本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

根を養えば樹は自ずから育つ

2023-04-29 21:13:45 | 住職の活動日記

根のハタラキ

土を耕し、肥料をやり

水を遣れば、

樹自身は自ずから

育ってくるということです

 

 

デンドロビウム

というのでしょう

昨年頂いたものですが

花が咲いた後

そのままにしていたら

下から新しい葉が出てきて

それを仕立てていたら

花まで咲きだしたのです

 

 

見れば見るほど不思議で

どうやってこんな美しい

花が咲いてくるのだろう

 

 

根元には白い根らしきものが

伸びだしています

この根がわずかな水を吸い

それが茎に入り

花というものを咲かせる

どこでどうなって

花になっていくのか

考えても分かりません

 

こういうことを先人たちは

根コン というはたらきと

みたのでしょう

六根・五根ということを

いいます

眼根・耳根・鼻根・舌根・

身根、というのが五根で

それに意根を加えて六根と

六根清浄というのは

こういうハタラキを清める

ということです

 

眼球というのは見るハタラキ

その見たものを意識するのは

眼識です

ハタラキそのものを

根コン といったのです

こういう、種子(しゅうじ)と

いうことや、根(こん)という

そういう植物の働きから

人間のあり方を分析したのは

非常に面白いと思います

 

 

ですから、

花よりも根なのです

根のハタラキがなければ

花は育ちません

根のハタラキを有効にする

のは土のハタラキです

 

「土」ということも

仏教ではとても大事です

『十地経』というお経も

あるように

人間がよって立つ場所も

大地です

地がなければ安住することも

できないのです

 

自分の依って立つ

大地を見つけるということが

大変なことで

それが見つからないと

あちこち迷って

自分自身も見失って

しまうようです

依り所となる大地を

見つければ、例え迷っても

いいように思います

 

迷うということも

自分の依り所となる地が

見つからないでしょう

しかし、案外

今いるところに

足を着けてみると

妙に心も落ち着いてくる

ように思います。

 

 

花の咲く不思議さに

感動しながら

しばらくは楽しめそうです。

 

 

 

 

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Sollen(ゾレン)・当為・べし

2023-04-28 21:04:47 | 十地経

十地経講義の講義では

受講される方が高校の先生

ということもあって

安田先生は専門語・仏教語を

使わずにあらゆる言葉を

駆使しながら話されています

 

願(がん)ということも

とても大事なことです

菩薩の四弘誓願とか

本当の願ということで本願

そういうことを

ドイツ語の sollen と

…すべきだ、…するのが当然

だ、というような意味があり

また名詞としては

道徳的義務、当為(とうい)

という意味があります。

 

願い、というと

私たちにも

色々の願いがありますが

そういう理想ではなく

そういうものを振い落して

最終的に残っているもの

人間の根底に横たわっている

願ガンがあるのではないか

 

ということで講義では

「日本語では理想というと

ゾレン(sollen)といいますが

その場合、日本語の「べし」

という言葉は、

何か「すべきである」と、

なしうるということもですね

「すべし」という。

「汝なすべし」

ということは一つの命令で

あるとともにですね、えー、

なすべきであるという意味で

あの応、応という字ですね、

この応ずるという。」

 

ここのところを読んでいて

思いだすのは

洛南高校の校訓を作る時

自己を尊重せよ

真理を探究せよ

社会に献身せよ

というのですが、

「せよ」というのは

上から命令するようで

今の時代に

そぐわないのではないか

自己を尊重しましょう、

とか

自己を尊重しよう

という方がいいのではないか

という意見も出たのです

 

ところが、

三浦先生は

「自分が自分に向かって

命令するのだから、他から

命令されるのではない

自己が自己を呼び起こす

そういう言葉です」と

仰ったように思います

 

べし(可し)ということも

広辞苑には

個々の主観を超えた理のある

ことを納得して下す判断で

あることを示す。

と出ています。

また、当為ということも

人間の理想として、

「まさになすべきこと」

「まさにあるべきこと」

を意味するとあります。

 

この校訓も

人間として本来のあるべき姿

というものを

自分が自分に呼びかける

そういうものだと思います。

 

ここで「願」ということを

話されるのに

色々言葉を選びながら

宗教的言葉でなく

現代に生きる言葉でもって

話されています。

 

「我々が運命に生きとる

ということは一番いいのは

身体をもっとるということだ

文句いってみようがない。

それに対して願は自由です。

そこに身体を超えて

しかも身体に生きとると。

 

必然を超えて自由な精神が

やっぱり、自ら、

いやいや必然なんじゃない、

喜んで必然を取るわけです。

こういうものがやっぱり

我々が、人間が人間らしく

生きとるということの

構造じゃないかと思う。

 

だから、誰でもですね、

願というものがない人は

生活がない。ええ。

願というのもがね。」

 

「願というものが

なしうるという確信。

理想というだけじゃない、

理想の母胎なんだ。

自ら自分の中に理想を

建てていくんです。」

 

というように出てきますが

校訓ということも

人間としての願いですし

ここのところは

本当にいろいろの言葉

ドイツ語やなんでもない

「べし」という言葉の中に

本来持っている意味を

見出してこられるのは

本当に面白いところです。

 

 

 

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はや皐月がくる

2023-04-27 21:02:32 | 住職の活動日記

ここのところの気温の乱高下

体調がついていきません

昨日は雨ということもあり

気温も下がりセーターを

着こむほどでした

今日は五月晴れと

いうのでしょうか

気温も上がり気持ちの良い

晴れになりました

 

ご近所の菖蒲でしょうか

 

 

見事に大きな花びらを

広げています

菖蒲、あやめ、杜若

色々あるようですが

形も少しづつ違うようです

 

鴨川を歩いてみると

早くも

川床の準備が始まっている

ようです

 

 

大きなクレーンも入り

組み立てが始まっています

 

 

最近はこういう鉄骨で組む

というものが出てきています

組むのも大工さんではなく

鉄骨を組む職人さんと

変わってきているようです

 

 

ここは一度訪れたことのある

店のようです

中から見ると和風の様相

なんですが、下を見ると

鉄骨で組まれています

 

いつから店開きになる

のでしょうか

早かったら連休に向けての

開業かもしれません

 

 

近くの公園には鯉のぼりが

気持ちよく泳いでいます

桜が終わると

一気に季節は進んでいる

ようです

 

我が家でも

 

 

いつものアマリリスが

葉の横からニョっきりと

花の蕾を出しています

 

 

生け花で使われ

その球根を植えたのですが

毎年、こうやって

花を付けてくれるのは

楽しいものです

 

 

また、昨年頂いた

名前は忘れましたが

花が終わった後

下から出てきた茎を

育てていたら花を付けた

ということです

 

水しか遣ってこなかったのに

こうやって花を付ける

どこでどうやって

花が出てくるのでしょう

根から養分を吸い

根は葉から光合成で

養分を蓄え

花を咲かせる力とする

のでしょうが

実に不思議です

私たちには計り知れない

大きなハタラキが

あるようです。

 

 

 

 

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身(み)・身体・体・からだ

2023-04-26 20:15:30 | 十地経

体という場合、私はあえて

身体という字を使います

心と体が一つになったものを

「身体」ということで

からだという問題

ただのBODYということでは

表現されないことがある

ようです

 

仏教ではよく

法体とか法器という言葉を

使います

法を保っている身体

ということで、法体

法を支える器ということで

法器というのです

 

私たちがあるということは

物があるということとは

違います

ここに誰かとしてあるという

ことです

身ミ、身体ということも

ただあるというのではなく

誰かとしてここにある

ということです

 

安田先生の本でも

「仏教では悩まないものは

凡夫でない。

しかし、

現代人はさとったという

わけではない。

迷うとかさとるとかがない

のが現代人の人間観である。

そういうのを英語でイット

という。

イット存在。

それは十把ひとからげである

それとして存在する。

それ存在、

そういうものになっている。

凡夫でもない。

迷っている人間でもないし、

さとっている人間でもない。

ただあるだけの存在。

 

生きている存在でない。

机があるようにある存在。

それをイット存在、

それ存在という。

それが現代人である。」

 

と、述べておられます。

最近気になるのは

よく道端でも電車の中でも

ものを食べたり

はたまたお化粧をしたりと

平気でしておられます

そういう人から見れば

周りの人たちは

イット的な存在なのでしょう

人と人との関係性がある

というのなら

人前ではできないはずです

 

また、人が集団として

扱われる場合は

それこそイット存在として

扱われているのでしょう。

 

講義では

「身体というものは

非常に大事な概念です。

阿頼耶識というような意識を

立てるのは、

身体が成り立つ意識。

普通の意識は

身体を予想している

意識なんだ、

身体を前提としている。

ところが

阿頼耶識は身体を内容と

している意識なんだ。

そういう意味では

身というようなことは

阿頼耶識がなければ

成り立たないんだ。

 

で、身ということが

実存ということの一面なんだ

身というようなあり方を

しているところに

実存ということが

あるわけです。」

 

そこで先生は体ということを

英語ではBodyと一語ですが

やはりただ単に体・Bodyでは

すまされないということで

ドイツ語の

Körper ケルパア と

Leib ライプ という二つの言葉で

説明しておられます

どちらもBODYと

訳されますが

その反対語から

ケルパアの反対は精神という

ガイスト

ライプの反対はゼーレという

心ということで

説明しておられます。

 

「ちょうど身はね、

ケルパアですね。

身体という場合のこの、

肉体ということもいうです

けどライプというんですけど

ケルパアという場合の体ね、

身体という。

何かそこに、ケルパアは、

これはガイストという言葉に

対する概念ですけど、

その精神をもっとるもの、

精神が物質をもった場合に

それが身体になるんです。

 

身体というものは、

いつかどこか誰かである

ような、といったことが身体

つまり目がある鼻がある

というような意味ではなしに

いつかどこか誰かである

ような存在を、

の象徴がですね、

象徴というよりむしろ、

徴表といった方が

いいかも知らんね。

 

徴(しるし)やね。

そういうものが、身体と

いうものです。

いつかどこか誰かであると

いうことの徴ですね、

しとるものが身体なんだ。」

 

やはり「この身」といった

場合には

ただの体ではなく

いつかどこかという限定が

あり、誰かという責任も

あるような気がします

 

開経偈にある

「この身今生において」

と、今この身を受けている

そしてこの時においてと、

千載一遇のチャンスであるし

そのチャンスを

生かさなければ

ならないという

覚悟のような言葉に

聞こえてきます。

 

まあ、難しいのですが

身ということ

ただのBODYではない

そこには責任をもった

存在であるということが

あるように思います。

 

 

 

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菩提心が菩提になる

2023-04-25 20:04:47 | 十地経

この菩提ということが

『十地経』を貫いている

課題です

私たちの中にある菩提心が

菩提になっていく

その過程が『十地経』でしょう

 

菩提心といって

どこからか、

よそからもってくる

というものではなく

自分自身の中にあるのです

あるけどわからない

あるけれども

すぐには見つけ出せない

 

しかし、自分というものが

問題になる時

自分とは一体なんだ

本当の自分とは

自分の存在とは

そういう問いが起こったとき

人間は宗教的になっていく

本来の姿に引き戻されていく

のでしょう

そこからの歩みが

『十地経』というものの

構成のようです

 

「菩提心というのは

菩提が成就したのを如来と

いうんです、

如来蔵というんです。

つまり如来の母胎なんだ。

如来性(ニョライショウ)とも

いいます。

 

〔性・ショウ、

本来具えている性質。

衆生の生まれつき、素性

素質ということです〕

 

性という言葉、

それは、阿頼耶識でも

そうですけれども、

蔵しておるといっても

風呂敷に物を包んだように

蔵しているわけじゃない。

だから如来性です。

 

性という字

個性ということをいいますね

一般的な言葉で、

個体に対して個性という

あの場合の性ですね。

如来性、

如来の個性というようなもの

如来の可能性

というようなものを表して

いるわけです。

 

菩提心というものが、

菩提というものを

胎蔵しておると。

菩提を妊娠しておるという

意味ですね。

菩提心が菩提を妊娠しておる

菩提心が菩提になるんです。

 

この『十地経』でも

菩提の転回を述べている

十地というのは。

それは

なかったものを外から加える

わけではない、

本来もっとる菩提心ですね。

菩提心が成長して菩提となる

 

つまり、

成長する一つの宗教心だね

性というと

固定したように考えるけど

成長する本質といいますか

成長する、

そこにはやっぱり運動を

もっとる、

成長していくという。

発展し転回していくという

そういうような

生命力とか生産力とか

いうような意味をもっとる

わけでしょう。」

 

宗教というものも

他を外にみてそれに対して

拝み信仰するという方が

簡単なようにも思います

 

すぐには分からない

自分自身の中にあるという

菩提心

それを求め本当の自分

というものを深めていく

そういう修行の方が

難しいようです

 

菩提という意味には

覚とか智とか道という内容を

持っている言葉です

ハッと頷き、歓喜して

歩み始める

そこに道が出来てくる

というように思います

 

道が見つかればいいようにも

道の上にあるということが

自覚できれば

その道を

一歩一歩歩み続ければ

いいのではないでしょうか

たどり着く着かないよりも

歩みそのものが

大事なように思うのです。

 

 

 

 

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胎内の五位・胎外の五位

2023-04-23 15:22:06 | 十地経

「阿頼耶識というものを

説明するのに、

我々はいつ生まれたと、

そのときに

母親からおぎゃーと

生まれて、

飛び出して生まれたと、

そういわんのですね、

仏教では。

 

母胎の中にこう、

発芽した時が誕生したと。

それが我々の生の始めだと。

だから

母胎十か月というものと、

胎内五位ということを

いうんです。

これはその当時の、

インドにおける医学ですね。

胎内五位、五つ。

今でいうと十か月といいます

十か月に五つの段階がると

こういっとるわけです。」

 

というように

十地経講義では出てきます。

 

お釈迦さまの物語では

母親のマヤ夫人が夢のなかで

六本の牙の生えた白い象が

お腹の中に入ってくるという

表現で出てきますが

そのことを託胎といいます

それから、

胎内での十か月を五位という

五つで表現します

 

それぞれの位は

聞きなれない言葉ですが

受胎直後の七日間を

カララ(羯刺藍カララン)と音写

凝滑ギョウカツと訳しますが

といってもよく分かりません

次の七日が

アルブダ(阿部曇)といい、

第三の七日間が

ペーシーといい

凝結とか肉段と訳します

何となく分かるような

それから次が

ガナ、鍵南(けんなん)

といい、凝硬・硬肉と

いうように訳します

それが第四の七日間です

そして

手足が形成される位

プラシャーカーといい

肢節というように訳します

ということが

胎内の五位ということです。

 

それから出生してからの

胎外の五位は

1. 嬰孩(ヨウガイ)

  出生してから6歳まで

2. 童子というのが

  7歳から15歳

3. 少年

  16歳から30歳

4. 中年

  31歳から40歳

5. 老年

  40歳以後

ということが胎外の五位

ということです。

 

最近面白いことで

流行りのチャットGPTに

色々聞いてみるのですが

結構間違っていることも多く

その度に聞き直すのですが

GPTも素直で

不確実な情報ですいませんと

謝ってきます

それで

仏教ではこういうのですよ

と入力すると

そうですかとは言わないで

似たような答えを

すぐに返してきます

まあ今のところ

仏教に関する答えは

不十分な答えが多いようです

 

それでも

自分に固執することなく

間違ってすいません

と素直に答えてきますので

いろいろ問い直してみるのも

面白いようですよ。

 

 

 

 

 

 

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種子(しゅし・しゅうじ)

2023-04-20 20:37:21 | 十地経

種、仏教では種子と

読み方は、

「しゅし」とも「しゅうじ」

どちらもあるようです

 

仏教ではよく植物が

例えとして使われます

「根」コン、ということも

五根とか六根とか

根というのははたらきです

眼根、目のハタラキ

見てそれを意識するのは

眼識です

その見られる対象となる

ものは色イロです

それを色境シキキョウ

というように

はたらきという意味で根

という字を使います

 

また、

熏習(クンジュウ)

ということがあります

香りが移るというか

衣でもいい香りで薫じると

その香りが衣に移るように

たとえば、

素晴らしい師匠の下にいると

その師匠の香りが移るように

その人となりが

移っていくというたとえで

熏習ということをいいます

 

香りということも

花の香りということがあって

インドでは美しい花よりも

香りのいい花が重宝される

ということを

聞いたことがあります

 

香りは目に見えないし

すぐに消えてしまう

でも、人柄とか

そのものを象徴するのも

香りということでしょう

 

種子ということも

もとは植物の種です

種の中に色々な可能性を

秘めていることから

種子ということを大切に

しているのです

 

「『十地経』でも

語っていますように、

菩提心というものは菩提を、

の母胎なんだ。

菩提のね、

菩提の母胎を菩提心という。

 

植物の種は

その種の中にですね、

非常な生産力というものが

ですね、

やがて果実というものを、

生命を生み出すような、

その、太陽の光をあてると

それがこう目覚めて

成長してくると。

 

これは、物質じゃないです

だけどまあ

生きているわけじゃない。

生命がまだ、

あるけれども、

生命がはたらいている

わけじゃない。

生命が眠っているわけや。

 

母胎における人間。

母胎の中における人間、

それはま、

それが将来の人間の

生命というものの、

が眠っているところ。

つまり、母胎、

人間の種は、卵ですね、

母胎にあると、こういう

 

胎蔵ということを

いうわけです、胎蔵。

阿頼耶識の場合は種子と

いうのかな。

種子を、種子識と、

阿頼耶識のことを種子識

といいますが、

種子を識が蔵している

という意味ですね。」

 

種子ということも

色々な説があって

かなり厳密に

説明していますが

簡単には

先天的なものと後天的なもの

生まれながら持っている

種子(可能性)と

後天的な色々な経験によって

身につけていく可能性

 

そういうことで、

菩提心というものを

人間本来蔵している

そういうことで種子という

ことを言うのでしょう

ざっとしたことですが、

 

これから、胎内の五位

体外の五位

ということが出てきます

お母さんのお腹の中での

時間を胎内の五位という

ように五つの段階で

説明しています

 

仏教の中でこういうことまで

考えているのは面白い

というか

とても興味あることです。

 

 

 

 

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鶴喜蕎麦

2023-04-19 20:34:49 | 住職の活動日記

昨夜の遅くに

そばを食べるという番組

お腹減っているころには

こういう番組はいけません

ということで

早速、出かけた次第です

滋賀県大津市坂本にある

鶴喜蕎麦

近くにもあるのですが

せっかくならと本店へ

 

 

鶴屋喜八が享保元年に創業

それ以来300年も続く

そばの名店です

比叡山の門前町にあり

この建物も歴史的建造物

 

 

名前を書いて順番を待ちます

その並んでいるそばに

 

 

何とも歴史を感じる郵便受け

が今だに活躍中のようです

 

 

テレビで見た「湯葉蕎麦」を

注文

シンプルながら出汁と湯葉の

絶妙のバランスがいいですね

やはり大津ですから

店内には大津絵があります

 

 

多分、これは「鬼の念仏」

でしょう

これでサッと

帰ればよかったのですが

あまりにも

坂本の街の雰囲気がよくて

暫く近くを散歩

見てみると

さすがに比叡山の門前町

往時の繁栄を感じる

ところです

 

 

ふと蓬餅の看板が目にとまり

今日ばかりは無礼講と

中へ足を進めます

 

 

「比叡三九良」

(ひえいさんくろう)と

いう名前の店です

 

 

私は蓬餅とコーヒー

 

 

彼女はお抹茶と蓬餅

二個は多いかなと思いつつも

あっという間に

食べてしまったのです

 

 

店内には歴史を感じる

鎧群がとことせましと

飾ってあります

 

 

なかなか見事なものです

 

 

兜の飾りも迫力があります

 

 

また化粧まわしでしょうか

見事な衣装も展示してあります

そばに蓬餅

お腹に結構堪えます

腹ごなしにもう少し歩き

 

 

新緑のもみじと

穴太衆(あのうしゅう)の

石垣でしょう

人も少なく散策には

もってこいのようです

 

 

 

通りすがりには石垣の上に

シャガの花

 

 

また、躑躅も満開で

 

 

何とも好い

もう一つ近くに

「竹林院」という庭園が

あるようです

 

 

今は緑紅葉が見ごろとか

 

 

まあ何とも美しい庭園

この竹林院というところは

勤めあげたお坊さんの隠居所

ということです

竹林精舎にちなんで名付け

られたのではないでしょうか

 

 

ここはリフレクションという

映し出された緑がいいようで

座敷に置かれた黒い机に

反射して映る緑です

 

 

まあこういうような恰好で

机にカメラを置いて

撮られているようです

 

 

今の時期がちょうど良く

新緑が目に鮮やかです

ということは

秋の紅葉も素晴らしいのでは

ないでしょうか

 

そばを食べようということが

思わぬ小旅行のような

素晴らしい時間でした

わずか23分で行ける

というのも有難いものです

 

 

 

 

 

 

 

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檸檬の香りに包まれて

2023-04-17 20:46:55 | 住職の活動日記

昨年は転居した

ということもありほとんどの

花が来ませんでした

一年経つと

ベランダは檸檬の香りに

包まれています

 

 

よく見ると紫がかったような

小さな花のですが

そこから発せられる香は

力強いものがあります

 

 

やっと蕾から開き始めた一輪

庭であれば

この香りに誘われて

色々な虫たちがやって来て

花粉を運んでくれるのでは

ないでしょうか

 

 

香も不思議なもので

色声香味触という五境の

なかでも

ある面私たちにとって

鈍感になっているのかも

しれません

眼耳鼻舌身という五感・五根

でも一番活躍するのは

見るという眼根でしょう

その見ている環境は

色という色イロの世界です

 

しかし、

いい香りという反面

香り、臭という嫌な臭い

おじんくさい、とか

この匂いでまとめられると

何かしら屈辱的というか

匂いもそういうきつい表現

でもあります

 

動物にとってはこの匂い

ということが一番大きな

はたらきをしているようです

親を見分けるのにも

見るということよりも

匂いで判断しているようです

 

母の匂いとか

私たちにとっては

一番忘れられた器官なのかも

しれません

というのも

眠っている根源のハタラキが

匂いなのかもしれません

ですから

「あいつは臭い」という

人間性を匂いで表現されると

一番堪えるのでしょう

 

それはそうとして

身近には

入り口の小さなスペースには

美しい緑や名も知らぬ花々が

今を盛りに元気です

 

 

もみじも、ちょっと変わった

種類のようですが

新緑を誇っています

 

 

蕗も美しい緑です

 

 

その傍にあるこの花

名前は分かりませんが

 

 

シャガの花もあるのです

わずか一二輪ほどですが

 

 

この花も今一時なのでしょう

にょっきりと伸びて

花を広げています

 

桜の花も終わったのですが

色々の花が身近にもあり

楽しいものです。

 

 

 

 

 

 

 

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古今烏丸

2023-04-16 20:51:19 | 住職の活動日記

四条烏丸にある新しく

リニューアルしたものです

最初は1930年ごろの

丸紅のビルだったのです

 

 

古いものを残しつつ

新しく生まれ変わったのです

ビルの名前も

KOKON KARASUMA

と、こうなると

響きも新しく感じます

 

「古今」という言葉も

 

「ここん」とも「こきん」

とも読みます

『古今和歌集』という

ものもあり

「古今東西」という言葉も

古今、むかしから今

というと時間の流れをいい

東西というと

ひがしにし、ということで

空間的な広がりを

言うのでしょう

 

似た言葉で、

「世界」ということも

仏教語としては

「世」というのは

三世といって、過去現在未来

をあらわすという

時間の流れです

「界」は東西南北上下という

私たちが生きる空間です

 

 

なかなかおしゃれな店もあり

古いものを残しつつ

新しく生まれ変わった

「温故知新」ということも

ありますが

安田先生は

「古いものが新しいのだ」

と仰います

 

 

なんだかわかるような

わからないような

でも響くような言葉です

今読んでいる『十地経』も

古い経典です

でも、そこに書いてある

言葉は先生にかかれば

今に通用するような

もっと言えば未来にも

通じるような新鮮さを

もっている言葉です

 

 

この壁とかは昔のまま

いつも通り過ぎていくという

この建物

改めて見直してみると

実に面白い

帰って調べてみると

やはり、あの

隈研吾氏の手になるものです

何となく納得

 

ちょうど散歩するには

いい距離なのですが

今日は通り過ぎることなく

中のレストランで

美味しいランチを頂きました

 

 

 

 

 

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