横浜・野毛で1946年から続いた居酒屋「武蔵屋」が、先月31日に閉店。店主(93)が「体がもう限界」と決めた。
日本酒は3杯までしか呑めないので三杯屋と呼ばれて親しまれ、ご覧のとおり土瓶でコップに表面張力で盛り上がるほどピッタリ注ぐ。
そして、いつ来ても同じメニュー(玉ねぎの酢漬け、おから、たら豆腐、納豆、お新香)の5品が出る。再び見れぬため、ブログにお酒(桜正宗)と肴をアップ。
玉ねぎの酢漬け、 おから、 湯豆腐(肴の中では量が一番多い)
納豆、 漬物、 勘定時にでる猪口酒は嬉しい
閉店1週間前に知り、お別れをしてきた。いままでも開店は火水金だったが、今年は木金だというので閉店を知ったときは残り4日しかなかった。
いつもより1時間早い4時の開店を目安に行くと、早くも列ができていた。多くて28名しか収容できぬお店で同席した方や隣りの方と気軽に談笑できるのがこの店の居心地の好さ。
武蔵屋は大正時代、父親の銀蔵さんが横浜港近くの酒屋の一隅で立ち飲みとして開店。戦災後に野毛に移ると、安くてうまい酒、庶民的なつまみ、酔客を平気で追い返す頑固なおやじを慕って、平山郁夫、青木雨彦ら文化人や船会社の重役らが通った。
1983年に銀蔵さんが亡くなると、娘さんの三婆々で切り盛りしていたが、その後横浜国大の学生アルバイトらが手伝う。2012年に俳優の五大路子さんが舞台の題材にするなど、最近では古き良き時代の空気を味わいたい遠来の客も多い“横浜名物”で、横浜市長の感謝状も出た。
いつもと違うのは、
お別れに里芋とお赤飯が出た。
さらに、
帰りには桜正宗を手渡される 。
お燗をつけていた奥の茶色い機械は壊れてしまったが、お店の独特の空間は変わらなかった。
4時に来て入れずにいた方が、2時間待つけど仕方ないと入店を楽しみにしていた。6時ごろに、2~30名も並んでいた。
浅草の三杯屋こと「松風」も数年前に閉店したため、残念がつづく。
開店当時からの古い木造の店は売られ取り壊される。
おつかれさまでした。
閉店するにあたって、2時間並んででも来て下さるお客さんが、このように多いとは、武蔵屋のおかみさんも嬉しかったでしょうね。
写真の笑顔がそれを物語っています。
iina様にとっては憩うところが一軒減りましたね。
至急新規開拓が必要のようですね。
>大阪弁の「おおきに」を、大阪時代によく耳にしましたが、なるほど便利な言葉ですネ。
商人の町、大阪ならではの言葉でしょうね。
びっくり仰天ですね\(◎o◎)/
そして寂しい
赤ちょうちん 昭和の時代 遠くなる / 山k
種子島に鉄砲が伝わり、筒などは模造できたものの銃底を塞ぐ方法だけが理解の埒外でネジを作る技術を渡来人に
教わって実用化したと申します。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaze_k/special-02.htm
のれんも下がってない武蔵屋は、ほぼ30年の馴染みでしたから、閉店は寂しい限りです。
かつて「ノーエ節 」が流行しました。
野毛の山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館を見れば
お鉄砲かついでノーエ
お鉄砲かついでノーエ
お鉄砲サイサイ
かついで小隊すすめ
武蔵屋こと三杯屋で呑むたびに、これが最後かも知れないと思いながら呑んでました。しっかり呑みおさめを、覚悟して
お別れしてきました。、さびしいかぎりです。
飲みおさめ 野毛で三杯 肴つまむ / iina川柳
一抹の寂しさ漂いますね~
iinnaさんには また新しい出会いがきっとありますよ。
一方 古き悪しき時代は どうぞつづきが有りませんようにと・・願いながら・・
iinaは、横浜の野毛で居酒屋「武蔵屋」とお別れの盃を飲みほして参りました。
三杯屋をブログに書いたことはありますが、写真投稿ははじめてでした。
でも、閉店はもったいないです。どなたかが引き継げなかったものでしょうか?
そうしていれば、入る機会もあったのですが。
後継者がいないので、行くたびに最後だと観念して飲んでましたから、しようがなかったと思われます。残念。
おさないころ、ラジオだったかテレビで朝に納豆売りがまわるときいて、朝っぱらから甘納豆を食べるものなのかと不思議でした・・・。
そのころの九州には、ねばねばな食べ物として、オクラを知るばかりです。納豆文化はなくそのように思ったのでした。
いまは、全国区になりましたね。
独り なら、密にもならずにマイペースですみます。
2月に仲間と飲んで、つい先日にそろそろ飲もうかと誘ったらコロナ禍に慎重な判断が勝りました。
独り呑みを考えたら、横浜の武蔵屋をなつかしく想い起こしました。
* タケホープさんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上(iina)に置きました。