16. 日本歴史を点検する (海音寺潮五郎、司馬遼太郎 対談 1974発行)
『司馬 斉彬(なりあきら)は確か中国語ができましたですね。
海音寺 斉彬のひいじいさまの重豪(しげひで)ですよ。ひいじいさまは中国語が自由にできたんですね。「南山俗語考」という中国語辞典の著述まであります。実際は注文と検閲だけして、侍臣や学者にやらしたんでしょうけどね。
司馬 なるほど。
海音寺 日常の家来どもとの会話は中国語でしたそうですよ。当時のダンディなんですね。(笑)この人はオランダ語も少しはいけました。オランダ語まじりに書いた手紙が残っているのです。もちろん原語で書いています。シーボルトとも親交がありました。
この人の影響は、ひとり薩摩といわず、日本全体に及んでいます。この人は大変長生きした人で、斉彬の二十六の時まで生きていますが、斉彬はこのひいじいさまの大変なお気に入りで、斉彬の洋学敬重思想はこの人の影響です。
この人の子の一人昌高は、豊前中津の奥平家に養子に行ったのですが、中津藩に洋学好きの気風をおこし、家老クラスの連中まで洋学を修めています。この空気の中に福沢諭吉が生まれたんですよ。
また重豪の子の一人長搏(ながひろ)は筑前の黒田家を継ぎましたが、ここである程度の洋学熱がおこって、家臣の永井青崖は洋学者ですね。この永井が勝海舟の蘭学の師匠なんですね。
初め海舟に洋学をやれと奨めたのは、彼の剣術の師匠の島田虎之助ですね。島田は中津藩士ですね。一介の剣客が洋学の重要性を知っていたのは、藩にそういう空気があったからでしょう。海舟は終始一貫。重豪の流風余韻に浴しているわけです。
司馬 あの頃の学問好きというのは大変なものですね。よそにもあるかも知れませんが、肥後の熊本あたりの大きな藩になると、数学師範まであったんですね。学問、兵学、剣術、それら学芸諸部門の師範がおびただしくある中で、数学まである。
池辺啓太という人がなかなか偉かったらしいですが、この人が数学はむろん、天文暦数という奴ですが、そういう和算を基礎にしていたものだけでなく、池辺は長崎の高島秋帆に学んで弾道学のようなところまでやつたようです。
それでもって、数学師範です。今でいえばたかだか熊本県一県で、そういう専門家までが、官僚として藩に抱えられている。
ですからそういうことは、案外、中国や朝鮮では行われなかった。ああいう中央集権的な一種理想的な体制のように見えますが、そこでは行われなくて、むしろ日本のような封建割拠とまでいかなくても、各藩が競う体制では、かえってできるんでしょうね。
海音寺 江戸時代の封建の姿は、今では具象的なイメージは描きにくくなっていますね。各藩にそれぞれ特徴ある文化がある。
司馬 政治上の首都である江戸にはいわゆる旗本8万騎が棲んでいますが、これは余り勉強をしない。江戸は文化といっても遊芸などが発達したが、学問文化は地方地方にむしろ無数に中心ありましたですね。封建体制のおもしろいところだと思います。
むしろ肝腎の江戸そのもの、あるいは江戸っ子はだめで、例えば幕末に語学の塾を開いている人たちが、江戸っ子が語学を学びに来るのを喜ばなかったという話があります。
「お前は江戸っ子か」とまず訊く。江戸っ子だというと、「だめだよ、お前たちはすぐあきてやめる。語学のような、砂を噛みつづけて何年かでやっとモノになるような学問は、田舎から来た根気のいい連中でないとだめなんだ」という。』
この対談の「あとがき」で。司馬遼太郎は以下のように語っている。
『海音寺さんにとって私の年齢は、氏の息子さんであっても不自然でないほど後進である、私が中学生のころ、氏はすでに堂々たる大家であり、生涯このようなひとに会えるとはおもえないほど遥かな存在であった。
私は三十になって小説のまねごとをはじめた。最初に書いた小説は、モンゴル人とペルシャ人しか出てこない小説で、小説というよりそれができそこなって叙事詩のようなものになってしまった。
ところがそれが氏の目にとまり、小説の概念をひろげた見方で、なにがしかの取柄をほめてくださった。
そのあと私は、モンゴル人とダングート人しかでてこない小説を書いてしまった(このころ、私はちゃんと日本人の出てくる小説が書けないのではないかと自分自身にたいしてくびをひねっていた)が、その小説までがお目にとまり、そのうえありえぬほどの幸福なことに、それについて毛筆で長文のほめことばをいただいたことである。
私は少年のころ、いわゆる匈奴といわれる人種に興味をもった。匈奴が東洋史上数千年のあいだ北方の自然に追われてときには南下し、さらには漢民族の居住地帯の文化と豊穣にあこがれ、それを掠奪すべく長城に対してピストン運動をくりかえしてきた歴史と、その人種の、歴史のなかでの呼吸のなまぐささをおもうとき、心がふるえるようであった。
もしそういう自分の気持が文章にできるとすれば、寿命が半分になってもいいともおもったりした。小説を書き始めたとき、それを書きたかったが、しかしそういう情念が小説になりうるはずがないし、第一、人種そのものが、小説の主人公にならない。
なったためしもないし、小説という概念のなかにはそんな考え方はふくまれていないのである。しかし私としてはなんとかねじまげてでもそれを小説らしいものにしたかった。
それを、ともかくも小さいながら書いてみたのが、氏からの激励のお手紙をいただいた第二作であった。小説通の友人が、これは小説ではなく別なものだ、といって私を落胆させたが、落胆のあと、氏から望外の手紙をいただき、胸中、非常な蛮勇がわきおこった。
小説には小説の概念がある、小説の概念にあてはめて小説を書くのは概念の奴隷になることであり、こんなつまらないことはない、せっかく小説を書くうえは概念から自由になるべきだという自己流の弁解を自分にほどこし、やっと書きつづける勇気を得た。
その勇気を得させてもらった唯一のひとが氏であった。もし路傍の私に、氏が声をかけたくださらなかったら、私はおそらく第三作を書くことをやめ、作家になっていなかったであろう。
「いま、会いたい人がある」とある夜、氏は不意に夫人にいわれた。夫人はすかさず、「司馬さんにですか」といわれたという、じつはこのときの会いたい人は別人だったらしいが、ともかくも氏は私にとって感動的なことに、私を知己の一人に加えてくださっていることである。私もふとしたとき、たまらなく氏に会いたい思いに駆られる。
今年の正月、そのようなことで、雑木林にかこまれたしの那須の別荘に二泊三日も泊めていただいた。まる二昼夜というもの、ほんの数時間まどろんだだけで、聴いたり語ったり、じつにもう法楽ということば以外にあらわしようのない愉しさをきわめた。
地上にこれだけの人がいるのに、氏と対いあっているときのみ、私は歴史の実景のなかを歩いている思いがするのである。条件さえそろえば月にさえゆくことができるが、歴史という過ぎた時間のなかにはたれもゆけない。
私にとっての奇跡は、氏とむかいあっているときのみ、自分がたしかに歴史の光景のなかを歩いているという実感がありありともつことができるのである。氏にとっても、私というものにたいして思ってくださっているだろうか。』(第17回)