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江戸城開城

2006年11月11日 | 歴史
江戸開城後、幾日かして大総監府参謀から、山岡鉄太郎へ召状がきた。山岡が出て行くと村田新八が、すぐ鼻っ先に来て、実は海道でわれわれの陣営を突破されたので、一刀の下に叩っ斬ってやろうと追いかけたが間に合わず、おはんが西郷先生に逢いよったときいて、切歯して引揚げた。どうも残念でならんので、本日呼び出して、これだけをいった次第、他に用はないといった。
山岡はからから笑って、わたしは江戸っ子だ、あんた方ぁ田舎もんだ、その江戸っ子は脚も速いが自慢である、然るに田舎もんはすべてのろま男である。とても脚の速い江戸っ子に追いつける筈はないでしょう。いや、こ奴は参った、まさにその通りだ、と村田も頭を抱えて笑ったという。
これをまた勝がきいて、にやにやして、
「これはいい角力(すもう)だった。村田は薩州じゃあ、まず大久保一蔵につぐ人傑よ。そ奴と、山岡の角力は面白いねぇ。」といったという。

幕府の命で、山岡鉄太郎が駿府にいる西郷隆盛に徳川慶喜の恭順謹慎の真意を伝えに出向いた。道中、官軍が関東を目指して進軍の最中での密命を帯びての隠密行動だった。勝海舟が、その補佐に薩摩の益満休之助を同道させた。

そのふたりが官軍の敵陣である群れを突破して、駿府にたどり着いた。

「休、生きていたか」
「はい、危ないところを勝先生に助けられ、勝家に養われておりました」
「何、勝先生とこに」
「はい、わたしの入牢中、家内も勝先生のところのお世話になっておりました」
西郷は、少し唸るような声を出して、うつむき加減に、
「よかった、よかった」
と、呟いた。大きな眼が、一ぱいにうるんでいる。
西郷の頬をつたって、涙がぽたりとあの盛り上がるような膝へ落ちた。

一部の史家は、この時の西郷の涙をもって、江戸はすでに救われたと論ずる。或いは、そうかも知れない。
[『勝海舟』子母沢寛著]

山岡鉄太郎は、後の鉄舟。
西郷は、一新には血が必要だとして、主戦論者だった。
勝は、恭順を主導したが、無血開城が敗れたときに江戸を火の海にすることを担保していた。一瞬に火の手を上げるため、火消したちに委ねたといい、市民を房総に移転させる船と兵糧を手配していたという。





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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
勉強になりました (candle_march)
2006-11-12 08:39:47
はじめまして。
子母沢寛の「勝海舟」読んでいませんでしたので、勉強になりました。
幕末、維新を駆け抜けた人々。行動力や信念も凄いが、「心」は常に持っていたんですね。
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はじめまして (クマ公)
2006-11-12 11:12:03
TBありがとうございます。
子母沢寛さんは、読んでいない私ですが「氷川清話」は読みました。
今は山岡鉄舟について知りたく、先日全生庵に行き、お墓参りをしてきましたよ。
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鉄舟と慶喜 (iina)
2006-11-12 12:04:44
(candle_march)さん へ
「西郷隆盛と山岡鉄舟会見の跡碑」におでかけですね。
江戸城開城に徳川の恭順謹慎の真意を伝えに出向いたのが鉄舟とは、
『勝海舟』子母沢寛著を読むまでは知りませんでした。
鉄舟の印象は、どちらかというと「書と精神性」にあったので、
剣の達人でもあったとも知らなかったです。
ポタリングは友の趣味なので聞き覚えありましたが、静岡県内を
サイクリング・ポタリングとは、健康的であり歴史探訪にも好いですね。

(クマ公)さん へ
徳川慶喜は、伏見の戦いで尻尾をからげて江戸まで逃げるし、
幕府を瓦解させた張本人というイメージですね。
しかし、歴史的には明治維新という革命をほとんど無血で、
新政府に譲り渡したという貢献は、一級のものです。
戦えば充分に成算はあったろうと思えます。
そこを時代のうねりの波を冷静に英断したものです。
兄弟喧嘩
の最中に、欧米列強に日本という国を侵されたかも知れませぬ。
歴史に悪名を残す賊軍になるのが耐えられなかったようにも
思えます。水戸光圀が天皇を柱にするという水戸学が影響して
いますね、皮肉です。違いました、日本にとって幸いでした。
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西郷と勝 (blogウオッチャー)
2009-11-13 18:36:08
西郷隆盛は、革命は血をみないことには成功しないと語っているようです。

薩摩の同士を敵方の勝海舟が保護していたのも面白いし、そのことを恩義に感じた西郷隆盛も偉いですね。

面白い指摘です。
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(blogウオッチャー)さん へ (iina)
2009-11-14 09:49:06
はじめまして。
3年も前の記事を掘り起こして頂き、ありがとうございました。

若い頃は、幕末物は現在に近すぎ血生臭さが厭でしたが、最近はよく
読むようになりました。
薩摩の益満休之助は、『勝海舟』子母沢寛著を通して知りました。

山岡鉄舟も名の方が有名で、業績までは深く知らなかったです。

また、お越しください。m(__)m
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益満休之助 (更家)
2014-06-25 23:48:43
東海道踏破の際に、静岡の西郷と山岡の会見跡碑、田町の西郷と勝の会見跡碑を見ました。

それで、私は、「江戸城開城」に興味があり、西郷と益満休之助の話、興味深く読ませて頂きました。
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(更家) さん へ (iina)
2014-06-27 08:49:55
テレビの人気番組のように東海道五十三次を、路線バスだけを使って向かうのも面白い旅になりそうに思えます。

やはり、更家さんは「西郷・勝会見の地」の碑を押さえます。iinaも、仕事で何度か歩きました。
幕末の志士たちは、よく泣いたそうです。武士は食わねど高楊枝というくらい気位が高かったことからすると意外
に思えますが、それほど情が深かったのでしょうね。

そして、田町駅と品川駅の中間に、一里塚が残っているものですね。

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コメント御礼 (CHIKU-CHAN)
2018-02-06 06:20:56
もののはじめiina様へ

工楽松右衛門の帆布に関するコメントをいただきありがとうございました。江戸城無血開城の記事も読ませていただきました。これに関連した話題について、少し述べさせていただきます。2017年12月29日、NHKテレビBSプレミアムで江戸城無血開城に関する番組を視聴しました。番組では、慶応4年(1868)3月13日&14日に陸軍総督の勝安芳(海舟)46歳と
官軍参謀の西郷隆盛42歳が薩摩藩の江戸屋敷(会見の場所は蔵屋敷)において
が会見し江戸城無血開城に導いたものだがその陰に山岡鉄舟の他にイギリス人の
通訳官アーネストサトウが大きいと解説されていました。徳川家側の大久保一翁(忠寛)も忘れてはならない。東京赤坂地区における勝海舟邸跡という題目でブログ記事を作成していますので良かった読んでください。アドレスはhttp://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/56df5e997039f31199f72698243f19a8

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(CHIKU-CHAN) さん へ (iina)
2018-02-06 10:25:52
勝海舟は、えらいです。
豪傑であり、幕末に日本の行く末を描いききった人物は、そんなにはいない印象さえ抱きます

勝海舟が、刺客に対処したときのこんな逸話があります。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/e79dbcb5a235f16d9bc6ff58fade00bf

そして、勝海舟生誕地は本所の吉良邸近くにあります。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/383c1aa968694e3d6bf1f3c5109ec051

たまたまなのですが、明日のブログに西郷隆盛を扱います。


帆布を発明したのが工楽松右衛門でしたか・・・。
iinaの大阪時代に、帆布業界とかかわったのですが、青島都知事が当選して世界都市博覧会を中止したため頓挫したことがあります。
帆布は強いため、いまはヨット以外のバックや財布などにも応用しています。

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