本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『百螺祈願』-響き合う祈り

2016-09-29 07:07:32 | 住職の活動日記

ポスターもでき上がってきたようです。

 

 

『百螺祈願』(ひゃくらきがん)

百人の法螺貝を吹くお坊さん

全国からここ熊本に集まり、

熊本の復興を祈願しようというのです。

また本山からは仲田順和座主猊下も

お見えになります。

 

余談ですが、

宗派の長としての役職は「管長」

醍醐寺の長としては「座主」

醍醐寺の三宝院の長は「門跡」

と、それぞれの役目に応じて

肩書を持っておられます。

 

 

熊本では、本蔵院より繁華街をぬけ

熊本城にある「加藤神社」へ

そこで神仏一緒になって祈願

そして、「醍醐桜」の植樹が、

復興のシンボルなるようにと

願いを込めて植えられます。

 

 

二日目の阿蘇では、

地図の上の北にある国造神社(こくぞう)

そこから真南にある阿蘇神社まで

阿蘇五岳を拝みながら

一直線に伸びた道を歩みます。

阿蘇神社でも神主さんと一緒に

復興祈願をいたします。

 

廃仏毀釈で神仏が

分かれてしまったのですが、

本来の形は神仏一緒にお参りする

のです。

 

 

パンフレットもでき上がっています。

 

 

百人の響き合う法螺貝の音

なんとも壮大なものになるでしょう。

 

祈りということ、

仏教では、

一切衆生ということを言います。

生きとし生けるすべての命、

限定すれば、「人類」ということに

私たちは世界平和を祈る、

と大きく言っても、

現実は隣の人と仲良くできない

またうちわでもめている

ということです、

ではなぜ、

人類ということが問題になるのか

そこには自己関心(エゴ)というものから

社会関心(一切衆生)ということが

問題になってきたということです。

 

祈りということも

そこから出てきます。

自分も一切衆生の一人でありながら、

また、一切衆生を代表すると

一切衆生は私である、と

そこに大きな責任感を持って

立つのです。

人類を背負うて立つ、

しかしながら私も人類の一人である

自分だけが偉いわけではない

自分と人類というものが切り離して

生きることができない

そういうところに祈りということが

生まれてくるのでしょう。

 

響き合う祈り

法螺貝を吹く方たちの音も

響き合うし、

また、神々とも響き合う

神主さんの祝詞とも響き合う

一緒に参列された方とも

響き合い、

またそこに生活を営む

人たちとも響き合う

そこから、

初めて新しい道が見えてくる

ような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

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お不動さま秋の大祭、主役は紗和ちゃんか!?

2016-09-28 22:04:11 | 住職の活動日記

正月・五月・九月はお不動さま大祭

大祭としては今日が今年最後の

お不動さま、

気分的にはつい先ほど

お正月を迎えたような …

もうすぐ10月

今年も終盤に差し掛かります。

 

 

裏方さんたちは御斎の準備で

おおわらわ、

この枌(へぎ)も年期が入っています。

たぶんこのお寺とともに活躍している

かれこれ百年近くかな??

本蔵院名物のお赤飯をのせ

お煮しめが添えられます。

 

護摩法要も終り、

住職の法話の後

「百螺祈願」の説明

その先陣を切って歩くのが

『子供山伏』の紗和ちゃん

 

 

またもや、

「おならのような音ですいません」

と、お断りを述べて

堂々と法螺貝をふきながらの入堂

みなさんからは盛大な拍手が

 

 

住職から「百螺祈願」のご案内

御稚児さんの格好はどこでも

お見かけしますが

「子供山伏」の姿は珍しいのでは

ここ本蔵院より

加藤清正をお祀りする加藤神社へ

行列を組み繁華街を歩いて

熊本の復興を祈願していきます。

 

 

終わると早速に奈桜ちゃんのもとへ

やはりお友達がいると

一番うれしいようです。

 

本蔵院の彼岸花も

やっと咲きだしました。

 

 

今年はタイミングが悪かった??

咲くには咲きだしたのですが

 

 

よく見るともう虫がやって来ています。

 

 

花芽を食べられている様子

時期時期に咲かないと

花にとっても苦難があるのでしょう。

 

時折の激しい雨にもかかわらず

大勢の方のお参りを頂きました。

実りの秋を迎え

お不動さまへの感謝の気持ちで

今年の豊作を祈願

熊本にとっては受難の年でした。

これからしばらくは

試練の年が続きます。

 

復興を祈願して祈るのですが

私たちが祈るのではない

人間の祈りはたかが知れています。

大きな祈りの中にある自分を

発見するのでしょう。

そこに、

仏と我という相互関係の

響き合う祈りが

生まれてくるのでしょう。

 

その祈りがあればこそ

これだけたくさんの方々の

お参りがあったのです。

本当に、感謝感謝です。

 

 

 

 

 

 

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素の自分になれる!!

2016-09-27 20:20:56 | 漢字

最近よく、

「素の自分になれる」

ということを聞きます。

飾らなくてよい、

また、背伸びしなくてもいい

また、卑下することもなく

ありのままの自分でおれる

そういうことなのでしょう。

 

「素」 ソ、スと読み、

日本の音では(しろ、もと)と読みます。

もともとは、

しろぎぬ、という意味、

織ったままの絹ということです。

そこから、

きじ、かざりけがない

という意味が出てきます。

そして、

生まれたまま、ありのまま

というように発展してきます。

 

そういえば、

私たちが着る衣に

「素絹」(ソケン)という

ワンピースになった形があります。

また、

素人と書いて「しろうと」と読み、

素顔は化粧してない「すがお」

科学の方では、

素粒子という一番小さな原子

というものもあります。

おもしろいところでは

「素寒貧」

すかんぴん、と読みます。

ひどい貧乏のことですが、

すっかりお金をなくしたことを

すかんぴん、になったといいます。

 

しかし、よく考えてみると

素の自分ということも

難しいものです。

一面には何の飾りもなく

素直な態度というものは

はた目にも清々しいものですが、

一歩間違うと自分のエゴを

押し付けてしまう

ということがあります。

 

別な言葉では

「自然体」ということもあります。

自然のままにふるまう、

仏教では自然と書いて「じねん」と

読みますが、

何の修行もなくそのままということが

自然(じねん)ということではありません。

 

修行の段階に

努力無効用行(どりょくむくゆう)

ということがあります。

最初は「有効用行」(うくゆうぎょう)です。

努力しているという形が残る

如何にも努力してますよ、と

努力しているという痕跡

というか残滓が残る。

ところが、

修行もだんだん進んでくると

努力しているという形も

姿さえもなくなってくる。

それが「無効用行」だと

書いてあります。

 

「素」ということも、

ありのまま、そのまま、

ということでいいのですが、

本当は、

人間としての本来性、

難しくは「如」という言葉でも

表しています。

「如来」の如ということです。

ですから、

自分の本当の姿、本来性が

やって来たというのが

「如来」ということでしょう。

 

「素の自分でいる」

ということも深く求めていけば

努力したという形跡さえ残らない

努力が身に付いた

そういう姿をいうのでしょう。

その時初めて「他」ということも

認めることができるし、

対話するということも成り立つ

のではないでしょうか。

 

まあ、しかし、

「素の自分で居れる」

とい場所を持つことは

とても幸せなことだと思います。

 

それがさらに進んで、

努力が無くなるまで、

努力の相が無くなるまで

修行できたら、

なおさら、

「融通無碍」(ゆうずうむげ)

という、

自由な境地になれるのでしょう。

 

 

 

 

 

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阿蘇神社から国造神社へ

2016-09-26 21:00:22 | 住職の活動日記

阿蘇へ向かう国道57号線は

震災で道が無くなり

ミルクロードを通り

迂回するような形で進みます。

 

やはり現場へ足を踏み入れると

報道番組で見るより

その破壊力の凄さに

驚きと悲惨な状態に涙が出てきます。

 

 

正面の楼門の場所

 

 

横へ回ると屋根だけを残し

柱は崩れています。

 

 

拝殿も無残な状態

 

 

どうやって復旧したらいいのでしょう

 

 

違う場所へ移動すると

楼門の屋根全体が見えます。

もう、一から作り直さないと

修復という状態ではないようです。

 

 

この場所からは遥か向こうに

阿蘇五岳が拝めるのでしょう。

 

ここから真北へ向かったところに

国造神社(こくぞじんじゃ)が

あります。

道端は秋の装い

 

 

コスモスが咲き始めています。

 

阿蘇氏の出発の場所でしょう。

 

 

この近くには古墳も残り

阿蘇氏の先祖の墓とかということです。

 

 

少しだけ階段を上がり、

本殿へ

 

 

小ぶりながら立派な建物

木々に囲まれ落ち着いた雰囲気

この真南に阿蘇神社があります。

 

 

阿蘇神社の北宮ということです。

ここからは

 

 

釈迦涅槃像のお顔の部分が

拝めます。

この国造神社より一直線に

 

 

阿蘇五岳(釈迦涅槃像)を望むように

道が伸びています。

今は、

 

 

ヒガンバナが満開です。

 

この度の震災の復興を祈願して

真言宗の醍醐派の青年僧侶によって

『百螺祈願』が執り行われます。

醍醐寺の座主であり管長の

「麻生門跡」も参列され

この国造神社より阿蘇神社へ

百の法螺貝で清めながら

この道を歩きます。

 

正面には釈迦涅槃像

到着点は阿蘇神社

そこで神仏両方で復興祈願が

執り行われます。

なんとも素晴らしいロケーションです。

 

 

阿蘇神社では

秀吉が愛でたという「醍醐さくら」

が植樹されます。

 

 

足をのばし大観峰へ

生憎、「釈迦涅槃像」は

お顔の部分が雲に覆われ

残念ながら

立派な姿は拝めませんでした。

 

 

もうススキが風になびき

銀色の輝く穂先は美しく

外輪山を走る道路はススキに覆われ

久しぶりに阿蘇の空気を満喫

やはり「阿蘇」はいい!!

 

 

もう阿蘇の盆地では刈入れが

始まっています。

 

 

道の駅では新米が店頭に

並んでいます。

 

少しの時間でしたが阿蘇を訪れ、

阿蘇神社と国造神社

その二つの神社を結ぶ一直線の道

なんだか…、阿蘇の歴史の原点に

触れたような思いです。

 

 

 

 

 

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武雄市図書館

2016-09-25 21:40:53 | 住職の活動日記

市と民間企業が一緒になって

作ったという図書館、

全国的にも珍しく

テレビでも紹介されました。

 

 

裏山の面白い形の山を

借景に建っています。

一歩中に足を踏み入れると

 

 

平屋造りのような建物に

壁一面に本がびっしりと並んでいます。

本好きの私にはたまらない光景

そして中には「スターバックス」の店

 

 

ここの図書館はコーヒー片手に

借りた本を読めるのです。

 

 

とても羨ましい光景、

全国の方も借りることができます。

尋ねてみると、

専用の返却袋(500円)を借りれば

誰でも利用できるというシステム、

なかなか画期的なことを考えたものです。

 

見ていると、皆さんちょっとおしゃれして

足を運ばれているようで

思い思いの本を借り、好きな場所で

コーヒー片手に勉強やら

読書に耽っておられます。

 

 

テラス席もあったり、

自由に楽しんでおられる様子、

また建物も面白く、

 

 

集成材をうまく使った木造建築

 

 

柱はトラス工法でしょうか

長い大きい梁を支えています。

とても賑わっているようで

駐車スペースがない時は

近くのゆめマートを利用すると

いいとか??

 

 

また、音関係のスペースもあり

DVDやCDの貸し出しもあります。

円形の一面を利用した配列は

今までとは違った見せ方をしています。

こういういい雰囲気なので、

ちょっとおしゃれして足を運ばれる

ということなのでしょう。

それがいい刺激にもなっているようです。

 

外にでてみると

 

 

ヒガンバナ(壱師)が

本当に一本ずつ咲いています。

 

 

やはり花弁が六つあります。

あらためて頷きながら、

六つを数え直していました。

群生している彼岸花も美しいのですが

こうやって一本ずつ独立して

咲いている姿も美しいものです。

 

市という公の機関と

蔦屋が本を提供し

スターバックスがコーヒーを出す

誰かの画にありましたが

「〇・△・☐」と書かれた

つまり、違った者同士が協力して

一つの新しい価値観を

生み出していく、

これも新しい試みかも知れません。

 

近くであればまたまた

お邪魔したいところでもありました

 

 

 

 

 

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壱師

2016-09-23 17:19:03 | フラワー

「壱師」(イチシ)

聞きなれない言葉ですが

「ヒガンバナ」の異名です。

ヒガンバナほど

たくさんの名前を持っている

花はないようです。

 

「壱師」ということを知ったのも

WOWOWの「ふたがしら」

というドラマで出てきました。

 

万葉集に

『路辺 壱師花 灼燃 人皆知

我恋妻』

「路の辺の壱師の花の

灼燃(いちしろく)人皆知りぬ

我が妻恋は」

というようにでています。

 

いつも申し合わせたように

咲きだす彼岸花

今年は暑かったせいでしょうか

お寺の彼岸花

 

 

まだつぼみのようです。

 

仏教では「曼珠沙華」という名前で

出てきます。

仏さまの浄土に咲く花の

『四華』の一つにも数えられます。

 

 

よく見れば見るほど不思議な形

まさに天空に浮かんでいるような

 

 

形をしています。

そして不思議なことに

花弁が六本あります。

六という数字は六波羅蜜

彼岸のことは

サンスクリットでパーラミター

波羅蜜です。

この苦しい世界から浄土へ渡る

その六つの修行が六波羅蜜

この花もそのことを象徴している

そのようにも思えてきます。

 

 

ご近所でこの花を拝めました。

一本一本がそれぞれに独立して

花を咲かす、

そういうところから「壱師」の名が

付いたのでしょうか?

 

また、中国語では

「石蒜」(セキサン)というようです。

これを「イシシ」、と読んで、訛って

それが「イチシ」に変化した?

また地方によっては

「イチシバナ」とか「イッシセン」

の名前もあるようです。

 

聞くところによると

よくあぜ道やお墓に生えている

お彼岸の仏さまの花と

見ることもできますが、

この根は毒がありそのままでは

食べられない、

しかし、水にさらすなどして

飢饉の時には非常食になったとか

最後の食べ物として隠すため

墓地に植えたとか、

 

曼珠沙華の名前は

見るものをしてその悪を遠ざける

そういうハタラキを持った花、

言われてみれば

なるほど

この花の形を見ていると

その姿に

ついつい見とれてしまいます。

 

本当に不思議な花ですね。

 

 

 

 

 

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紗和ちゃん八面六臂の大活躍

2016-09-22 19:59:05 | 住職の活動日記

なかなかお忙しいようで、

ピアノにスイミング、英会話と…

極真空手、六つほどお稽古に

励んでいるということです。

 

 

昨夜は6時半から8時半過ぎまで

極真空手の稽古、

10月に昇級試験があるとかで

一通りの練習が終わった後も

更に馬場先生マンツーマンでの稽古

 

 

型は覚えたとか、

しかし一つの流れとしては

もう少し決めなければいけないと

いうところだそうです。

 

それにプラスして、

今日幼稚園で運動会の挨拶の

言葉を頂いたようで、

暗記するのに合間を縫って

口ずさんでいるようです。

 

明日の彼岸会に備えて

 

 

稚児山伏の衣装に着替え

法螺の練習、

まあおそれいります!!

それなりに音が出ています。

 

今日は今日とて、

 

 

朝からピンクの作務衣に着替えて

お接待の御斎のお手伝い、

それも終わると、

すぐさま、昨日にリハーサルした

山伏姿に変身、

 

 

お勤めも終り、

住職の法話の後紹介があり

いよいよ、紗和ちゃんの出番です。

法螺を吹きながらの入場堂には

恐れ入りました。

「おならみたいな音!」

とご本人は謙遜しながら

堂々とした入場です。

この子は本番に強いのか?な

 

 

本堂に着くと住職のお父さんの横で

物怖じもせずみなさんに

愛嬌をふりまいて

思わず皆さんから

拍手が沸き起こりました。

 

11月には全国から100人の吹螺師が

集まって熊本の復興を祈願するという

その先頭を切って

この稚児さんの山伏さんが

歩まれるということです。

本蔵院から加藤神社、翌日は

阿蘇神社に参拝し

神仏混淆で法要を営むという

素晴らしい企画が進行中です。

 

その内容は本蔵院のホームページでも

紹介があると思います。

 

まあ、紗和ちゃん大活躍でした 

あっぱれ  

 

 

 

 

 

 

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おそうじごくらく…!?

2016-09-21 21:40:41 | 住職の活動日記

「掃除地獄」という

言葉があるようですが ?

 

夏の好きな薬味に「ミョウガ」が

あります。

冷や奴にかけてもよし、

おそうめんの薬味としても

また、お刺身のやくみにも

風味があって食欲をそそります。

 

ミョウガ、漢字で書けば「茗荷」

となります。

名前を荷う、ということです。

子どもの頃には「ミョウガ」を

食べると物忘れする、とか

頭が悪くなる、

といわれたものですが、

子供にとっては

美味しいものではありません。

 

お釈迦さまの十大弟子の一人に

「周利槃特」(しゅりはんどく)

という方がおられました。

お兄さんは先に出家して

阿羅漢となられたので

それにつれられるように

お釈迦さまのお弟子になりました。

ところが、

もの覚えも悪く、愚鈍であったとか

自分の名前も忘るくらいで

常に自分の名前を書いた札を

背中に背負っていたということです。

ついには、

周りのお弟子さん方から

あんなに頭の悪い人を

お弟子にしていたら

お釈迦さまの名前がすたります。

と忠告されたそうです。

 

そこで、お釈迦さまは

自分のもとへ呼んで箒を一本与え、

「塵を除かん、垢を払わん」

という一句だけ教えて

毎日掃除をしなさい、

と教えます。

来る日も来る日も、

「塵を除かん、垢を払わん」と

唱えるうちに、ついには

煩悩の垢を払うことを知り

悟りを開いたということです。

 

その「周利槃特」が亡くなられて

そのお墓から生えてきたのを

「茗荷」と名付けたということです。

自分の名前を背をっていた

ところから名を荷う、

茗荷となったのでしょう。

そのこともあって、

食べ過ぎると頭が悪くなるとか

物忘れになる、という

うわさが広がったのかもしれません。

 

私たちにとって一番の修行は

「下座行」(げざぎょう)といって

かがんでやる仕事、

草引き、雑巾がけ、庭掃除

これが基本です。

 

庭掃除をしていると

若いお坊さんがやって来ました。

一緒に手伝いだしたのは

いいのですが、

見ていると立ったままで

箒を持つ手が … なんだか

小手先の仕事

かがんで隅の方は

手でしてください、

とお願いすると

エエッ!!  とそんなに

というような感じです。

でもしぶしぶばがらやってくれます。

身体と箒がバラバラというか

身に入っていません。

 

心はどこかにあるのでしょう??

身は掃除しているのに

心は他の場所です。

即身成仏といっても

何も

手に印を結び口に真言を唱え

心に仏を念じることではありません

ものとひとつになる、

箒と一つになる、

落葉と一つになる

そこに身を打ち込んでこその

即身成仏だと思います。

 

他のことを考えているから

「掃除地獄」になるのでしょう。

その場に身を置く、

掃除と一つになる、

さすれば、

それがそのまま即身成仏、

すると、

「掃除極楽」になると思います。

いやいや思いながらやれば

「掃除地獄」

 

若いお坊さん方を見ていると

すべてがチャンスなのに

そのチャンスを逃がしておられる

たぶん、

もっといい楽な、汚れない仕事

修行があると思っておられる

のかもしれませんが、

与えられたことに

身を打ち込めばそこがそのまま

極楽になっていくのに …

 

まあ、

仕方がないのかもしれませんが?

若いという頃は

いろいろ、あれやこれやと

思い煩うものです。

悲しいかな、

先が見えた頃になってくると

いろいろと少しずつ

思い知らされることばかりです。

 

 

 

 

 

 

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関の山

2016-09-19 13:42:58 | 住職の活動日記

今日は敬老の日、

もう二人ともとっくにその仲間入り

でも、憚ってか

子供たちからは敬老の祝いは

ないようです。

その方がいいのですが

でも、だんだんと、頑張っても

もうこれくらいが関の山

という年になりました。

 

「関」という字も面白い、

もともとの意味は「貫く」ということから

門を閉じる横木、かんぬき

そこから、門を開閉するということで

せきの意味になったということです。

 

 

『箱根の山も天下の嶮

函谷関も物ならず  』

という歌がありますように、

国と国との境目、要衝の地

ということです。

そういえば、何気なく使っている

「関西」・「関東」ということも

そこから出ているようで、

函谷関から西を関西

函谷関から東を関東

といったのが始まりのようです。

日本では昔は

伊勢の鈴鹿、美濃の不破、近江の逢坂

を三関といって

ここを中心に西と東にわけましたが

今は、

箱根の関を中心にして

関西関東というようになった

ということです。

 

1600年の9月15日は

天下分け目の関ヶ原の合戦

ありました。

美濃の不破郡の関を

関ヶ原というようです。

上から俯瞰しても

やはりそのような地形になっている

肝心要の地だったのです。

 

一つの難関を乗り越える

ということで、

今読んでいる十地経も

一つ一つの地を精進努力によって

克服していく、

難関を乗り越えていく、

それを「過地」といいますが

十あるということは

難関は一つではないということです

私たちの人生には

越えなければいけない難関は

無限にあるということでしょう。

だから修行の無限にある

ということです。

 

関の山ということも

三重県の関町に出てくる

山車(だしは)素晴らしく

これを越えるものはない

ということで、

「関の山」という言葉が生まれ

精一杯やるという

完成度は別にして

自分の本分を尽くし

自分の精いっぱいを尽くす

ということが

これから大切なようです。

 

関という字も

調べればもっといろいろと

面白いことがあるようです。

 

 

 

 

 

 

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ダメージ・ジーンズ修理

2016-09-18 22:07:29 | 住職の活動日記

最近は若い方のジーンズ

破れているものをよく見かけます。

これもファッションの一つのようです。

もう、膝がパックリ見えるような

ちぎれて落ちそうなジーンズも見かけます。

 

という、

私のジーンズもより年波には勝てず

破れてきました。

二十代の頃に買ったので

かれこれ40年あまりでしょうか。

 

 

もう、裏に貼ってあるリーバイスの

皮のマークも落ちてしまい、

でも、流石リーバイス

よくぞ持ってくれたとも思います。

 

もうそろそろ捨てようかと思ってた

矢先、

しかし、ここまで履くと

なんだか愛着が湧いてきて

 

 

捨てずに捨てられず、いたところ

ネットで修理キットを発見!

 

 

こういうアップリケを置いて

上からアイロンをかけるだけ

という代物です。

 

 

表に貼るというと、

どうも子供のようになってしまうので、

ひっくり返して裏から貼る

というようにしてみました。

わりと簡単にできました。

というよりやって頂いたのですが、

 

 

表にしてみると

まあ、いい感じにできたのでは…?

 

ふと思い出したのですが

お釈迦さまのお弟子さんで

とても物を大切にするという

方がいらして、

お袈裟を頂いてから捨てずに

上から上から縫い付けていたら

だんだん大きくなり重くなって

まるで、芋虫のような姿に

なってしまったということです。

見るに見かねて、

お釈迦さまは、

物を大切にするのは大事なこと

だけど、

見てあまりにも見苦しくなったら

新しいものにしなさいと

注意されたという話があります。

 

本来、袈裟は

糞雑衣(ふんぞうえ)といって

落ちていたぼろ布を

つなぎ合わせて一枚にして

それを不正色、濁った色

つまり黄色に染めたということが

始まりのようです。

その縫いあわせ方によって、

五条袈裟とか七条袈裟とか

二十五条という細かく継ぎあわせた

袈裟もあります。

 

本来はダメージの布を

継ぎあわせたものなのですが

それが何時の間にか

金蘭豪華な袈裟になっていった

とうことのようです。

 

安く簡単に修理もできたし、

まあ、しばらくはまたお付き合いして

いこうかと思っています。

今の時代こういう破れたジーンズも

ファッションの一つになっているから

いいのかもしれませんが、

けど、本当に破れたのと

お洒落で破ったのとは別物と

思うのですが  …?

 

 

 

 

 

 

 

 

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