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叡福寺を上の太子と呼ぶのに対して、大聖勝軍寺を下の太子あるいは太子堂と呼ばれる。
587年、崇仏派の蘇我馬子軍と廃仏派の物部守屋軍が戦い、戦況が一時不利になったが、馬子軍に属した聖徳太子はこの地の椋の木陰に隠れて難を逃れ、後に信貴山毘沙門天に祈願し四天王を祀り、戦勝祈念に難波の四天王寺とともに大聖勝軍寺を創建した。国道25号線に面していて分かりやすい。
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物部守屋の墓
門前の池は、秦河勝が物部守屋の首を洗ったとの言い伝えがあり、守屋池あるいは守屋首洗池という。また、当寺から国道沿いの直ぐ近くに守屋の墓がある。
軍事を司った物部氏については、此方をどうぞ。
[ 七支刀
]
<注> 写真は、15年ほど前に撮影。
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587年、崇仏派の蘇我馬子軍と廃仏派の物部守屋軍が戦い、戦況が一時不利になったが、馬子軍に属した聖徳太子はこの地の椋の木陰に隠れて難を逃れ、後に信貴山毘沙門天に祈願し四天王を祀り、戦勝祈念に難波の四天王寺とともに大聖勝軍寺を創建した。国道25号線に面していて分かりやすい。
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物部守屋の墓
門前の池は、秦河勝が物部守屋の首を洗ったとの言い伝えがあり、守屋池あるいは守屋首洗池という。また、当寺から国道沿いの直ぐ近くに守屋の墓がある。
軍事を司った物部氏については、此方をどうぞ。
[ 七支刀
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<注> 写真は、15年ほど前に撮影。
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観光ルートには、入ってなさそうですから、紹介に興味深々です。
聖徳太子が四天王に戦勝祈願したことは知ってますが、四天王寺を建てたと思ってましたが大聖勝軍寺も建てたのですね。
物部守屋も道端に墓があるのも、蘇我入鹿の首塚のようで敗者の哀しさです。
この頃から既に“勝者の論理”があった訳ですね。
勉強になります。
大聖勝軍寺は、仕事上 車で通った国道沿いにあったので、気になって寄って いきさつを知りました。
聖徳太子といえば奈良の印象が強いですが、叡福寺と大聖勝軍寺さらに四天王寺も、大阪にあります。
この流れから四天王を、次にアップいたします。ちょっと、変わった切り口からご紹介します。
(らいちゃん)へ
世界最初の切手と日本初の切手は、珍しいというより貴重な話題でした。
日本初切手は、代金をそのまま表示していて、明治になっているのに江戸時代の通貨の文なのも、明治維新の
混乱期で円と銭になってないことが分かります。
昭和にはいると、日本らしい美しい切手が出ています。
蘇我氏・物部氏の対立は、仏教受容の可否が主だと思います。天皇が神教の総元締めであるなら、仏教は異端
宗教なので、一神教の国々にはあり得ない採用です。日本は、宗教というより最先端の利器を手に入れる文化
として許した気がします。真に、このころから良くも悪くも「あいまいな日本」です。