てつがくカフェ@いわては、単純にいろんな人と議論しましょうと言った集まりです。発祥のフランスあたりだとそれこそ哲学になるようなのですが、もう少しカジュアルに身近な事を語り合いましょうと言ったものになっています。
とはいえ、あんまり簡単なお題は出ません。今回の第5回も「震災後の共同体のゆくえ」です。
チラシ裏に全体のフレームワークが書かれています。まず東浩紀の「思想地図β」震災特集の巻頭言からはじまります。簡単にいえば、震災以降人はバラバラになってしまった。が実は元々バラバラなのがクリアーに解ってしまっただけなのでは?という問いからはじまります。
ちょっと長い引用ですが、このチラシの後半の文言がフレームワークです。
「震災によって。「バラバラ」に気づき、「連帯」を求め、更にそこに「バラバラ」を再認識する。おそらく、今現在、私たちが置かれている状況はこのような円環構造だと思います。
私たちは震災以前「なんとなくの一体感」によって「なんとなくの共同体」を形成する事で日々を過ごしてきました。しかし震災後には、その「なんとなく」の部分が取り払われて剥き出しの現実に放り出されて戸惑っています。この「なんとなく」はおそらく二度と戻っては来ません。ではこの「なんとなく」が失われた後に私たちはどのような「共同体」を作る事が出来るのでしょうか。」
さてコジェーヴのポストモダン理論が横溢しています。いや厄介ですね。
と言う事で様々なケースをもう一回集めて、というかネタを用意して、考えをまとめ直して自分なりの答えを用意しました。そして想定される話しの流れなどもシュミレートします。
実際これに参加するのは実際今回が初めてと言うのもあります。「故郷」の時はレポート参加で、実際の所後半ちょっといたのですが。
15分ほど遅れて参加しました。今回はアイーナの和室です。こじんまりとした空間でちょっと解りにくい所です。トイレを捜して遅れたと言う所もあります。
今回は10人ほどの参加。さすがに第一回のような人数ではありません。またユーストリーム中継もありません。
いやこの中継は厄介です。けっこうしゃべりたくともしゃべれない空気が生まれます。
さてそれではと言えば、シュミレートした事と違うのが解りました。「共同体」という言葉そのものの持つ意味が、あまりにも多様であると言う事です。私の認識ではこの場合の共同体と言うのは「村・町内会」程度なのですが。ややもすると日本全体にもなるし、被災地限定にもなります。もう少し広く、もう少し深い所となると、認識が相当変わる事に気がつきます。
共同体と言うのは立場によって見え方が変わると言う事です。町内会長から見れば新しい住民がどう見えるかとか、故郷を捨てた人から見た故郷の共同体はどうなのか?様々な見方が出てきました。
「共同体」の定義認識だけでほぼ終わった会でしたが、私はかなりスリリングな話しになったなと思います。
さて、話し合う場です。どんなに私が答えを見つけても、それを一方的に話したら会の意味がありません。おまけに元々のフレームワークと外れているのが面白い所です。そこでネタ出し中心で参加しました。
それではネタ出しの反省です。
1)子供は地域社会とのかすがい。
これは私が独身者だから感じる事なのですが、子供を介して地域と繋がる事が出来ると言うものです。学校中心の地域社会があると言うものです。この役割は大きいのですが、これは後で。
2)仏教のある意味
これはウケたのですが、意味が伝わっているかどうか分かりません。知り合いの僧侶が、このままでは10年も仏教は持たないと言っている話しです。リアルに宗教としてどう存続出来るのかが問われているようです。そこであの手この手が出てきます。元々寺院の維持の問題もあります。こことか、本光寺とか。すいません不動明王かなんかにコスプレして踊る映像はちょっと見つからなかったです。
本光寺なんか言っている事は間違っていないと思うのですが、表現としてどうなのかとは思います。ただ宗教としてどうあるべきなのかと言う苦悩が感じられます。
3)日立製作所
このネタなのですが、日立は銅製錬所から出る排ガスを、高層に排出すれば地域住民に被害を出さなくて済むと、科学的な知験で解決しました。工場近辺に住む従業員やその周辺まで考えた事なのですが、その後社宅や病院等福利厚生を充実させます。企業が率先して共同体を作った例です。で、この共同体ですが日本の終身雇用制まで含めるモデルケースとなった事例です。
岩手県では松尾鉱山がこの事例になると思いますが、鉱毒問題では北上川流域住民までは配慮しなかったという点で問題です。
共同体を作る事で、企業に対するインセンティブを増大させ、そして地域の紐帯を強める作用があります。ただこれがこのところ全くうまく機能しなくなっているのが現在です。
で、これが滑ってしまいました。純粋な共同体と言うのは、やっぱり地縁血縁・宗教同一と言う理想があって、そこからするとこの用例はちょっと遠回りすぎたかと思います。
池田先生が釜石の変遷で繋いでくれましたが、イマイチ伝わらないように感じました。いや伝わらないのも無理もない。
4)ザッポス
アメリカのような個人主義の社会で、インターネットの靴販売のザッポスを出したのだがこれがダダ滑り。共同社会の再構築の例としてはとっても有名なのだが、知らない人が多すぎた。単純な記事はこちら。多分単純な方が解りやすいと思う。「ワオ!」はこの会社のほんの一部です。
この会社は社員を採用する時、コミュニティになじむかどうかを基準にしています。更にこの価値観を客と共有することで、更にそのコミュニティを広げるものです。その価値観は、驚きワクワクし続けるというものです。
この話しは誤解を生んだかもしれない。ただアメリカでも企業の価値観が変化している事例で出しました。
ただ日本での共同体(村や地域)は生まれ育った価値観が重要で、ザッポスのような個人の価値観による人の流動性は少ないので、伝わらなかったのは確かです。
5)祭りと言う装置
これを話した時に、チト空気が固くなったように感じました。言葉も良くないです。「祭り」を「装置」と言ってしまうのですから。
地域おこしなどで使われる技法なのです。地域に伝わるお祭りの時にマレビトを呼び込み、マレビトを地域になじませるという話しです。とりあえず酒を飲む機会があれば何とかなるかもしれない。
元々祭りの多くは、神を迎え入れもてなし、そしてお帰りいただくと言う意味があります。そのハレの場ですからよそ者が入って来れます。
祭りによっては高齢化が進んで、後継者がいないなどの問題が起きています。そこで祭りを出来るだけ開かれたものにして後継者になる人を呼び込もうとしています。こういった試みがあると言う事を言ったつもりでした。
逆に新興住宅地とかで、神輿祭りを作るとか、コミュニティを盛り上げるために使う例もあります。
6)共同体と言う幻想
これは私の発言ではありませんが、もともと共同体と言うのは概念的なものです。実際リアルには仲の悪い一家~しかも3代に渡って~とか、共同体に対してまったく協力しない住民とか一杯問題があるはずです。ポストモダン以前からそうだったのは間違いがありません。
現実には利害関係の方が大きく作用していたと思います。水利権や入会地の管理、田植えなどの共同作業などが上げられます。また本家・分家の関係も本来はイザとなった時互いに助け合うというものでした。大抵本家の資産が大きいので本家を分家が見ると言う形になるのでしょう。
昔あった醤油の貸し借りなんて言うのも過去の話しです。醤油の値段も下がり、コンビニも充実した今では、あそこの家はそんなに貧乏なのかと疑われるだけでしょう。
現在ではそういった利害関係は薄れてしまい、人間関係だけが共同体を作っている。そうなると同じ共同体なのに、各個人で見え方が変わってくる。それを幻想と言っているのですが。
解りにくいですね。
私の考えなのですが、現在の共同体の問題は、実は少子高齢化と考えています。
共同体が維持・発展するためには新参者が欠かせないです。ただそれがよそ者だったらめんどくさい。外国人だったらもっとめんどくさい。地縁血縁関係で何十年と続いて来た共同体だったら子供がもっともベストです。
もちろんよそ者でも結婚して子供がいれば、学校行事やPTAなどで地域とつながりが出来ます。新参者を取り込む事が出来ます。
子供がなぜ重要なのかと言えば、共同体に変化が起きるからです。もちろん子供がかわいいというのもありますが、子供が持ち込む時代の空気がとても大きい。また子供が大人になって共同体に残った場合でも、その生まれ育った空気を共同体に持ち込みます。これがよそ者だったら、何も地域を知らないくせにとか拒絶されますが、子供だと無碍には出来ません。
子供がいない共同体と言うのがあれば、大人同士ですし安定してそのままの関係でいようとするでしょう。それで何もなければ良いのですが、気がついたらみんな高齢化してどうしようもなくなると言うのが高齢化の問題です。この二つがくみ合わさっているのが現在の問題だと考えます。
学校と言うのはその意味で、共同体の重要な役割を果たしています。新参者と地域を結びつけ、共同体の横のつながりを強くします。学校運営のためにPTAがあったり、町内会も下校時の子供の安全のために、子供見守り隊などを作っていたりします。この子供見守り隊は一石二鳥のようです。子供の安全のためでもあるのですが毎日定期的に高齢者が集まって立ち話をする。家に閉じこもっているよりは健康的です。たまにおしゃべりに夢中で子供を見守っていない方もいますが…。
それでは子供がうんと増えれば良いのかと言えば、残念ながらそうはなりません。ましてや仕事が無くなった被災地や過疎化が進んだ地域ではかなり難しいです。それでは共同体はどうすれば良いのか。
まず変化を受け入れる事と、起こす事かもしれません。
変化を受け入れると言うのは、バラバラだと言うのを認めると言う事です。今までの同一価値感を持った人の集まりではなく、みんなバラバラな価値観を持った人が、たまたま集まっているだけだと認めあうのが、大切だと考えます。
多元主義です。マルチカルチャリズムと言った方が解りやすいかもしれません。日本人がすぐにこういった考えになれるかと言えば、まあ難しいでしょう。ヨーロッパでは悲惨な宗教戦争と二度の世界大戦を踏まえて多元主義になりました。それでも民族差別など消しきれていません。日本は学校そのものがモノカルチャーです。教育からはじめても大変なのに、まだ時間がかかる事でしょう。
しかし多元主義でないと解決出来ない問題がいっぱい増えて来ているのも確かです。学校運営なんてその際たるものでしょう。実際こういった問題をどう解決するのかと言う記事があります。日経ビジネスオンラインですが、参考になると思います。
それでも、バラバラなのに気がついたと言う事はチャンスだと思います。
それでは共同体に対して個人はどう向き合えば良いのか。方法論はあります。共同体を利用する事です。もちろん多少の代償は必要です。友人でジオラマ作りが趣味の男がいまして、趣味が高じて巨大なものを作りたいと考えていました。そこで彼は消防団に入り、山車作りに参加する事にしました。丁度山車作りは後継者不足で悩んでいた所です。一石二鳥ですね。彼曰く、消防はきついし人間関係が大変だが、これを作れるなら何でも我慢出来る!そう言いきっています。
私の除雪作業もそうです。近所のためではありません。私が怪我をしないためだけにやっています。
でも誰にでも出来るもっと簡単な方法があります。それは挨拶をすること、これだけです。小さな人間関係が積み重なっての共同体です。たったこれだけでもかなり世の中変わると思います。
さて最後ですが、このてつがくカフェですが結論を出さないというのが特徴です。もちろん合意形成出来れば良いのですが、そうなるのは滅多にないとわかっています。話し合うと言うのが大切で、その中から互いの差異を見つけてそれぞれが考えると言う事が求められます。このためファシリエイターも自分の意見は差し挟みませんし、私も強く自分の意見を押し出す事はありません。人の話しを聞くのがとても重要です。
つまりてつがくカフェは、「共同体のゆくえ」の実践形態でもあるんです。
PS てつがくカフェ@いわてのブログがあります。こちらからどうぞ。