

 

 

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夫仏法非遥 心中即近

2021-09-22 21:13:56 | 十地経

真理ということは

覆われてあるということが

いわれていますが

自分の目で見ようとしても

見つからない

ということがあったのですが

講義はさらに進んで、

真理ということについて

次のように出てきます

 

「十地の智、

十地のなしとる智慧という

ものは、

ある意味からいうと

偉い専門家の、学者の認識

という具合にも考えられる

けど、

ある意味からいうと、

誰でも持っとるもの

という意味だ。

 

真理、我々が真理を、

真理というものは誰かに

あるものじゃない。

誰にでもいつでもあるもの

だと。

ただ隠してあるんだと。

知らずに持っとるもんだと。

 

人間というものは

真理というものをですね、

知らんという形で

持っとるんだ。

ないんじゃない。

自分に持っとる真理という

ものを持っとる

ということを忘れて

外に捜すという。

その時に迷いというものが

出てくる。

自分に持っとる真理を忘れて

外に探す。

 

それがさっきいったように

真理をつかもうということが

かえって真理から遠ざかる。」

 

このことを読みながら

思い出したのは

弘法大師の著作に

『般若心経秘鍵』

というものがあります

ここでは秘密の鍵です

『秘蔵宝鑰』の場合は

鑰という鍵を使って

おられます。

 

その中に有名な一句で

 

「夫れ仏法は遥かに非ずして

心中にして即ち近し

真如他に非ずして

身を捨てて何んか求めん

迷悟我に在れば

則ち発心すれば

即ち到る」

 

と続いていくのですが

同じように仏法(真理)は

なにも遠くにあるのではなく

自分自身の中にあるのだと

「身を捨てて」

ということが鍵で

普通は、身を捨てずして

仏法を求めようとするのです

ここに弘法大師は

『十住心論』でその道程の

修行ということを

述べておられるのでは

ないでしょうか。

 

『十地経』では

十地という段階の修行

自分の今までの考えを対治して

その対治の段階が十という

ことになるのでしょう。

 

よく、

自分探しの旅に出る

ということを言う人が

いますが、

その時点ですでに

自分から遠ざかっている

のではないでしょうか

本当の自分というものは

外にあるのではなく

自分自身にあるということ

なのですから。

 

十地経を読みながら

ふと

このことが浮かんだのですが

やはり同じことを言っている

ようですね。

 

 

 

 

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真理は覆われてあると同時に開かれてある

2021-09-21 20:27:27 | 十地経

この毎月の講義、

私たちにはいつも新鮮に響く

のですが、

先生にしてみれば

同じ事を繰り返し述べて

おられるようです。

 

「毎月、こりゃこんなとこ

おんなじことばかり話して

時間がのうなって、

一向、本文に入れんけど、」

と話しておられるのですが

一月たつときれいに忘れて

私には万劫初事のように

初めて聞くことばかり

だったようにおもいます。

 

「真理のあり方として、

一面には真理はですね、

覆われとるということも

開かれとるということも

超えとるんです。

覆われる、開かれる

というのは人間の側にある。

人間が覆うと。

真理が隠れとるんじゃない。

真理が頑張って隠れとらせん

人間の方が隠しとるんです。」

 

というように、

開かれてある隠れてある

ということは人間の問題で

真理の方ではない

ということです。

ここのところで

ふと思うのは

弘法大師の著作に

『秘蔵宝鑰』ヒゾウホウヤク

というのがあります

まだ、

読んだことはないのですが

題からして感じるのは

鑰ヤクというのは鍵のことで

それも宝の鍵、

秘密の蔵を開く宝の鍵

何とも好い題をつけたものと

弘法大師の言葉に対する

センスの良さを感じます。

 

この本は、『十住心論』を

要約したもので

『十住心論』も同じく

『十地経』が

もとになっています。

言葉にもキーワードがあって

その言葉が重要なカギに

なっています

『十地経』も初歓喜地と

第七遠行地、第八不動地の

三地に要約されると

話されておられました。

 

それで、

「これは不思議な話ですが、

人間のどこが隠しとるかと

いえば、

真理を知ろうとする心が

真理を隠しとる。

なんというか、

運命というものはそいう

ところにある。

真理をつかもうということが

真理から遠ざかる道なんだ。

意識の大きな矛盾があるでしょ

 

真理は知るということを

超えとるけども、

知るということは人間にある

その知るということのため、

に先だっては

覆われとるということがある

覆われとるということが

ないんなら、

知るということもまたない。

こういう不思議な構造を

もっていますね。

こういう構造の上に

十地というものは成り立った

んだ。」

 

なかなか難解な文です

書いたり読んだり

繰り返しているのですが

日常の頭で読もうとすると

分からないのでしょう。

 

なんか、

自己否定ということが

ありますが

今までの自分の意識を

否定する

自分の自我や

自分が今まで固執していた

考え方を捨てない限りは

本当の真理の言葉は

聞こえてこないのでしょう

 

真理は隠れてある

ということは真理の側でなく

人間の側にあるというのは

そういうことでしょう

自分の凝り固まった考えで

いくら真理を見ようとしても

見えないものです

 

そこに秘密の蔵を開く鍵と

弘法大師はいわれますが

その鍵は自分の問題で

自分が今まで持っていた

考えを捨てよ

ということでしょう

 

真理は開かれてある

というのは

自分の固執が破れたとき

そこにはオープンになった

真理があるのでは

なかろうかと思うのです

 

私自身今もって

自分の固執が

破られていないので

そこのところは

なんともいえないのですが

 

十地の歩みがある

ということは

その自分の固執や我痴我見を

破っていくという

そういう

道程ではなかろうかと

思うのです。

 

 

 

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少年易老学難成

2021-09-20 19:38:04 | 住職の活動日記

過ぎてみたらあっという間

気分はいつまでも若い

つもりでも、早や70を過ぎ

この世といつお別れしなければ

いけないかという

年になってきています

今年は人口の約30%が

高齢者という

世界でも稀な国に

なってきました。

 

「少年老い易く学成り難し」

まさしくその通りです

「一寸の光陰軽んずべからず」

と続くのですが

その通りの罰が来たようで

一寸の時間を

軽んじたばかりに

今更取り返しのつかない

ことになってきたようです。

 

中学生の時でしたか

国語の先生が年をめされた

方で、なんでも暗記

ということで、

この一文も暗記させられました

そのせいか、

その記憶は今でも残っていて

この一文だけはすらすらと

出てくるのです

その上、中国語の発音でも

やらされたものですから

なお更、記憶にとどまって

いたのでしょう。

 

聞き覚えによると

「シャウネンイラオ

シレナンチョン

イーツワンクワンイン

プウコウチン」

みたいなもので

正確かどうか分かりませんが

韻を踏むところを

感じてほしいという

ことだったようです。

 

しかし、その後の

「未覚池塘春草夢

 階前梧葉已秋声」

のところは中国語の音は

忘れてしまいました。

やはりこの言葉のように

池塘春草の夢ですから

若かりし頃の楽しかった

思い出に

いつまでも浸っている

ということでしょう

そうしているうちに

青桐の葉はすでに

秋声ですから

枯れ始めているという

ことなのでしょう。

 

若かりし頃は

元気よく声に出して

この句を読んでいたのですが

今になってみると

あまりに自分の身と

重なってくるので

何となく重苦しく響いて

くるものです。

 

人生修行からいえば

到達点というものはなく

いつでも修行を行じていれば

それが到達点だと

そして出発点だと思うのです

 

迷いには初めがなくて

終わりがある

さとりには初めがあって

終わりがない

ということを言います

そうだと!

頷いた時が出発で

そこから死ぬまでの修行が

始まっていく

ということです。

 

さすれば、

死ぬまで修行で励んで行けば

学が成ろうが、成るまいが

それこそが

一瞬一瞬が完成している

ということではないでしょうか

 

少々不良老人ではありますが

遅々とした歩みながら

一歩一歩歩み続けることが

我が人生ではないかと

思うのです。

 

 

 

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