87. The Story of My Life by Helen Keller 1903
ヘレン・ケラー自伝 ヘレン・ケラー著 小倉慶郎訳 (2004年8月発行)
今回はヘレン・ケラーの ”The Story of My life” を英語と日本語の併用で読んでいきます。本書はヘレン・ケラー二十二歳の作品である。目が見えず耳も聞こえないが、名門ハーバード大学に通い、英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語にも堪能で、ラテン語、ギリシャ語まで読みこなす才女でもある。
一方、サリバン先生は、ヘレンより一四歳年上だ。ヘレンの家庭教師として、ケラー家にきたのは一八八七年三月三日のことである。この時、サリバン先生は、まだ二〇歳の若さだった。
アニー・サリバンは、五歳の時にトラコーマを患い、ほとんど目が見えなくなったといわれている。八歳の時に母親を亡くしたが、アルコール依存症だった父親には家族を養う能力はなかった。
その後、親戚の家を転々としたアニーは、十歳の誕生日を迎える前に、弟のジミーとともにマサチューセッツ州にある「救貧院」に送られた。残念なことに、ジミーはこの「救貧院」で亡くなっている。
「救貧院」からの脱出を夢見ていたアニーは、十四歳になると、パーキンス盲学校に入学する。盲学校にいる間に二回目の手術を受け、完全ではなかったものの、視力を回復した。
そして、一八八六年二〇歳の時、最優秀の成績で盲学校を卒業した。しかし、目の不自由なアニーには簡単に仕事は見つからない。そのアニーに、盲学校のアナグノス校長から、「目と耳が不自由な子どもの家庭教師をしてみないか」と声がかかるのだ。
こうして、盲聾者の教育経験のない、わずか二十歳のアニー・サリバン(アン・マンスフィールド・サリバン)が、ヘレンのもとにやってくることになる。(訳者のあとがきより)
『 Meanwhile, the desire to express myself grew. The few signs I used become less and less adequate, and my failures to make myself understood were invariably followed by outbursts of passion.
I felt as if invisible hands were holding me, and I made frantic efforts to free my self. I struggled--not that struggling helped matters, but the spirit of resistance was strong within me; I generally broke down in tears and physical exhaustion.
If my mother happened to be near I crept into her arms, too miserable even to remember the cause of the tempest. After awhile the need of some means of communication became so urgent that these outbursts occurred daily, sometimes hourly.
My parents were deeply grieved and perplexed. We lived a long way from any shool for the blind or the deaf, and it seemed unlikely that any one would come to such an out-of-the-way place as Tuscumbia to teach a child who was both deaf and blind.
そうこうするうちに、自分の考えを伝えたいという気持ちが強くなっていった。わずかな「身ぶり」では、ますます不十分になり、自分の思いがわかってもらえないと、必ず怒りが爆発した。
まるで、見えない手が私を押さえつけているようで、その手をふりほどこうと、必死だったのである。私はもがいた――それで、事態が改善されるわけではない。それでも私の心は必至に抵抗した。たいていは、くたくたになるまで涙を流して泣きわめいた。
運良く母が近くにいれば、母の両腕の中に助けを求めた。あまりにもみじめで、何が原因でこんなに荒れたのかさえ思い出せない。やがて、なんとしてでも意思伝達の手段を手に入れたいという思いが抑えきれず、毎日、時には一時間ごとに大暴れするようになった。
両親はひどく悲しみ、悩んだ。盲学校も聾学校も家の近くにはない。また、タスカビアのような田舎町まで、視力と聴力を失った子どもを教えに来てくれる人などいそうもない。』
meanwhile : その合い間に、desire : 強く望む、express : 表現する、grew : grow(成長する)の過去、less and less : ますます少なく、adequate : 十分な量の、failure : 失敗、invariably : いつも、outburst : 爆発、passion : 感情
invisible : (目に)見えない、frantic : 気も狂わんばかりの、effect : 努力、struggle : もがく、matter : 事態、exhaustion : 使い尽くすこと、
crept : creep(からまる) の過去、miserable : みじめな、cause : 原因、tempest : あらし、urbent : 急を要する、
grieve : 深く悲しむ、perplex : 当惑させる、unlikely : 見込みのない、otu-of-the-way : へんぴな、deaf : 耳が聞こえない、blind : 盲目の
『 Indeed, my friends and relatives sometimes doubted whether I could be taught. My mother's only ray of hope came from Dickens's "American Notes."
She had read his account of Laura Bridgman, and remembered vaguely that she was deaf and blind, yet had been educated.
But she also remembered with a hopeless pang that Dr. Howe, who had discovered the way to teach the deaf and dlind, had been dead many years.
His methods had probably died with him; and if they had not, how was a little girl in a far-off town in Alabama to receive the benefit of them?
それどころか、友人や親戚からは、そもそも私を教育できるのかと、疑問の声が上がることもあった。しかし母は、英国の小説家ディケンズが書いた「アメリカ見聞録」に一縷の望みを託していた。
この本の中の、目と耳が不自由なローラ・ブリッジマンという女性が教育を受け、読み書きができるようになったという記述をおぼろげに覚えていたのである。
だが、目も見えず、耳も聞こえない人たちの教育方法を発見したハウ博士は何年も前に亡くなっており、博士の教育方法も残ってないかもいれない。
もし誰かに受け継がれていたとしても、どうしてアラバマの田舎町に住む少女が、その教育を受けられるというのだろうか?』
indeed : 実のところは、relatives : 親族、doubt : 疑う、taught : teach(教える)の過去分詞、
account : 記述、vaguely : 何となく、yet : またその上に、be educated : 教育を受けた、
pang : 悩ます、Dr. Howe : ハウ博士、 far-off : 遠い、benefit : 恩恵
『 When I was about six years old, my father heard of an eminent oculist in Baltimore, who had been successful in many cases that had seemed hopeless. My parents at once determined to take me to Baltimore to see if anything could be done for my eyes.
When we arrived in Baltimore, Dr. Chisholm received us kindly: but he could do nothing. He said, however, that I could be educated, and advised my father to consult Dr. Alexander Graham Bell, of Washinton, who would be able to give him information about schools and teachers of deaf or blind children.
Acting on the doctor's advice, we went immediately to Washington to see Dr. Bell, my father with a sad heart and many misgivings, I wholly unconscious of his anguish, finding pleasure in the excitement of moving from place to place.
Child as I was, I at once felt the tenderness and sympathy which endeared Dr. Bell to so many hearts, as his wonderful achievements enlist their admiration.
私が六歳の頃、父は、米国北部の町、ボルチモアに住む著名な眼科医のことを耳にした。絶望的と思える患者を数多く治療してきたという。両親は、私の目の治療も可能かどうか見てもらおうと、早速ボルチモア行を決めた。
ボルチモアに着くと、チザム博士があたたかく迎えてくれた。しかし、私の目をどうすることもできなかった。けれども博士は、私に教育を受けさせることは可能だと言い、首都ワシントンにいる、電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベル博士に相談するよう勧めてくれた。 ベル博士なら、視覚、聴覚障害を持つ子どものための学校や教師についていろいろ教えてくれるはずだ、というのだ。
その勧めに従い、私たちはすぐにワシントンに行きベル博士に合うことにした。この時、父の心の悲しみと不安でいっぱいだった。しかしそんな父の苦悩に全く気づかなかった私は、わくわくしながら旅の喜びを味わったのである。
ベル博士の立派な業績は周知のことだが、博士のあたたかく思いやりのある人柄を慕う人も多かった。私も、子どもながらに、即座に博士のあたたかい心を感じ取ったのだった。 』
eminent : 卓越した、oculist : 眼科医、 consult : 助言を求める、
misgiving : 不安、wholly : まったく、unconscious : 自覚してない、anguish : 苦悩、
tenderness : 優しさ、sympathy : 思いやり、endear : 慕わせる、achievement : 業績、enlist : の力を借りる、admiration : 感嘆
『 He held me on his knee while I examined his watch, and he made it strike for me. He understood my signs, and I knew it and loved him at once.
But I did not dream that that interview would be the door through which I should pass from darkness into light, from isolation to friendship, companionship, knowledge, love.
Dr. Bell advised my father to write to Mr. Anagnos, director of the Perkins Institution in Boston, the scene of Dr. Howe's great labours for the blind, and ask him if he had a teacher competent to begin my education.
This my father did at once, and in a few weeks there came a kind letter from Mr.Anagnos with the comforting assurance that a teacher had been found.
This was in the summer of 1886. But Miss Sullivan did not arrive until the following March.
博士は私をひざの上に乗せてくれた。私が博士の腕時計をいじくり回していると、その時計を鳴らしてくれた。私の身ぶりを理解してくれることがこちらにもわかり、すぐに博士のことが大好きになった。
しかしこの時は、ベル博士への訪問が、暗闇から光の世界へ足を踏み入れる扉になるとは夢にも思わなかった。この扉を通じて、孤独な世界を抜け出し、友情、仲間づきあい、知識と愛にあふれる世界へ入っていくことになるのだ。
ベル博士は、ボストンにあるパーキンス盲学校の、アナグノス校長に手紙を書くよう父に勧めた。パーキンス盲学校は、ハウ博士が視覚障害者の教育のために尽くした学校である。そこの校長に、私の教育をできる教師がいるかどうか問い合わせるように、というのだった。
すぐに父は依頼の手紙を書いた。すると数週間後に、アナグノス校長から丁寧な返事が届いた。「ご依頼の教師が見つかりました」と安心させるような内容が書かれていた。
一八八六年の夏のことである。けれどもサリバン先生の到着は、翌年の三月まで待たなければならなかった。 』
examine : 調べる、strike : 時を打つ、 isolation : 孤立、friendship : 友情、companionship : 仲間付き合い、
comforting : 元気づける、assurance : 請け合う、arrive: 到着する
(第3章 「一縷の望みを求めて」 より)
この中で、英国の小説家チャールズ・ディケンズ(1812~1870)の「アメリカ見聞記」、電話の発明者アレキサンダー・グラハム・ベル博士、目と耳が不自由なローラ・ブリッジマンという女性の教育法を開発したハウ博士という歴史上の人物が登場するのですが、この三つの点を母親と父親の努力によって線で結ばれ、ヘレン・ケラーとサリバン先生が出会うことになる。
おそらく、1886年の夏に父親がパーキンソン盲学校に依頼してから、翌年の3月まで、サリバン先生は、ハウ博士の教育法を指導され、自分でも研究して、ヘレン・ケラーのもとに赴任してきたと考えられる。
なお、第4章 「サリバン先生 とw-a-t-e-r と 言葉の世界へ」はヘレン・ケラー自伝Ⅱに書きます。 (第86回)
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