11. 僕は動物カメラマン (宮崎学著 1983年発行)
『オヤジ(カメラ店)が貸してくれたのは、100ミリと200ミリの望遠レンズだ。だが、新品で、お客に売るはずのそのレンズを、私はこともあろうに渓谷の岩登りをしていて、岩にぶつけてしまたのだ。私は青くなった。すぐさま山から引き返して、カメラ店にとび込み、ひらあやまりにあやまった。
そして私の不始末から生じた事故だから2本のレンズは私が買い取ると申し出たのだ。しかし、オヤジはなぜか、そんなことまでしなくてよいと頑強にいいはる。結局、何回かのやりとりのうち、2本のレンズは私が買うが、支払いだけは、無期限にのばしてくれるということになった。
なんという太っ腹なオヤジであるかと、まだそれこそ少年であったわたしはうれしくてしかたなかった。世の中には親切な人がいるものだとつくづく思った。当時の私が、どれほどの経済状態でカメラをにぎっていたか、そのオヤジがもっともよく知っていたはずである。
それほどまでにしてくれたのは、私のカメラにたいする情熱がなみなみならぬものであったからにちがいなかった。そのことを、オヤジは、知っていてくれていたにちがいなかった。』
『その夜、中川村のカラスの大群を絵本にするために伊那谷にこられた、廣岡さんと今江先生を案内したことで、村の小さな旅館で私のスライド映写会が始まった。それまで私が”ライフワーク”とも思っていたニホンカモシカの生態写真に、いたく感動してくださり、そして、その場で、私が撮りだめしていたニホンカモシカを写真絵本として出そうと話が決まったのである。
いつの日か、ニホンカモシカで私はできることなら一冊の本を作ってみたいと夢想していた。だから、その夜のできごとは、文字通り”夢”のような話であった。こうして一年ほどがたって、一冊の本ができた、書名は「山にいきる――ニホンカモシカ」(1970年)。
私にとって、あらゆることが初めての経験だった。物語をくみ立て、写真を選別し、レイアウトしていく、そんな作業をまったく知らなかった私は、いちいち今江先生や廣岡さんの助言にうなずき、そして、ものごとを組み立てるとはこういうことかと目を開かれる思いであった。
ひとつの物語としての写真の選び方、季節感のとり入れ方、また、寒色系だけでまとめていた写真をみて一言「赤がほしいね」と今江先生はアドバイスしてくれた。まだ若かっただけに、廣岡さんや今江先生の一言一言が、骨身にしみた。この、初めての写真絵本作りは、その後の私の作品づくりに大きな影響を与え続けた。』
『今江先生は、これまた手紙で私を励まし続けてくださった。作品を絶対に”安売り”してはいけない、作品が、自分で納得のいく構成としてまとまるまでは、たとえ生活が苦しくても”小出し”にして売ってはいけないと。
そして、最後に「あなたの仕事は、全国でかならず1人や2人の人が注目しているはずだから、多くの人を相手にする気持ちを持たず、注目してくれているひとりの人だけのためにがんばりなさい。そうすれは、多くの人たちが認めてくれるようになるはずだから……」と書き添えてあった。その間に私をモデルにした「水と光とそして私」という作品を書き私の株をあげてくださった。』
『昆虫写真家の栗林慧さんは、小さな昆虫の写真を、見事なクローズアップで、シャープに、しかも生態に忠実なねらい方で、撮られていた。さらに驚かされたのは、自宅の工作室だ。カメラを改造するための工作道具が整然とならべられていた。
撮影目的のためには、自らあらゆる工夫をし、そのための装置をつくりだしていくという姿勢と気迫に満ち満ちた部屋であった。その部屋は、私にとって驚異であったと同時に希望をあたえてくれた。私が以前会社で使ったことのある機械や工具がならべられていて、私にも使える自信があった。
それまでカメラを改造してまで使うということをしなかった私に、自分でも改造できるということを教えてくれた。 これらの作品はすべて、昆虫自身に赤外線ビームを横切らせて、いわば昆虫自身がシャッタを切った写真だった。』
『私がフィールドとしていた中央アルプスの原生林の中に、一本の登山道があり、動物たちが頻々と出現していた。この登山道に赤外線ビームを張り、そのビームを動物が横切った瞬間にシャッターが切れるような仕かけをすれば、登山道に出現する動物のすべてを知ることができるはずだと思った。
私は、栗林さんの撮影装置にヒントを得て、山中でも使用可能な性能の装置の開発を独自に手がけることにした。かって、信光精機という会社へ勤めていた経験があったから、かなりなところまで自分ひとりでおし進めることができた。
しかし、心臓部となる電子回路にいたってはどうすることもできず、信光精機の宮脇社長に全面的に協力してもらうことになった。紆余曲折をへて、一応は目的にあう装置ができあがることになった。
さっそく、装置を山中にセットして、撮影に入ったのであったが、それでもまだ未熟な部分が多く、思わぬトラブルが頻発した。もっとも困難をきわまたトラブルのひとつが、自然現象の湿気と雨である。この対策にはまったく閉口してしまった。
赤外線装置は設計変更をくり返し、レンズ関係から鏡筒づくりにいたるまで、すべて旋盤でアルミの材料のけずり出しからはじめ、ネジ切りして、様々な防水加工の工夫をこらした。
これらは、そのつど、山中にセットした状態で逐次テストされ、改良していくといった作業手順となった。だから最終的に装置がフルに動作作動するようになるまでさらに2年の歳月が流れた。
こうして、雨を待ち、台風を迎えて、雪と氷の季節を乗り越えてきた”ノウハウ”といったものが、結果的にはたしかな手応えとなって、野生動物たちのありのままの姿を写しはじめた。
こうして開発をはじめて4年後、私の「けもの道」の撮影はようやく完成したのであった。そして、初めての個展をニコンサロンで開催することが出来た。』(第12回)