耶馬溪
2011年12月12日 | 旅
耶馬溪には、小学生のころ町内会でバス観光して以来。今回は、夢大吊橋を見に行ったので別府に戻らず、耶馬溪を経由して中津に抜けるこのコースを通った。紅葉には少し遅かったか、此処が一目八景。↑
青の洞門↑には、こんな話がある。
むかし、樋田から青に行くには、岩壁につくられた道を渡らなければならなかった。足を滑らせて、川に落ちて死ぬ者が後を絶たなかった。そこに、ひとりの旅の僧が、のみをふるいはじめた。僧の名を、禅海といった。
そんなある日、禅海に「父のかたき、覚悟」と、武士が迫った。
罪ほろばしのために穴を掘りつづけているので、あと三年生かしてこの洞道ができたら、あなたに討たれると誓う。
許された禅海は、一層のみをふるう腕にカをいれて、毎日まい日、一心に穴を掘りつづけた。村人たちも、禅海と一緒になって、懸命に工事の加勢をした。
禅海を見張っていた実之助も、早くかたきを討ちたくて、たすき掛けで手伝いはじめた。
宝暦13年(1763年)の秋の夜ふけ、実之助が来てから3年目のこと、禅海が岩壁に向かってのみをふるいはじめてからでは、およそ30年の月日が過ぎていた。ついに禅海の打ったのみの先に、ぽっかりと小さな穴があいた。
実之助も、禅海の手を握りしめた。
握りしめたふたりの手から、憎しみも苦しみも悲しみも、すべてが山国川の流れの中に、ながれ去っていった。
幼い時にこんなガイドを聴き、さらに石仏を見た記憶が今回の国東半島の磨崖仏めぐりに向かわせた。
臼杵の大日如来のような石仏が、熊野磨崖仏のように大きな仏さまばかりをイメージしていたが、混同していたようだ。
また、青の洞門の道を通らぬバイパスができていたのには驚いた。
九重夢大吊橋は、長さ390m 高さ173mの日本一の吊橋。橋の上からは、「日本の滝百選」に選ばれた「震動の滝(雄滝、雌滝)」が望める。九重連山を遠くに見て、九酔渓、鳴子川渓谷の雄大な景色等が360度パノラマ。
臼杵の石仏を見た後に、山にはいる道をたどり由布岳(湯布院)と鶴見岳(別府)を右に見ながら大吊橋を目指す。
青の洞門↑には、こんな話がある。
むかし、樋田から青に行くには、岩壁につくられた道を渡らなければならなかった。足を滑らせて、川に落ちて死ぬ者が後を絶たなかった。そこに、ひとりの旅の僧が、のみをふるいはじめた。僧の名を、禅海といった。
そんなある日、禅海に「父のかたき、覚悟」と、武士が迫った。
罪ほろばしのために穴を掘りつづけているので、あと三年生かしてこの洞道ができたら、あなたに討たれると誓う。
許された禅海は、一層のみをふるう腕にカをいれて、毎日まい日、一心に穴を掘りつづけた。村人たちも、禅海と一緒になって、懸命に工事の加勢をした。
禅海を見張っていた実之助も、早くかたきを討ちたくて、たすき掛けで手伝いはじめた。
宝暦13年(1763年)の秋の夜ふけ、実之助が来てから3年目のこと、禅海が岩壁に向かってのみをふるいはじめてからでは、およそ30年の月日が過ぎていた。ついに禅海の打ったのみの先に、ぽっかりと小さな穴があいた。
実之助も、禅海の手を握りしめた。
握りしめたふたりの手から、憎しみも苦しみも悲しみも、すべてが山国川の流れの中に、ながれ去っていった。
幼い時にこんなガイドを聴き、さらに石仏を見た記憶が今回の国東半島の磨崖仏めぐりに向かわせた。
臼杵の大日如来のような石仏が、熊野磨崖仏のように大きな仏さまばかりをイメージしていたが、混同していたようだ。
また、青の洞門の道を通らぬバイパスができていたのには驚いた。
臼杵城は、戦国時代の一時期北九州に勢力を誇った大友宗麟によって臼杵湾に浮かぶ丹生島に築いた平山城とも海城ともいえる城。 |
九重夢大吊橋は、長さ390m 高さ173mの日本一の吊橋。橋の上からは、「日本の滝百選」に選ばれた「震動の滝(雄滝、雌滝)」が望める。九重連山を遠くに見て、九酔渓、鳴子川渓谷の雄大な景色等が360度パノラマ。
臼杵の石仏を見た後に、山にはいる道をたどり由布岳(湯布院)と鶴見岳(別府)を右に見ながら大吊橋を目指す。
別府の宿から眺めた野生猿で有名な高崎山。 温泉は、屋上の露天から展望をたのしめ、一階には岩盤に囲まれ結構な湯だった。 韓国人が、かなり来ていた。 |
2度行きました。
その後、娘が結婚した相手は大分出身でした。
彼の実家と耶馬溪はそれほど離れていません。
山は好きですね。。。
青の洞門の伝説には心を打たれます。
例え、敵同士や憎しみ合っている者同士でも時がそれを溶かしてくれますね。
中国、韓国、北朝鮮でも、今の日本を直視して友好的になってくれればいいのですが・・・。
地図を見ると高千穂の峰は宮崎県ですね。
関西に住んでいて大分県、宮崎県の観光スポットの区別がつかないなんてお粗末ですね。
失礼しました。
機会があれば行きたいです。
九重夢大吊り橋の景色すてきです!
手掘りのトンネルの工事は大変だったと思います。
『“今日用”があり“今日行く”』教養+教育論、尾も白かった(面白かった)です。
そして、「書を捨てよ町へ出よう」を思い出しました。きのうは、町に出ず庭木を剪定しました。
耶馬溪巡りと中津の福沢諭吉生家に行ったことも記憶していますが、50年以上昔のことでした。
(tamirin) さん へ
耶馬溪や九重夢大吊橋は、いま「サザエさん」の冒頭で案内していましたよ。
別府にも行っていて高崎山の山容が見えます。いつも見ているのに、見落としていたようで、先日
の「サザエさん」を見て気づきました。
(鷲谷芝嵐) さん へ
地球は青かったとはガガーリンがいい、Lady KAGAは加賀誘致に使われました。
青の洞門を解説していますが、「樋田から青に行く」とあるように地名から名づけられています。
九重夢大吊橋を構想した者に夢物語りと相手にされなかったようですが、いまでは建築費さえ稼ぎ
上げたそうです。
元々、九酔渓、鳴子川渓谷の景観が雄大だったからこそ実現できたのですね・・・。
(らいちゃん) へ
iinは「災」を考えましたが、今年の漢字一字は 「絆」 と、前向きな言葉が選ばれました。
真に、災い転じて絆深める観がありますね。
地名は、自身がかかわらぬと分かりにくいようです。
北陸三県も、富山県に金沢という後輩がいてややこしかったですが、富山に住んで理解しました。
耶馬溪こそ邪馬台国と思いませんでしたか?此方は後世に名づけられたので、無関係です。
しかし、近くの宇佐には邪馬台国説があります。
(ぼたん) さん へ
都会の犬の表情が愉快です。
耶馬溪の青の洞門を歩くと、ここ掘れワンワンとでもいうかも知れません。
スコップをもってでかけましょう。
(イヴォンヌ) さん へ
青の洞門伝説は、菊池寛の「恩讐の彼方に」で紹介されました。
禅海が洞門を掘ったのは事実ですが、仇討の話は創作なのだそうです。
耶馬溪の一目八景や九重夢大吊橋は、丁度いま「サザエさん」の冒頭で案内されています。ご覧ください。
(ハイジ)さん へ
いまも、手掘りの青の洞門を歩くことができます。
安全な道を作ろうと、禅海和尚は托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って
「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれています。
こんかいは、車でスルーと通り抜けました。