古代以来、日本では山や谷の傾斜面に棚田を築造した。
インドに雨季がある。その時期に稲が芽を出す。日本でも田に水を張って苗を植える。やがてインドに乾期がくる。日本では田の水を抜いてしまう。あとは、列日のもとで稲の茎からさかんに枝分かれさせ、穂がつくことをできるだけ多くしていく。それら、稲作の源流の地の状況を農業土木的につくりあげたのが、古来の日本の稲作であった。
こういう地形をむしろ好んで、関東平野や加賀平野、河内平野のような平坦地はなるべく避けてきた。古代、そういう平野の場合は、平坦地を避けて山際の傾斜地に田や農村をつくった。大平野の場合は河川の氾濫のために遊水がたまり悪水になって、当然ながら稲が育たない。
悪水を排除して、いい水を大きな水流から引き灌漑用水網を大展開させるにいたるのは、関東平野においては十二世紀、加賀平野においては十三世紀、河内平野にいたっては十七、八世紀というごく近い過去だった。
/「高橋昇写真集」土と石と木の詩1986.4.10司馬遼太郎を要約



インドに雨季がある。その時期に稲が芽を出す。日本でも田に水を張って苗を植える。やがてインドに乾期がくる。日本では田の水を抜いてしまう。あとは、列日のもとで稲の茎からさかんに枝分かれさせ、穂がつくことをできるだけ多くしていく。それら、稲作の源流の地の状況を農業土木的につくりあげたのが、古来の日本の稲作であった。
こういう地形をむしろ好んで、関東平野や加賀平野、河内平野のような平坦地はなるべく避けてきた。古代、そういう平野の場合は、平坦地を避けて山際の傾斜地に田や農村をつくった。大平野の場合は河川の氾濫のために遊水がたまり悪水になって、当然ながら稲が育たない。
悪水を排除して、いい水を大きな水流から引き灌漑用水網を大展開させるにいたるのは、関東平野においては十二世紀、加賀平野においては十三世紀、河内平野にいたっては十七、八世紀というごく近い過去だった。
/「高橋昇写真集」土と石と木の詩1986.4.10司馬遼太郎を要約


この記事、考古学的アプローチではありませんよね?
「古代以来」とありますが、縄文時代の稲作は、『田に水は張らない』はずです。
「もののはじめBlog」というタイトルでしたので、余計なコメントかと思いましたが、一言失礼いたしました。
>「古代以来」とありますが、縄文時代の稲作は、『田に水は張らない』はずです。
専門的なご指摘ですね。古代は太古と上代を総称するようですが、正確には弥生以来でしょうか。
縄文までは、狩猟生活をしていたらしく、そこに西日本の水稲農業の耕地化が進むことによって、弥生時代がはじまりますから。。。
日本がいかに稲作に適した地域であったかについて、ピックアップしたつもりです。
弥生式稲作農耕とともに、鉄器が入ってきて人工的にもますます稲作が盛んになっていったのでしょうか。
以前にトラック・バックをしていただき そのお礼を申し上げたいと想いつつ。。
けれど 私のHNの由来は iina(iinna?)さんの ご想像とちょっと違うものだったので
そのことをどうお伝えしようか。。と迷っているうちに 今日に至ってしまいました。。
時おり遊びに伺っておりました☆
でも ほんとうにすみません。。
そして 今さら。。ですが トラック・バックをありがとうございました
* * *
私 縄文時代といえば 行ってみたいところがあるんです
青森のほうの「三内丸山遺跡」です!
交易をしたり、、その交易のためと思われる見晴らし台?や 集会場?と思しき広い家屋があったり 栗を栽培していたり~
当時は あのあたりの海があたたかくって なので青森の気候は栗もできるくらいに 気温が今よりずっと高かったのですって♪
* * *
稲作。。といえば そうそう最初は「畑作」だったのでしょう?お米って♪
ところで 最近の日本のお米はコシヒカリ人気で どんな品種にも「コシヒカリ」のDNA?がこめられていると聞きました
同じ品種だと 環境の変化により一気にダメになることも。。あると想いませんか?
↑
三内丸山遺跡の衰退は 恐らく気候の変化で 栗が全滅したのが 原因ではないかと?とのことで
栗を長く栽培する間に おいしく育てやすい品種の栗ばかりに限定していたから
気候の変化のとき(海が急に冷たくなり気温が下がってきた) 栽培の変更ができなかった。。というのが
専門家の推測らしいんです♪
初めてのコメントに こ、、こんな長い話をすみません。。
本1冊をこんなにきちんと要約できるiinaさん すごいです~☆☆☆
それに 話題も豊富~☆☆☆
これからも 遊びに伺います
実は、火山を調べていて、稲と珪酸の関係を知りました。稲は珪酸で、体を硬くして茎を支え、害虫からの「鎧」としているんですね。それに酸性を好むんですね。もしかして、稲のふるさとは、火山の多い、インドネシアかフィリピンかも、と想像しております。
縄文時代は、新石器時代で古代なんですよね。
青森県八戸市の是川遺跡では、後期の住居跡の床面から米が見つかっています。陸稲に近いブル型ではないかとされています。
棚田の米は、硬く丈夫な藁が出来るそうです。
稲の生育に適しているのでしょう。とてもおいしい、清らかな香りのお米が出来ます。
長いコメントをありがとうございました。固いこと抜きにお気軽にたずねられたらよかったです。
青森の「三内丸山遺跡」には行ったことはありませんが、佐賀の「吉野ヶ里遺跡」をJR窓から見渡したことがあります。見晴らし台?は奈良でそれも飛鳥に南下する途中に偶然みつけましたよ。
縄文時代の東北は、「北のまほろば」といわれるくらい温暖で採集や狩猟生活ができて、豊かに暮らしていたらしいですね。
きょうのブログは「樹木と人」できのうの「稲作の適地」の続編ともいえます。また、Rayさんの中国の非礼についても多少関係するかも知れません。
どうにも中国は自分の国が世界の中心であるという中華思想をもっていることが、近隣諸国にわざわいしている風に映ります。
儒教は素晴らしい思想と考えていたら、大いなる時代の停滞と官僚の汚職等 弊害もあるようです。
したが栗林は至る所にありました。当時、冬はマイナス二十度以下の連続でした。三内丸山遺跡の衰退は栗以外の問題でわないかと?
思います。
縄文時代の東北が「北のまほろば」だったというのは、そのころは温暖だったと思えますね。
飛鳥のころでも、難波宮あたりまで海が迫っていました。つまり水位がよほど高かったことの証になるように思います。
>ヤギと羊と粉食文化だと結局森林破壊につながるという。
放牧を営み、なるほど羊は貴重だけど羊はバカだから草を根こそぎ食べ尽くすので、翌年草が生えず森林破壊し(砂漠化し)たようです。
そこで、ヤギ2-3頭を羊の群れにまぜたところヤギは歩き回って食い散らしていくので、羊ものこのこ追いかけ遊牧が成り立ったそうです。あるいは、文明時代のギリシャ人はヤギを羊にまぜることを知らず滅んだかもしれません。
日本は遊牧はしませんが、モンスーン地帯のため樹木の再生力は目覚しく、植林しなくても30年ほどで森林によみがえるそうです
現在我が小川町(茨城)では稲もすっかり実り、稲刈りの時期を迎えています。黄金色に変色した田んぼの景色がなんともいえません。
ただ、難点は鳥インフルエンザの発生で、全国的に有名になってしまったことです。地元の新聞では今週ぐらいから自衛隊の協力も得て、本格的な処分が開始されたそうです。小川町は全国的にも卵の生産がかなり多いらしいので、値上がりが心配ですね。