98. 得手に帆あげて (本田宗一郎著 昭和五二年六月発行)
著者の本田宗一郎(1906(明治39)年11月~1991(平成3)年8月)は、松下幸之助(松下電器)、井深大(ソニー)とならぶ、ホンダの創業者である。本書は昭和52年の本ですが、自分の能力をのばして何かを成し遂げるための哲学は、今日でも通用するものです。
本書にもありますが、小学校2年生の宗一郎少年は、1914年(大正3年)の秋に浜松歩兵連隊に苦労の末に見た飛行機を自分の手でつくる夢を見て、原動機付自転車、オートバイ、自動車、F1レースへの参加、本田賞の創設と生前に実現しました。
宗一郎少年が夢見て、百年後の2015年12月にホンダジェットの認証がとれるというニュースが 入っています。松下幸之助は、技術者から、経営の神様となり、井深大は、技術者から、研究者となりました。
しかし、本田宗一郎は、生涯にわたり、技術者であり、少年の心をもっていた気がいたします。常に自分に率直であり、生涯経営者としての面は専務の藤沢が受け持っていたと言われています。
『 人間には勉強が一生ついてまわる。学ぶ心は常に意欲的に保たなければならない。学ぶことは、前進することである。向上することである。だから勉強というものには、これがそうだという唯一絶対のやり方は無いと思う。
あるのは、それがどれだけの効果が上がるかという「能率の差」だけである。なぜかといえば、勉強は生きるための一つの方法論である。たとえていえば、生活を向上させる合理化のアイデアを得ることと同じだ、と私は思う。
勉強は個性に合ったやり方でやれば能率が上がる。学校で先生に教えてもらうことも、その人の個性によっては努力の割に効果の上がらぬ場合だってある。
成績を気にして、コンプレックスを持つほど、バカなことはない。彼も人ならオレも人である。どだいそんなに差のあるものではない。勉強の機会はどこにもあるし、親切な教師はうんといる。
私は小学校のときから勉強は嫌いだった。家が鍛冶屋だったせいか、小さいときから機械いじりが好きで、学校に行くようになっても理科だけは好きだったが、ほかはてんでダメだった。
ことに国語とか習字とかいったものは、逃げ廻ったことさえ記憶する。だから成績が悪かったのはいうまでもない。
ところで、このような私も生来の好きな機械いじりを一生の仕事にしようと、東京の「アート商会」へ小僧に入り、そこを振り出しに現在に至っている。
しかし、ここまでくるには、失敗に失敗を重ね血の出るような思いで仕事に取り組んだこともあった。これも勉強だと私は考えている。学校での勉強嫌いの私には、基礎知識がなかったから、こうした方法でそれを学ばなければならなかった。 』
『 私には、結局その方が個性に合っていたのだろう。学んだことは何一つ無駄になったものはない。例えば浜松で「東海精機株式会社」の看板をかかげ、ピストン・リングの製作を始めたときのことである。
ピストン・リングというのは、わかりやすく説明することはむずかしいが、要約すれば爆発ガスがもれないような役目をする小さな輪で、エンジンのカナメともいえる大切な部分である。
その当時、すでに理研などでも大量生産していたが、まだ日本ではそれほど研究がすすんでいなかったので、民間で製造しているところはあまりなかった。それだけに困難な仕事であったわけだ。
しかし、結果は私の敗北に終わった。思うようなピストン・リングができない。くる日もくる日も失敗の連続だった。このときくらい学校時代に勉強をほったらかしにして、遊びに夢中になっていたことを悔いたことはなかった。
学問は学問、そして、商売は商売と割り切っている人もいる。たしかにそういうこともいえるだろう。しかし、学問が根底にない商売は、一種の投機事業みたいなものでしかなく、真の商売を味わうのは不可能だといえないだろうか。
私のようなものが、こんなことを口にするのは、いかにも厚顔千万ないい分かもしれないが、しかし、骨身にこたえるほど自分の基礎の弱さを後悔した体験が、強く私にそのことを悟らせたのであった。
つまり「泥田からアゼ道へのぼることはできても、大道にのぼることはできない」というわけで、私は大きな仕事をやるには、やはり技術の基礎がなければいけないと思い知らされたのである。
そこで私は当時の浜松工業専門学校、現在の静岡大学工学部の藤井先生をたずねた。「どうして早く持ってこなかったのですか」と、すぐに専門の田代先生に紹介してくれた。
田代先生が私の製作したピストン・リングを分析し、「これはシリコンというものが足りません」ズバリ原因を解明してくれた。私は敬服してしまった。考えてみれば、そんな初歩的な基礎も知らずにピストン・リングを作ろうと考えていたのだから、我ながらあきれてしまう。
でも私は自分の不明を知ったとき、やはりこれは根本的に基礎からやるべきだと、はっきりハラを決めた。そして早速、浜工の校長に依頼して、とにかく聴講生の一人に加えてもらうことになったのである。 』
『 五十人の従業員をかかえた会社社長兼二十九歳の老学生が、ここに誕生したわけだ。お陰で、私はいっそう多忙な日々が繰り返されるようになった。
学校から帰ってくると、私は仕事ととっ組み、夜中の二時三時まで研究を重ね、一日も怠らなかった。このような事情から専門学校に通い出しただけに、私は真剣そのものだった。
だが、私の入学は、自分で一定の目標を持ち、たずさわる仕事を持った上での入学であったから、授業の中の講義はすべて仕事へ直結させて耳に入れたかったし、目標にそった課目を勉強させてもらいたかった。
ところがここでの勉強は、一般教養課目とか、教練とか、私にとってはどうでもよいような勉強が多すぎた。きのう聞けば明日役立つような物理、応用科学などの科目はその割に少なかった。
これは、私のように「腹がへったから、飯を食ったら、すぐふくれた」式に、効果をあせる方が無理なのかもしれないが、とにかくじれったかったので、私は不必要だと思った学課にはいっさい出席せず、その科目の試験には全然応じなかった。
私としてみれば、ただ立派なピストン・リングを作ることだけが唯一の目的のようなものだったから、試験などには少しもこだわらなかった。落第もなけりゃ進級もない。学校から見れば前代未聞の学生だったに違いない。
ともかく二、三年は学校へ通って講義を聴いていたように思う。もっとも三年通えば、普通なら卒業だ。私は退学の通知を貰った。若干の不満はあったが、私もその処分を納得した。しかし、その後も一年ぐらいは、学校へ顔を出して講義だけは聴いていた。
月謝は納めなかったが、学校は何もいわなかった。浜松工専も、この型破りの学生にはさぞ迷惑したに違いない。しかし私にしてみれば、自分なりに懸命の勉強であった。そして九ヵ月目に、宿願のピストン・リングの製作に成功していたのである。 』
『 それでもこの浜松工専時代は、それまでの私には皆無といってよかった技術の理論を、ある程度身につけることができ、当面の必要をみたしてくれた。同時にそれは後年大いに役立った。
それはなぜかといえば、何か一つのものを見たり聞いたりしたときに、それを正しく判断するための力となり、次のものを考える基礎となったわけだ。「大きく飛躍するには、やはりしっかりした基礎がなければダメだ」ということは真実である。
現在の学生諸君とは時代も違うし、学科の構成や勉強の内容なども変わってきていると思う。だが、私が後年痛感したような、基礎理論を身につけるということは、今も昔も変わらないはずである。
これは学生時代のうちはわからない。社会に出てから切実に感じるものだ。ことに将来技術者を目指している若い人には、とくにこのことを強調しておきたい。
昔から、「見たり、聞いたり、試したり」という言葉がある。これは物事を覚えるたとえに使われる言葉と思うが、「百聞は一見にしかず」の方が効果的だ。しかし、私はこの中で最後の「試したり」が一番大切だと思っている。
つまり、私の場合は「なすことによって学ぶ」という実践的勉強法が、一番力になり、身にもついたというわけである。私は、工員のくせに、勉強などする必要はない」という人に対して、いつもこう話すのである。 』 (ここまで、「なすことによって学ぶ」より)
『 「刀鍛冶の正宗の時代には、特定の縦にも横にも広い天才がいれば、それで仕事ができた。次の産業革命後のフォード(アメリカの自動車王)の時代には、仕事をバラバラに解体して、それを一つの流れにして作り上げるようになった。
それが現在ではどうであろうか。製品が年々型を変えて市場に放出されるために、同じ流れの作業でありながら、個人は一つの技能をマスターした瞬間には、もう次の来るべき技能を予想しなければならなくなり、ついでに他の関連部署の仕事まで、ことごとく知っておく必要に迫らせてきた。
言葉をかえていえば、自分に高度の知識と技能を植えつけると同時に、隣の部署の仕事をも理解できなくてはならないということである。したがってやはり勉強が大切であるといえるだろう」
殊にこれからは、技能者であると同時に経営者の才腕をそなえた人でなければ、事業を進展させることは不可能の時代に向かいつつある。生産と販売とのいずれが主体になるべきかといえば、その重さはまさに伯仲しているからである。 』
『 私が小学校二年のとき、私の胸を沸き立たせる事件が起こった。大正 三年(1914年)の秋だったと記憶している。私の家から約二〇キロほど離れた浜松歩兵連隊に、飛行機がきて、飛んで見せるという噂を聞いた。
そこで何とかしてその飛行機というものを見たくてしょうがなかった。絵で見ただけではどうしても承知できなかったのである。そこで私はあれこれと作戦を練った。
親父にせがんだところで、どのみち許してもらえそうもないと悟った私は、家族の目を盗んでそっと「金二銭也」をせしめ、まず必要な資金を確保した。あとは決行あるのみ、というわけである。
学校はサボることにした。あとは親父やお袋、祖母の目からいかに盗塁するか、ということだけだった。その日は、私は何食わぬ顔で自転車を持ち出し一気に浜松に向かってペダルを踏みだした。
小学校二年生の私には、まだ自転車のサドルにちゃんと尻をつけて乗ることはできない。いわゆる「三角乗り」というやつで、横から片方の足を三角に突っ込み、苦しい姿勢でペダルを踏む、あの乗り方しかできなかった。
だが、私はもう夢中だった。連隊に到着したときは、もう憧れの飛行機が間もなく見られるというので、私の胸は、まったくいいようのない嬉しさで一杯だった。
それはナイルス・スミスという、グライダーに簡単なエンジンをつけたような、まことにチャチな飛行機であったが、さて入場となると、練兵場には塀がめぐらされていて入場料を取っている。
もちろん入場料を取られることは予想していたが、「二銭あれば、大丈夫」と考えてきたのは大きな誤算で、大金(十銭ぐらいだったと記憶している)が必要だった。
その瞬間、私の小さな胸は絶望にふさがれてしまった。しかし、私はあきらめなかった。ふと目についた松の木に登って、見たい一念を遂げることにした。私は周囲に気を配り、松の木に登った。
下から見つけられないように、枝を折って体を遮へいした。実際には、見つかってもどうということはなかったのだが、子ども心にも万全を期したわけである。
こうして、やや遠望ではあったが、私はナイルス・スミスの飛行振りに感激するとともに、魅せられていたガソリンの匂いを満喫したのであった。帰途、私の踏む三角乗りのペダルの足は軽かった。
スミス号の飛行士が、ハンチングのツバを後ろに廻して飛行眼鏡をかけていた勇姿を思い出した。これがまた非常に男らしく見えたのだ。
ペダルを踏みながら。私はいつの間にか学帽を後ろ向きにかぶっていた。そうして飛行機にも負けないスピードをペダルに托して、私は疲れも知らず風を切って田舎道を突っ走った。 』
『 家にはいったとたんに、親父の怒声に見舞われたことはいうまでもない。でもその親父の怒声も、私の弁明を聞くと、にわかにおだやかになった。「お前、ほんとうに飛行機をみてきたのか……」
親父自身ひどく感激してしまったからであろう。そのときから、私はどうしても飛行士がかぶっていたような、鳥打帽子が欲しくてたまらない。遂に親父に鳥打帽子をせがみ倒して、自分の所有物にすると、今度は飛行眼鏡が欲しくなった。
だがこればかりは田舎のことだけに、どうしても手に入れることができない。やむなく生来の器用さを生かして、ボール紙製の眼鏡で我慢することにした。
それで一切の準備が完了した。私は鳥打帽のひさしを後ろに廻し、ボール紙の飛行眼鏡をかけて、朝に夕にちょっとした飛行士気取りで、得意になって歩き廻った。
遂には竹製のプロペラを自転車の前に取りつけて、まさに天空をかける心地で、自転車を縦横に乗り廻したものであった。
そのような私だっただけに、四年生頃、青白い煙を尻からふき出しながら悪魔のように村を通過してゆく自動車の出現には、完全に魅了された。
「まるで金魚のフンだ」と笑われながらも、自転車でその後を追った。そして、ガソリンの匂いをかぎ、気が遠くなるような歓喜にとらわれたものである。
その頃から私の抱いた最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思いきりすっ飛ばしてみたい、ということであった。
その念願が達成できるのは、いつのことか予想もつかなかったが、いつかはその時が来ると信じて疑わなかった。そして小学校高等科を間もなく卒業という頃、「輪業の世界」という雑誌を読みふけったいると、ふと広告欄が目についた。
東京の「アート商会」という自動車修理工場で、デッチ小僧の募集広告を出していたのである。「よし、アート商会の小僧になって、自動車の勉強をしよう……」と。私は胸をおどらせて決心を固めた。 』
『 私は高等科を終えると、ただちに親父にともなわれて上京することになった。たった一つの柳行李をかついで、燃えるような希望を持て余す思いで、浜松から汽車に乗った。そのときの姿は今でも目に焼きついている。
しかし現実は、私が空想していたものとはまったくかけ離れた、みじめなものであった。あれほど憧れていた自動車には触れることさえ許されず、私に与えられる仕事といえば、明けても暮れても主人の子どもの守りをすることだけ。
そして私の手に握らされるものは、スパナでもなくハンマーでもなく、すり切れた雑巾とバケツだけであった。燃えるような夢を抱いて上京した私にとって、これは余りにも残酷な現実であった。
「見ろよ、お前の背中にはいつも地図がかいてあるじゃねえか」と毎日、兄弟子達にひやかされる屈辱に、歯をくいしばって耐えた。しかし、二ヵ月たち三ヵ月たつと、こと志と違う現実に、すっかり失望した私は「国へ帰ろう」と、何度か行李をまとめた。
しかし、今考えると、そのとき私をアート商会に留まらせていたものは、やはり両親への誓いであった。もしも、私が辛抱し切れないからといって故郷に帰れば、両親は困惑のあまり、私の意気地なさを怒るに違いない、という考えであった。
物事は考えようだ。毎日こうして好きな自動車を眺めたり、その機械の組み立てをのぞき、機械の構造を見ることができるだけでも、幸せではないか。こうした日々を繰り返しているうちに、半年ほど過ぎてしまった。
そんなある日、大雪の降ったひどく寒い日であった。珍しく主人が、私を呼びつけた。「おい小僧、きょうは滅法忙しいので、お前も手伝え、そこの作業着を着て……」というのだ。
私は思わずとび上がりたい衝動にかられた。待ちに待った「晴れ着」を着る日が、とうとうやってきたのだ。私は側にかけてあった作業着にとびつくと、すばやく腕を通した。
それからそっと鏡の前に立ち、自分の晴れ姿に見入った。それは兄弟子たちがさんざん着古した、油のしみで真っ黒に汚れたものであったが、私には頬ずりしたいほどの晴れ着であった。 』
『 どう見てもダブダブの借り着といった感じで、さぞ珍妙な姿だったろう。しかし、私は得意だった。「おい、何をぐずぐずしてやがんだ。早くきて手伝わんか……」
どなる兄弟子の声に我にかえって鏡の前を離れた。とんで行くと、雪の中を走り、まだしずくがポタポタと垂れている自動車の下へ潜り込まされた。
アンダーカバーを修理するのである。仕事としては実にたわいないことであったが、その時の私は無我夢中であった。「おい、小僧なかなかやるな……」と主人が側へきていった。
そのときから、私もいくらか主人に認められたのだろう、嫌な子守りの仕事は次第に遠のき、自動車の修理が多くなった。こうして、一年半ほどは夢のように過ぎてしまった。
その年の九月一日(大正十二年:一九二三年)、もう間もなく昼食になる頃のことであった。突然遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、グラグラと大地が揺れだし、建物がきしみ、立って歩くこともできない大地震となった。
関東大震災である。地震とともに、私は何を考えたのか、電話の側へとんで行くと、ドライバーで電話機をとりはずしていた。私にしてみれば、電話というものが珍しいばかりでなく、非常に高価なものと聞いていたからであった。
しかしこの行為はどうも私の失敗だったようだ。「電話機だけでは、何にもならん」と主人に笑われた。「電話が高いのは、電話機そのものではなくて、権利が高いのだ」
私は何となく不満だったが、そういうものかと、赤くなる思いでうなずくしかなかった。この電話というやつが、また私達田舎者にとっては、恐ろしいそんざい存在であった。電話のベルが聞こえると、びくっとしたものだ。
誰かが受話器をはずすまで落ちつけなかった。というのは、電話に出れば必ず失敗するか、田舎弁を笑われるかするのがオチだったからである。
地震と同時に、方々から火の手が上がり、アート商会にも廻ってきた。修理工場だから、あずかっている自動車を焼いたら大変である。「自動車を出せ、運転できる者は一台ずつ運転して自動車を安全な場所へ運べ!」と主人の怒鳴る声が聞こえた。
私は内心しめたと小躍りする思いで、修理中の自動車にとび乗って路地へ出たが、そこは避難民でごった返している。その群集の間を縫って、ぐらぐら揺れる路上を、私はとにかく自動車を運転して行ったのである。
自動車を運転しているのだという感激のほかには、私は何も感じなかった。まさに私の人生にとっては、歴史的感激だったといえる。運転そのものはまったく危っかしいものであったが、あの時の歓喜は二度と味わえないものであった。 』
『 震災で、アート商会も焼け出された。私達は主人一家と共に、神田駅に近いガード下に移転した。その隣がどこかの食料品会社の倉庫だったので、私達は毎日その倉庫へ出かけ、焼け残りの缶詰類を持ってきて、飽きるほど食べたものであった。
しかしこの震災を境に、私も一人前に近い修理工になれたようなものである。それというのも、震災後、芝浦のある工場でたくさんの自動車が焼けたまま放ってあったのを、主人が見つけてきた。
「とにかくこれを、動くようになおすのだ」 十五、六人いた修理工達も、震災ではほとんど田舎へ帰っていたときだったので、私と兄弟子の二人でインチキ車の修理にかかった。今考えると、修理の方も大変インチキだった。
スプリングにしても、何で焼を入れるのかわからない。シャーシにしても焼けているし、塗装だけはニューのようにやれというわけで、とにかく自動車の体裁を整えることに一生懸命であった。
それで組み立ててみると、立派にエンジンがかかった。自分ながら不思議に思うほどであった。すると主人がそれをどこかへ運転して行って、高く売りつけてくる。
この仕事で一番困ったのは、やはりスポークであった。当時自動車のスポークはみんな木製であったから、焼けてしまってはどうしょうもない。木製スポークといえば、車大工でさえ作れなかったのだから、私達が苦労したのは当然である。
しかし、ともかくそれが成功したのだから、私達の歓びはちょっと言葉では表現できないほどのものであった。その翌年、私は数え年の一八歳になっていた。すっかり一人前の修理工になっていた。
夏のことであった。不意に主人が、私に盛岡へ出張してくれという。「仕事は消防自動車の修理だが、たいしたことはない。お前の腕なら、もう十分やれる」 私は喜んでこの役目を引き受けた。
生まれてはじめて見る東北地方である。上野から十数時間汽車に揺られて、盛岡へ到着すると、「なんだ小僧じゃないか……」 とがっかりした表情で迎えられた。私は内心不服だったが、一八歳では反駁のしようもなかった。
したがって、旅館の女中達からも小僧扱いを受け、女中部屋の隣室に押し込まれる始末であった。翌朝、早速仕事にかかった。消防自動車を次々と分解していくと、「小僧さん、そんなに分解しちまって、組立てができるかね」とまた小僧扱いにする。
私は心の中で歯を食いしばりながら、クソッ今に見ていろと無言の抵抗を続けていた。やがて、分解から組立てを終わり、試運転してみると、見事に動き出した。 「おお動いたぞ。水が出る!」 まるで奇跡が起こったような騒ぎになった。
私は内心ざまァ見ろといいたいところであった。その日の夕方、仕事を終えて旅館に帰ると、早速床ノ間つきの一等室に案内された。夕食には酒まで一本つけてくれた。立派な一人前の修理工に昇格したわけだ。 』
『 帰京すると、主人もひどく喜んでくれた。その月末、私ははじめて金五円也の給料らしい金を貰った。このようなことから、私の技術も、主人から高く買われるようになり、徴兵検査まで精一杯奉公を続けた。
徴兵検査で甲種合格をまぬがれると、さらに一年間、お礼奉公としてアート商会で働いた。この六年間で私は自動車の構造はもちろんのこと、その修理のコツも呑み込んだし、自動車の運転も習得した。
自分で運転し、大都会のアスファルトを自由に走れるようになり、私の最初の希望はまずかなえられたことになる。いよいよ年季も明け、私は二十二歳の春浜松へ帰郷し、主人から分けて戴いた「アート商会浜松支店」を開店、店主として独立した。
「アート商会浜松支店」と看板はなかなか立派であるが、実質はささやかな、修理工場ともいえないような、貧弱な自動車修理場であった。修理工も「店主」でもある私一人、しかし父は私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米一俵を贈ってくれた。
開店当初は、店主兼修理工である私が、あまりにも若僧だったせいか、客もなかなかつかなかった、とにかく一通りのことは何でもできたので、次第に見直されるようになった。
お陰で、その年の暮には「金八十円也」の純益を上げることができた。まだ二十二歳という若僧だっただけに、大いに気を良くしたのはいうまでもない。
当時浜松には、他に二、三軒しか修理工場がなかったせいか、私は次第に余裕を持つようになった。余裕が出てくると子どものときからの性分で、変わった機械に魅力を感じてくる。
そこであれこれとモーター(エンジン)の研究を始め、自製のモーターまでできるようになった。そしてモーターボートを製作し、若い工員を連れて浜名湖で乗り廻すのが、私の楽しみの一つになった。前後を通じ、六、七隻のモーターボートを作ったような気がする。
私の工場は、数年たたないうちに工員もどんどん増え、五十名程になった。しかしそのうちに、特別の理由はなかったが、「修理工場などというものは、いくら伸展したところでタカが知れている」という妙な考えにとりつかれるようになった。
いくら修理技術がすぐれているからといって、東京からわざわざ頼みに来るわけでもなし、ましてや自動車王国といわれるアメリカから依頼がくるはずもない。そこで、私はこう考えた。
「所詮、修理は経験を積めば、誰にでもできる仕事だ、だから、これに一生を費やすのは、何かもの足りない。この世に生を受けた以上、どうせやるなら、自分の手で何かを生みだそう。 』
『 工夫し、考案し、そして社会に役立つものを製作すべきだ。他人さまの製作した物を修理するという仕事より、その方が私の性に合っているような気がする。
だとしたら自分のこの手で何か作ってみよう。ここから更に一歩前進してみようじゃないか……」 やろうと一度決心したら、向うみずで、せっかちな私である。
決意した通り、五十名程に発展していた修理工場をあっさり投げ出して、今度はピストン・リングの製造工場に転換してしまった。同時に「アート商会」の看板を降ろして「東海精機株式会社」の看板を掲げた。
しかし、ピストン・リングに切り換えるまでには、重役の間に相当の反対者がいて、「そんな勝手な真似は、たとえ社長でも許せない」と、どうしても承知してくれない。
決心したとなると、まっしぐらに突き進みたい私の性格が、この暗礁ですっかり参ってしまったのか、私はひどい顔面神経痛にかかった。その治療だと称し、私はあちこちの温泉にいりびったったり、医者だ、注射だと二ヵ月以上も仕事から離れた生活を余儀なくされた。
そのうち、仲に立って反対重役達を説得してくれる人があって、ようやく転換に踏み切ることになった。するとどうだろう。それまで苦しみ抜いてきた顔面神経痛が、けろりと直ってしまった。この突然の変化には、自分ながら驚くほかなかった。
病気快癒となると、私はもうじっとしていられなかった。翌日から新しい仕事に全情熱を傾注し始めた。しかし、まったく思うようなピストン・リングが、なぜかできないのだ。
仕方がないので、とうとう鋳物屋を訪れ、指導を頼み込んだ。ところが、「お前らのような十年者に、できてたまるか……」 と大変な剣幕で、まったく相手にしてくれないのである。
私は歯をくいしばって、鋳物の研究と取り組む日が続いた。しかし、その努力は一向に実りそうもなかった。私の貯えも底をつき、妻のものまで質屋に運んだこともあった。
「今ここで挫折したら、皆が飢え死にするしかない」 私は、自分を励まし続けた。こういう中にあって、どうにか物になりそうなピストン・リングを作ることに成功したのは、忘れもしない昭和一二年十一月二十日であった。
ピストン・リングを製作し始めて、九ヵ月の歳月が流れていた。この時代の生活との苦闘こそ、後年の私の背骨となったと思っている。 』 (「栄光への道」より)
この後に、最初の「なすことによって学ぶ」の浜松工業専門学校での学びに続きます。2015年12月9日にちょうど、宗一郎少年が夢見たホンダジェットの認証が届いたとニュースが入ってきました。
HondaJet Receives Type Certification From Federal Aviation Administration
GREENSBORO, N.C. - Dec. 9, 2015 - The HondaJet received type certification from the United States Federal Aviation Administration (FAA) on Tuesday. Honda Aircraft Company and the FAA made the announcement today at the Honda Aircraft headquarters in Greensboro, North Carolina.
certification : 認証、 Federal Aviation Administration : 連邦航空局、 Honda Aircraft Company : ホンダエアクラフト株式会社、 announncemennt : 公表、headquarter : 本部を置く、 Greensboro, North Carolina : ノースカロライナ州のグリーンズボロ
今回、本田宗一郎がスーパーカブ(原動機付自転車)、オートバイ、自動車、F1レース自動車、ホンダジェットと実現しましたが。
私がなぜ宗一郎少年が、ここまで、実現できたかを、私なりに考えてみました。宗一郎の父親が、鍛冶屋であったことにそのルーツがあるように思いました。
日本の刀鍛冶、及び鍛冶屋のレベルは、種子島に鉄砲が伝来した時、これを見て、鉄砲をつくったのは、世界で、日本の刀鍛冶、鍛冶屋だけでした。
さらに宗一郎少年は、オートバイや自動車の心臓部は、そのエンジンにあることを見抜きエンジンについて研究してます。 そして、そのエンジンの中でも、重要な部品である、ピストンリングを徹底的に研究して、開発に成功します。
この宗一郎少年のDNAが、ホンダジェットの開発の中に流れているのではと考えました。 (第97回)
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