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明治維新の成立

2009年03月02日 | 歴史
『花神』司馬遼太郎著を読み終えた。恐らくこれで氏の長編としては、本作で読破したものと思える。

かつて日曜8時は、NHK大河ドラマを観る習慣だったが、『花神』の扱う主人公・村田蔵六の知名度が薄く、結局、観なかった。
そのことを引きずってか、本作が長編の最後になったようだ。

日本の凄いことは、ペリー黒船来航の衝撃から、わずか3年ほどでその汽船を書物だけを頼りに造った。
それも、村田蔵六が造った愛媛の宇和島藩ばかりか、鹿児島の薩摩藩と佐賀の鍋島藩の3藩が相前後して造った。
大国であった中国を含むアジア諸国は、眠りつづけ、好奇心を刺激されたのは日本だけだった。


以下、日本で明治維新が成功したことを、『花神』-(豆腐)から要約。

幕末を巨大な劇とすれば、その劇の最も劇的な段階は、「長州が幕軍を押しかえした」という事実が天下にひろがったときにはじまる。
明治維新の筋書きの書き下し役を演じたのが下級公家・岩倉具視いわくらともみで、土佐浪人大橋慎三が岩倉を眼識でみつけた。その後、土佐の中岡慎太郎と坂本竜馬がくるに及び岩倉の視界は地平の果てまで広がった。
このふたりによって幕府と薩長についての必要な情勢を総て知り、さらには中岡によって倒幕策を構想し、ついで坂本から啓発された。

「長州が幕軍に勝った」衝撃が、洛北岩倉村でみごとな革命構想をつくりあげてしまった。
革命が,政論沸騰の段階から幕長戦という内戦段階に入り、転じて陰謀の段階に入った。中岡・坂本のてびきで、岩倉以上の陰謀的才能をもつ薩摩の大久保利通と提携するにいたる。

薩摩の大久保に示した戦略構想案は、おもに中岡が立案し、坂本がそれへ展望を与え、岩倉みずからが書き上げたもので、その後の維新史はほとんどこの通りに動いてゆく。

なぜ、長州は幕府に勝ったか。
長州藩がかかげた「攘夷」という思想は、当初の単純な危機感からふくれあがって、民族主義ともいうべき幅にまで広がっていたこと。しかも、知識階級だけでなく百姓町人にも理解できたこと。
次いで、長州毛利家が大名の国替えされた「鉢植大名」でなく、地生じばえの大名だったこと。その藩士団と百姓団に同血意識があり、攘夷という民族主義がそのまま圧縮されて藩民主主義になり、その意識のもとに民衆が藩防衛に大挙参加したこと。
これは、三百諸侯の中で長州藩しかなかった。同じ地生の仙台藩伊達家や薩摩藩島津家では成立し難かったであろう。武士階級をして百姓階級を極度に差別せしめることによって武士団に誇りをもたせ、戦国風の精強を保持しようとし、時勢の中で硬直してしまった。

長州藩が勝った理由のひとつは、はやくから産業主義を取った成果で、下関を中心とする北前船貿易がもたらした軍資金がふんだんにあったことであろう。

さらにそれらの理由を踏まえた上でのいま一つの理由は村田蔵六という、この当時日本唯一の軍事的天才を作戦の最高立案者にしたことで、長州の勝利を決定的にした。


明治維新の思想的な合言葉は「尊王攘夷」であるにしても、実質上の源泉はアヘン戦争の情報であった。
アヘン戦争の11年後にペリー黒船が来て、自動的に動く船が来たという衝撃よりも「アヘン戦争が日本にもきた」として、その揮発性物質に点火し、一大爆発を起こし、以後歴史そのものが地すべりするごとく大爆走を開始したといっていい。

当の中国はおどろくべき無力体質で死骸のようなものだった。隣国の朝鮮も中国を真似て官僚による絶対的中央集権制度で腐敗していた。

東アジアの三国の中で、日本のみ明治維新が可能だったか。

日本は、鎌倉以来「武」によって体制ができた。諸大名が六十余州の分国を治めつつ、その上に武家の棟梁をいただくという特殊な体制である。

中国や朝鮮を縛り続けた「儒教」は、江戸封建体制のまま変則的に受け入れた。
両国での官吏はことごとく儒者だが、日本の場合は、諸藩が「儒官」という専門職を召し抱え武士たちに儒教を学ばせたが、体制の原理はあくまでも「武」である以上、儒教の原理である「文」と基本的に相容れない。
結局は、日本風にいいとこ取りした儒教になった。「武」にあわない部分は取り捨てた。いわば、厳密には「儒教」ではない。

江戸末期に、諸藩ことに西国の雄藩が競って藩体制を機能化し、新しい技術を導入し、藩によっては儒学よりも蘭学を重んじるようになったのは、「武」の原理というのは元来そのように機能性に富んだものだからである。

ともあれ、「長州の戦勝」ほど、幕末の情勢を旋回させたものはない。
まず、公家の様子が変わった。
蛤御門の変で長州に七卿落ちした後、朝廷に佐幕派が充満した。
ところが、幕威が長州に敗れたと聞くや、岩倉具視の工作によって「倒幕派」と称していい公家の結社ができた。

倒幕派にとって恐るべき存在だった攘夷嫌いの孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、極端なほどの保守家で、幕府ひいきの会津好きであったうえに、長州嫌いであった。

中岡慎太郎は「攘夷は非常の民族的行動である。ワシントンは米地の民を率い、英人を拒絶し攘夷を行い、英国を屈せしめた。」と、革命家の理想をワシントンに求めている。坂本竜馬も同じだ。西郷隆盛にしても「ワシントン殿」と敬称をつけた。

高杉晋作は、「奇兵隊」という庶民軍をつくった。長州の対幕戦争は士族階級対百姓の戦争であったという側面も、みようによっては出てくる。
晋作が死んだとき、高杉家の禅宗で葬儀をせず、町人の白石正一郎が「神祭」として執り行った。経費の一切は、白石が負担した。お棺をかつぐ者は、藩の身分制度の外にいる奇兵隊の隊士である。葬列に参加している九割までが庶民の身分であった。死んでもなお数千人の庶民を集めた高杉晋作の葬儀で象徴されるものは、天下の武士で高杉以外にいないであろう。

しかも、農民一揆ではない。かれらは「隊士」になることによって武士になった。姓を公然と名乗ることを許され、他藩に対して長州藩士と称し得た。
どの農家にも、家系伝説があり、かつては武士であったものが、時代変動で農民になっただけのことだと思っていたり、源平の戦いでほろんだ平家の一族のひとりであるという具合だ。

さらに、武士といっても農民よりも上位の階級に属するものの藩主から禄や扶持をもらっている職能集団という性質のほうが濃い。その証拠に、武士にはヨーロッパの貴族のような「地主」はいなかった。徳川期にあっては地主は農民なのである。

重要なことは、藩主さえ地主でないことであった。驚くべきことに一町歩の農園も一人の農奴ももっておらず、幕命を帯びて転封させられる転勤族であったといえよう。
藩主は、土地や農民に対しては租税をとる権利をもっていただけであった。


中国に対して「武力以外にアジア人を屈服させることができない」という理論を、英国が確立し、その理論をアングロサクソン系が実証しつつある中で、日本だけが例外で明治維新を成功させ、近代化を成し遂げた。




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8 コメント

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村田蔵六 (六五六)
2009-03-02 18:36:42
NHKで、当時の『花神』をみました。
おでこの村田蔵六しか、頭に残っていません。笑
幕末の志士たちが、多勢出ていたはずですが、「篤姫」を見たときと同じようなことです。
なるほど、村田蔵六は明治維新に大きな存在だったと読みとれますね。
返信する
(六五六)さん へ (iina)
2009-03-03 08:29:57
幕末当事者の著書や会合で残した言葉、手紙等々を読み敷いて
それらを引用して書き上げた司馬遼太郎の小説群は興味深いです。
司馬という著者のフィルターを通した小説は、往時を浮き彫りにさせ読みやすいです。

「長州が幕軍を押しかえした」ときも、総司令官である蔵六みずから
軍隊を指揮しましたが、幕軍は関が原のような鎧兜と幟の出で立ちに対して、
長州軍は最新式鉄砲と近代的な軍勢の差があって、その辺りの描写も
面白かったです。

『花神』は、おすすめの一冊です。
返信する
TBありがとうございました。 (sakurai)
2009-03-04 08:16:37
花神という言葉に反応していただいたようで、ありがとうございます。
本の「花神」は読んでません。TVは村田蔵六・大村益次郎の合理的な考えが印象的な物語でしたが、中村梅の助の妙なカツラが忘れられません。
「世に棲む日々」と一緒の話で、こっちは読みましたが、何といっても吉田松陰の迫力でした。凄かった。
演じた篠田三郎も、なりきりすぎて、社会復帰できなかった・・などという話も聞こえてきました。
刑場での処刑のシーンは、今だに脳裏に焼き付いてます。大河の中でも、最高のシーンだったと思います。
「花神」は、村田蔵六のことだったのでしょうが、あたしには吉田松陰のことに見えて、彼こそが革命家だったと感じた次第です。
私心のない人間。これが革命家となり得るのでしょうが、その生き方ができた、最後の人がゲバラかもです。
まとまりのないコメントですいません。
返信する
(sakurai) さん へ (iina)
2009-03-04 09:06:49
ご指摘とおりゲバラも花咲か爺であったといえるかもしれませんね。
篠田三郎が吉田松陰を演じたのであれば、iinaも少しは「花神」を観ています。
松陰は、江戸伝馬町の獄につながれ小塚原刑場で斬首刑されたのでした。
松陰を斬首したのが首斬り浅右衛門です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/32e2b3a17faaeeaa5c467cba47a94d78
高杉晋作の辞世の句も好いです。
「面白きこともなき世を面白く・・・」
かつて大村益次郎遭難の碑が、京都の木屋町-高瀬川傍にあったので、
どんなことをした人かと漠然と考えたことがあります。
幼いころは、幕末は鞍馬天狗を除いては、前述のとおり血なまぐさく
感じてか毛嫌いしていましたが、いまは逆に面白いです。

こんどは、小説に接してみるのも好いですよ。
ただ、「花神」は単行本だと45mmの厚さもあります。
司馬遼太郎節をお試しください。
返信する
中村梅之介だったかな (catmouse)
2009-03-05 11:15:45
村田蔵六は中村梅之介がやったかな。
おもしろかった。浅丘るり子がシーボルトイネをやったと思います。

catmouseも司馬遼太郎ファン。
数年前に殆ど読んで(随筆集は読んでいない)それ以後、なにを読んでもつまりません。

ところで、宇和島藩が蒸気船をつくるときに、街の便利やさんが関与してますね。
ああいうのが日本の面白さですね。

結局、明治維新で、日本が中国や他の国と違ったのは奴隷制度がなかったからでしょうね。
身分制度的なものはあって、例えば土佐は郷士階級は日傘をさしちゃいけないとか細かいものはありましたし、外国人をして「武士階級は堂々としているが、町人階級は卑屈だ。人種がふたつあるのかと思った」といわせたようなものもありましたが、その違いもある意味職業上のポーズ。
「二本差しが怖くて田楽が食えるか!」というセリフもあるとおり、日本人の心の中には「同じ人間である」という意識があったと思います。
そこにいくと、アフリカとか他のアジア諸国は人身売買、奴隷制度、平気でありましたから、白人種による支配を容易に受け入れる土壌があったのでしょうね。
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(catmouse) さん へ (iina)
2009-03-06 09:00:11
幕末には、たくさんの人材が現われ出でて殺されたり死んでいきました。
それぞれの役割を演じたり、その途中でステージを降りた方々がいました。
不思議なめぐり合わせをおもいます。
河井継之助とか新選組も、負ける側にいますが、時代に翻弄されました。
司馬遼太郎著の
「花神」は、明治維新をひとつの切口で解き明かし、
「胡蝶の夢」では、身分制度のおかしさを知った気分です。
返信する
明治維新 (コスモタイガー)
2018-12-05 10:32:40
岩倉、といえば、愛知県人にとっては岩倉市ですね。
五条川の桜並木は見事で、東海地区では毎年のようにTV・雑誌等で紹介されます。

この岩倉市とどういう関係があるのか、不勉強で私も知らないのですが、歴史上の人物で岩倉といえば、やっぱり岩倉具視ですよね!
ちょうど今、大河ドラマ「西郷どん」でも岩倉具視が当然出てますし(笑福亭鶴瓶)。

iinaさんの「明治維新の成立」の記事。
読みごたえあり、大変面白く読ませていただきました。

残念ながら鉄オタ出身の旧街道ファン?なので、入口が鉄道とその歴史から、なんですね。
そのせいか、司馬遼太郎の本はほとんど読んだことありませんけど。

どっちかっていうと、池波正太郎の方が好きだったりします。
高校時代にむさぼるようにして読んだ長編、「真田太平記」は、心底面白かったです。

「西郷どん」でも大村益次郎は出てきましたが、村田蔵六という方の存在は知りませんでした。
かなりの軍略家のようで、興味深いですね。

坂本龍馬も、ざっくばらんな気質から来るのか、かなりのファンがいるので彼らには失礼になってしまいますが、維新の歴史を知れば知るほど、彼の評価は私の中ではそれほど高くはありません。

何かを0から作ったというより、誰かが発想したものを大きくして商売ベースにしてるだけ。
いや、もちろんそれも立派なことなんでしょうけどね。

亀山社中という会社を作って商売したことは事実なんでしょうけど、その中身も怪しい。
「いろは丸事件」などは、数年前に海底に沈んだいろは丸を専門チームが探索したら、武器弾薬等の宝が積まれていた形跡はなかったらしいですし。
今でいう「あおり運転」で相手にぶつかって、ありもしない「宝」を積んでいたと言い張り、莫大な賠償金をせしめた、との見方が有力になってきているようです。

儒教との絡みは「なるほど」と思いました。
日本は多信教国家ですからね。
良く言えば良いとこ取り、悪く言えば無節操。

特定の物を盲信せず、良いものは良い、悪いものは悪い、と冷静に見極められる国民性なんでしょうか。
モノづくりでも絶えず「いいとこ取り」をしようと努力する。
某自動車メーカーの「カイゼン」活動もそんな延長にあるのかもしれませんね。

もちろん私はそんな日本人の気質は大好きです。
返信する
(コスモタイガー) さん へ (iina)
2018-12-06 10:02:30
コスモタイガーさんの詳細な旅行記録でした。
                     街道の面影がないようですから、立て看板がないと昔を偲べないですね。


> 司馬遼太郎の本はほとんど読んだことありません ・・・ 池波正太郎の方が好きだったりします。
池波正太郎生誕地碑が浅草の待乳山聖天境内に建っていますょ。こんなトコロです。↓
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/82d9e73f383f6b67b4d2905adbd58c65


> 日本は多信教国家ですからね。良く言えば良いとこ取り、悪く言えば無節操。
日本は八百万の神のいます国ですし、好奇心が旺盛な国民性のようです。
それをカタチにすると、「この国のかたち」みたいなイメージになったりします。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/112067a46fe2ae5569d01689c7ad1230


    (コスモタイガー)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上の(iina)URLに置きました。

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