チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「イワナの夏」

2013-01-23 07:55:29 | 独学

35. イワナの夏 (湯川 豊著 1987年発行)

 『 イワナのもっとも堅固な隠れ家は、「昔」の中である。私に釣られるはずの幾千のイワナは、どういうわけか知らないけれども、幽谷の滝壺の奥深くではなく、みな「昔」の中へ逃げ込んでしまうのだ。

 ――十年前は足で踏みつぶすぐらいいたんだけれども。
 ――五年前に大水が出てから釣れなくなったねえ。
 ――二年前の九月に行ったときは、あの大淵で尺物が三本出たんだが。

 イワナを釣りはじめて十年このかた、そういう話ばかり聞きつづけてきた。それでも、「二年前まではよかった」というならまだしもいいもである。

 それが「去年はよかった」のなり、「この春はよく釣れた」になり、「一週間前は入れ食いだった」ということになる。そしてさらにひどいことがある。

 いま確実に釣れているという谷へ、週末に万障繰り合わせて駆けつけてみると、一日前に来ていた仲間が、「おかしいなあ、昨日は半日で二十ほど出たんですが」などといって首を傾けるのだ。

 これはもはやイワナの特性なのだと考えるほかはない。イワナの特性は「昔」の中へすばやく、じつにすばやく身を隠すことにある。だから私が行って釣れないのは、イワナたちが「昨日」という「昔」の奥深くへ逃げ込んだからに違いないのだ。

 イワナたちはこのようなワルい性格を私だけに見せるのかという疑問をいだき、仲間にそれとなく訊いてみると、大方がやっぱり「昔」の中に逃げられた体験を持つらしい。

 また、私に向って「昔はよかった話」をする先輩の釣り師さえ、さらにその先輩から「昔はよかった話」を聞かされていることが判明してきた。

 とすれば、おそらくその先輩も同じことを体験しただろう。昔より昔のさらなる昔へ、無限の昔の中へイワナが逃げていく。

 行きつく果ては魚をとる人間がいなかった、薄明の風景の中を泳ぐイワナということになるだろうか。そこでは、もうイワナは逃げる必要がない。

 だが、イワナはさらにさらに怪しい魚なのである。他人の歳月の中に逃げ込むばかりでなく、あろうことか私自身の「昔」の中まで逃げ隠れしようとしたがるのだ。

 昔は魚が多かったなどという他人の話には耳をかしたくもないのに、私自身の体験の中から「それでも昔はもっと魚がいたなあ」という囁き声があぶくのように浮かびあがり、その囁き声はひとりでに大きくなって、しきりに他人の耳に入りたがっているようなのである。

 たとえば、私は渓流釣りをはじめて五、六年の間、信濃川上を基地にして千曲川源流一帯に通いつめたけれども、行きはじめて二、三年は今から思うとたしかに魚が多かった。

 いいたくないが(いや、ホントは私もいってみたいのだ)、千曲川源流の水系も、昔は魚が多かった! 』


 『 アイザック・ウォルトンは「釣魚大全」の末尾に、「穏やかに生きることを学べ」と書きつけた。

 すでに穏やかに生きている人はそれを学ぶ必要などないはずだから、釣り師とは穏やかに生きることを心して学ばなければならない類の人間なのだろう。

 しかし、私の個人的体験からすれば、釣りをやってるかぎり穏やかになんか生きられるものか。

 釣り師は釣りをしているときだけ、もっと厳密に言えばヤマメやイワナをかけた後の数刻だけしか穏やかでいられない。

 フライ・フィッシングの本格的なシーズンに入るのはまだまだ先のこと、そう自分にいい聞かせてもダメなのだ。

 ひらひらと桜が散るのを見ていると、私の頭の闇のなかで、幻のヤマメがこっちの都合におかまいなく無責任に泳ぎだしてしまう。

 そういう春の真夜中の、あてどない焦りと退屈を慰めるために、私はヘッドフォンをつけてレコードを聴きさらに時間を空費するのだ。

 とっかえひっかえ聴くレコードのなかで鎮静剤として私に一番効き目があるのは、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドが弾くバッハである。

 もともとカミサマに捧げるお経のようなバッハの音楽は、私をカミの御許にではなく、少しは安らかな眠りに導いてくれる。

 「ゴルトベルク変奏曲」でも「平均律」でも、グールドの弾くバッハは私の心身の状態とは正反対に、衰弱や退嬰からもっとも遠いところにあるのがいい。

 激しく健全であろうとし、偏執的に穏やかであろうとするグールドの意志が、粒だつような一音一音から伝わってくる。

 しかしそういう音楽を聴かせてくれるグールドという人物は、健全円満な性格というにはほど遠く、奇人であり変人であり怪人であった。

 五十年の短い生涯は、奇行のエピソードでみちみちている。そのエピソードのひとつに、グールドは釣り師の敵だったということがある。

 グレン・グールドは少年時代、夏になると湖畔の別荘で過すのがならわしだったが、ある日、グレン少年は隣りの家のオジサンに湖のボート釣りに連れていってもらった。

 最初の獲物であるパーチが釣りあげられ、魚は舟の上でのたうちまわった。そのとき六歳だったグレン少年は、雷に打たれたかのように、この出来事を「魚の立場からみてしまった」のだという。

 以来、グレン・グールドは、断固として釣り師の敵たらんと決意した。最初の標的は父親だった。

 グレンの父親はそうとうなフライ・フィッシング狂だったが、少年は父に釣りをやめるようこんこんと説諭しはじめたのである。

 そして信じがたいことだけれども十年かかってとうとう父親に釣りをやめさせてしまった。 』


 『 あの桜の花と新芽、摘んで食べたらうまそうですね、と植村はマジメ顔でいった。春の草木の新芽や若葉は、特に毒のあるものを除いたら、すべておいしく食べられる、というのが彼の持論だった。

 何年ぶりかで、植村と山で遊ぶ。南極横断とビンソン・マッツフ登頂を断念し、三月に帰国していた植村をひっぱり出した。

 むろんそんなことで彼の深い失意を慰さめられるわけもないが、春の山麓でキャンプをし、山菜とイワナをとって食べる、僕のささやかな野外生活になぜかこの大冒険家を誘いたくなった。

 彼のやっていることからすれば児戯というんも価しない自然のなかでの遊びに、彼を連れだしたくなった。

 五月の一日(1983年)、三人の仲間と一緒に千曲川の最上流でテントを張った。

 昼間採った山菜を、植村がてぎわよく衣をつけて天ぷらに揚げた。コゴミはさっと湯がいてひたしにした。そして焚火のまわりに串ざしにしたイワナを並べた。

 僕たちは片っ端からそいつを平らげていった。「うまい」「こりゃいける」「ウン、よしよし」言葉は少なく、ビールを飲み、食べるのに熱中した。

 満腹すると、コーヒー・カップを片手にみんなが焚火のまわりに集った。植村がポツリポツリと極地の食べものの話をし、僕は炎を見つめながらそれに耳傾けた。

 夜の小さな風が、鬼ごっこのように焚火の中を出たり入ったりして、そのたびに炎が呼吸するように揺れた。

 テントの中は、完全な暗闇ではない。どこに光があるのだろう、いちどつぶった目をあけると、ぼっと三角形の天井が見える。

 不意に、という感じで、隣りの植村が話しはじめた。問わず語りに、ゆっくりと、とめどなく話す声を聞きながら、僕は訝しんだ。

 これは彼一流の僕に対するサーヴィスなのだろうか、それとも、自然に話したいような気持になたのだろうか……。

 「子供の頃はね、やっぱり魚捕りが一番の楽しみで、毎日のようにやってました。

 家で牛を一頭飼ってましてね、学校から帰るとそれを円山川の土手まで連れていって、草を食べさせるのが小学生のおれの仕事だったんですよ。

 牛を放牧している間、川で遊べるわけです。いろんな魚をとったなあ。五月頃、ちょうど今時分ですが、夕方、浅瀬に毛鉤を流すと、ハエっていってた、小さいきれいな魚がかかってきて……」

 ――オイカワだね。
「小さいけど、煮て食べるとけっこううまかったですよ。それから同じ毛鉤に、たまーにアユもかかったな。これはもう、家に持って帰れば大喜びされる……。

 それから、ウグイ。長いタコ糸の先に拳より大き目の石を結び、そこに延縄みたいにナマズ鉤をたくさん出して、ミミズをくっつける。

 そして今の石をポーンと、流れと直角に沖の方へ放り投げるんです。流れが強すぎないようなところ、広いたるみになっているような場所で投げる。

 しばらくおとくと、ウグイの大きいのがかかる。大きいといっても二十センチから二十五センチくらいだったかな。それとナマズ。

 でも、そんなにたくさんはつれません。一匹か二匹、三匹釣れるなんてことはめったになかった。それでも釣れるともう嬉しくてね。

 なんであんなに嬉しいもんでしょうか、とにかく嬉しくて、意気揚々と家に持って帰って……」

 ――で、みんな食べた。
「もちろん食べましたよ。 田んぼに水を引く細い用水路がたくさんあるでしょ。あれを何人かで堰き止めてね、水をかき出して、そう、かい堀りです。

 これはフナや小さいナマズがもうたくさんとれました。それから、もぐって、コウモリ傘の骨の先に鉤をつけたもので、魚をひっかける。

 あれ、やりませんでした? アユねらうんです。なかなか思うようには取れませんでしたけどね。ほかに小さい銛もときどきは使ったけど、でもおれはだいたいコーモリ傘の骨せんもんでした」

 植村の声がだんだん間のびしたような感じになった。「寝ようか」といいあい、二人とも黙り込んだ。

 僕はしばらく闇の中で目をひらいて、山の夜の音に耳を澄ました。それから遠い瀬音にさそわれるように眠りがきた。 』


 私(ブログの筆者)が、魚や鳥や両生類が昔に隠れた訳を考えてみました。

 魚や鳥や両生類は、広葉樹の森と豊かな干潟や海を川や田が繋いでおり、森の湧き水の源流、川の中流域、河口流域、大海を季節と成長、産卵により移動しながら、森と川と海のゆたかさをつくりあげてきた。(うなぎは、日本の田から、深海まで、サケは、源流域から、北洋の海まで、カニさえ河口から源流域まで、イワナは洪水のときは、森の奥深くまで溯る)

 すなわち、海は森の恋人であり、川が源流から河口まで、田や小さな用水路を含めて彼らの生きる場である。

 ダムが川を分断し(魚道は詭弁では)、森は広葉樹の森から、放棄された針葉樹に、田畑には農薬が、川は排水溝に、欺瞞に満ちた学者の環境アセスメント、釣り人は魚を採り尽し、外来魚を放ち、トキやオオタカやシマフクロウが絶滅の危機を向え、日本の原風景を河川流域住民が協調して、守りきる必要があるのではないでしょうか。(第36回)