33. 男語おんな語 翻訳指南 (リレーエッセイ 森瑤子 堀池秀人 1993発行)
『 サザンプトン(ロンドンから南へ150キロのイギリス海峡に面した港町)を出港してまもなくおそってきた思いがけない感傷と戦っているうちに、ドーバー海峡(正確にはイギリス海峡)を渡りきろうとしている。
周囲のざわめきとともに船がセーヌ河口の街ル・アーヴル(パリから北西に200キロ)の港に到着した。いよいよノルマンディ上陸作戦の開始である。
貧乏旅行の若者にとって、まずやらなくてはならないのが、安い足の確保である。英国と比べ中古四輪車の値が張るこの国では、単車が手軽だ。
やっとの思いで捜したモーターバイクのジャンク屋で、最も安いパーツを集めていったら、シャーシはカワサキ、エンジンがプジョーならダンパーとマフラーはモトグッチ……といった按配である。
ハチャメチャの混成も、異国の気安さで乗り切ることにした。アサブレールと呼ばれる組立屋さんが、四時間弱でものの見事に組み上げてくれる様子は、正に欧州の職人芸(アルチザン)の世界。
代金五十フランを値引いてもらったつり銭をジーンズのポケットにねじ込むと、「気をつけてな、無事を祈るぜ」の声を背に急発進で出発した。
とにかくボクは急いでいた。一度しかない青春時代の、しかも限られた時間で、一つでも多くのものを見なければならなかった。瞬間瞬間を精一杯生きていくことだけが大切だった。
次なる目的地はルーアンだ。15号線から29号線へと、新しい恋人(バイク)は怪音を背に走り続けた。それにしても、初春のノルマンディは猛烈に寒い。
小雨の中を突っ走るバイクでは、寒さを通り越して耳がちぎれるように痛い。途中で幾度となく襲ってくる後悔の念と戦いながら、ルーアンを目指して、とにかく走り続けることだけに没頭した。
あたりがいつの間にか暗くなり、ヘッドライトの照らす僅かな空間を睨み続けていると、寒さの中で気が遠くなっていくような睡魔が襲ってくるのだ。
三時間も走っただろうか、窓から灯りをこぼす一軒家が目に飛び込んできた。びしょ濡れの腕時計の針は水滴の下でとうに夜半を指していた。とても今夜中にルーアンには辿り着けまい、と思うと同時にスロットを閉じた。
真夜中の執拗なノックの扉の向こうに躊躇(ためらい)が感じられた。「すいません。開けて下さい、バイクで一人旅……寒い……」下手な仏語で必死に懇願するボクに、
「パレ・ヴー・アングレ?(英語話しますか)」優しい声が恐る恐る返ってきた。
「シュア(もちろん)」と叫ぶと同時に扉が隙間分だけ開いた。
僅か覗いた薄茶色の髪で女だとわかった。ブルーグレイの目が驚きと疑いを表しながら素早く頭のてっぺんからつま先までチェックしたいる。
一瞬の間をおいて、「どうしたの?とにかく入りなさい」ガウン姿の女の目には、母親のそれに変わっていた。
ヘルメットも被らずに走っていた頭から水が滴り落ち、服はもちろん、靴の中まで全身ずぶ濡れだった。「こちらに来なさい」女は命令口調でバスルームへ引きずり込んだ。
「こんなに濡れちゃって……」と言いながら手を休めることなく、髪にバスタオルを巻き付けてきた。奪い取り自分で拭いていると、女は慣れた手つきで、またたく間に服を剥ぎ取った。
ハッと息をのんだ一瞬、見上げるブルーグレイの瞳と無言で向き合った。あわててどちらからともなく目をそらすと、「体、冷え切っているわ、コニャックを飲むのよ」依然命令口調のまま、女はダイニングへ走った。
どれ位たったろうか、カーテンの隙間から差し込む日射しで目が覚めた。疲れきった身体に、たて続けにあおったストレートのコニャックのせいで、死んだように眠ってしまっていたのだ。
「主人は水産貿易関係の仕事で出張が多いの。私の名前はカトリーヌ」女は安心した素振りで自分の事を語り始めた。南仏モンペリエの出身であるという。御主人との出会いから今日までのラブストーリー。
二度の流産のあとの一粒種の愛息を交通事故で失ったこと。等々。女は長いこと人と会ったことがなかったかのように、一気に自分を語った。時折遠くを見る目つきをしながら。
いくぶん苦悩を表した表情は、年よりも老けてみえるが、三八歳という。ボクが眠りこけていた古めかしい長椅子が祖母の選んだ家具だ、と言うと自慢気に初めて微笑んだ。
フランスでは親子三代もつ家具を選べる目をもつことが、良い嫁の条件らしい。暖炉脇の書棚に目をやると、ヤコブセン、アアルト、コルビュジュといった見慣れた名前が並んでいる。
「何故建築関係の本を」と尋ねるボクに、「いい嫁になろうと家具を学ぶうちに、インテリアや建築に魅かれていったの」と意外な答え。
「女ってそんなものよ。初めは些細なことがきっかけなのよ。知らず知らずに深みにはまてしまう……」と意味深いことを口走りながら遠くを見つめる目が、いつの間にか女のそれにかわっていた。
「男は違うわ。目的があって、それに向ってつき進んでいくの。その途中に女がいるのよ。女は通過地点かもしれないわ」こちらの顔を窺いながら。
「丁度、貴男のように二五位の男は……」と言いかけて、カーテンを開けに立った。窓から新鮮な朝日が飛び込んできた。
昨夜の雨で濡れた木の葉がクリスタルのように輝いている。透明感の中に生きることへの賛歌が聞こえてくるようだ。
「貴男はシロッコ」、突如ポツンと彼女の後姿が呟いた。「シロッコ?」「風のことよ。私の故郷では時々乾いた熱風が吹いてくるの」
灼熱のサハラ砂漠の風が地中海を渡ってくると、異国の香りとともに南仏にバカンスを連れてくるらしい。
「そう、 男って風ね、隙間風ってこともあるけど……。突然入ってくる風に押されたり、流されたり、女って風に弱いのよ」どこか陰りのあった表情はもうそこにはなかった。
「貴男にはフランス人にはない香りがあるわ」「どんな?」怪訝そうな顔を向けると、「少なくともべタッとしない。そう、乾いた香りよ」
「風に香りがあるの?」「ハリケーンのように荒々しい風にはないし、モンスーンのようなじっとりにもないわね」
雨上がりの朝日に小鳥達のように、女の声には明るさとリズムがあった。「昨夜のこと、覚えている?」「い、いや」答えるのに、思わず躊躇った。
一杯目のコニャックを口にしたころから、目が覚めるまでブラックホールに入ったかのように、まるで記憶がないのだ。
「何か変なことを言わなかった?」恐る恐る尋ねると、「貴男は疲労困憊していたくせに……」と言いかけて、台所のカフェオレの火を止めに立った。
一瞬ドキッとたじろいだこちらの様子をみてとったのか、含み笑いを浮かべた。「目だけは元気に輝かせて、建築への情熱を語ってたわよ。
そのあと、あっという間に少年のような寝顔をみせて眠ってしまったけれど……」「……」「きっと伸びていくわ。私はその風を見ていたい……」独り言のように呟いた。
「貴方がインテリア、ボクが建築をやる。いつかはそんなコンビをやりたいね」ようやく二人の間の隔壁がなくなり始めた頃、ボクは出発の準備にかかった。
誰に相談する訳でもなく、会社を辞め、建築の再勉強を志したボクには時間の余裕はなかった。
大学院へ復学前の限られたフリーな時間に一つでも多くの建築に接していたかった。
乾かしてもらった洋服を着ると、彼女が用意してくれたバケットとワインを積めるだけ積んだ。作業が進むにつれ、二人の間に交わす言葉がなくなっていった。
お互い無言のうちに、来るべき時間(とき)が加速してくるのを感じていた。そして、いよいよの時間(とき)。
ボクは無言のまま、ブルーグレイの瞳から目をそらせないことだけで精一杯だった。「貴男は風……」
再びポツリと呟くカトリーヌに目で返事して、スターターをキックした。振り返らない、と心にきめ、乾いた爆音と共にボクは一路ルーアンを目指した。
1978年9月、パリ、ムフタール通りのギャラリー。そこではコンペ(設計競技)の受賞パーティーが開かれていた。
会場に届けられた送り主名なしの大きな花束。中から出てきた一枚のカードが、三年ぶりの風の詩を運んできた。
「おめでとう、パリにもシロッコが吹いていますか?」十数年経った今、ボクはシドニー行きのファーストクラスのキャビンの中にいる。
シドニーとタスマニアの新しいプロジェクトの敷地を見るためである。あの出会いからしばらくしてカトリーヌはプロのインテリア・デザイナーになっていた。
四年前、ボクが設計したパリのレストランの、家具とインテリアの一部を約束通り彼女にやってもらった。
それは受けた親切への御恩返しが十年ぶりにやっと果たせた心地良い体験だった。
貧乏旅行のあの頃が今の自分を支えていることを自覚しながら、窓から見えるジェットストリームに語りかけた。
「HOW YOU DOING?」
今ボクは貴女を書いています。』(第34回)