弘法大師は「煩悩即菩提」と
おっしゃっています。
煩悩を断じて菩提のさとりを
得るのではない。
煩悩がそのまま菩提になるのだ
ということですが、
言葉ではわかるような、
気もするのですが … ?
「渋柿の渋そのままの甘さかな」
という一句で、
「煩悩即菩提」
ということを説明します。
渋柿の渋をとってしまって
甘くなるのではない、
渋そのものが日に照らされ
風に晒されて、
甘くなっていくのだと、
浄土真宗の親鸞聖人は
「不断煩悩得涅槃」
と説かれています。
煩悩を断ぜずして、
涅槃(さとり)を得るのだと、
時代は違えども
やはり同じことを説かれています。
仏教では二つの障りがあると
説いています。
一つは煩悩障(ぼんのうしょう)、
もう一つは所知障(しょちしょう)、
です。
やはり障りということが
私たちを悩ませるもとです。
「さわり」ということですが
子どもの頃、熱が出て
なかなか引かない、
すると
祖父がお祓いをしてくれます。
「隣のお墓で遊んだろ!」
幽霊風をもらっていると …??
しかし不思議と熱が下がったのです。
よく、何かの「おさわり」が
ありませんかとお見えになります。
身近なところでは、
「さわり」もそのように
頻繁に使われます。
しかし、厳密には
煩悩障・所知障ということで
「さわり」ということをおさえています。
「煩悩」ですから、
煩い悩まされるということです。
人を好きになる
それ自体は煩悩ではありません。
好きになるとその人を愛着して
何とかして自分のものに
しようと働きかけます。
愛着するということが
煩悩になってくるのです。
しかし、この煩悩障は
そういう訳で分かりやすい
身に降りかかって来て
悩み苦しみます。
まあ、自覚症状があるのです。
ところが、
問題はは所知障、
これは痛くもかゆくもありません。
所知障は知が妨げという
ことではなく、
起こるべき智を起させんように
しているということです。
たとえていえば、
分別ということも、
いいものはいい、悪いものは悪い
悪いものを避けいいものを求める
ということで、
何も障りがあるとは思えません。
ところがえてして
人間というものは、
自分の考えたことにとらわれて、
それに固執してしまう、という癖
というか、心の構造が
そうなっているようです。
自分の意見は絶対だと、
間違いない、と
客観的に自分の考えを
見ることができればいいのですが
なかなかそうはいきません。
そこに分別ということも
固執してしまうと、
なかなか破ることが困難になってきます。
経典では、そのことを
「法執」(ほうしゅう)といっています。
迷いを捨てて悟りを求めると
迷いを捨てなければと、
迷いと涅槃というように
二つに分けて考えてしまいます。
そのわけて考える
そこが分別ということです。
だから、どっちが根元的かというと
所知障、智障というほうが
智の障りというほうが
分からないように根源的に
心の奥にはあるから問題なのです。
どちらかというと
煩悩障対治という
煩悩に重きを置いたのが
小乗仏教といわれるもので、
大乗仏教では、
煩悩障はむしろそのままに
しておいて、
もっぱら智障を断ずると、
智障を断じたなら
煩悩障は自然に断じていく
そういうところに
煩悩即菩提、
不断煩悩得涅槃
煩悩はそのままで涅槃を得る
という、
所知障を対治することで
煩悩障は転じていくわけです。
「煩悩即菩提」
ということも、
「さわり」という
煩悩障・所知障ということが
明らかになれば
説明がつくのでは …
と、ざっとしたことで申し訳ありませんが
また、折にふれて ということで