両国界隈には、震災慰霊堂がある。下車駅は、両国ながら実際の地名は、横網町にあたり相撲にちなむのか。それに、「よこずな」でなく、「よこあみちょう」と読み、横網町公園に建ちます。
本当の両国は、駅の南側に位置します。
震災による遭難死者58,000人の遺骨を納めるために昭和5(1930)年に建てられ、その後、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲による殉難者の身元不明の遺骨も併せて安置し、昭和26(1951)年に名称を東京都慰霊堂と改めた。
東京慰霊堂の中は、震災の絵画が掲げられ、ご覧の通り教会のようですが、仏式です。
正面の銀杏旗は東京都のシンボルマークです。まさか、おすもうさんのちょん髷が「大銀杏」だからではないですよ。
近くには、ユニークな形の「江戸東京博物館」があり、その隣が両国国技館。
本当の両国は、駅の南側に位置します。
震災による遭難死者58,000人の遺骨を納めるために昭和5(1930)年に建てられ、その後、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲による殉難者の身元不明の遺骨も併せて安置し、昭和26(1951)年に名称を東京都慰霊堂と改めた。
東京慰霊堂の中は、震災の絵画が掲げられ、ご覧の通り教会のようですが、仏式です。
正面の銀杏旗は東京都のシンボルマークです。まさか、おすもうさんのちょん髷が「大銀杏」だからではないですよ。
近くには、ユニークな形の「江戸東京博物館」があり、その隣が両国国技館。
相撲取りは髷が結えなくなると引退なんですってね。
ところでこの慰霊堂知りませんでした。
こちらに行ったときに寄ってみよう!
そうなんです。
両国駅のホームまでが横網町で
ホームの南側から両国という地名になるんですよ。
ホントに横網(よこあみ)町を横綱(よこづな)町と
勘違いしている人のほうが多いのではないでしょうかね。
また、いつの日からか「横網町公園」なんて言われていますが
以前から地元の人たちには、
「記念堂(震災記念堂)」という名で親しまれてきました。
敷地内にある小さな庭園もとっても綺麗ですよ。
それに短いイチョウ並木も素敵なんだなぁ~。
私も今まで、「よこづなちょう」と読んでいました。確かによく見ると、糸の隣、岡じゃあない。
外周から見上げただけだったのですが、内部はああなっているんですね。写真を見ると、いまどきの回向院、神社仏閣であると、納得しました。
アイデアですね。笑激画像に加えても受ける"切口"です。
慰霊堂前の追悼祈念碑は、いつでかけても季節の花がいっぱいです。
堂内も無料でお参りでき、絵画に戦争の無常が伝わります。
屋外ギャラリーには、鉄柱が猛火により熔解したもの等が展示しています。
「江戸東京博物館」では、特別展「江戸城」が人気のようでした。
(下町ウォーカー)さん へ
ウォーカーさんブログは、新たな両国国技館の豆知識になりました。
今度でかけたら、大きな屋根の上部が開いているか
注意してみます。
浅草寺の豆まきは、好い位置からのアングルですね。
確かに、下町ウォーカーさんから10-20m圏内に
iinaもいましたよ。折角の会えるチャンスを逃し、残念!
豆は、遠くてiinaの所まで飛んできませんでした。これも残念!
豆をゲットしようという執念がなかったのが、無粒
の遠因です。
しかし、にぎやかな芸能人の豆まきと猿回しを見れ、
ラッキーでした。
(ミント)さん へ
たしかに、「横綱」ではなく「横網」でした。
糸の隣は「岡」でなく、 「罔」ですね。
戦争は幼い心に深い傷跡として癒えることは有りません。
慰霊堂に掲げられています悲惨な姿の絵画には心が痛みました。
「よこあみ町」の読み方は勘違いしますね。
歴史倶楽部に所属し、いろいろと出かけておりますが「新しきを知る」
毎月とても楽しみです。
ちーん Ωヽ(-"-;)南無南無
歴史倶楽部で歴史探訪ですか。
歩いたあとに、ちゃんこ鍋を囲めば話もはずみ
料理と飲み物が美味しいと思えます。
「江戸東京博物館」では、いま江戸城の特別展
を開催していました。
(ハイジ)さん へ
関東大震災と東京大空襲による戦災の慰霊堂です。
親戚が今戸で駄菓子屋をやっていたので、子供の頃はよく浅草に行ってました。昔と変わらない風景がたくさん有るので今でもたまに散歩します。どこかでお会いしたかもしれませんね。
震災の絵画が掲げられているんですね。