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武士の発生

2018年08月28日 | 歴史
[ 武士 もののふ① ]

日本は、大化の改新の終わりごろから律令国家になっていった。
律令制とは日本国の農地がみな公地であり、民がみな公民であることである。公民である農民は国家によって所有され、配分された公地を耕し、国の規定通りの税としての稲を納めた。

平安の世は藤原氏の世で租税の多くを占有し、天皇家の経済が小さくなった。
このため多くの皇族を養うことができず、さかんに皇子を臣籍に編入した。最初は、嵯峨天皇のとき814年にはじまる。
これに源という姓が与えられた。そのうち武士として成功してゆくのが清和源氏だつた。それに平家、摂関家藤原家を加え、更に奈良時代に成立した橘家を加えた四姓とされたが、不思議なことに平安末期になると、関東に群がり出て来る開拓農場主たちは桓武平氏でなければ清和源氏である或いは藤原氏であるとし、ひとり残らず皇胤を称するに至る。むろん、偽証が多かった。いい加減なものながら、誰もが四姓を称することで「はるかながら天皇の末の流れを汲む」という風になった。
こういう流れを通して、「天皇制」というものが庶民武士たちの中にこまかい根を張るにいたる。

天皇のあり方と武家(将軍・大名)制度における君主とは当然違っているが、形としては平安朝以来、君臨すれど統治せずの伝統がつづいている。
中国皇帝のように専制を得ようとした天皇は、後醍醐天皇(1288-1339)だけだった。この異形さが南北朝ノ乱という果てしない長期の乱を生んだことを思えば、よほど日本離れしたことだったに違いない。

清和源氏の代々の当主は、京の権門に仕え、ときに公卿たちから下僕のように扱われながら、関東の武者のために官職がもらえるように仲介した。やがて、この家系の当主は武門の棟梁と呼ばれるようになる。

貴族や社寺が山野を開墾して墾田をつくれば私有が認められ、しかも国に租税を納めなくてすんだ。どこよりも平安初期の関東平野が目を惹いた。
墾田を拓くべく力のある者がむらがり集まってきた。次々に田地を拓いた。これが律令制をゆるがすもとになった。
その地を開拓した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで「特例の私有」を合法化し、自分は影にまわって経済権だけを握った。武士(ぶし)の発生である。
開発地主たち武士はその田園を守るべく武装した。また、京の貴族たちの機嫌を取り結ぶべく京に上って、無報酬で公家たちの雑用をつとめた。すべて自分の「私有領土」を一所懸命に守るための屈従だった。

                 ②にもどる     つづく
   「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約

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4 コメント

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お早うございます (延岡の山歩人K)
2018-08-28 06:22:48
武士
 >自分は影にまわって経済権だけを握った。武士の発生である。
う~ん
現在も似たようなお話がありますね
某幹事長 や 某大臣も・・・
派閥の力(圧力)で
誰かさんを操っている様ですから
立派な武士ですね

↓昨日(8/27)記事
 iinaさま いろいろ考えておられるのですね
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(延岡の山歩人K) さん へ (iina)
2018-08-28 08:44:34
「武士(もののふ)」とほぼ同義語になる「侍(さむらい)」は、貴族に「さぶらふ」者から「さぶらひ」即ち「さむらい」に転訛したらしいです。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/feaf9ce737a77f269f24ef6582ba0022

例えば、後醍醐天皇を配流せずにその権威を簒奪すればよいものを、武力政権者たちは総て天皇制を存続させています。
権力者たちは、ことごとく天皇の末裔と名乗り天皇の権威を利用したのですね。
おかげで万世一系の天皇は。世界で一番長い権威者として現代につながっています。



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清和源氏 (ウォーク更家)
2018-09-01 06:22:04
そうか、清和源氏の代々の当主は、公卿たちから下僕のように扱われながらも、関東の武者のために官職がもらえるように仲介したからこそ武士団から慕われ、後々、皆、清和源氏が先祖だと名乗りたがったんですね。

なるほど、武門の当主が棟梁と呼ばれたのが、大工の棟梁の語源ですね。
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(ウォーク更家) さん へ (iina)
2018-09-01 09:03:00
川中島の戦いは、クライマックスの場面です。
五回も戦ったらしいですが、当時は勝った印象を残しさえすればよしとした戦法であったらしいですね・・・。

> 上杉側の記録では、謙信の家来が信玄に切りつけた
小説にも様ざまに描かれていますが、上杉謙信と武田信玄の一騎討ちはクライマックスの中でも最大の見せ場です。


日本では多くの者が、源平藤橘などの高貴の家柄を継ぐ家系と名乗りたがった風です。
iina家でさえ平家の落人と伝わりながら、家紋は源氏方に由来します。どうにも、源氏方と平家方が入り乱れての戦いだったらしいです・・・。


> 武門の当主が棟梁と呼ばれたのが、大工の棟梁の語源ですね。
調べると、元は建物の屋根の主要部分である棟と梁を指していたのですが、『日本書紀』に武内宿禰を「棟梁之臣」と表現しています。
この説明ですと、「大工の棟梁」の方は後から呼ばれた風です。

 (ウォーク更家)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置いています。

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