本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

冠婚葬祭

2016-10-31 21:45:33 | 住職の活動日記

何気なく冠婚葬祭ということを

いいますが、

冠とは元服のこと、

婚は結婚、

葬は葬儀で

祭は先祖の祭りごとで法事

ということ、

 

先日、文具店へ不祝儀袋を

さしあたり3枚もあればと

ところが立て続けに

全部使ってしまいました。

 

そういえば、

年のせいもあるのでしょう

「婚」の方はめっきり少なく

葬や祭がめっきり増えてきました。

ベビーブームの団塊の世代が

70歳を迎えようとしています。

同世代も逝く方もいるし

その親が亡くなっていく世代

でもあります。

 

お世話になった叔父が逝きました。

三浦先生とのご縁も

この叔父の世話になったのです。

叔父も三浦先生にお世話になった

昔ですから、学生の頃

虱が湧いては、三浦先生が

大きな釜で服を熱湯につけ

退治したということを聞いています。

 

行年91歳

今年の夏も檀家参りに出かけ

いたって元気だったのですが

9月の半ば過ぎ

どうも調子がおかしいと病院へ

だから、最後の最後まで

住職としての働きをまっとうされた

ということです。

 

大きなお寺に24歳で入られ

それなりに苦労も多かったようです。

 

 

 

広い霊園もあり

涅槃像やお釈迦さまの立像、

 

 

小ぶりながら美しい五重塔も

建立され、

活躍された様子がうかがえます。

 

 

お寺の歴史も古く

それを物語るような美しい庭園も

美しい佇まいを見せています。

 

なにかあるたびに相談に伺いました。

結論は私に任せてくれましたが、

そうかそうかと静かに聞いてくれました。

姿かたちも私とよく似ていて

まるで親子のようにも見られました。

 

草履を忘れて、

叔父の草履を借りると

とてもシックリと足になじむ

こんなところまで似ていたのかと

ちょっとびっくりします。

 

 

ちょうど庭には可愛い花たちが

咲いています。

 

 

広い境内、短い時間ではまわれません

 

 

随分と葉の大きいアジサイを見つけました

亡くなるまで、

この広い境内を歩き回っていたと

最後まで精進努力の人だった

様子がうかがえました。

 

段々、

自分を見守ってくれていた方々が

亡くなっていかれます。

そういう自分も、

もう送られる順番なのかな?

しかし、

こればっかりは後先はありません

幼くても不慮の事故に遭われる

ほんとうにわかりません。

 

葬祭だけがふえていくのも

なんとも悲しいかぎりです。

しかし、

生きているものの務め

しっかり送り努めなければ

 

 

 

 

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菩提心が力の源泉

2016-10-30 20:50:41 | 十地経

「力」という字も

お経にはよく出てきます。

いつも唱えるお経では

『三力偈』(さんりきげ)

という一文があり、

「以我功徳力」(いがくどくりき)

「如来加持力」(にょらいかじりき)

「及以法界力」(ぎゅういほうかいりき)

という三つの力です。

 

「菩提心が力の源泉

力があって歩くのでない

歩くから力が出てくる」

ということも

普通には力があるから歩けると

考えがちですが、

事実というか、

実際は歩みがあるからこそ

力が湧いてくるのです。

 

以我功徳力、ということも

まずは自分の努力の力

ということです。

その時に

「無相」(むそう)ということが

書いてあります。

無相に対しては

有相ということがいえます。

どんなに努力しても、

親切でいいことをしても、

そのいいことをしたという

意識があっては駄目だというのです。

それでは心が濁ってくるし、

いいことをしたと得意になる

そのことを有相といいます。

その得意になるということが

小さい人間にしてしまうのです。

 

無相ということは

その努力したというかけらもない

それで、無功用(むくゆう)という

表現もあります。

努力無功用行と、

そこが、以我功徳力

ということなのでしょう。

いいことをしたという思いがあっては

功徳にならない。

 

「力」らということも、

今では、権力、金力とかが

もっぱらですが、

また、力といば

最近ではパワハラという暴力

といこともあります。

それも力の一つに違いありませんが

なにか、

修行するということも

総力戦というか、力全体

これだけ努力すればいい

というのではなく、

頭だけ使えばいいとか

体だけ使えばいいというのでなしに

物事を活かしていくということは

ありとあらゆる力のあつまり

これが「及以法界力」ということかも

しれませんが、

歩み始めれば、自然と

力が集まってくれるものです

誰とはなしに協力してくれる。

 

一歩あゆめば

歩んだことで力が出てくる

それでまた次の一歩が出てくる

書いてしまえば、

なんだか観念論のようですが

実際やってみると

頷ける世界なのです。

こういうことが生活力だと

思うのですが、

 

「以我功徳力」の功徳

ということも、

ただあるのではなく

努力によって勝ち取ったもの

努力に与えられるもの

努力が見出すものなのです。

 

何もしなくて偉い偉い、

といったところで、

なにも力はつきやしません、

生活の実践を通して

勝ち取るものなのです。

 

求道心という菩提心が

我々を奮い立たせて

歩むのです。

だからこそそこから

力が出てくるのです。

 

力も出てくるものであって

外から持ってくるものでは

ありません。

本来私たちに備わっている

ものなのです。

それを努力によって見出していく

 

そのことが修行であり

その修行が自分自身を

荘厳していくのでしょう。

頭だけでもダメ体だけでもダメ

総力戦で修行していく

日々一歩一歩です!!!

 

 

 

 

 

 

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菩提心が力の源泉

2016-10-30 20:50:41 | 十地経

「力」という字も

お経によく出てきます。

いつも唱えるお経では

『三力偈』(さんりきげ)

という一文があり、

「以我功徳力」(いがくどくりき)

「如来加持力」(にょらいかじりき)

「及以法界力」(ぎゅういほうかいりき)

という三つの力です。

 

「菩提心が力の源泉

力がって歩くのでない

歩くから力が出てくる」

ということも

普通には力があるから歩けると

考えがちですが、

事実というか、

実際は歩みがあるからこそ

力が湧いてくるのです。

 

以我功徳力、ということも

まずは自分の努力の力

ということです。

その時に

「無相」(むそう)ということが

書いてあります。

無相に対しては有相です。

どんなに努力しても、

親切でいいことをしても、

そのいいことをしたという

意識があっては駄目だというのです。

それでは心が濁ってくるし、

いいことをしたと得意になる

その得意ということが

小さい人間にしてしまう。

 

無相ということは

その努力したというかけらもない

それで、無功用(むくゆう)という

表現もとります。

努力無功用行と、

そこが、以我功徳力

ということなのでしょう。

 

「力」らということも、

今では、権力、金力とかが

もっぱらです。

また、力といえば権威かお金

最近ではパワハラという暴力

といこともあります。

それも力の一つに違いありませんが

なにか、

修行するということも

総力戦というか、力全体

これだけ努力すればいい

というのではなく、

頭だけ使えばいいとか

体だけ使えばいいというのでなしに

物事を活かしていくということは

ありとあらゆる力のあつまり

これが「及以法界力」ということかも

しれませんが、

 

一歩あゆめば

歩んだことで力が出てくる

それでまた次の一歩が出てくる

書いてしまえば、

なんだか観念論のようですが

実際やってみると

頷ける世界なのです。

こういうことが生活力だと

思うのですが、

 

「以我功徳力」の功徳

ということも、

ただあるのではなく

努力によって勝ち取ったもの

努力に与えられるもの

努力が見出すものなのです。

 

何もしなくて偉い偉い、

といったところで、

なにも力はつきやしません、

生活の実践を通して

勝ち取るものなのです。

 

求道心という菩提心が

我々を奮い立たせて

歩むのです。

だからこそそこから

力が出てくるのです。

 

力も出てくるものであって

外から持ってくるものでは

ありません。

本来私たちに備わっている

ものなのです。

それを努力によって見出していく

 

そのことが修行であり

その修行が自分自身を

荘厳していくのでしょう。

頭だけでもダメ体だけでもダメ

総力戦で修行していく

日々一歩一歩です!!!

 

 

 

 

 

 

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本蔵院の新発見!!

2016-10-28 20:56:31 | 住職の活動日記

地震の影響で倒壊は免れたものの

度重なる余震で、

少しずつ歪が出てきているようです。

 

 

横木のほぞが外れてきたり、

ふすまが閉まらなくなったり、

 

 

直すというよりこのままの状態を

いかに保つかということの方が

大切なようです。

少しずつ補修にかかり、

本堂の額も紐を補強する為に

 

 

 

一旦下ろし、

紐をステンの針金に換えようと、

いつも見ている額なのですが

 

 

下ろしてみると

新たなことがわかったそうです。

 

その時の様子がラインで届きました

 

 

 

この「最栄室」と墨書されたのは、

阿蘇公惟治書とあります。

この方は阿蘇神社の第86代宮司に

あたるそうです。

 

 

落款も上の小さいほうが

「閼宗之主」と書いてあり

「閼宗」と書きアソと読むようです

肥後国誌にはこの字で出てくる

下の大きい印は、

「大宮司印」と彫られています。

 

さらに裏には

 

 

ちょっと分かりにくいですが

「萬延元年 庚申 五月吉晨」

大工 岡田禎吉 造之

とあるようです。

 

万延元年といえば

1月には咸臨丸がアメリカへ向け

出航しています。

3月3日には

桜田門外の変が起きています。

社会情勢も不安定な頃です。

 

まあ、

 

 

「百螺祈願」をするということで

いろいろ補修にかかっていた時に

偶然の発見も

何か深いえにしのようなものを

感じます。

 

醍醐寺の管長様を初め

御重役方、醍醐寺の青年会の方々

そしてご信徒の方々も一緒に

阿蘇神社を参拝するというのは

本当に私たちの

はからいではなしえない

事業のように思います。

 

準備も着々と進み

こういう新しい発見があった事は

この行事に弾みがつくことでしょう。

浅からざる因縁の賜物です。

 

 

 

 

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奥村歯科へお散歩

2016-10-27 22:17:16 | 住職の活動日記

歯のメンテナンスは大切です。

熊本へ帰った折、

いつもお願いしている奥村歯科

歯石や歯垢をとっていただき

別に痛むわけではないのですが

やはりこまめのメンテナンスが大事

歯と命はとても深い関係

歯の寿命が命の寿命と同じでは

と思っております。

 

 

今日のしつらえは

時期にちなんでハロウィン

たくさんのカボチャがお出迎えです。

 

 

この車に歯科治療の道具を積んで

来られない方には治療にお出かけに

なさっているようです。

体が不自由になったらとても助かる

のではないでしょうか。

 

久しぶりにお散歩がてら

あまり通ったことのない道を、と

 

 

お寺さんの修理も始まっている

ずれ落ちた瓦の修理のようです。

 

 

いつもは素通りしている

「手取天満宮」(てとり)

北野天満宮の御分身です。

 

 

徳富蘇峰の石碑の横には

歴史を感じさせるような見事な

イチョウの木

 

 

その後ろには「汗かき地蔵」があり、

本尊は地蔵様ではなく石版のようです

汗かき、という謂れが書いてあるのかも

しれません。

 

 

横から入ったので、

本殿をお参りして正面へ、

正面の参道は一番賑やかな通り

 

 

ビルの間に挟まれるように

鳥居が立っています。

そこから信号を渡り、

 

 

いつもお参りしていた

「日限りの地蔵さん」へ、

日にちを限ってお参りすると

願いが叶うというお地蔵さまです。

 

そこから、白川沿いに

 

 

新しい道が出来ていました。

「白川ちゃりんぽ道」

この水道町から熊本駅まで続いている

先の水害でやられて

堤防を補修する時に一緒に

できたものでしょう。

 

 

立派な道が続いています。

人通りも少なく、カラスやすずめの

格好の遊び場になっている様子、

 

 

途中にはお地蔵さまもあり

花も枯れてないようで、ロウソク立もあり

日々お参りしている方が

いらっしゃるのでしょう。

 

 

熊本大学の付属病院も向こう岸に

見えてきました。

ここの番地が本荘1丁目1番地で

ここから本荘町が始まっています。

 

 

この陽気でしょうか

写真撮影も、いろいろポーズを

変えながら楽しんでおられます。

この先の橋「代継橋」を左折すると

本蔵院です。

 

 

静かな雲の流れ、

ゆっくりと流れる白川の水

 

歯の治療のあと  

久しぶりにゆっくり散歩も出来

新たな発見もあり

しあわせな時間でした。

 

 

 

 

 

 

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知識と智慧

2016-10-26 17:56:12 | 住職の活動日記

今や人工頭脳の進歩はめざましく

人間の知能を越えようとしています

将棋の世界でも、

人間がコンピューターに勝てない

ということが起こってきています。

 

知識を詰め込むというだけなら

機械には人間は勝てそうにも

ありません。

人間は忘れるということがあります

応用するとなると

今まだ人間の方が勝っていると

思うのですが、

 

仏教では知恵という文字を

あえて智慧と書きます。

生活の知恵とかいう場合は

知恵でいいのでしょうが、

仏の智慧ということで

この文字を使っているのです。

 

よく、三浦先生から教えて頂いた、

水とは常温では液体、冷やせば氷

熱すれば水蒸気、と

科学的に知ることができるが

喉が渇いたときに飲む一杯の水

その美味しさは

「なんともいえない」

そういうふうに体で知ることを

「智慧」と言うのだ、

ということです。

 

しかし、

仏教でも一概に智慧と言いますが

玄奘三蔵はあえて訳さずに

「般若」というように音写したのです

というのも、

仏教では智慧ということが中心課題

なのです。

般若波羅蜜多というように

波羅蜜の行といってもその中心は

般若波羅蜜多の行です。

 

普通には六波羅蜜が有名ですが

その中で6番目が智慧波羅蜜

(般若波羅蜜)といい、

それをさらに詳しく

10に展開していくと

十波羅蜜となります。

そうなると、

6番目が慧波羅蜜

10番目が智波羅蜜と

智と慧というように分けて使います

 

ところが、

知識も智慧もある面では同じで

あるともいえないこともない。

しかし、科学と宗教で使う場合には

ちょっとニュアンスが違ってくる、

私たちが勉強して得た知識は

当然自分のものである、と

自分の中に所有されていると

考えています。

 

信仰の世界における智慧は

「智慧を得た」というと

得た智慧の方が自分より

大きいのです。

般若心経に出てくる

「一切顛倒」ということば

一切は逆さまである、と

智慧と言う世界から見ると

私たちが是と思っていたことは

すべて間違いであったと

思い知らされるのです。

 

言えば誤解するし

言わなければなおさらわからない

ということがあります。

なにか責任を持ってやろうとすると

自分の意思がなかなか伝わらない

というジレンマに襲われます。

 

天台宗を開かれた

伝教大師最澄が吐露しておられます

「愚中の極愚、狂中の極狂、

塵禿の有情、底下の最澄」

なにもこれは卑下した言葉ではなく

悟りによって照らされた自分の姿

智慧を得たことの確信が

こういう言葉となったのです。

 

智慧を得て悟りを開いて

偉い者になった

というのではないのです。

智慧の光があればこそ

自分の愚かさが見えてくる。

 

よくしたもので、

私たちも本能的に

自分は本物ではないということを

どこかで分かっているのです。

ですから、

やけにブランド物を付けたがる

自分が本当でないから

ほんまもんが欲しいのでしょう。

 

いくら機械が進んだとしても

コンピューターが

得た膨大な知識によって

今までの

自分はすべて間違っていました

という結論はださないでしょう。

いくら知識が豊富になっても

それは智慧になることはないと

思います。

 

人間と機械の違いは

知識と智慧と言う一点において

越えられない一線がある

のではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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嵐山 天龍寺のモミジは?? 

2016-10-25 18:27:59 | 住職の活動日記

明日はまた一日だけ

温かさが戻るようですが、

今週末からは一気に冷え込んで

紅葉も美しさを増すことでしょう。

 

 

嵐山、天龍寺のモミジは

紅葉になりかけ、

そのグラデーションも美しい!!

 

 

庭の眺めもなんとも美しい

これから嵐山を含めた全山が

真っ赤に染まっていくのです。

 

 

松の枝ぶりも見事なもので

庭の力だけで人をよべる

お寺にしても仏像だけではなく

庭園の美しさも

心がとても和むものです。

 

 

空を見上げてもよし、

といいつつ、

花より団子で、目的は

精進料理の「篩月」(しげつ)さんです。

 

 

竹かんむりに師と書く、

篩ー「ふるい」、という意味です。

それに月と書く、

「篩月」という意味は??

禅宗のいわれがあるのでしょうか。

 

 

玄関には雲水の画が

「お~、お~」と声をだしながら

托鉢に出かけられます。

「法雨」ということが訛って

「お~」と聞こえるのです。

 

 

いつ頂いても美味しい精進料理です。

真中は大きな麩と椎茸の炊き合わせ

その上のお浸しは絶品

右下のお椀はご汁

ちょうどいい満腹感です。

 

 

境内を散策すると、

小さな柿が鈴なりに色づき

始めています。

 

 

白い芙蓉の花も美しく、

 

 

となりにはピンクの芙蓉、

目も舌も香りも肌に感じる空気も

五感すべてに満足して、

 

 

外に出ようとすると

また、風情のある塀に出くわします。

古くなった瓦を上手に使った

塀の姿は味のあるものです。

 

嵐山から「嵐電」という電車で

四条大宮に出ます。

 

 

ここにも熊本を応援する

「くまモン」がいました。

嵐山で見る「くまモン」、

とても嬉しく感じます。

 

ここから、珍しい駅を通り、

帷子ノ辻(かたびらのつじ)

蚕ノ社(かいこのやしろ)

太秦(うずまさ)

などなど、

一両の車両なのでしょうか

結構満員状態で、

四条大宮に到着です。

 

やはり、 

混雑時はこの嵐電に限るようです。

 

 

 

 

 

 

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仏の鍵を手に入れる!?

2016-10-24 17:30:35 | 住職の活動日記

カギという字も「鍵」もあれば

「錠」もある。

古い時代には「鑰」(やく)

という字もある。

 

「キーワード」という、

言葉もあるように

何か重要なことをひも解く

カギとなる言葉です。

 

弘法大師もよく使われています。

「般若心経秘鍵」

という般若心経を解く秘密の鍵

ということでしょうか、

『文殊の利剱は諸戯を絶つ』

という文句で始まります。

また、

「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)

秘密の蔵を開ける宝のカギ

という意味になるのでしょう。

やはり、読んでいる十地経と同じく

十住心という言葉を使われ、

菩薩の修行の段階を十に分けて

説いておられます。

『生れ生れ生れ生れて

生の始めに暗く、

死に死に死に死んで

死の終わりに冥し(くらし)』

という名文が出てきます。

 

バチカンにある鍵の紋章

二つ交差したものです。

このカギも天国を開くという

鍵なのでしょうか?

 

 

 

 

稲荷大社の左側の狐

鍵を咥えています。

この形が「鑰」といわれるものです。

右側の狐は

 

 

黄金の稲穂を咥えています。

稲荷ですから、稲穂を荷い

それを蔵に納めている鍵を

持っているということを表現したのでしょうか?

 

 

ちょうど実り明日25日は刈取りの儀が

執り行われます。

 

華厳経の十地品に

『信満成仏』という

言葉が出てきます。

信の一念に成仏する、ということで

信の一念に成仏する鍵を握ったと

いうことでしょう。

仏に成るということです。

仏に成るということは、

何も変わったものになる

ということではなく、

本当の自己に帰る、という意味です

本当の自己に帰るカギを握った

ということでしょう。

 

なにもすぐ仏に成る必要はなく

鍵さえ握っておけば、

急いで仏に成る必要なはい。

成れる時に成ったらいい、

鍵を握ることは大事なことですけど

あわてる必要はない

そこに十地という修行の段階が

菩薩道という道があるのです。

 

私たちも心の中には

宝の蔵があるのですが

そのカギを手に入れてないので

宝を眠らせたままに

しているようです。

 

般若心経秘鍵、秘蔵宝鑰

と弘法大師も心血注いで

書いておられるように、

鍵を手に入れる難しさがあるのです。

 

 

 

 

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京都御所の迎賓館

2016-10-23 21:43:01 | 住職の活動日記

御所の一角に新しくなった迎賓館

申し込みをすれば誰でも見ることができます。

一見の価値あり!!

見事な造りもさることながら

その技術が伝承されるということも

大事なはたらきです。

 

 

玄関屋根の天井の造り

そこから手の入れように驚かされ、

 

 

待合の椅子の細工の繊細さ

やや薄暗く、

まず賓客に落ち着いてもらう

そのような仕掛けなのでしょうか?

 

 

「夕映えの間」に足を踏み込むと

パッと明るくなり

両脇の織物の画が出迎える

 

 

天上の工夫も面白く

光を天井に反射させ

その光がふりそそぐという、

 

そこから眺める池の景色

 

 

四国牟礼町の石を使った池

 

 

何気なく立っている石と

横たわっている石

これだけなんですが微妙な緊張感

が生まれています。

 

晩餐室である「藤の間」

 

 

この織物も見事です。

それよりも驚いたのは

 

 

この長押、20メートル以上あるような

大空間を生み出しています。

 

 

お料理はこういうセットで

出されるのでしょう。

その舞台にもなるところでしょうか

 

 

截金細工(きりがね)が美しい、

人間国宝の江里佐代子さんの

「響流光韻」(こうるこういん)

という舞台扉です。

 

また、釘隠しも凝っている

 

 

どこを見ても隙がない

 

 

ここの天井の照明も

細工が美しいものです。

 

ここからバックヤードを通り

 

 

厨房室も垣間見て、

和室の「桐の間」へ

 

 

圧巻はこのテーブル

12メーターほどの一本の木材から

漆の仕上げも見事で

蝋色(ろいろ)仕上げで磨き上げ

職人さんの手がやけどするほど

だったそうです。

 

そこから見る

庭の風情もがらりと変わり

 

 

四季折々の花が咲くよう

組み合わせて植えてあり、

ここの石も四国の牟礼町の石、

もしや牟礼町といえば

イサムノグチの美術館がある

そこの和泉正敏さんも関係

しておられるのかな?

 

 

そこから池を渡る渡り廊下

ここにも小さな遊び心

 

 

コオロギやトンボの透かし彫りが、

 

 

この渡り廊下からの眺めも

素晴らしく

 

 

池を囲むように建物が配置され

現代和の空間を作り上げています。

 

 

この池は舟遊びもでき

最初の方はブータン国王夫妻が

愉しまれたということです。

 

 

廊下には折り紙をイメージした

行燈が置かれています。

 

ふと気が付いたのですが

ちょうどいい温度設定

しかし、空気の吹き出し口は

見当たらない、

どこから出てくるかわかりませんが

全体をちょうどいい温度に

設定してあるそうです。

 

日本の技術の確かさが残っている

そういう建物・庭・織物・などなど

ありとあらゆる技術が集積された

空間です。

是非ぜひ一見の価値ありです。

 

 

 

 

 

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無患子(むくろじ)

2016-10-21 21:37:32 | 住職の活動日記

一軒の神社でもお参りすたびに

新しい発見があるものです。

ここ今宮神社、

 

この狛犬どこかが違う??

台の下

四方にいる邪鬼のようなものに

支えられている。

天邪鬼のようなものに

改心して、縁の下の力持ちに

なったのか??

 

 

頑張っている姿、

五重塔の垂木の間にも

遊び心があって、

こういう天邪鬼の姿の彫刻を

作っています。

 

ところがそこに古老があらわれ、

いろいろと教えてくれる。

手には手作りの小さな箒

 

 

これは天邪鬼ではない

関取の格好をしていると、

すると、お参りの仕方も

 

 

右側は男の神さんで

女性の方がおまいいりする。

左側のお社は女の神さんで

男性がお参りする。

などいろいろ教えて頂き

話も弾み、

 

.

 

これはなにか知ってるか??、と

今月は神無月で神さんが出雲に行って

帰ってくる時、

この清めた場所に戻って来ると、

 

ではこれはなにか知ってるか??

 

 

この黒い固い種、

たぶん羽根つきの羽の下についてる

あの黒い玉…?

そうや!!

無患子(ムクロジ)と言うんや

この木を見せたろか

 

 

もう樹齢何百年も立っている

ここまで大きい木はないのでは?

 

「無患子」と書くから

子供が病気しないように

との願いを込めて植えられたのでしょう。

またサポニンもあるところから

水につけておけば泡が出てくる

そこで、シャボン玉もできたり

洗剤の変わりにもなるということです。

 

 

小さなお堂の中に

このような石が、

石を叩き三度持ち上げ撫でて

次に、自分病気平癒を願って

持ち上げ

軽く感じれば病気が治るとか

 

今宮神社も

お玉さんが輿に乗って将軍家へ

嫁いだことから「玉の輿神社」

となっていますが、

本来は厄除けの神さんということです。

 

 

境内にはピラカンサスの花も

咲いていました。

けど、

今宮神社といえば「あぶり餅」

 

 

帰りによって、

 

 

結構お腹は満腹だったものの

香ばしさと軽い感じが

食をそそり、あっという間に

たいらげてしまいました。

 

最後に

 

 

「無患子」の種も頂きました

こういう状態で見つかるのは珍しい

ということです。

この外の果肉のようなものを落とすと

中から黒い実が出てくるということです。

 

まあ、

不思議な古老に出逢い

いろいろ教えて頂き

最後にまたあぶり餅でも出逢い

今宮神社の本当の姿を

垣間見た思いでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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