きのうからの"右"から"左"につづく首尾は、首斬り浅右衛門から人の肝を引き受けの親分弾左衛門が漢方薬人胆丸として専売していた。
弾左衛門は士農工商の下に甘んじる被差別民だったが、皮革産業等を独占的に支配したことから多大な資金を擁して権勢を誇った。幕府から帯刀・籠の使用を許される等の特権を与えられ、その格式は3000石取りの旗本に匹敵したという。
『弾左衛門由緒書』等に依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔しての頭領におさまり、1180年、鎌倉頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。
初代弾左衛門は、日本橋の日本銀行のあたりに住み、ローソクの芯を売っていた。その後、現在のカトリック浅草教会の近くにある鳥越神社のあたりに移り、さらに遠く、浅草・今戸の方へと移動させられた。
幕末に活躍した第13代浅草弾左衛門は、長州征伐や鳥羽伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、1868年1月に配下65名とともに被差別民から士分に取立てられた。明治維新後に弾直樹と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと、1889年に死去した。
この弾左衛門を前から気がかりだった。司馬遼太郎『胡蝶の夢』に描かれる弾左衛門はの親分なのに葵の紋を掲げ大名行列をするという。そのことを司馬は調べても分からないと告白している。
弾左衛門一族の菩提寺・本龍寺の家紋を見ると写真の通り確かに葵だ。それも、徳川家のではなく下鴨神社に似た「立ち葵」だ。あるいは、司馬はこの紋を徳川葵と勘違いしたのか?
先に触れたように弾左衛門は、「河原巻物」といわれる由緒書をもっていて、源頼朝から、平民であれば負担しなくてはならない租税を免除される特権を保障された「職人」であった。職人、すなわち専門的技能を通して、天皇や将軍、寺社に奉仕する非農業民であり、近世以降の差別問題の以前には、宿の者、も石工や医師、山伏、辻君(街娼)、博打打ち、鍛冶などと同じ「道々の輩」であった。
このことから「道々の輩」に古代豪族賀茂氏とつながるかも知れない。葵祭で有名な「上賀茂神社」「下鴨神社」を総称した賀茂社のことだ。
想像をたくましくするとはじめから葵の紋を持っていたものとも思える。そもそも徳川家は出目がはっきりしておらず下鴨神社から「葵の紋」のデッサンを貰い受けたのだから。そして、古いいわれをもつ者を貴んだ。はたまた、を束ねていたので、大名行列を大道芸しデモンストレーションしていたのかも知れない。もっとも、葵紋の使用を憚らぬこととそれを黙認した幕府の態度も理解できぬが・・・?。
蛇足ながら、隆慶一郎「影武者徳川家康」の影武者を「道々の輩」と設定して目茶滅茶に面白い。
なお、弾左衛門が寄贈した土地は台東商業高校の北半分にもなるが、元山谷堀小学校の碑には弾家の寄贈には触れず、被差別特有の白山神社は今戸八幡宮と合祀されたが、その由来書には合祀の説明すらなく、山谷堀は隅田川河口にかけて全て埋め立てられた。
この一族も最初は弱い立場の者を結集させ、力を団結させるという役割であったろう。しかし、あまりに組織が膨張し、締め付けも厳しくなってくるとどうしてもそこから自立したい、つまり人から蔑視を受けるでは嫌だというのは人の情である。各個の職業に就き収入が安定し、社会的地位が認められる者たちから順に、櫛の歯が抜けるように支配を離れてゆく。
と言われた役者もそうであり、代々市川団十郎家では「勝扇子(かちおうぎ)」と呼ばれる勝訴の証、自立の記念の書を伝えているという。
また、「助六」に出てくる髭の意休(いきゅう)は弾左衛門を皮肉った姿だとも言われる。
*参考:浅草弾左衛門
本材を"右"から"左"につづけた右は、[首斬り浅右衛門]をクリックください。
弾左衛門は士農工商の下に甘んじる被差別民だったが、皮革産業等を独占的に支配したことから多大な資金を擁して権勢を誇った。幕府から帯刀・籠の使用を許される等の特権を与えられ、その格式は3000石取りの旗本に匹敵したという。
『弾左衛門由緒書』等に依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔しての頭領におさまり、1180年、鎌倉頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。
初代弾左衛門は、日本橋の日本銀行のあたりに住み、ローソクの芯を売っていた。その後、現在のカトリック浅草教会の近くにある鳥越神社のあたりに移り、さらに遠く、浅草・今戸の方へと移動させられた。
幕末に活躍した第13代浅草弾左衛門は、長州征伐や鳥羽伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、1868年1月に配下65名とともに被差別民から士分に取立てられた。明治維新後に弾直樹と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと、1889年に死去した。
この弾左衛門を前から気がかりだった。司馬遼太郎『胡蝶の夢』に描かれる弾左衛門はの親分なのに葵の紋を掲げ大名行列をするという。そのことを司馬は調べても分からないと告白している。
弾左衛門一族の菩提寺・本龍寺の家紋を見ると写真の通り確かに葵だ。それも、徳川家のではなく下鴨神社に似た「立ち葵」だ。あるいは、司馬はこの紋を徳川葵と勘違いしたのか?
先に触れたように弾左衛門は、「河原巻物」といわれる由緒書をもっていて、源頼朝から、平民であれば負担しなくてはならない租税を免除される特権を保障された「職人」であった。職人、すなわち専門的技能を通して、天皇や将軍、寺社に奉仕する非農業民であり、近世以降の差別問題の以前には、宿の者、も石工や医師、山伏、辻君(街娼)、博打打ち、鍛冶などと同じ「道々の輩」であった。
このことから「道々の輩」に古代豪族賀茂氏とつながるかも知れない。葵祭で有名な「上賀茂神社」「下鴨神社」を総称した賀茂社のことだ。
想像をたくましくするとはじめから葵の紋を持っていたものとも思える。そもそも徳川家は出目がはっきりしておらず下鴨神社から「葵の紋」のデッサンを貰い受けたのだから。そして、古いいわれをもつ者を貴んだ。はたまた、を束ねていたので、大名行列を大道芸しデモンストレーションしていたのかも知れない。もっとも、葵紋の使用を憚らぬこととそれを黙認した幕府の態度も理解できぬが・・・?。
蛇足ながら、隆慶一郎「影武者徳川家康」の影武者を「道々の輩」と設定して目茶滅茶に面白い。
なお、弾左衛門が寄贈した土地は台東商業高校の北半分にもなるが、元山谷堀小学校の碑には弾家の寄贈には触れず、被差別特有の白山神社は今戸八幡宮と合祀されたが、その由来書には合祀の説明すらなく、山谷堀は隅田川河口にかけて全て埋め立てられた。
この一族も最初は弱い立場の者を結集させ、力を団結させるという役割であったろう。しかし、あまりに組織が膨張し、締め付けも厳しくなってくるとどうしてもそこから自立したい、つまり人から蔑視を受けるでは嫌だというのは人の情である。各個の職業に就き収入が安定し、社会的地位が認められる者たちから順に、櫛の歯が抜けるように支配を離れてゆく。
と言われた役者もそうであり、代々市川団十郎家では「勝扇子(かちおうぎ)」と呼ばれる勝訴の証、自立の記念の書を伝えているという。
また、「助六」に出てくる髭の意休(いきゅう)は弾左衛門を皮肉った姿だとも言われる。
*参考:浅草弾左衛門
本材を"右"から"左"につづけた右は、[首斬り浅右衛門]をクリックください。
葵の紋は、二葉葵が本家の加茂氏で、三つ葉葵は徳川家がデッサンしたものでしょうか、立ち葵も江戸時代は権威ある紋として尊重されたのでしょうか。
(鴨之橋)さん へ
早や来週は三社祭ですね。
もちろんiinaはでかけますよ。
「ゆかたの会」でたのしみにしています。
わっしょい わっしょい
せーやっ じゃないそうだよ。
"神輿"の担ぎ手がいなくて関西に依頼してから
このようになったのお年寄りが嘆いてた。
"見越し"が甘かったようですネ。
(チューチューマウスと仲間たち)さん へ
冴え渡る展開に、(@_@;)
ところで、「言いたい放題」にTBしても拒否されます。
gooも他のブログもTBされてますが、マウスさんが復活してから以降TBできないのです???
あるいは、アクセス制御されているのでしょうか ?
(貴美華)さん へ
嫁入りや 葵の紋の 雛道具
首切地蔵は、南千住の線路の脇にあって、電車から見れますよ。
刑場は余り気味のよいものではありませんが、知識をもって出向くと興味の方が勝ります。
(藍*ai)さんアドレスを残していってくれると訪問できたのに、残念。
(go-hot-ai)さん へ
古代は謎多く、面白い考察ですね。
謎は、切口によってさまざまに解釈できるので、好奇心を刺激してたのしいです。
きょう、「謎の出雲・伽耶王朝」を読み始めました。
譲ってもらい徳川の定紋としたものです。
たしかに本龍寺の表札には「本多」でした。
本多家や長野の善光寺は、徳川以前から「立ち葵」だったので頷けます。
いま、塩見鮮一郎著『浅草弾左衛門』を読んでいますが、
家紋は「丸に笹竜胆(ささりんどう)」だとか。
しかし、大名行列がまるで"徳川家の行列"を見ているよう
という文章も見受け、まだ謎は解けませぬ。
また、近々にあらためて弾左衛門を取り上げる予定でいます。
塩見氏は資史料の原典を確認するということをされてないので、『大友周司江戸屋敷入控』を引用する際、ミスしています。烏帽子狩衣は神主の中森日向正の衣装であり、「神前に於いて中森~」部分を勝手に句読点を「神前中、森~」とつけてしまっています。
塩見氏の著作の資史料は当てになりますが、コメント部分は殆ど他人の引用のようです。
故原田伴彦氏の著作は『朝野新聞』の鵜呑みです。
司馬氏の文章は何に基づくのかよく分かりません。
弾左衛門の行列については中尾健次氏の『弾左衛門-大江戸もう一つの社会』に詳しい記述がありますよ。旧幕府引継文書にあるので基礎的というか正確です。
弾左衛門を取り上げるのであれば大いに興味があります。伝聞でなく文献に基づいて談義したいですね。
『胡蝶の夢』は、図書館で借りて読んだのでいま手元にないのですが、松本良純が新撰組と接して以降、今戸神社で弾左衛門が登場する辺りなのです。
この部位のみを、際立って記憶しているのです。
記憶違いではないはずですが、・・・こんど調べてみますが、時間をください。
なお、WEB検索したところ松岡満雄さんは相当ヒットしました。
別のブログを見ていてふっと思い出しました。