海舟は西郷への江戸城無血開城の書状と、江戸で捕縛していた薩摩藩士の益満休之介を護衛として鉄舟に付けて送り出した。
その勝海舟が、山岡鉄舟口述『武士道』の一節「海舟評論」に寄稿した時の鉄舟の死に際を触れている。
山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。(享年53歳)
当日正午前、おれが山岡の玄関まで行くと、息子が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると多勢人も集まっている。
その真ん中に鉄舟が例の禅坐をなして、真白な着物に袈裟を掛けて、神色自若として坐している。
おれは座敷に立ちながら「どうです。先生。ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開き、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。それでおれもことばを返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その座を去った。
少しく所要があってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので「はあ、そうか」と別に驚くこともないから、聞き流しておいた。
さて、海舟の死に際の方は、「海舟座談」の編者の厳本善治が次のように活写している。明治32年1月17日のこと。(享年75歳)
「大寒に入る前一日、天気晴朗なり。この日、海舟先生、意気殊に爽然として、諧謔百出す。午後、入って浴して後、激しく異常あり。少らくして、胸頭激痛を起こし、悪汗流れ発す。命じてこれを拭わしむるとき、顧みて微笑していう、今度は死ぬるゾと。湯を求めていまだ至らず、忽焉として倒れ、これより長眠せらる。」
いっぽうに、いよいよの死に際して、海舟は「コレデオシマイ」といってニッコリした、という話もある。
若いときのふたり
「それからの海舟」著者:半藤一利からふたりの「死に際」を拾った。せっかくの折なので、もう一節を追記することとした。
明治31年3月2日、前征夷大将軍徳川慶喜が維新以来はじめて、かつての居城であった江戸城いまの宮城の客となった。この城を出てより30年5か月もの歳月がたっていた。前将軍も還暦を超えた。
この無位無官の一介の市位人を迎えるのが明治天皇で、こちらも四十代の半ばになっている。
大広間での公式の謁見を終えると、前将軍は寝殿つまりお茶の間に通された。侍従にみんな退出を命じた後、天皇は皇后を呼び、前将軍に酒肴を差し上げるよう命じた。そして、皇后は手ずから慶喜に酌をしてもてなしたという。
大袈裟にいえば、明治維新の大業はこのときにやっと完成し、そして終焉したといえるかもしれない。明治天皇と徳川慶喜の手打ち式が無事にすんだことになろうか。
慶喜没年 大正2年(1913年)11月22日(享年76歳)
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その勝海舟が、山岡鉄舟口述『武士道』の一節「海舟評論」に寄稿した時の鉄舟の死に際を触れている。
山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。(享年53歳)
当日正午前、おれが山岡の玄関まで行くと、息子が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると多勢人も集まっている。
その真ん中に鉄舟が例の禅坐をなして、真白な着物に袈裟を掛けて、神色自若として坐している。
おれは座敷に立ちながら「どうです。先生。ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開き、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。それでおれもことばを返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その座を去った。
少しく所要があってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので「はあ、そうか」と別に驚くこともないから、聞き流しておいた。
さて、海舟の死に際の方は、「海舟座談」の編者の厳本善治が次のように活写している。明治32年1月17日のこと。(享年75歳)
「大寒に入る前一日、天気晴朗なり。この日、海舟先生、意気殊に爽然として、諧謔百出す。午後、入って浴して後、激しく異常あり。少らくして、胸頭激痛を起こし、悪汗流れ発す。命じてこれを拭わしむるとき、顧みて微笑していう、今度は死ぬるゾと。湯を求めていまだ至らず、忽焉として倒れ、これより長眠せらる。」
いっぽうに、いよいよの死に際して、海舟は「コレデオシマイ」といってニッコリした、という話もある。
若いときのふたり
「それからの海舟」著者:半藤一利からふたりの「死に際」を拾った。せっかくの折なので、もう一節を追記することとした。
明治31年3月2日、前征夷大将軍徳川慶喜が維新以来はじめて、かつての居城であった江戸城いまの宮城の客となった。この城を出てより30年5か月もの歳月がたっていた。前将軍も還暦を超えた。
この無位無官の一介の市位人を迎えるのが明治天皇で、こちらも四十代の半ばになっている。
大広間での公式の謁見を終えると、前将軍は寝殿つまりお茶の間に通された。侍従にみんな退出を命じた後、天皇は皇后を呼び、前将軍に酒肴を差し上げるよう命じた。そして、皇后は手ずから慶喜に酌をしてもてなしたという。
大袈裟にいえば、明治維新の大業はこのときにやっと完成し、そして終焉したといえるかもしれない。明治天皇と徳川慶喜の手打ち式が無事にすんだことになろうか。
慶喜没年 大正2年(1913年)11月22日(享年76歳)
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海舟と鉄舟は初対面であり、海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていたが、面会して鉄舟の人物を認めた。
幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を示す。先祖に塚原卜伝。
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人は幕末三舟と言われました。
この3人の他にも木村芥舟や田辺蓮舟もいました。
いずれの方も流石「武士」です。
死に際も見事ですね。
水遁の術の使い手の忍者が、水場を求めて飛ぶとは、まるで猿飛佐助のような忍びの達人ですね。
「アメンボ」を漢字で「水馬」、他に「水黽」「飴坊」「飴棒」でしたか。雨坊ではなかったのですね( ..)φメモメモ
> 勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人は幕末三舟と言われました。
海舟は新政府から乞われて嫌々に仕え、鉄舟は侍従として明治天皇に仕え、泥舟は拒み三者三様の明治を過ごしました。
海舟と鉄舟の死に際は、見事でした。
鉄舟の書は、名筆でしられていますね。
無造作に書きまくっていたことをはじめて知りました。
* tatunezumiさんのブログアドレスをコメント上に置きました。
気にしない気でも気にはなるものです。
幕末の書なら西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟がいいとされていますね。
海舟の詩です
寝て働きもせぬ御褒美は 蚊族となりて亦血も吸ふ
賊軍の大将から一転して「華族」になって人民の血と汗とを黙って頂戴していると皮肉をいってます。
鉄舟の方は、
今までは人並みの身と思ひしが 五尺に足らぬししゃくなりとは
「子爵」と「四尺」をかけてます。
明治20年5月、勲三等に叙せられて、拒否してます。
勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったとか・・・。
(夜噺骨董談義)さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
海舟も、そんな複雑な慶喜に辟易しています。
海舟の息子が男子なしのまま死んだため、跡取りに慶喜の十男・勝精を養子に迎えます。
海舟が慶喜に願い出たときに泣いて、はじめて海舟の至誠を信じたといいます。
(ほのぼの)さんのブログアドレスをコメント上に置きました。