源氏の名刀・髭切(ひげきり)を前にブログしたが、髭切とペアをなす膝丸(ひざまる)についても調べてみた。
両刀をつくらせた源 満仲が罪人を試し斬りして、鬚まで斬った一刀を「髭切」、膝まで斬った一刀を「膝丸」と命名した経緯がある。
「膝丸(ひざまる)」は、
源頼光の代、頼光を熱病で苦しめた土蜘蛛を切ったとされ、その際に名を蜘蛛切と改めた。
源為義の代には、夜に蛇の鳴くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。
この時、源為義の娘婿である熊野別当教真に吠丸(膝丸)が譲られ、獅子ノ子(髭切)と別れ別れになった。
・吠丸 →教真
・獅子ノ子→為義
熊野別当教真の息子・湛増のときに「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え、源氏の母を持つ権現という人物に譲る。その後、権現は源義経に吠丸を譲り、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改める。その名は熊野の春の山に由来する。
義経が討たれた後、膝丸(薄緑)はその兄・源頼朝のもとに渡った。
髭切は、源頼朝が天下を納めた時、後白河天皇から返されており、皮肉にもそこでかつての兄弟刀がひとつの場所に戻った。
膝丸の持主系図
満仲-頼光-頼義-義家-為義-熊野別当教真-熊野別当湛増-箱根権現-義経-頼朝
名前変遷系図
膝丸-蜘蛛切-吠丸-薄緑/薄縁 (うすべり)?
異説
源氏縁の二振りを兄・頼朝と自分・義経が分けて持ち合うと兄と対等な立場になり、源氏を割るとの危惧から、薄緑を箱根の神社に奉納したとも伝えられる?
その後、曾我兄弟の仇討ちで使われ、兄弟は処罰されたため、薄緑は頼朝に戻ったという?
この薄緑は、現在 箱根神社に奉納されたと伝わるが、宝物一覧の中に含まれてないので、この説は怪しい。
両刀をつくらせた源 満仲が罪人を試し斬りして、鬚まで斬った一刀を「髭切」、膝まで斬った一刀を「膝丸」と命名した経緯がある。
「膝丸(ひざまる)」は、
源頼光の代、頼光を熱病で苦しめた土蜘蛛を切ったとされ、その際に名を蜘蛛切と改めた。
源為義の代には、夜に蛇の鳴くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。
この時、源為義の娘婿である熊野別当教真に吠丸(膝丸)が譲られ、獅子ノ子(髭切)と別れ別れになった。
・吠丸 →教真
・獅子ノ子→為義
熊野別当教真の息子・湛増のときに「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え、源氏の母を持つ権現という人物に譲る。その後、権現は源義経に吠丸を譲り、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改める。その名は熊野の春の山に由来する。
義経が討たれた後、膝丸(薄緑)はその兄・源頼朝のもとに渡った。
髭切は、源頼朝が天下を納めた時、後白河天皇から返されており、皮肉にもそこでかつての兄弟刀がひとつの場所に戻った。
膝丸の持主系図
満仲-頼光-頼義-義家-為義-熊野別当教真-熊野別当湛増-箱根権現-義経-頼朝
名前変遷系図
膝丸-蜘蛛切-吠丸-薄緑/薄縁 (うすべり)?
異説
源氏縁の二振りを兄・頼朝と自分・義経が分けて持ち合うと兄と対等な立場になり、源氏を割るとの危惧から、薄緑を箱根の神社に奉納したとも伝えられる?
その後、曾我兄弟の仇討ちで使われ、兄弟は処罰されたため、薄緑は頼朝に戻ったという?
この薄緑は、現在 箱根神社に奉納されたと伝わるが、宝物一覧の中に含まれてないので、この説は怪しい。
お詳しいですね
私も興味があるので今度調べてみます。
http://blog.goo.ne.jp/ryoboo0227
booの小部屋 ほのぼの
もし良ければ遊びに来てください
摂津多田に住した多田源氏です。
源氏と言うと関東のイメージがあるのですが、もとは、摂津(大阪)出身だったのです。
おしどりがつがいでいると、よほど仲良く見えたのですね。
小田原厚木街道を使って、曽我梅林にを梅見したことがあります。
(Boo) さん へ
じつは、源氏を守護する二振りの太刀にこだわったのは、myホムペに載せているからです。
http://iinad55.at.infoseek.co.jp/1.html
一を読み終えたら、
一二三四五六七八九十へとつづけてください。そして、
「ひふみよいむなやここのたり」と称えると・・・。
(銭無のとっつあん) へ
>官給品(GI=Government issue)の政府GovernmentのGが使われたのでは…。
調べたら、ジーパンの語源は、GI(アメリカ軍兵士)が穿くパンツだから
とありました。推察通りでした。さすがでした。
源氏についても、くわしそうですね。