本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

何遍読んでも、読む度に、新しい

2024-05-31 19:48:35 | 十地経

大学に入った時に

「十地経講義」に出会って

以来、今だ読み続けている

私にとっては

古くてしかも新鮮という

のがこの講義です。

 

「七地沈空のことは、

何か教科書のように書いて

ないですね、この経文

読んでみると。

そこがまあ面白いとこ

だと思うんです。

 

これは、もう一つの

相応学舎の会の三十頌ジュ

でもですね、

えらい長いことかかって

話しとるですけど、

熏習(くんじゅう)の話

ばかりしているんです。

そういう話しはですね、

教科書みたいにやると、

すぐすんでしまうんです。

 

イントロダクションて

案内書ってあんまり

よくないもんなんだね。

それはやっぱり原文に

触れなきゃ。

『成唯識論』

(じょうゆいしきろん)

といったら原文なんです。

翻訳とはいうものの、

原文なんです。

 

『十地経』でもそうです。

何故かというと、

この『十地経』というもの

によって地論宗というもの

が開かれたんです。

翻訳が開くということは

できないです。

原典だから開けてきた

んです。

 

原典というものは

表現というものをもって

いてですね、ただ解説と

いうようなもんじゃない。

そこで非常に文章が

生きているんですよ。

何ぼ話してみても、

味があるんです。

 

どうも味があるもんだから

何べん言ってみても

言っただけじゃすまん

ようになってくるんだ。

そんなことが我々を引いて

いくんじゃないかと

思うんです。

一つの芸術作品というよう

なもんでもそうです。

 

こういう本というのは

そうたくさんないもので、

何べん読んでも、

その読む度に、

新しんですね。

読んでなかったんじゃ

ないかという気持ちです。

もうすでに読んだつもり

でいたけど、読んでみると

読んでいなかったと、

こういう本があります。

 

やっぱりこの

『十地経』なんかでも、

七地沈空というようなこと

で片づけて、それでもう

七地はすんでしまうんだ。

卒業してしまうんだ、

知識的には、

七地沈空というものを

聞いただけで。

 

だけどその七地沈空という

ものを、その一語で

すましてないんです。

何かやっぱり

六地から七地を通って

八地まで及ぶ、

八地に入ってもやっぱり

沈空というようなことが

かえって

出ているんです。」

 

ですから、

この講義があって

その講義が本になり

それをいまだに読み続けて

いるということは

こういう事があったのです

私の場合は

忘れるという事もあって

読む度に日々新しいのです

 

別な見方をすれば

こういう本に出会った

さらに講義を聞けたという

ことは何よりも

有りうべからざることが

あったという

本当に有ること難しです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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七地沈空の難

2024-05-30 17:53:38 | 十地経

七地沈空・しちじちんくう

の難、ということが

七地の大きな難関です。

空に沈むという。

空ということは、

一切は因縁によって生じる

ということで、

我とか本体とか実体はない

ということです。

それで、一切皆空イッサイカイクウ

といわれます。

 

空は虚無ではなく、

空を観ずることは真実なる

価値の発見ですから、

空のままが妙有であると

いわれます。

 

ただ陥りやすい問題は

空を虚無的にとらえると

悪趣空アクシュクウという世界に

陥ってしまいます。

 

「一地、二地、三地という

ように、梯子段のように

ずっと続いているような、

直線的に、

そういうもんじゃなしに、

何かそこに一つの難関と

いうようなものを包んどる

ということがあるわけです

 

それは一つの方向転換です

これは何ですよ、

頭で考えたというもんじゃ

ないですよ。

やってみないと

そういうことは分からん。

やれば必ずそういうとこに

行きあたるんです。

 

『十地経』というのは

行きあたった人が、それを

超えてきた歴史なんです。

 

七地沈空といってですね、

七地沈空の難

ということがいわれている

それで、

沈空というのは、

経文に当てていえば第六地

なんです。

空というのは、般若という

意味です。

第六地は般若が現前した

という意味ですから。

何もないという意味じゃ

ないんです。

 

空を悟るのは智慧ですけど

空に沈んだら

それは智慧じゃないです。

執着です。

空を悟るというと、

その悟られた空に執着する

というような。

空を固定化するんだ。

 

だから般若でも、

空もまた空ということが

あるんです。

空と固定化すれば

その固定したものもさらに

空でなきゃならんと。

 

その空というものを固定化

すればですね、

それは大いなる有です。

せっかく底が抜けたのに、

その抜けた底を、

抜けた底とというような

ことを考えたらですね、

 

せっかく到達したものに、

停滞してしまうと。

そうするというともう、

停滞する以前に、

ちょっと損したという

もんじゃないんだ。

 

第六地にきてそこで沈滞

すると第五地に下がった

というもんじゃない。

もう元も子もなくなって

しまうというのでしょう。

全部を失ってしまうと。」

 

ここに

修行の大切さがあります。

もうここまで来たから

これくらいでいいだろうと

修行をやめてしまうと

そこに止まるのではなく

元の木阿弥、

すべてをなくしてしまう

そういう危険性が

あるのです。

だからよく言われるのは

修行は死ぬまで

これでいいということは

ないんです。

 

なかなか厳しいようです

けど、歩み続けると

自然無功用行という、

行が遊びになるという

そういう世界が開けてくる

というのでしょう。

 

まだまだの世界ですが、

『十地経』では

そういうことを述べている

ようです。

 

 

 

 

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五月の大祭模様

2024-05-29 19:17:22 | 住職の活動日記

この度の大祭は

いろいろと新しい出来事が

ありました。

真新しい本堂にさらに

真新しい太鼓が鎮座して

います

太鼓の名手、小山盟央さん

による奉納された太鼓です

二尺五寸ほどの大きさ

これくらいの大きさだと

音に変化をつけることが

出来るということです

 

法要では

力強くもあり、また

語りかけるようでもあり

強く弱く

護摩の炎に合わせるように

太鼓の音が響きます

 

また、先日求めた

お燈明の芯

 

 

美しく灯りました

以前使っていたものと違い

少し工夫がなされています

灯心を支える舌のような

ものがあり

灯心押えも切り込みがあり

芯も安定します。

 

以前使っているものと

比べるとはるかに使いよい

しかし、油というのは

手入れが大変で

灯心の燃えかすを切らないと

大変なことになり

また、油のべたべたが

度々に取らないと

汚れが大変です。

 

でも、やはり護摩壇には

灯明がいいようです。

 

 

大祭当日は朝から雨

(台風の影響でしょう)

しかし、始まる頃には

雨も上がり

足元もよくなっています

 

 

表の様子も少し変わり

すっきりした感じですが

樹皮一枚でもっていた梅

ずいぶん元気を取り戻し

沢山の梅の実を付け

 

 

見事に復活しています

 

 

横にあったお地蔵さま

外にあって通りすがりの

方々も気軽にお参りできる

ように見守っておられます

 

 

また、東側の通り沿いには

オタフクナンテンが

無機質なRCの壁に彩を

添えています。

 

大祭は内拝ができ

お加持を受けて

朱色の入木を願いを込めて

護摩の火に直接ご自身で

投じ念じます

お不動さまの領域に

直に入り、お心を頂き

願いを成就させるのです。

 

太鼓の音色も

お参りの方と一体になって

お不動さまの声のようでも

ありお参りできたのでは

ないでしょうか。

 

焚いている私も

気持ちのいいものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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奉詔訳(ぶじょうやく)

2024-05-25 19:24:59 | 十地経

「奉」たてまつる

という意味です。

普通には「ほう」と読み、

「ぶ」とはめったに

読みません。

仏教の読み方

だけかもしれません。

 

「詔」みことのり

という意味です。

それで、奉詔訳というのは

中国で天子の命によって

翻訳したということです。

 

いつも読んでいる

『理趣経』(りしゅきょう)

というお経、

正式な名前は

『大楽金剛不空真実

  三摩耶経』といいます。

その中の、

「般若波羅蜜多理趣品」

というところです。

それで簡略して

『理趣経』といっています

 

それでその次の行に

「大興善寺三蔵沙門

  大広智不空奉詔訳」

とあります。

大興善寺の不空三蔵という

真言宗第六祖に当たる方が

翻訳した、ということです

 

ところで

玄奘三蔵の翻訳した

『大般若経六百巻』

詳しく見てみると

玄奘が60歳の時に翻訳に

取り掛かった

西暦でいうと660年正月

から始めて、663年10月

完成しています。

ところがその次の年

664年3月7日に

亡くなります。

まさにこの大般若経翻訳が

最後の大事業です。

 

玄奘三蔵は63年の生涯で

17年間の経典を求めての旅

645年帰国して

大般若経600巻

瑜伽師地論100巻

成唯識論ジョウユイシキロン10巻

大毘婆舎論200巻

倶舎論クシャロン30巻

などなど、全人生を

翻訳という事業に身を

捧げておられます。

 

その中で『大般若経』、

大般若経は転読法要という

600巻を全部読むのは

時間もかかるということで

転読という

お経を読んだふりして

パラパラとやって

読んだということにする

これが、一つの形になり

お参りする方からすれば

結構、面白い作法です。

 

50巻が一箱に入っていて

10巻が一つの帙チツに

入っています

600巻を唱えるとなると

12人の僧が必要になります

 

読み方は

最初の大般若経の表題を

読み、次に

「唐三蔵法師玄奘奉詔訳」

唐の三蔵法師・玄奘

奉詔訳(ぶじょうやく)と

独特の節をつけて読み上げ

ていきます。

 

最初にこの法要に出た時は

驚きとどうやって

声を出したらいいのやら

またパラパラといかない

経本がばっさと落ちる

この読み方はさほどの

決まりはないようで

それぞれ独特の節で読む

というものです。

 

昔は、

伏見の酒蔵では

酒を仕込む前には必ず

この「大般若転読法要」を

そのお宅で行ったのです

人数も12人は多すぎるので

6人が100巻を担当する

それで、途中には

お茶とお菓子も出て

一服してからまた始める

そういう、

一日仕事になりました。

 

こういう大般若経を読む

というのは

やはり、昔は

国に災難や色々の災いが

起こった時に

国の方向、天子のあり方を

経典という基本に立ち返り

もう一度本当の教えを

見直すというところから

始ったのでしょう。

 

ですから

法要と行うと同時に

僧より教えを請うたという

のが本来のあり方だった

のでしょう。

 

経典も「奉詔訳」という

ものだけではなく、

ただだれだれ訳という

経典も多いのです。

そこに「奉詔訳」という

のは国家によって

認められたというか

勅命により訳されたという

一面もあるようです。

 

 

 

 

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経典翻訳事業

2024-05-24 20:39:33 | 十地経

お釈迦さまが教えを説かれ

それを口伝えに伝えて

つまり「口伝」ですね、

それが文字になり

経典となって

今に伝わっている。

そういう形でお釈迦様の

教えに触れている

とても不思議な気がします

 

最初の頃は

お釈迦様も文字に書き写す

ことを禁じておられた

ようです。

そういえば、安田先生も

書くことはしなくていい

目を見てじっと聞きなさい

ということを仰って

おられました。

 

その言葉を文字にしていく

という、ですから

最初はサンスクリットで

それもデーバナーガリー

という原語で書かれたもの

それを葉っぱに書き写し

その葉を糸に通した

というものです。

それで「お経」という字は

経(たて糸)という字が

使われます。

 

そのインドの言葉を

中国語に翻訳したのが

今使っている経本になった

ということです。

 

その中でもやはり

一番有名なのが「玄奘三蔵」

三蔵法師です。

翻訳も大きく分けて

玄奘よりも以前に翻訳され

たものを旧訳(くやく)

といい、それ以後のもを

新訳といいます。

 

玄奘三蔵が勝れている

ところはただ個人として

訳したのではなく

プロジェクトチームを

作って翻訳したという

ことです。

そこに勝れている点がある

と思います。

 

そのプロジェクトチームは

9人編成です。

まず、

訳主(ここでは玄奘)が

正面に座し梵文を翻訳して

読み上げる。

その左に座した證義ショウギ

という人が訳主と共に

その梵文を批判調査する。

その右には證文ショウモンという

訳主が読み上げる梵文が

誤りがないかを調べる。

 

そして梵文を聞いて

梵分のままを漢字に写す

という梵学僧・書写ショシャが

いて、

文字を綴って句とする人が

綴文テツモンといいます。

それを訳した方がいいのか

そのまま使った方がいいか

のを検討する参訳サンヤク、

 

つまり「般若」という言葉

はプラジュニャーという

それを訳さずに

そのまま音写した言葉です

 

訳しても言葉がダラダラと

長くなってしまう言葉を

削って句の意味を定める

刊定カンジョウという役があり。

 

南面して、訳文を潤色

整えるという潤文ジュンモン

という人がいて

一つのお経が完成する

ということになります。

 

玄奘三蔵の訳が素晴らしい

のはこういう構成によって

翻訳が行われる

ということなのです。

 

さらに驚くべきことは

60歳になった玄奘が

大般若経六百巻の翻訳に

臨んだことです。

生涯かけて翻訳事業をやり

訳した経典は

約2000巻にものぼります。

自身の著書は一つもなく

ただ西遊記のもとになった

ものが一つあります。

 

これは時の皇帝から

資金援助を受けるために

玄奘が旅した行程の中

その訪れた国々の情報を

書き記したもので

それを弟子に書かせたもの

が「西遊記」のもとに

なったと言われています。

 

そういう沢山の方々の

努力の賜物が今のお経です

努々疎かに扱っては

ならないと思いながら

読んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

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九方便(くほうべん)

2024-05-23 20:24:04 | 十地経

十地経の第七地の面目が

方便智によって発起された

殊勝の行、ということに

なります。

そこで、ここのところ

ずっと「方便」ということ

が気にかかり、考えて

いたのですが。

 

そういえば、身近に

唱えるお経がありました。

胎蔵界の修法をするとき

「九方便」という偈頌が

あります。

金剛界の時は

「五悔」(ごかい)という

ものです。

 

九、九つの方便智という

ものです。

方便ということも

大まかには

心身をあげて修行する

実践するということです。

そういうことを

九つに分けて説明している

のが、九方便ということ

になります。

 

第一は作礼方便、

 仏・法・僧を敬礼する

 ということです。

 敬い礼拝する。

まず「行」に入ると

礼拝加行ということから

始まります。

 

第二は出罪方便、

 罪を懺悔(さんげ)する

金剛界で出てくる「五悔」

もやはり五つの懺悔です

懺悔ということが中心です

奈良のお水取りも

悔過(けか)といって

懺悔の法要です。

ただ、懺悔(ざんげ)と

違うのは、

懺というのはクシャマの

音写で忍という、認識と

意味を持ています。

悔い改めれば許される

というものではなく、

罪の意識というものを

持ち続けるということも

含んでいるようです。

 

第三は帰依方便、

 仏・法・僧に帰依する

三帰依の実践です。

ほとけと仏が説かれた教え

そしてそれを実践する仲間

僧に身を捧げるということ

です。

 

第四は施身方便、

 身を捧げるというか

身を投げ出すことです。

施身聞偈が有名ですが

羅刹に自分の身を捧げて

教えを請うという話しが

あります。

「身を捨ててこそ

  浮かぶ瀬もあれ」

とい言った人がいますが

逆にいえば

「身を捨てずに何が

  できますか」

ということがあります。

 

第五に発菩提心方便、

 第五番目にやっと

菩提心がおこるという

礼拝があり罪の懺悔があり

三帰依がおこり、

教えのために身を投げ出す

ということがあって

菩提心が起こるのです。

 

第六が随喜方便、

 他人が為した善いことは

どんなに小さい事であっても

それを共に喜ぶ、

 

第七が勧請カンジョウ方便

 勧め請うということで

釈尊がさとりを開かれた時

梵天が悟りを聞き付け

その教えを説いて欲しいと

請うという話があります。

教えを広めるように仏に

請い願うことです。

 

第八が奉請法身方便

奉請(ぶじょう)ですから

請いたてまつるという

法身ですから

さとりを体現できる身と

なるように請う、さらに

奉るという

重ねて願っているのです

 

第九が廻向方便

廻向(えこう)ですから

回し向けるという

以上のような功徳を

自分だけにするのではなく

一切の人びとのために

振り向け、

衆生と共にさとりを願う

ということになります。

 

ここで説かれる九方便は

修行としての具体的な

実践方法を指し示している

ようです。

 

この「九方便」は

『大日経』に説かれるもので

迷いを転じてさとりに至る

方法(方便)を述べています

『十地経』では

七地に入ると方便智殊勝の行

を得るのですが、

それが無量でなく無功用で

ない場合もあるが

それがまた障りになるという

ことで、

八地になると

自然無功用

(じねんむくゆう)という

努力がなくなるという

それが自然ジネンである

ということが出てきます。

 

やはり方便ということは

宗の別なく説かれている

ようです。

 

 

 

 

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方便智発起殊勝の行(ほうべんちほっきしゅしょうのぎょう)

2024-05-21 20:38:08 | 十地経

「方便智発起殊勝の行」

というのが第七地の眼目

になります。

初地から六地までは

根本智です。

ここが甚深ということ。

 

第七地が方便智

方便智によって発起された

殊勝の行ということで、

先生の言葉を借りると

深いままが浅くはたらく

ということです。

 

八地から十地までが

智慧神通行ということに

なります。

 

これが大きく分けた

『十地経』の構造です

こういう三つの分け方が

出来るようです。

 

ここで「方便智」という

ことが繰り返し出てきます

「方便」ということが

分かったようで分からない

それは幅広い意味をもった

言葉だからです。

 

善巧方便

(ぜんぎょうほうべん)

という言葉もあります。

ここでは

善巧は智慧、方便は慈悲

という意味になります。

善巧という言葉も

お経ではよく出てくる

言葉です。

巧みに導くというような

意味なのですが、

 

また、原語からいうと

その語源には二つあって

ウパーヤとプラヨーガと、

があります。

その中で、

ヨーガの修行としての方便

四摂事としての方便

があります。

 

ヨーガの修行としては

・戒を守る、

・そこから念を守る

(つまり忘れない憶念不忘

ということ戒を保ち続ける)

・戒を守るから、怠ける心

を対治して善法を行う

・なまける心がないから

内心にヨーガを修する

これが

方便のヨーガとしての

実践です。

 

そして、四摂事としての

方便行は

他の人びとを救う実践行

としての慈悲行です

具体的には

布施行・愛語行・利行・

同事行の四つです

これは四摂の法ともいわれ

菩薩としての修行の一つ

として重要なものです。

 

方便ということが

普通に使う「方便」とは

違って、仏教の根本的な

智慧であり実践であり

また、幅広くいろいろな

ことと関係を持っている

ことに驚きます。

 

講義は

「方便智によって発起

せられた殊勝の行と、

これが七地の面目なんだ。

『勝』という字がある。

これは根本智じゃないん

ですね。

根本智は六地だ。

甚深の法門だ。

甚深というのが根本智。

七地は方便智。

 

甚深は深いんでしょう。

深いというよりも、

まだ深くないのは浅いかも

知らんけど、

そうではなしに、

深いままが浅くはたらくと

 

深いのをやめて

浅くなるんじゃない。

深いままが深さというもの

を否定して浅くはたらくん

んだ。

こういうところに

殊勝ということが

出てくるんです。」

 

よく先生は色紙に

「深心妙行」

という言葉を書かれました

「深いところに立って

 自由にはたらく」

という意味です。

 

ここに出てくる

方便智殊勝の行という

ことになるのでしょう。

 

まあ、方便ということ

なかなか難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「永遠の相」

2024-05-20 18:22:52 | 十地経

第六地は

「甚深の法門に入る」

というところです。

縁起甚深と。

一切の存在は縁に依って

あると、

それ独自としては

成り立たないということ

です。

何となく分かっている

ようでも、それを事実と

して受け止めるのは

出来ないのです。

 

「空」ということも

縁起ということです。

それ自体としてはない

のですから

実体はないのです。

ですから何にでもなれる

といことが空ということ

になります。

 

講義では

「煩悩で苦しんどる

というのが縁になるんだ。

煩悩で迷っているという

ことも縁になるんだ。

これは非常に不思議なこと

なんですよ。

 

迷っとると、

迷っとるということも

迷いじゃ成立せんのや。

悟るばっかりじゃないんだ

迷いということが

やはり何か、一つの、

存在の法則によって

成り立っている。

そこが甚深なんだ。」

 

よく、「迷っています」

ということを聞きますが

本当に迷っているという

ことが分かれば

それは悟りです。

迷っているということが

分かるといことは

迷っているということを

見る客観的な眼がある

ということです。

 

私たちは

迷っているのやら

わけもわからなく

生きている、

ということが本当の姿

ではないでしょうか。

 

迷っているということが

分かるということは

迷っていない確かな自分が

あるということです。

迷っている自分を見ている

ですから、

迷いが分かるということは

実は大変なことでしょう。

 

講義はさらに続けて

 

「迷いも縁起なんだ。

悟りも縁起だけど、

迷いそのものが、

迷ったものがなくなって

純粋になるんでない。

迷ったものを純粋に

成り立たせている。

 

その時に迷いを捨てて、

悟りを得ようというような

分別から解脱する。

そうすれば迷いの世界も

耐えられるんじゃないか。

耐えられれば、

迷いじゃないじゃないか。

 

そういうような境地が、

仏教から照らすと、

スピノザの哲学が生きて

くるんじゃないか。

あの、

『永遠の相のもと』という

スピノザですね。

世界を永遠の相で見ると。

 

永遠の相というのが縁起

です。

縁起の眼で世界、を見る。

永遠の相で、見ると。

 

何かそのー、

情熱的な信仰じゃないんだ

ユダヤ人なんですけど、

ユダヤの信仰よりももっと

哲学者の信仰というような

ものがですね、

スピノザに出てるんです。

 

それでないと

ただ自然科学というような

ものになって、

そうではなく、

それでないと

ゲーテなんか感動する…

ゲーテなんかが感動する

ゲーテを感動させるような

力があったんです、

スピノザに。」

 

永遠の相ということは

ちょっと分かりませんが

こういうことが分かると

ゲーテのいう言葉と

縁起ということが一致する

のでしょう。

 

こういう、六地の

甚深の法門ということを

ゲーテの言葉を交えながら

展開していくのは

とても興味深いことです。

 

 

 

 

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散れば咲き 咲けばまた散る

2024-05-19 20:52:37 | フラワー

「散れば咲き 

  咲けばまた散る

   春ごとの

 花のすがたは

   如来常住」

 

一休さんの歌ですが

花を見るたび、思い出す

歌でもあります

 

 

5年ほど前でしょうか

フラワーアレンジの教室で

妻が活けた際

その花材になっていたのが

このアマリリスです

 

日ごとに花を膨らませ

今日、

4輪が咲き揃いました

 

 

いつもながら

勿体無いような

さほど手入れするでもなく

ただ、水を遣る位なのに

今年も、立派に

自分の姿を見せてくれます

 

 

いつも変わらぬ姿で

その真っ赤な花を見せて

くれます

 

 

はじめ葉が出てきて

その横から花の茎が伸び

その茎も赤く染まり

球根から赤のもとになる

色素を送っているようです

 

 

左から順番に咲き

四方正面というのでしょうか

どこから見ても

美しい姿を見せています

 

また、新しい仲間が

 

 

アジサイです

島根県の名産のようで

万華鏡という名前

 

 

言葉のように

見方によっては

いろいろの表情を

見せています

 

 

何とも品のいい紫陽花です

紫陽花も結構長く咲き

また咲き終わっても

枯れた姿も美しいもので

蓮の花と紫陽花は

枯れた姿も風情がある

ようです。

 

今年も終わり

また力を蓄え

来年も美しい姿を

見せてくれることを

願っています

 

「ほとけさまはどこに

 どこにいらっしゃる

 春は花咲く花の中… 」

 

という歌があったように

思いますが、

こうやって花の咲くのを

見ていると

この歌のように

まさに、

ここにほとけさまが

いらっしゃるような

気がします。

 

 

 

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スピノザ(1632~1677)

2024-05-18 21:14:46 | 十地経

講義の中でもこの方の

名前はよく出てきます。

江戸時代4代将軍家綱の

頃の方です。

先生の話によると

スピノザという人、

哲学者というより職人さん

それもレンズ磨きの、

その当時はまだ

哲学者というジャンル

はなく、職人が皆

哲学をやっていたそうです

 

何かそういうことに惹かれ

とても魅力を感じたのです

今でも

植木の職人さんとか

それなりの世界観というか

哲学を持っておられます

それがないと

仕事が出来ないのでしょう

 

その頃は毎日、雑用雑事に

追われて

お経読むこともなく

ただひたすら掃除草刈り

炊事洗濯と、

でも、このスピノザの話を

聞いてからは

雑用雑事でいいではないか

そこに教えを聞き自分を

磨けばいいではないかと

妙に、コンプレックスが

取れたものです。

 

講義も、初地から

第五地まで終わり

第六地になるところです。

 

「それから第六地は

『甚深の法門に入る』。

甚深ですね。

これは縁起です。

縁起甚深と。

縁起というものを考えると

一切の存在は縁起によって

成じておるというと。

そういうことが不思議と

いうことじゃないかと

思いますね。

 

あるとかないとか

決めてしまったら、

それは不思議でも

何でもない。

縁に依ってあるんだ。

縁に依ってあるというと

依ってあるんだ。

それ自身であるんじゃ

ない。」

 

この縁ということを

説明するのに

スピノザの話が出てきます

ユダヤ系のオランダ人

無神論的傾向があったため

ユダヤ教会から破門という

ことになります。

それから、レンズ磨きで

生計を立てながら

『エチカ』『知性改善論』

『神学政治論』などの

本を書かれます。

 

それから、余談ですが

最初に出てくる

「甚深」という言葉

「無上甚深微妙法」とか

「じんしん」「じんじん」

とも読みます。

はなはだふかい、という

意味です。

しかし、

この「甚」という字

ちょっと気になり

調べてみると

「甚」という字は

甘と匹から出来ていて

「匹」は男女の和合の意を

表し、そこから

甚は、夫婦の和合の楽しみ

を意味し、

それは非常な楽しみである

ので、ひいて「はなはだ」

という意味になったのです

 

まあ、こういう俗字的な

ものまで仏教語として

高めていくところが面白い

ものです。

そういう言葉は他にも

よくあるものです。

 

「スピノザの哲学という

ものは、何といいますか、

自然必然といって、

自然科学的な哲学的世界

でしょう。

 

けど、自然ということは

自由と意思ということと

違うのではないか。

スピノザはね、

自由なんて考えるのは

妄想や、こういってね、

自然(じねん)という

ところに本当の哲学の姿が

あるんだと、

哲学者の世界が。

 

自然(じねん)の中に

何か一つの解脱という

ものを見出してきてるん

ですね。」

 

というように続くのですが

ここのところは

スピノザの哲学も

分からないので、よくは

言えませんが

まだまだ、

スピノザの言葉を駆使し

ながら話が続きます。

 

 

 

 

 

 

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