刑場に大仏ならぬ大きなお地蔵さまが座っている。南千住駅に隣接する延命寺に、この小塚原(こずかはら,こずかっぱら)刑場の跡地にある。刑死者の菩提を弔うため、1741(寛保元. 8.)刑場敷地内に造立された。
二十七個の花崗岩(かこうがん)を組み合わせ、全体の高さが4メートルに近い坐像で、切り刻まれたようにも見え、罪人の首を斬ることからいつしか「首切り地蔵」と呼ばれるようになった。磔地場として開創されてから220余年の間に、刑死者や牢死者が20余万人にも達するという。
松下村塾を主宰し、多くの人材を育てた吉田松陰もここで処刑され、遺体は後に高杉晋作らに担がれ文久3(1863)年に太夫山(世田谷区若林の松陰神社)に改葬されたが、現在はその記念墓<一番奥の墓>が残っている。iinaは小伝馬町の牢屋跡を先に訪ねたので、そこで処刑されたと思っていたので意外だった。
一緒にしては、吉田松陰に申し訳ないがねずみ小僧次郎吉も此処で処刑された。
ねずみ小僧の墓
また、1771年に、蘭学者でもあった杉田玄白や中川淳庵、前野良沢などが小塚原で腑分けに参加し、後に「解体新書」の翻訳のきっかけとなったことでも有名。小塚原回向院本堂の入口右手に展示されている「観臓記念碑」は、この小塚原での腑分けを記念して、大正11(1922)年に建立されたもの。
此処には、誘拐されて殺された吉展ちゃんの地蔵がある。これも意外。
近くの泪橋には、こんないわれがある。
本当は思川(おもいがわ)といい、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、泪橋の名がつけられたと申します。
小塚原刑場は、鈴ヶ森(すずがもり)とともに江戸時代の著名な処刑場(お仕置き場)の一つだ。
* 参考 *
小伝馬町の牢獄は、徳川氏の江戸入部直後には、江戸城内の常盤橋にあったが、慶長年間(1596~1615)に城内から移された。南に正門があり、その西に牢役人の石出帯刀の役宅があった。牢獄は明治8年(1875)に他に移転した。そこに、先祖代々首切り役人(同心)を務める淺右衛門を名乗る山田浅右衛門がいた。
つづく
二十七個の花崗岩(かこうがん)を組み合わせ、全体の高さが4メートルに近い坐像で、切り刻まれたようにも見え、罪人の首を斬ることからいつしか「首切り地蔵」と呼ばれるようになった。磔地場として開創されてから220余年の間に、刑死者や牢死者が20余万人にも達するという。
松下村塾を主宰し、多くの人材を育てた吉田松陰もここで処刑され、遺体は後に高杉晋作らに担がれ文久3(1863)年に太夫山(世田谷区若林の松陰神社)に改葬されたが、現在はその記念墓<一番奥の墓>が残っている。iinaは小伝馬町の牢屋跡を先に訪ねたので、そこで処刑されたと思っていたので意外だった。
一緒にしては、吉田松陰に申し訳ないがねずみ小僧次郎吉も此処で処刑された。
ねずみ小僧の墓
また、1771年に、蘭学者でもあった杉田玄白や中川淳庵、前野良沢などが小塚原で腑分けに参加し、後に「解体新書」の翻訳のきっかけとなったことでも有名。小塚原回向院本堂の入口右手に展示されている「観臓記念碑」は、この小塚原での腑分けを記念して、大正11(1922)年に建立されたもの。
此処には、誘拐されて殺された吉展ちゃんの地蔵がある。これも意外。
近くの泪橋には、こんないわれがある。
本当は思川(おもいがわ)といい、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、泪橋の名がつけられたと申します。
小塚原刑場は、鈴ヶ森(すずがもり)とともに江戸時代の著名な処刑場(お仕置き場)の一つだ。
* 参考 *
小伝馬町の牢獄は、徳川氏の江戸入部直後には、江戸城内の常盤橋にあったが、慶長年間(1596~1615)に城内から移された。南に正門があり、その西に牢役人の石出帯刀の役宅があった。牢獄は明治8年(1875)に他に移転した。そこに、先祖代々首切り役人(同心)を務める淺右衛門を名乗る山田浅右衛門がいた。
つづく
「首切り地蔵」が出ていましたので、「江戸の姿」をTBさせていただきました。
もうひとつ、「大川端」http://blog.goo.ne.jp/osan3/e/8292c80ccd001a89c11246050cb86f54 で、写真を2枚借用しました。スンマセン!
35億円のダイヤも素晴らしい。
一人横綱」を務める白鵬が、小結安馬の首投げに横転し黒星スタート。新大関琴光喜は落ち着いて栃乃洋を下した。
一方阪神タイガース 延長戦制し10連勝…巨人3位 か、でも中日も頑張っています。
秋のスポーツが面白くなってきた。
松陰は、江戸の小伝馬牢屋で処刑されたと思ってましたが、小塚原(こずかっぱら)刑場なのだそうです。
首切り浅右衛門に処刑されたと伝わります。
周りは甚右衛門や甚左衛門などの屋号が多いのですが
・・
近くには代官屋敷が有りまして刑場も有った様にも伝わっているのですが・・
先祖は水飲み百姓だとは思うのですが・・
タイムカプセルで過去の祖先の生活でも垣間見れたら
面白いのですが・・
そこから、様ざまに想像するのもたのしく怖いものです。
むかし、「 武士道 残酷物語 」という映画がありました。
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080115
私も勇気を出して(^_^;)伝馬町牢屋敷に行ってみました。
http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-653.html
でも、霊感体質ゆえ、二度と行けそうにないです。
鈴ヶ森には行けません(-_-;)
さすがに歴史上の人物が、大勢もうらされています。
吉田松陰は、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と辞世句を詠み、千住の小塚原で斬首刑されたのですね。哀。
浅草には年中、いろんな行事があります。それをまとめました。↓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5407097e93a14969309e2bd295bba985
そのため、浅草界隈にまつわる歴史にも触れていますので、ご案内します。
小塚原の「首切り地蔵」や、「解体新書」との関係は興味深かったです。
鈴ヶ森処刑場は行きましたが、小塚原処刑場も、一度、是非訪れてみたいです。
由比正雪の小説を読んだことがありますが、幕府に反乱したのに生家が残っていたとは驚きです。
著者が早乙女貢であったか山本周五郎だったか忘れましたが、スケールの大きな物語りでした。関ヶ原の敗軍に属した
者たちを集めての幕府転覆計画でした。
鈴ヶ森の刑場には行ったことはありませんが、小塚原には2度ほど寄りました。
小塚原で、罪人の肝臓を売買していた浅草弾左衛門については、TBさせて頂きました。
何故か、コメント欄にアドレスを置けぬのです。