チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「月は東に」

2013-01-03 08:24:03 | 独学

31. 月は東に ―蕪村の夢 漱石の幻―(森本哲郎著 平成4年発行)

 『 春風の つまかへしたり 春曙抄 (蕪村)

 つま:褄(着物の褄)本の端(角)、春曙抄(しゅんしょしょう):(清少納言の「枕草子」のこと、江戸時代に書かれた『枕草子』の注釈書

 春風がページをひるがえしている、和綴本の「春曙抄」のイメージが波紋のようにひろがっていった。』


 『 ゆたかさとは何だろう。一言でいうなら、美しい世界のことだと、ぼくは思う。何を美しいと感じるかは、むろん、人によって違うだろう。

 美しい自然、美しい街並み、美しい住まい、美しい調度、……だれもが、そうした暮らしの中で毎日を過ごしたいと願っているはずだ。

 しかし、美しさは、こうした外的な世界だけにあるのではない。そのような環境を願う心のなかにこそ、ゆたかさの根源が秘められているといっていい。

 美しさをひたすら求める心、美しさを充分に味わうことのできる感性、美しさを夢見る想像力、これこそが真の文化をつくりだすのである。』


 『 ぼくは校庭の一隅にある大きな欅の近くに寝そべって、もう散々読み返した「草枕」を、読むともなしに目で追いながら、桃源郷を思わせる春山の風景を心に反芻していた。

 そのとき、妙なことに気がついた。「草枕」の世界が、もう片方のポケットに入っている「蕪村俳句集」の「春の部」にそっくりだ、という気がしたのである。

 それは、ぼくのイメージのなかだけで重なっているのだろうか。しかし、読めば読むほど「草枕」は、蕪村の世界に似ているように思えてならなかった。

 だいいち、この小説の主人公は画家である。蕪村は俳人として有名だが、本職は画家だった。

 とすると、漱石がこの小説を発想したとき、蕪村の姿がどこかにあったと考えられないことはない。

 じっさい、「草枕」の文中には、蕪村の俳句こそ出てないが、蕪村の俳境そのままの情景が、いたるところに散文で綴られているのだ。

 「草枕」に、――女は黙って向こうをむく。川縁はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面のげんげんで埋まっている。鮮やかな紅の滴々が、いつの雨に流されてか、半分溶けた花のうみは霞のなかに果てしなく広がって……。

 春の水 すみれつばなを ぬらしゆく (蕪村)

 という蕪村の句境とぴったりだ。そもそも春水を下る昼舟に「頭がおかしい」といわれている美しい女――というこの設定からして、次の蕪村の句に借りているとしかおもわれない。

 昼舟に 狂女のせたり 春の水 (蕪村) 』


 『 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」のなかで、人間の三つの生き方を説いている。

 第一の道は、「世界の外に通じる俗世放棄の道」である。すなわち、俗世間を捨てて彼岸にその世界を求める宗教的な情熱、神を求める希求が歩ませる道だ。

 すべての文明は、まずこの道を歩んだ。キリスト教もイスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、歩んだ道はおなじだった。

 だが、やがて、第二の道があらわれる。第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」道であり、宗教が夢みる彼岸を、此岸(しがん)にうち建てようとする悲願、すなわち、現実への道である。

 ホイジンガは、こう記す。
 ――ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。(が)この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。――

 けれども、人びとの歩む道は、このふたつに尽きているわけではない。もうひとつ、第三の道がある。それは、夢の道である。

 その第三の道は、第一の道のように現世を否定して彼岸に至ろうとするのではなく、さりとて、第二の道のように、現実の世界を変革したり改良したりして、そこに理想郷を実現させようというのでもない。

 そのまんなかにあって、「せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう」という生き方である。

 この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ただ、空想の世界だけに至る道だろうか。ホイジンガはそう問いかけ、こう答える。

 いや、そうではない、それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形につくりかえることであり、「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで満たそうとするのである」と。

 ホイジンガは、”中世の秋”、すなわち、ヨーロッパ中世末期の文化を、この視点からとらえ、そこに中世人の生活の豊かさを発見したのであった。

 ホイジンガがさし示した第三の道、すなわち、夢と遊びの道を、蕪村も漱石も歩もうとした。「草枕」の主人公がいう、「非人情」の世界とは、まさしく、その第三の道、人生という「虹」が最も美しくながめられる、そのような境地である。

 ホイジンガが中世びとの世界に見つけた第三の道と、蕪村が俳諧で描きあげた”夢の園”、そして「草枕」の画家が逍遥しようとした「非人情の立場」とのあいだに、どれほどの隔たりがあろうか。

 とはいえ、ホイジンガがいうように、第三の道を歩むということは、けっして容易ではない。

 生活そのものを美の世界へ昇華させるためには、「個人の生活術が最高度に要求される」からである。

 したがって、「生活を芸術の水準にまで高めようとするこの要求にこたえることができるのは、ひとにぎりの選ばれたるものたちのみであろう」

 この点において、東洋は西洋をはるかに越えている。中国や日本においては、その気になりさえすれば、だれでも容易に「文人」たりうるからである。』


 『 鶉野や 聖の笈も 草がくれ  (蕪村)

 鶉野:うずらの、笈も:おひも
彼は野にたたずんで、遊行の聖(ひじり)がひとり歩み去るのを、じっと見送っている。

 我帰る 道いく筋ぞ 春の草  (蕪村)

 そして、蕪村は、聖の笈がすっかり草に没したあと、彼は思いなおしたように、野路を我家へと引き返す。

 芭蕉は俳諧という道一筋を歩みながら、その道は「第一の道」へ通じていた。だが、蕪村は幾筋もの道を逍遥しつつ、その道はあくまで「第三の道」へ向かっていた。そして、その道の行く手には、むせかえるような茨が咲き乱れているのである。

 路たえて 香にせまり咲 いばらかな  (蕪村) 

 路:(みち)、香:(か)、咲:(さく) 』


 『 蕪村、漱石二人の書簡集を読みながら、ぼくがあらためて感慨に浸ったのは、時代は異なるにせよ、現代とくらべて天明、そして明治の文人の交遊世界がじつに豊かであったということだ。

 もうひとつ、あらためて気がついたのは、昔の人は心のこもった贈り物をよく取りかわしているということだ。

 蕪村、漱石の手紙には、いたるところ贈られた品に対する礼の言葉がつづられている。

 漱石が四国の松山で、「支那から帰って来た子規が断りもなく、転がりこんできた。彼は肺を病んでいた子規に階下の部屋を譲り渡し、自分は二階へ移った。

 ところが、「其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まってくる(遣る:やる)。僕(漱石)が学校から帰って見ると(松山中学校の教師)毎日のように多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。…兎に角自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った」というのである。』


 『 うつつなき つまみごころの 胡蝶哉  (蕪村)

 この句の「つまみごころ」というのは、人間が蝶をつかまえ、その両翅を二本の指でつまんだときの感触ではなくて、作者自身がその蝶になりかわり、花につかまっている。(両翅:りょうし)

 そんな胡蝶の”こころ”を「うつつなきつまみごころ」と推しはかったのでないか、という気がしてきたのである。

 蕪村自身が荘周のように蝶になったような夢をみて、自分はこうして山吹の花に、ぶらさがりながら、「うつつなきつまみごころ」で花びらを押さえているのではないか。』


 『 けれど、漱石の場合は、その「夢」を「幻」(まぼろし)がいつも脅かしていた。過去の、のしかかるような幻影が。だから漱石は夢を捨て、やがてその幻と格闘するようになる。

 夢と幻とはちがう。夢は無意識が織りなす別世界である。フロイト流にいうなら、そこには願望がこめられている。

 だから夢は「未来」へ向って開いていると、言ってよかろう。それに対して、幻とは、”過去の影”である。

 漱石に「幻影の盾」(たて)という短編があるが、その「盾」には過去がしみこんでいる。

 「人には云へぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云えぬ盾の歴史の中には世も入らぬ神も入らぬと迄思ひつめたる望みの綱に繋がれて居る」と漱石自身、書いている。

 「こころ」の先生、「門」の宗助、「道草」の健三、「明暗」の津田……。漱石はその幻を何とかして夢に変えようと努める。

 幻から夢へ、これこそが彼の作品の軌跡だったのであり、それが、ついにかなわなかったところに漱石の悲劇があった、といえよう。

 むろん、蕪村にも暗い過去があった。が、蕪村は人に洩らすことのできないその過去を――彼は故郷の摂津・毛馬村のすぐ近くに暮らしながら、生涯、ついに一度も故園に立ち寄ることさえなかった――美しい夢に変換した。』(第32回)