本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

プロフェッショナルを目指せ!

2018-10-31 21:22:01 | 住職の活動日記

当院の職員も幅が広く

いろいろな仕事があります。

お坊さんは勿論のこと

影で支えている経理の方

お墓の組立の方

ペットの葬儀に関する方

それからお墓の営業、管理と

それぞれの仕事はあるのですが

目指す方向は一つです。

 

その会議の前にお話しする機会が

設けられました。

自分に与えられた仕事を通して

自分ということを

発見していくのでしょう

やはりそれぞれの立場で

その場のプロフェッショナルを

目指してほしいと思います。

 

目指す!

目標に向かって自分の志を

一歩一歩歩んでいく

ということでしょう。

 

こういう立場から見れば

それぞれの仕事の違いはあっても

自分の立てた目標に向かい

日々の仕事に精進努力する

ということは同じ事になります。

 

どのような仕事であれ

プロフェッショナルといわれる方は

もうこれでよい!

といわれる方は

一人もいらっしゃらないようです

道を極めれば極めるほど

まだ道半ばであると、

なまじ努力の足りない人は

もうこれでいい!

といわれるようです。

 

ここに道を歩むということの

大切な意味があると思います

何かしら到達するということが

目的のようですが

歩んでみると

自分の力が思い知らされ

まだまだであるということが

しみじみわかってくるようです。

 

そこに目指すということの大切さが

あるように思います

また目指す道が見つかった

ということも大切な意味です

到達するとか道半ばということは

別の問題で

努力していく歩むべき道がある

ということが自分を救うのです。

 

ちょうど、

『十地経講義』の中に

こういう言葉があります。

「人間は人間で人間になる

というようなものでなしに、

人間を超えたものを人間の中に

持っておる。

これが人間の本質なんだ。」

 

仕事が見つかったということは

自分を超えていく道具が見つかった

ということです。

それによって

自分を見出していくのです。

 

おもしろいもので

人間は自分の好きなものだけ

求めるということではなく

欲しくないものまで要求する

という不思議なものです。

意味が分かれば

あえて、自分に都合が悪くても

それを求めずにはおれない

そういう心をも持っています。

 

最初は自分に合わないような

仕事でもやっていくうちに

興味もわき面白みも出て来る

そういうことがあると思います

そしてそこから

自分なりの新しい発見も

生れてくるのです。

 

プロフェッショナルを目指す!

仕事を通しての自分の発見です

お寺という場に

縁があったのですから

それぞれの与えられた場所で

目指してほしいと思います。

もうこれでよい!

ということはないのですから

もうこれでよいと思った瞬間

それは落ちているか

堕落している証拠です。

 

出来るできないを越えて

目指してほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

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偶然と必然の間

2018-10-30 20:20:01 | 住職の活動日記

人との出会いも

段々と深まっていくと

この人と会うべくして出会った

出会いは必然であった

ということがあると思います。

 

偶然は準備できている心に微笑む

     パスツール

 

という言葉もあります。

チャンスということもただ漠然と

待っていただけでは訪れません。

虎視眈々と狙っていてこそ

チャンスは掴み取ることができます。

 

「果報は寝て待て」

ということもありますが、

のんびり構えて寝ていいたのでは

何がチャンスなのか

分からなくなってしまい

チャンスに出会っているのに

通り過ぎてしまうということも

あるようです。

 

仏道修行ということも

常に努力し続けてこそ

一筋の光は見えてくるのでは

ないでしょうか、

ただ漫然としていたのでは

遇うべきものに出会っても

分からずに通り過ぎてしまいます。

 

やはり、

こちらに見るべき目を持たないと

本当のものは見えてこないようです

 

よく言われました、

仏さんに出会っても

こんにちわ、さようならで終わるか

それとも

出会っていても分からずに終わるか

常にアンテナを

張り巡らしていないと

仏さんと出会っても

分からずに終わってしまいますよ

キンキラ金の仏さんと

思っていると見過ごしてしまうかも

案外、貧素なみすぼらしい姿を

しているのかもしれません。

 

こちらが求めていると

たとえ偶然の出会いにしても

その出会いは必然であったと

気が付くものです。

 

偶然といえばすべてが偶然でしょう

その中に必然ということを

見い出してこそ

本当の出会いはあるように思います

 

生れてきたことも

偶然の出来事でしょう

しかし、

自分との本当の出会いがあれば

生れてきたことは必然であったと

ということになると思います。

生れるべくして生まれてきた

本当の自分に出会うために

生れてきたのだという

必然性が出て来ると思います。

 

そこに僧伽(サンガ)ということも

偶然生まれてきた

ことかもしれません。

しかし、その会ということによって

本当の自分ということが

分かるならば

その会(サンガ)ということは

出会うべくして出会った

たまたまその会に参加したことが

偶然ではなく

必然であったということが

再認識されるのでしょう。

 

すべての出来事を

川の流れる如く偶然であったと

するならば

その人生はすべてが偶然である

何の驚きも感激もないものに

なってしまうでしょう。

反対に、

偶然に見える出来事も

出会うべくして出会った必然の

出来事としてとらえるならば

全ては光り輝いてくるでしょう。

 

すべてのことは必然であったと

見直す時に

人生の深さと驚きと感動が

生れてくるのではないでしょうか

 

 

 

 

 

 

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顔馴染み

2018-10-28 20:05:50 | 住職の活動日記

気心が知れた友と会う

顔馴染みの方たち

ホッと安らぐものです。

 

「馴染み」ということも

おさななじみとか顔なじみとか

使われますが、

馴染みという言葉、馬に川と書きます

馬偏というのも面白いですが

馬が人になじんだことから

出た文字のようです。

染まるという字も入ります

度重ねるたびにその人の顔が

心に沁みていくのでしょう

そこから染まるという字がつくのかも

知れません。

 

ある心理学者の方が

人間の深層心理は表に表れている

ということをおっしゃっておられました。

分析する時

顔の表情とか手の表情脚の組み方

などを見るそうです。

一見何気なくしている行動の中に

その人の心の奥が表れている

ということは、

見る人が見れば隠しているつもりでも

その人の心の奥は全部表に

現れているということのようです。

 

そういえば、仏教の先生が、

人間の一番奥ににある阿頼耶識という

心は顔だということを

聞いたことがあります。

「何々らしく」ということは

あながち否定できないようです。

その行いをしていたら自然と

そのようになってくる。

先生は先生のように

お医者様は医者のように

そのようにらしくなってくる

ということのようです。

 

昨日も突然

職員に三帰依について語って欲しい

ということがありました。

考えてみると、

三帰依ということは帰依三宝とも

いいます。

仏・法・僧ということが三宝という

ことです。

宝といえば金銀メノウとか

あるいは地位や名誉とかが

思い浮かびますが、

仏教では仏と法と僧が宝と

いうのです。

 

スティーブジョブズという方も

死を間近にして

今まで自分が得てきた

お金や地位や名誉はすべて

色あせてきたとおっしゃっています。

最後は家庭の愛情、友との友情が

一番大切だと述べておられました。

 

そこで思い返すと

「顔馴染み」ということは

なんといい言葉だろうと思うのです

まあ、大きく言えば

僧ということにも

当たるのではないかと思います。

僧とは僧伽(そうぎゃ)の略で、

何もお坊さんではなく

仏道という道を求める人たち

ということです。

 

顔馴染みということも

ただ知っているということではなく

知ってそこから人生を語り合い

心を許すことが出来る友という

広い意味をもっていると思います

 

月に一度でも、

そういう方たちと食事をして

お酒も入り、

そのうえで人生を語る

そういうことが何にもまして

人生の宝ではないかと

思うのです。

ただ表面上の付き合いではなく

たまたまの出逢いが

合いよる魂とでも言うのでしょうか

深まっていく

そういうことが何よりの宝では

ないかと思うのです。

 

顔馴染みということも

出会いによってなじんで

そして心がお互い染まっていく

そういう意味もあるのではないかと

思います。

 

お互い出会いを大切に

そこから深めていきたいものです。

それこそが人生の醍醐味でしょう。

 

 

 

 

 

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久しぶりに花が活けられました

2018-10-26 20:49:01 | フラワー

やはり、花が入ると

家の中が生き生きと

してくるものです。

10月は出かけることも多く

いろいろの教室はお休みです。

 

 

色合いも面白く、

紫色に染められた竹を編んだ花器

それに赤のバラと黄色の菊

 

 

家中がパッと明るくなったようで

元気をもらったようです。

 

先日来からの風邪がこじれ

今日もはまた別の病院で診察

その薬が合ったのか

夜には随分と体も楽になりました。

 

やはりこの時期

ご多分に漏れず「カボチャ」が

鎮座ましましています。

 

 

このハロウィンの行事も

日本では一つの商戦として

すっかり定着した感があります。

もともとはケルト人お祭り

先祖が帰ってくるのを祝うという

日本のお盆の行事によく似ています

そういうこともあって

馴染んだのでしょうか?

向うでは、日本の地蔵盆よろしく

家々を回りお菓子を頂くのです。

寒い時期なのに

素足で思い思いの格好をして

歩く姿は、

まるで私たちの子どもの頃を

ふと思い出します。

 

 

こちらにはリンゴもあり

お供えされた風情があります

 

 

反対側は黄色の菊、

赤と黄色それに足元を引き締める

紫の花籠

 

本当に癒され元気をもらう

今日の生け花でした。

 

 

 

 

 

 

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『ハンナ・リデル』

2018-10-24 21:11:03 | 住職の活動日記

宇治の図書館のロビーに

リサイクル本としてたくさんの本が

並んでいました。

何気なく見ていたのですが

そこで目に止まったのが

『ハンナ・リデル』という本です。

 

 

ハンセン病のことが書いてあり、

恵楓園とは深いご縁でしたので

読んで見たくなったのです。

というよりは読まなくてはいけない

本ではないかと、

そういう本からの呼びかけのような

ものを感じたのです。

 

なかなか読みやすい文章です。

始めはキリスト教の伝道という

目的で日本を目指されたようです。

やはり女性の情熱たるや

凄いものを感じます。

 

まだ読みでしまったわけでは

ないのですが、

日本での苦労が記されています。

日本語の勉強も大変だったようで、

 

「家の周囲にある見慣れた物の

名前をたずねる。

『コレハナントモウシマスカ?』

食卓の上のコメは『メシ』だと

教えてもらう。

勇んで文章を作りはじめる。

『わたしはメシを食べる』

『子供はメシが好きだ』

『いや、ちがう』

『子供の場合はマンマがいい』

『あなたはメシを食べますか』

他人に尋ねる場合は、

ゴゼンといった方が丁寧だ、と

教わる。

『商人はゴゼンを売る』

そこで教師はすかさず口をはさむ。

メシもゴゼンも炊いたコメを表す

言葉で、炊いてないのはコメである

『コメは田んぼで育つ』

と口走ったとたん、

コメは成長しているあいだはイネ

というのだと注意される。

日本語の習得がいかに難しいかを

書いておられます。

 

ハンナは九州だけには

赴任したくないと希望していた。

1889年熊本を襲った地震のこと

を読み、考えるだけで

身がすくむ思いがすると主張して

ということです。

 

それから船で瀬戸内海を通り

美しい島々を眺めながらの旅

だったようです。

そこで長崎に着いたということです。

 

まあ、読み始めたばかりですが

この本を書かれたジュリア・ボイド

という方、私と同じ年、

外国の方から見た日本の姿、

日本人のこころね

そういいうことが新鮮なまなざしで

書かれてあります。

 

いよいよこれからが

本題に入っていくのですが

あらためてハンセン病のことを

学び直してみたいと思おります。

 

 

 

 

 

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翼なくして飛び、足なくして走る

2018-10-23 20:46:28 | 住職の活動日記

お金のことを「お足」と言いますが

また、

「いつまでもあると思うな親と金」

という諺もあります。

というように、

あると思っていたお金も

いつの間にか足が生えたかのように

出ていくものです。

お足という言葉も中国のことわざ

「翼なくして飛び足なくして走る」

ということから出た言葉のようです

 

また別の意味で「足」ということは

大切な意味も持っています。

仏教でも、

「脚下照顧」とか「仏足石」

というような意味でも使い

とても重要なことなのです。

 

お釈迦さまが亡くなられて

その後は仏像をつくるということは

畏れ多いことで、

お釈迦さまの足跡を拝むという

石にお釈迦さまの足裏の相を彫り

それを拝みました。

また、

「御足を頂く」

ということもあり

お参りする時、五体投地して

その両手に仏さまの足を

頂くのです。

昔の話に、

お釈迦さまが通られるその道に

水たまりがあって

お釈迦さまの足が汚れてはいけない

ということで、

自分の髪を投げ出して

通って頂いたということがある

ようです。

 

坐禅する時に組む足は

「結跏趺坐」(けっかふざ)

といい、蓮華座ともいいます。

この座り方は仏さまの座り方で

そういえば、上座部のお坊様は

日本でいう正座という座り方はなく

普通のお坊さんは

横すわりのような座り方を

しておられるようです。

 

修行の時の歩き方は

歩歩の足下に蓮華を踏むと思え

とあるように

蓮の花の上を歩くというように

一歩の足も丁寧に歩けと

歩くということも一つの行と

考えて歩くということでしょう。

 

脚下照顧で

自分のことを振り返ってみると

鏡に映った自分の姿、歩き方

何時の間にやら

妙な癖がついているものです。

 

また別な話で

なぜ蛇が恐いか

(好きな方もおられますけど)

蛇は足がないから

ということらしいです。

その反対に

人間に規律を求めるには

歩き方、足をそろえるという

むかしに軍隊の歩き方も

特徴があり

その姿だけでも威圧するものが

出てきます。

 

お釈迦さまも

修行の第一は行住坐臥と

いわれておられます。

歩く座る臥すという毎日の行為

そこを整えるということを

大切に言われておられます。

 

足ということも

なんでもないようでもあり

されど足の大切さ

ということもあるようです。

 

テレビでも、

「浮き足」ということがあって

歩かないということが原因で

足の指が地についていない人が

増えているということです。

しっかと大地に足を付ける

ということが大切ですね!

 

 

 

 

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四大不調につき!

2018-10-22 21:11:51 | 住職の活動日記

九州から車で帰って

何かしら、自信のような…

そこで、2,3日おいて

今度は名古屋へ、

予定では少しゆっくりするつもり

でいたのですが、

急遽、親戚筋の葬儀があり

すぐさま、東京へ

長丁場になるだろうと車で、

この時期は気温の変化も激しく

朝夕の温度差やら

ところによる変化で

風邪を引いてしまったようで

喉の痛みをおさえながら帰宅

やっと今日耳鼻科へ、

 

自分の年のことも忘れて

頑張りすぎたのかな?

でも、車が好きな私にとっては

さほどの疲労もなく

結構楽しいのですが

身体は正直なのかもしれません。

 

地・水・火・風

この四つが四大、四大種といい

すべてのモノを構成している

要素(エレメント)になります

この四つが調和して働いている

ということが健康ということで

この調和が崩れると病気になる

ということです。

 

自分では気持ちは昔のまま

な~に大丈夫と思っていても

身体の四大の方は

どこかで調和を乱していたという

ことなのでしょう。

 

それと、精神的にも

じっくり集中して「十地経講義」に

接することもできず

少しずつ心の乱れも

生じていたのかもしれません。

何気なく、毎日のルーティーン

自然と集中できる場と時とを

得ていたのでしょう

それを取り戻すのにも

時間もかかるものです。

すぐ読んで書いたからといって

集中できるものではありません

頭を切り替えるのに

時間がかかるものです。

それにつけても

四大が不調ということは

なおさらのこと

エネルギーを奪われるようで

集中するということの大変さを

離れてみて初めて思い知らされます

 

そうこう言っているうちに

もうすぐお不動さま

心身ともに回復を目指します。

といっても、

こうやってパソコンに向おうという

気が起きたということは

山は越えたようです。

薬も頂いたし後は回復を待つのみ

 

こころとからだ

本当に関係し合って

互いに助け合って

この自分を支えてくれている

有難くも感謝です。

 

 

 

 

 

 

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僧伽(そうぎゃ)について

2018-10-18 11:58:33 | 十地経

仏・法・僧ということがあって

聖徳太子の言葉にも

「篤く三宝を敬え

三宝とは仏法僧なり」

とあります。

毎日に唱える三帰依(さんきえ)

にも

「帰依仏・帰依法・帰依僧」

と出てきますので

これは仏教の根幹をなすものです。

 

しかし、

「仏」と

仏の教えである「法」があれば

それで十分で

「僧」とは付け足しではないか

という方もいらっしゃいますが

そうではなく、

教えである法を

実践し具体化するには

「僧」ということが大切です。

 

僧とは「僧伽」といって

サンガ(samgha)という言葉の

音写したものです。

それを、和とか衆と訳し

和合という意味があります。

それで詳しくは和合衆、和合僧

といいます。

本来は仏法を信じ仏道を行ずる人々

の集団をいっていました。

それが単独にお坊さんのことを

「僧」というようにもなりました。

 

その僧伽について

『十地経講義』では次のように

述べてあります。

「つまり、

現実を恐れんけど現実を転機として

内面の世界を開くというのが仏教だ

この仏教の僧伽の、

僧伽ということがどうして

世間に関わるかという、

社会を改革するということじゃ

ないんですよ。

逆に、

我々が努力して変わっていくんです

眼を転ずれば、そこに開けてくる

これから作っていくんじゃない

始めからそこに開かれて

待っている

それを僧伽という。

何をうろうろ探しとったかという

仏教の僧伽ということを

〈大衆を統理して一切無碍ならん〉

大衆という意味ですね、僧伽。

それは何かというと

僧伽に帰命するんだ、

あるいは帰依するんだ。

帰依三宝という。

 

僧伽というものは

我々が作るものじゃない。

帰依すべきものなんだ。

人間の組合じゃない。

我々自身が値せずして、

それに召される。

僧伽になる資格なくして、

しかも召される。

僧伽をもってどうする

というんじゃなく、

僧伽をもったことが救いなんだ。

 

それは世間から逃げたんじゃない

だけど世間を肯定したんじゃない

世間の虜になったじゃない。

外の世界を縁として、

内面の世界を見出し、

内面の世界を見出すことによって

世間におって

しかも世間を超えておれる。

蓮華みたいなもんだ。

泥の中に咲くけど、

別に泥に汚れんから蓮華。

けど、

高原の陸地には蓮華は生えんでしょ

だからあえて恐れん、

濁っとることを。」

 

やはり「会」があるということ

救いなのです。

その会でもって何かをやる

ということでではなく

その会をもったということが

貴重なのでしょう。

損得勘定の世界で

ソロバンを外した

人間とか人生を考える

そいう時間と場所を持つということが

一番大切な事だと思います。

だから、仏・法よりも「僧」という

ことが重要なことなのです。

 

 

 

 

 

 

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コキアの中の世界

2018-10-15 21:05:56 | 住職の活動日記

コキア、ほうき草とも言います。

 

 

季節も移り

緑色の小さな丸い形から

色も紅葉してまた美しい色合いを

見せています。

ほうき草ともいうように

むかしはこれを束ねた箒がありました

庭掃きでとても使いやすいものです。

 

よく見ると

 

 

カマキリ君が陣取っています

口のあたりをよく見ると

まるで映画に出てくるプレデター

のような口元です。

たぶんここにやって来る小さな虫を

食べているのでしょう

両方の鎌の腕のようなを拝むように

合わせて狙っています。

 

 

近くにはテントウムシもいます

 

 

そして虫に食べられて

茶色に変わったのか

それとも時期が来て枯れたのか

最後はこういう形になって

一年で終わるようです。

 

 

 

また、アリさんも忙しそうに

動き回っています

 

 

これも虫なのか

テントウムシの斑模様がない

ものなのか?

 

 

そしてここにも虫が

最後のご飯を頂いて次のいのちの

準備に入るのかもしれません。

 

傍から見れば

こんな小さな世界にも

大きな命のハタラキがあるのです。

 

因縁集といいます

いろいろな縁が集まって

いのちを起し

そこでいのちの営みがおこなわれ

また次のいのちを宿し

生み出していく

一切の存在はすべて因縁によって

生じ因縁によって滅する。

 

生老病死

どんな生き物でも

その過程を通るのですが

そこに苦を感じるのは

人間だけでしょう。

「苦」には嫌悪するという意味と

空虚とういう二つの意味を

合わせ持っています。

ただ苦しいというだけでなく

そこに空虚なるものを感じる

そこに

人間の苦の深さがあるようです。

 

コキアという草も一年草

やがて枯れて終わってしまします

ここにいる虫たちも

そのコキアを同じように

いのちを終えるのでしょう。

 

縁によって生じ

縁によって滅するということを

つくづく思い知らされます。

 

 

 

 

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シャルル・アズナブール

2018-10-14 20:40:29 | 住職の活動日記

ここのところ車の中では

アズナブールの歌が流れています。

先日、

家内が見つけたのですが

テニスの番組を見ている時

「アズナブール」の葬儀の模様が

流れていたのです。

何という偶然、

その様子は国葬のようで

儀仗兵に囲まれて棺が運ばれ

マキロン大統領が弔辞を述べて

おられました。

 

 

たぶん、先日9月17日の大阪公演が

最後の歌声ではなかったでしょうか。

この写真はその時のパンフレットの写真です

その時ふと思ったのですが

何とも遺影のようだな、と

 

 

年輪を重ねたそのお顔からは

いぶし銀のような渋さが

伝わってきます。

 

もともとは家内が

若い頃に聞いていてファンだった

ということですが、

4年前の90歳の記念公演で、

これが最後の公演かと

お別れのつもりで出かけたのですが

今年も94歳の公演ということで

是非聞いておかねばと、

 

ところが、4年前の歌声より

さらに磨きがかかり

言葉も分からず意味もわからず

けれども、

涙が出るほどの深い感動を

おぼえました。

 

今思えば

ロウソクの火が燃え尽きる

その最後の瞬間

赤々と燃え上がる

そのようないのちの燃焼だった

のかもしれません。

 

その方の生きざまを

よくは知らないのですが、

最後までゆっくりされることはなく

舞台の上で死ぬと

宣言しておられたようで、

燃え尽きるような生き方だったと

思います。

 

こういう言葉に出会いました。

「やれるだけやる、

といういことではない。

あくまでやりぬくのである。

炭の火が燃えるのも、

炭が力を出し切っているからである

火の燃えるのも、

水の流れるのも、

絶体絶命であって、

形なき力を出し切っているのである

粉骨砕身というところに

安立するのである。

しかも、

それが無為自然である。」

 

普通から考えれば

もう90歳も過ぎてそんなに

働かなくてもとおもうのですが、

そうではなく、

アズナブールといういのちの力が

燃えているのであって、

そのこと自体が安心という

境地だったのでしょう。

そのことが自然になされたという

ところに驚きを感じます。

 

本当は皆そのような

生き様をしているのでしょうが

というか、

いのちはそのように

絶体絶命のいのちのハタラキを

しているのですが

私たちの意識だけが

のんびりしたいとか、

ゆっくりしたいというように

考えているのです。

 

アズナブールも

日本をとても愛されていたようで

オーディオも車も日本製

ということだったそうです。

 

懸命に生きられたその姿に

とても勇気を頂くようです。

94年のご生涯

本当にご苦労さまでした。

 

 

 

 

 

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