「本郷もかねやすまでは江戸の内」は有名な江戸時代の川柳。
どうして此処までが「江戸の内」と言われたかというと、
江戸時代は火事が多く、江戸城からここまで町家でも瓦葺きの防火建築が許された。
つまり、その境目に「かねやす」が建っていたのを目印にして江戸の境目になぞらえたというわけ。
キッカケは、享保15年(1730)本郷・湯島で大火があり、時の町奉行・大岡が火事対策として江戸城から此処までの間の町屋を、屋根を瓦葺き、壁は漆喰塗り・土蔵造りにするようにと命じたから。
「かねやす」は今は雑貨屋で、まったく同じところに建ち店前にこの川柳を掲げている。
「かねやす」は兼康祐悦という口中医師(歯医者)が、乳香散という歯磨粉を売り出し評判になったことで有名になって目立ったのですね。
将軍吉宗の時代、享保年間(1716~1736)にできた店。
本郷3丁目付近地図
どうして此処までが「江戸の内」と言われたかというと、
江戸時代は火事が多く、江戸城からここまで町家でも瓦葺きの防火建築が許された。
つまり、その境目に「かねやす」が建っていたのを目印にして江戸の境目になぞらえたというわけ。
キッカケは、享保15年(1730)本郷・湯島で大火があり、時の町奉行・大岡が火事対策として江戸城から此処までの間の町屋を、屋根を瓦葺き、壁は漆喰塗り・土蔵造りにするようにと命じたから。
「かねやす」は今は雑貨屋で、まったく同じところに建ち店前にこの川柳を掲げている。
「かねやす」は兼康祐悦という口中医師(歯医者)が、乳香散という歯磨粉を売り出し評判になったことで有名になって目立ったのですね。
将軍吉宗の時代、享保年間(1716~1736)にできた店。
本郷3丁目付近地図
この付近 懐かしいです
出張での宿泊で・・・
夕刻から 何回か後楽園に歩いて行った記憶が有ります
もちろん母校の赤門も・・・(^.^)/~~~
母校は嘘ですが、赤門は何度か訪ねました。
案外と狭い領域を江戸としていたようです。
山歩人Kさんは、この界隈に宿をとっていたのですね。
こんばんは、寒いです。
私も、街道歩きのときに、「かねやす」を探して写真を撮りました。
そう、江戸の境目という大事な目印ですものね。
現在は雑貨屋さんになったのに、店の前にこの川柳を掲げてくれているのは嬉しいです。
でも、「かねやす」が、兼康という歯医者の人名で、歯磨粉を売っていたというのは知りませんでした。
「御殿山桜祭り」にロボットが参加は、おもしろいです。御殿山そのものは、「いまはむかし」です。
IT産業花盛りです。
でも、古風と新風の同居イベントは、好もしいですょ。
つぎは、更家さんには いま更なiina探訪の品川宿です。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/323f9a7970f6894f5bae405bbf1d23ea
更家さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上(iina)URLに置きました。