チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「アジア文化探検」

2013-07-25 08:17:13 | 独学

 48. アジア文化探検 (中尾佐助著 昭和43年発行)

 『 東ネパールにグンサという村があります。このグンサという村は、トランスヒューマンス(季節移動)をやっていて、畑を持っている場所が高いところと低いところと二ヶ所あるわけです。

 低いところは秋、小麦を蒔いて、そして家族全部がもう少し高いところの村に行く。そこはやはり秋蒔きの大麦をつくるけれども、そこが本村になっているのです。

 それからさらに高い、森林限界から上の四千メートル以上のところに夏村がある。そこに少しばかりの大麦畑とジャガイモ畑があって、ジャガイモを栽培する。

 そのいちばん下の村からその夏村までは、非常に早く歩いてまる一日かかります。ところがその上に、さらに離れて、俗にカルカという夏の放牧場がある。

 村全体の領域は、まわりが東はカンチェンジュンガから、西はヌプチューという山になり、北はチベットの国境に達しています。

 その間をトランスヒューマンスしているがあるわけです。村長もいる。東は八千メートルの山が境に、もう一つの八千メートルより下回るけれどもジャヌーという、ヒマラヤの山々の中でも、最も凶悪な姿をしている山として有名ですが、それも一つの境になります。

 この村全体の村境の山は、ちょっと数えあげて考えただけでもあきれるほどの村です。それが人口二百人ぐらいの村の領域です。

 トランスヒューマンスして幾つかの村がある。これを飛行機の上から見たら、おそらく別々の村と認識してしまうでしょう。

 ですから飛行機で見て調べうるものと、地上を歩いて発見できることとはだいぶちがうのです。 』


 『 さらに、地上を歩いていても、もう一つ注意深くないとわからないものがあります。たとえば永久凍土層です。つまり地下がすっかり凍っている。

 私がはじめてこの永久凍土層というものに出会ったのは、昭和十四年、西部小興安嶺へ行ったときでした。西部小興安嶺というのは満州の北の方で、黒竜江に面したところにある低い丘陵性の山地です。

 白樺の疎林があり、ゆったりとした谷間には野地坊主といって、広大な湿地にスゲ類の株がポコポコとある地帯です。

 そういう地帯を旅行しているうちに、その辺一帯の地下が夏にもかかわらずカンカンに凍っているということがわかってきたのです。野地坊主の泥沼の中のいちばん下が氷だったという事実に出くわした。

 これはシベリアから満州の一部まで膨大に広がった永久凍土層の断片です。満州では普通のところは永久凍土層ではないのですが、ちょっと山地へあがって、大体、五百メートル以上だと思いますが、そういうところに出現してきます。

 永久凍土層というのは、地下は凍っているけでども、上はなんの変わりもない。大森林のところもあります。

 それから数年後の昭和十八年には東部小興安嶺へ行ったのですが、そのときには永久凍土層の上に、モミを主体とした大森林の中を数日間歩いて突破したことがあります。

 永久凍土層の上の森林――これは秋十月のことだったのですが、風のない、たいへん静かな森林の中でした。秋の森林はとりわけ静かでした。

 樺の類は葉が黄色く変わっていました。そういうところでキャンプをしていると、しんとして物音一つしない。ときどき遠雷のような響きとともに遠く近くで大木の倒れる音が聞こえてくるのです。

 いままで勢いよく育ってたモミの大木が、突然、何の予告もなしに、静かな日に倒れる。毎年、冬は非常な寒気のために表面まで凍っています。

 それが春になると表面からだんだん下へ溶けていく。そして秋の十月ごろがいちばん深くまで溶けてきたころなのです。そのときには、植物もいちばん成長を遂げ、幹の上が重くなっているわけです。そして突然倒れるのです。

 あくる日にまた行進をしていくと、きのう倒れたばかりの生々しい倒木の上に出てきます。見ると根が非常に浅い、たいてい一メートル以内で横に張っています。

 その根もろともに、真っ青な葉をつけたモミの木がバッタリ倒れて、そこに小さな浅い穴があいているわけです。その穴に棒を突っ込んでみると、底はカチンカチンの氷になって、水が溜まっています。

 何千年間もこんな倒木がつづくと、地表面はでこぼこになるはずですが、林内は案外平らでした。私はこの凍土層のモミ林が、氷期の気候が温暖化してから第一代の森林かもしれないという疑いを、いまも胸に抱いています。 』


 『 さて、以上のようないろいろな秘密のある世界を、それではだれがどうやって探りに行くかということを考えてみる順序になるかと思いますが、結論的にいえば、これはアマチュアの仕事だということです。だれでも探検家になれるのだ、ということです。

というのは、学問でテーマを持って、それに自分の学問上の生命をかけている、つまりその学問に生活がかかっている人が探検に行ったとすると、これは探検にならずに調査になってしまうのです。

 つまり、そういう専門家は、自分の専門外のことになると、それを追っかけることができなくなってしまう。

 自分の生活のかかっているところをやらねばならないと思うために、雪男のうわさを聞いても、それを追いかけるわけにはいかない。それを追いかけることができるのがアマチュアの強みなのです。

 ほんとうの探検家というものは、学問をもっていることはもちろんたいへんけっこうなことです。それだけ、急所・勘所を上手に押さえることができる。

 しかしその人がアマチュア精神を捨てたら、とたんに彼は調査者にしかすぎなくなる。ほんとうの探検家というものは、やはり専門家であると同時に偉大なアマチュアでなければならぬはずだ、ということです。

 私はこの本にアマチュアの立場を出したい、私も生活のかかった専門は持っています。そのようなこともこれからたくさん書くけれども、アマチュアのほうもできる限り発揮したいと思っています。

 探検がまず第一義的にアマチュアの仕事である、などというと、あなたは、探検とは一種の遊びだと思うにちがいない。たしかに世間ではそう思います。

 したがって探検隊というものは、なかなか資金を得ることがむずかしい。日本ではその点非常にはっきりしていて、たとえば、文部省は、学術調査には国費で補助してますけでども、探検といったら非常にきらいます。

 それで日本からの探検隊というものは、みんな一応学術調査隊になっています。いちばん新しいものを見出だし、発見するのが探検隊である。レールに乗ったら学術調査隊である。レールに乗らないものは相手にしない。

 それは、ほんとうの意味の学問において、いちばん大切なものが見捨てられているのです。日本はそういう現状なのです。 』


 『 アマチュアが探検をやるとしたら、その発表はなんといっても、本筋は学術出版ではなくて、探検の記録、ナレーティブつまり紀行文というものを残さなければならぬはずなのです。

 探検の、ノンフィクションの文学が残る。これが探検の成果のいちばん大事なことです。その中には骨だけでなくて血も肉もはいっている。学術報告というものは、そういう意味で、骨だけしか出てこないのです。血と肉が全部落ちてしまう。

 ノンフィクションの探検文学というものを、私もいくらか書いたことがあり、人の書いたものもずいぶん読んでいます。それはどうあるべきかということが一つあるわけです。

 まず第一に、簡単にいえることは、おもしろいほうがいいということです。ところがたいへん困った問題がそこから出てくる。つまり、探検文学は詳細をきわめた日記のようなもので、イギリス人のものによくそういう記録があります。

 「何月何日○○を出発した。道は登り道になって何マイル登ったら左側に谷が見えた。その谷の奥は○○に続いていると聞かされた」といったような地形的な話から始まって、生物、あるいは人間の社会までを克明に書いて、その行動も誰がどこに行った、何日間おくれて、いつ、どこで合流したというようなことを克明に書いている。

 これはたいてい、非常にしんきくさくて、読んでいてうんざりします。ところが資料的に見ると、どうもそういうのが、あとになって非常に値打ちが出てくるのです。

 フランス人の書いたものにはたいへんおもしろくて、勇ましいのがよくあります。だけど、よく読んでみると、どこで何がどう起こったのかさっぱりわからない。詮議をして行動を調べてみるとさっぱりわからない。

 有名なエルゾークの「アンナプルナの登頂記」というのが、その一つの代表例ではないかと思います。そういう紀行文の中には、たいてい、植物の名前が出てくるものです。

 松林だとか、なんの花が咲いていたというようなものがちょこちょこ出てくる。イギリス人の書いたものはそれがたいてい正確なのです。

 アメリカ人が最近書いたものが、やはり正確になってきています。これはたぶん、アメリカで組織があって、普通の旅行者のそういう記事をチェックする人がいて、直して正確にしているのだろうと思います。最近のアメリカのそういうものの末端的なものがなかなか正確にできています。

 その点は、やはりフランス人のものがたいへん見劣りがするのです。フランス人が書いたもので、なんの花が咲いていたといっても、たいていそれは間違いです。どんな住民がというと、これもたいてい間違っています。

 ドイツ人が書いたのを読むと、これはまた、バカに正確であったり、ひどくあやしげであったりしている。ところで問題は日本人の書いたものですが、これがまた、たいてい間違っています。

 もうすこし入念に相談をすれば正せるだろうにと思うのに、それができてないのです。これは、おそらく日本人の場合は二つ原因があると思われます。

 第一に、相談することが嫌いな人が相当あります。相談のときの話し方が悪いために、間に専門家が立ってもうまく正せない。私は、本を書くときに、これは何だろう、正確な名前は何だろうかというような相談を受けたことが相当あるのです。

 そのときしばしば経験するのは、私の知識の不足のために回答できなかったこともあるけれども、大部分は聞きにくる人の観察がルーズであるために、手がつけられないということなのです。

 そして、何が悲しゅうてマツかスギかを正確にしなければならないのかと、書く人はいいます。けれども資料というものはそこまでできているのが本道だと思うのです。 』


 『 ただ見えたとおりをこまかく記載してくるというのは、どんな人でもできます。私は見えたものを書くぐらいは観察の入門だと思うのです。観察の大事な点は、何がないかを見てくること――これは、あるものをよく見てくるよりもだいぶむずかしい仕事です。

 そこに何があってもよさそうだ、という知識がないことには、何がないかという足らないものを探し出すことができない。観察ということは、そこまでいかなければだめだと思います。

 ヒマラヤにないものを捜してみると、意外にたくさんあります。その一つは淡水魚です。ヒマラヤに連なるインドの川は温度が高くて、川の中にたくさんの魚がいます。

 その川の源流のヒマラヤへ上がっていきますと、氷河から流れる水は、非常に温度が低いので、インドの平野の流れで繁殖しているような魚は、その温度の低いとろろでは適応できないために、ヒマラヤの急流には、非常に魚が少なくなっています。

 北半球の北部では、そういう温度のところに行くと、マス科の魚がいたるところにでてきますが、そのマス科の魚がヒマラヤの川にはいなくて、川は結局むだに流れているわけです。

 なぜむだに流れているかというと、ここにマスを放流すれば、大繁殖をすることがわかっているからです。

 イギリス人がはじめカシミールにヨーロッパからマスを運んできて放しました。それが非常な繁殖をとげています。そのカシミールのマスを、今度はブータンに持っていって、ウオンチューという川に放流をしたところ、これがまた非常な繁殖をとげています。

 それらの川にはエサが豊富にあります。水生昆虫は非常にたくさんいるのです。ヒマラヤは大体虫の少ないところです。ヒマラヤで私が昆虫の大群に出会ったのは、水生昆虫の羽化に出会ったときだけです。そのくらいたくさん水生昆虫がいる。

 ブータンのウオンチューの流域では、ふつうのブータン人は魚を採らないために、マスがびっくりするほどの繁殖をしています。

 ブータンの王室はティンブーというところにありますが、その王室の堀の下を流れているところなどに、数十センチのマスがあっちでもこっちでもとび上がって、まるでいけすみたいです。そのくらい繁殖ができるのです。

 ところが、ずっと下まで、インド平野まではいればつながっている隣りの川には、マスがはいっていません。つなりいま、カシミールとブータンのウオンチューだけにマスはいるのです。

 途中のシッキムにも、ネパールにも、ぜんぜんマスがいない。エサも水の量もそれだけあるのに、みすみすそれが満たされてないわけです。 』

 
 『 しかし、ヒマラヤの植物界で私が一番驚いたことは、落葉樹林のないところです。冬になって葉が落ちてしまう森林がない。

 日本のふつうの生物の教科書を見ると、垂直分布帯というのが書いてあります。植物の垂直分布帯は、低い暖かいところは常緑樹林、それから落葉樹林、その上が針葉樹林、それから高山植物の高山帯、それより高いところは氷と雪の世界である、というふうに書いてあります。

 しかし、ヒマラヤへ行くと、そうした垂直分布帯から落葉樹林というものが脱落しているのです。下のほうの常緑樹林と、上のほうの針葉樹林とが直接つながっている。

 それではヒマラヤに落葉樹はまったくないかというと、すこしはあるのです。たとえばカエデの類です。これはわりあいたくさんの種類があります。サクラの仲間のものもたくさんの種類があります。

 たしかに落葉樹はあるのですが、しかし、北半球で落葉樹の主力になるブナの木はありません。それからナラの仲間は、なかなか一口に言うとむずかしい。ないわけでもない。たとえばクヌギ、これは日本で落葉樹です。

 ところがにっぽんの秋になって葉が枯れても、なかなか落ちない。枯れた葉のままだいぶ残っています。そして春までに落葉してしまいます。ところが、ヒマラヤへ行くと、このクヌギは常緑樹になっているのです。

 ナラガシワというカシの木の仲間、これはブータンの中腹にはかなりたくさんまじっている場所があります。しかし、全体的に見ると、落葉樹林帯という帯の字をつけるほどには落葉樹はないのです。

 落葉樹がないということは、どういうことでしょうか。これは、あるというのはどういうことか、という回答をしたほうが、筋道かもしれません。というのは、南半球へ行くと落葉樹林というものはぜんぜんないのです。落葉樹というのは北半球だけにある。
 』


 『 昭和十八年に、満州国軍の調査隊にまぎれ込んで、東部小興安領を黒竜江のふちまで行ったときのことです。そのとき、森林やメドー・ステッペの地帯を通って行くのに道案内がありました。

 道案内には二種類の人が雇ってあったのです。一方は当時、日本人がオロチョンと呼んでいたツングース系の民族、もう一つは打皮子(タピーズ)と呼ばれていたシナ人のグループです。

 打皮子は森林の中へ行って毛皮をとってきて、それを売っているグループでした。東部小興安領では、おもに黒リスの毛皮を集めていました。ワナをつくってとるのですが、これは大木で押し殺すようなワナでした。

 毛皮は鉄砲で射つと穴があいて品質が下がります。そこで、大木で押しつぶしてとるというわけです。字は忘れましたが、そのワナの名はトイタンズといったと思います。

 打皮子は、山の中へはいっていって、かなりの道案内ができるというので、私たちはその二種類の人を道案内に立てたのです。

 ところで、打皮子をどこから連れてきたかというと、打皮子の親方というのが、松花江の下流の田舎町にいて、それに連絡をして雇い入れたのです。

 私は行かなかったのですが、親方のところへ交渉に行った人の話を聞くと、

「そこはなんでもないしもた屋で、見たところちょっと生活が豊かに見えただけで、ほかのシナ人となんにも違ったことがない。うちの中にはいってもちょっとも違わない。それがまったくかわらないのに、近隣の打皮子全部に対して威力をもっていて、その一言で打皮子たちが自由自在に動く。そういう組織になっている」

 ということでした。まるで、やくざの縄張りの話しにそっくりなのです。それ以来、私は気をつけて、シナであちらこちらで聞いてみると、どうもほかの職業もほとんどそうらしいということなのです。百姓は違います。

 しかし、道端にたくさん出ている食いもの屋など、話をしてみると、みんな親分が、ぜんぜん見えないところにいる。そしてちゃんと金をその親分に出しているのです。

 シナのそういうところへ行くと、買いもののときにいちいち目方を計ります。竿ばかりで目方を計ったりする。たいへんきたない分銅を使っていて、同じ一斤が同じかというと、どうも違うらしい。

 ずいぶんいいかげんな一斤を計っていると思うのです。しかし、同じ職業、同じ親方の下のものはほとんどそろっているらしい。そういうことに気がついたときはまことにびっくりしました。

 その組織をなんといっていいのか――ギルドといっていいのかどうか私にはわからないけれども、縄張りということばがいちばんぴったりくるようなものであるらしい。

 シナでは郵便が非常にりっぱな組織によって維持されてきたので、戦争中でも敵味方地区の差なく、手紙の配達は信頼性がありました。その点が、どうもインドのカーストと、なんだか非常によく似ているのです。

 インドのカーストもブラーミン、クシャトリヤ、ベーダー、スードラなどというと、いかにももっともらしいけれども、実際にあるインドのカーストは、ほとんどが職業をもって区別されているのです。

 そのカーストは職業上の特権を持っている。しかも、カースト裁判というものがどうもあるらしい。インド人と話してみると、アウト・カーストされる――カーストの外へほうり出されるということを非常におそれています。

 アウト・カーストするときには、ちゃんとカースト会議があって、いまいったシナの縄張りの親分とは違うようですが、カースト組織に連帯があり、はっきりした組織があるという点では非常によく似ています。

 つまりシナの場合とインドの場合とは、実質内容はずいぶん近いものではないだろうかということを、たいへん感じさせるものがあったわけです。

 私たちは、カーストといえばインドばかりを考えるけれども、実はシナにもたいへん一致した点がある。もちろん違う点はあります。

 インドのカーストは生まれつきで決まっていますが、シナの縄張りは生まれつきでは決まっていないようです。そこで参加して、はじめてそうなるらしい。いずれにしても、インドとシナは、社会構造で大きな相似点を持っているといってよいでしょう。 』


 『 はみ出すとは、どんなぐあいにはみ出しているのか。私は昭和18年に小興安嶺へ行ったときは、全体の行程が非常に困難で、途中で集めた人夫のうち九人が死んだのです。

 帰ってからその死んだ人に補償金を払うことになって、北満の村から集めた百姓――これは満州国軍が農村に割り当てて人夫を出させたのですが、その百姓の家へ補償金を払いに行った人の話によると、死んだはずの名前の男がぴんぴんとして生きている。

 死んだのは誰かというと、その村で人夫に出ることを割り当てられた人間が雇った浮浪人だったのです。金を払って代わりの人夫を出したわけです。

 つまり、死んだのはそういう社会からはみ出して、わずかな金で雇われて強制の人夫に出た人間だった。そういう人間がかなりの数出ています。

 このはみ出しの一つは、長距離の旅行者です。旅行者というのが、実に日本国内などとはけた違いの大規模は旅行をしております。内蒙古の草原の蒙古人へいったときのことですが、「私はイリーのトルブート族だ」(カスピ海の近くの東トルメキスタン?)というようなのに出会いました。あるいはまた、チベット人がまぎれ込んでいました。

 どうしてそんなのがいるかというと、実にさまざまな理由をもっているのです。わりあい多いのは、巡礼に来て帰るのがいやになったというのもです。

 山西省の北に五台山という霊所がありますが、そこへ何千キロも離れたところから巡礼に来て、もう帰るのがいやになったというような連中です。

 同じように、ヒマラヤへ行ってもそんなのがずいぶんたくさんいます。ヒマラヤで人夫を集めると、そういう連中が相当います。あぶれ者が集っているのが、ヒマラヤではカトマンズとダージリンの町なのです。

 この二つの町はあぶれ者が多いので、探検隊を編成して、荷物をかついで歩き出すことがたいへん容易なのですが、それ以外の根拠地は人夫を集めるのが非常にむずかしい。それはあぶれ者がいるかいないかというちがいによるわけです。

 そのあぶれ者にもいろいろあって、私が昭和27年のマナスル踏査に行ったとき、非常に人夫の中から愛されて、終わりまでつき従って歩いたラッカル・バッカルと呼ばれる男などもその一人でした。

 ラッカル・バッカルというのはほんとうの名前ではなくて、ネパールの伝説的な動物の名前なんだそうです。これはたいへんひょうきん者で、女をからかったり、デマを飛ばしたり、たいへん上手に歌を歌ったりしたおもしろい男でした。

 この男がなんと故郷ではかなりのいい農家なのだそうです。それが、まま母と一緒に暮らすのがいやで飛びだしてきているというわけでした。

 また私がダージーリンから東ネパールへはいったとき、私の直接のサーバントはブラーミンでした。

 サーバントというのは毎日歩くときにすぐうしろについていて、私は荷物をなにも持たないで、写真機だけをぶら下げてヒマラヤの旅行をしていて、うしろで弁当やら、植物採集品やらをいつも持って、身のまわりの世話をさせるのです。

 このブラーミンは数年前うちを離れて、そのときはダージリンにずっと暮らしていました。故郷には田畑も妻子もちゃんとある。彼はそこでりっぱに暮らせる男なのです。

 にもかかわらず、理由はどうもわからないけれども、ダージリンへ出てきて数年暮らしていて、そこで、一人の女を妻にしていた。それが、その女と別れて私のパーティについてきました。

 聞いてみると、私のパーティが済んだときには、ちょうど故郷に近いところに行っているので、そこで給料をもらって故郷へ帰るのだ、そのつもりでついてきたのだというのです。そのような旅行者です。

 私はとうとう彼が家を離れた理由というのはわからずじまいでしたが、そのほかチベット人がヒマラヤ地帯で非常にたくさんそういうように流浪しています。

 親子・子供・乳飲み子まで抱えた一家が、五千メートルの氷河の峠などを越えて、一家もろともに移動していくのに、私は非常にたびたび出会ってます。

 四つか五つぐらいの子供がそれなりの荷物をかついで、険しい道や寒いところを健気に歩いているのを見るとホロリとするのですけれども、なぜそんなことをしているのかどうしてもわからないのです。しかし、何かこれははみ出した人間たちにちがいありません。 』

 
 著者の中尾 佐助(1916年~93年)は、植物学者。専門は遺伝育種学、栽培植物学。ヒマラヤ山麓から中国西南部を経て西日本に至る「照葉樹林帯」における文化的共通性に着目した「照葉樹林文化論」を提唱した。

京大在学中から、朝鮮北部、モンゴル、ネパール、ブータン、インド北東部、ミクロネシア、サハリンなどを探検し、植物分布などの学術調査を行った。

名著「栽培植物と農耕の起源」の著者である。学者としての観察眼と文章の興味をそそるリズムと正確さを持ち合わせている。半世紀前に書かれたものであるが、その価値はむしろ上がっているように感じます。(第49回)  


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