72. 私の骨董夜話 (浜美枝著 2005年4月)
著者の浜美枝は、1943年東京生まれ、中学卒業後、東急バスに入社バスガールをしていたところを抜群にスタイルがよかったのでスカウトされた。本人は全くその気が無かったが、東宝側がバス会社と話をつけ、女優契約させられた。
1960年、16歳のとき女優デビューし、1967年には「007は二度死ぬ」でボンドガールを演じ、国際的名声をえる。結婚、出産後、古民家12軒分を生かした家を箱根に建て、自然と向き合う暮らしを続けている。ボンドガールでありながら、骨董と古民家に惹かれる著者の話をいっしょに聞きましょう。
『 骨董と私の、最初の出会いは、京都でした。1963年の春。私は十七歳でした。十五歳で女優としてデビューして、二年目のことでした。東京から乗った特急列車の車窓には、すこしばかりまぶしくなった日の光が降りそそいでいました。中学校の修学旅行に、私は行きませんので、京都に行くのは初めてで、胸がどきどきしたことを覚えています。でもまさか、その日から骨董との長いおつきあいがはじまるなんて。そのときの私は、知る由もありませんでした。
私が京都を訪れたのは、「婦人公論」の表紙撮影のためでした。「撮影場所は京都。カメラマンは土門拳さんです」そう聞かされたときから、私はその撮影に、胸を躍らせていたように思います。京都はずっと訪ねてみたいと思った場所であり、土門拳さんは私の憧れの写真家でしたから。
私は本屋さんで、土門さんの写真集「筑豊の子どもたち」を見つけ、ざら紙に印刷された一枚一枚の写真が、悲しさと子供たちの愛らしさを伝えていました。さて、京都での「婦人公論」の撮影ははじまったのですが、土門さんはまもなく、「光がよくない。撮影はヤメ」とおしゃって、撮影を翌日に延期することになってしまいました。
突然、その日はオフになってしまたのです。空白になったをどうしようかしらと思っていた私を誘ってくださったのが、土門さんでした。「ついておいで。これから本物を見に行こう」八幡神社の境内を通り過ぎ、たどりついたのが、「近藤」という骨董のお店でした。もちろん、私にとってはじめての骨董のお店でした。
店主の近藤金吾さんは、土門さんの後ろに女の子がいるとわかって、おやっという顔をなすったような気がします。「土門さん、きょうはめずらしいですな。お嬢さんをお連れで」「この娘は、浜美枝という女優でなぁ。「婦人公論」の表紙写真を撮るのに、連れて歩いとる」
近藤さんは、私たちを奥の座敷に案内してくださいました。そこには、ずらりと信楽の壺が並んでいました。土門さんと近藤さんは、骨董を介してとても親しくおつきあいをなさっていて、近藤さんが集められた信楽を土門さんが撮影し、写真集にするという計画が進んでいたのです。
おふたりが熱心に打ちあわせをしていらしゃる傍らで、私はポツンと座りながら、まわりに並べられていた信楽を拝見していました。最初はただぼんやりと見ていたのですが、しばらくするうちに、私はこれら信楽に心を奪われつつある自分に気がつきました。
ひとつとして同じ姿形をしたものがなく、欠けたりひび割れたりしているものもあるのだけれども……、その存在感のたしかさ、たたずまいの美しさが心に響いてきたのです。そのときです。不意に土門さんが振り向くと、こうおしゃいました。
「近藤さんの目で選んだものばかりだからね。よく見ておくといい。……ものには本物と、そうでないものと、ふたつしかない。本物に出会いなさい」あの厳しいお顔をしていらした土門さんが、すこしばかり優しい目をなさっていました。「本物……、ですか」「そう、本物を見ることだよ。お店のほうも見てくるといい」
土門さんの言葉にうながされて、私はひとり立ち上がりました。見るといっても、どんなふうに見ればいいのかさえ知りませんでした。私は、ゆっくり歩きながら、見るともなく店に飾られたものを見ておりました。と不思議なことがおこりました。私はお店に飾ってあったある壺の前から離れられなくなってしまったのです。
その壺の名は「蹲」(うずくまる)。手のひらにすっぽりはいるくらいの小さな壺です。首は欠けているのですが、なんて優しい形なのかしら。なんて柔らかで静かな表情をしているのかしら。なんて美しいの。なんて、なんて……。あふれんばかりの感動と感嘆で私の心は満たされ、時間がふっと止まったようでした。
そして……。「私にこの壺を分けてください」いまから思うと赤面のいたりなのですが、なにもわからないまま、近藤さんにお願いしてしまっていたのです。近藤さんも土門さんも「えっ」と驚いたような顔をなさいました。あとになって、近藤さんは、そのときのことをご自分の本に、つぎのように書いていらしゃいます。
「信楽古陶は非常に地味なものですから年配のお客様でもよほど趣味のある方でないと興味をもたれないものだからです。私は不思議でした。まだ十六,七歳の少女にこの蹲がわかるのだろうか、と。しかし彼女はいつまでたっても、その蹲から離れようとしませんでした。そして遂に「私にこの壺を分けてください」私は自分の耳をうたがいました。」(近藤金吾「壺やのひとりごと」より)
けれども、私が本気であることがわかると、近藤さんは、「この壺は半年後に東京日本橋三越本店で開かれる信楽展に出品するので、そこでまた見て、それでもこの壺がほしかったら、あらためて連絡をしなさい」とおしゃったのです。そこではじめてお値段を聞いて、驚きました。当時、東宝でいただいていたお給料のほぼ一年分に当たる金額でした。
それでも、「蹲」への思いは強くなるばかりでした。半年後、待ちに待った三越での信楽展が開かれました。私は飛んで行きました。そして、「蹲」に再会。「蹲」は、私のところに置いておきたいと、あらためて強く思いました。貯金などまだまだすこししかありませんでしたので、東宝にお願いして、お給料を前借りさせていただき、近藤さんに再度、ご連絡をいたしました。
展覧会がおわって、それが私のもとにやってきたのは11月20日。私の十七歳の誕生日のことでした。「蹲」は、私の骨董の原点です。降りかかった灰釉だまりの風情がなんともいえず、大侘びの風情をかもす安土桃山時代の信楽です。当時の「蹲」は、もう数点しか、この世に残されていないと聞きました。
後年、土門さんとお会いしてたときに、「蹲」について、「美枝さん。あなたが買っていなかったら、「蹲」は僕がと思っていたものだったんだよ。万が一、手放すようなことがあったら、いちばん最初に僕に連絡してくれよ」こうおっしゃったことがありました。なんだか、とても嬉しくなったものです。
この「蹲」には毎年一度、二月に箱根の家に咲く寒椿を一輪さして、ひとり眺めております。「近藤」が京都でも有数の骨董商であることを私が知ったのもそのあとのことでした。美とはなにか。本物とはなんか。迷ったときには、私は「蹲」との出った日に戻ります。心とからだが震えるような大きな喜びを感じた、幸せな出会いを思い、そして土門さんの言葉をかみしめるのです。 』
『 土門さんに「近藤」を教えていただいてから、私は時間さえあれば、東京駅から特急電車に乗り、京都を往復しました。翌日の仕事が急にオフになり、あわてて夜行電車に飛び乗ったこともありました。近藤さんは、買いつけや作家のお世話、各地で行われる骨董の展覧会などで、全国を飛びまわっていらしゃる方でした。
「近藤」ファンの方に、私は何人もお会いしましたが、なかには「いつ行っても、近藤さんに会えないんだ。いないんだよ」と嘆かれる人も少なくありませんでした。ところが、私がうかがうと、近藤さんはいつもお店にいらしゃるのです。前もって連絡をするわけではありません。
近藤さんがお忙しいことがわかっているのに、お電話をさしあげ、待っていただくなんて、そんな申し訳ないことはとてもできませんから。でも、お店をのぞくと、そこにいつも近藤さんのお顔が見えるのです。不思議な話でしょう。「浜さんがいらしゃるときは、どうしてうちのン、いつもいるんでっしゃろ」近藤さんの奥さまが、そういってくださったこともありました。
各界の錚々たる方々がお客様の「近藤」ですが、十七歳の私にも、こちらが気遅れするほど、きちんと相対してくださいました。いつも京都のお菓子とお薄をいただきました。その抹茶茶碗がどれもこれもたいへん、見事なものでした。その姿かたちはもちろん、持ち上げたときの手触り、持ち重り、柔らかな口当たり、お薄の淡いグリーンが美しく映える色あい、風合い……。
最初にお抹茶をいただくところから、近藤さんのレッスンははじまっていたように思います。そう。「近藤」の店主・近藤金吾さんこそ、私の骨董の最初の先生だったのした。私に美を知るきっかけを与えてくれ、そして導いてくだっさた恩人なのです。私は、お店のなかで何時間も過ごさせていただきました。立ったり座ったり、歩いたり立ち止まったり。
私があるものの前で動かなくなると、声をかけてくださることもありました。「そない、気に入らはったんですか」「ええ。近藤さん、これはどんな人がどんなふうに、使っていらっしゃったんでしょうか」「さぁ、なんでっしゃろな……、どないな人がつかってたんでっしゃろな」
近藤さんは、古信楽の魅力を再発見した人であり、木工芸の人間国宝・黒田辰秋さんなど、多くの芸術家を育てた方なのですが、私には、むずかしいことはいっさい、おしゃりませんでした。「近藤」の二階の応接間は、黒田辰秋さんの設計で、床の間の框なども黒田さんの手になるものでした。
そればかりでなく、応接間の中央にふたつ並んでいる二間の長さの見事な机二脚も、黒田さんの「欅拭漆大机」です。なんでも、応接間が完成したときに、出来上がりを見ていただこうと、近藤さんが黒田さんをお招きしたところ、黒田さんはトラックに乗っていらして、これらの机をおろされたのだそうです。
「黒田さん、これ、なんですね」 「近藤、お祝いや、受け取ってくれ!」 近藤さんは黒田辰秋さんを物語るエピソードとして、こんな話をしてくださったこともありました。ちなみに黒田さんの作品は当時、棗一個でも百万円ほどの値がついていそうです。
「蹲」のつぎに求めたのが、小さな古伊万里のお皿でした。「近藤」の棚に、一枚、飾ってあったものでした。山と木と月が描かれているのですが、それがなんとも絵画的で、私は懐かしい風景に出会ったような気がして、「蹲」のときと同様、一瞬にして魅入られてしまったのです。
このお皿も、当時としてもかなり高価なものでしたが、私はこのときも迷いませんでした。洋のものとも和のものとも、それぞれにしっかりとなじみ、そこから発せられる世界はゆるぎません。。近藤さんはこのお皿を求めたときに、「浜さんには、いいものを見る目がある」といってくださいました。それも、嬉しいことでした。
このお皿を見ると、私はそれだけで山や森を感じ、自然を感じることができるような気がします。その先には、日本の美しい風景が広がっているような気がします。私にそう感じさせるなにかが、この小さなお皿にはあるように思います。 』
『 いまから十五~十六年ほど前になるでしょうか。私は井上夏野子さんというお友だちと「近藤」で待ちあわせをして、いつものようにお薄をいただいていました。そのとき、近藤さんがなにげなく、こうおっしゃったのです。「近代美術館の展覧会があるんで、黒田先生の鏡台を組んでいるところなんですわ。もう十年ほどここにあるのを、貸し出すことになりましてな」
すると井上さんが身を乗り出すようにして尋ねました。「どういう鏡台ですか?」近藤さんがひとしきり、その鏡台の説明をなさると、井上さんは大きく目を見開き、「それ、私が子ども時代、母と私が使っていた鏡台です」といったのです。話は、彼女の子ども時代にさかのぼります。
おとうさまは新聞記者で、無名時代の黒田辰秋さんと交友があったそうです。ある年の暮れ、黒田さんがリヤカーをひいて、彼女の父親を訪ねてきました。リヤカーの上には、この鏡台。正月の餅代がないので、それと引き換えに、鏡台を受け取ってくれというのでした。
それからおとうさまがなくなられ、手放すまで、この鏡台は井上さん宅にあり、朝に夕に、母と娘でつかっていたそうです。「ここでまた出会えるなんて……」彼女だけでなく、私も、近藤さんも、あまりにも不思議なご縁に驚くばかりでした。黒田さんは生涯に五台の鏡台を作っています。
この鏡台が最初の一台です。どっしりと重い鏡台です。力強い直線、おおらかな曲線、しかも品があり、りんとした比類ない存在感があるのです。まだ無名だったころ、ひたすら心をこめて作ったということも、伝わってきます。隅々まで精魂がこめられていることも、香ってきます。なんて素晴らしいのかしら。
ため息をつくことさえ忘れ、私は無言で長いこと、見つめていました。近代美術館に出品されたその鏡台を見に行き、展覧会がおわり、鏡台が「近藤」に戻ったころを見計らって、私は京都に行きました。思いきって、その鏡台をゆずっていただけませんかとお願いした私に、近藤さんは、「ま、これは浜さんのところに嫁入りさせまひょ」と、いってくださったのです。
夏のことでした。私は、お道具を、暑いときに動かすのはかわいそうな気がして、とてもできないのです。そこで秋になってから届けていただくことにしました。この鏡台が私のところに来たのは、十一月二十日。「蹲」同様、私の誕生日にやってきたお道具です。しっくりと、箱根の家になじんでくれました。
鏡台の扉を開けてみる鏡というものは、女性にとって特別なものです。扉に手をかけ、鏡が姿をあらわすにつれ、自分がすこしずつ映し出される……。その時間までも、黒田さんの鏡台は豊かに彩ってくれるような気がします。 』
この本に出てくる写真家土門拳(1909~1990)について 『 土門拳は山形県の酒田に生まれた。貧しく育ったようだが、酒田は最上川が母なる川で、土門もその豊かな水量を呑んで育った。斎藤茂吉、井上ひさしに何かが通じる。でも、幼少時は孤独な餓鬼大将だっただけだと自分で書いている。
もっとも7歳のときに一家揃って東京へ移住しているので、そこで“都会の野生児”が萌芽した。考古学者か画家になりたかったそうだが(モジリアニふうの絵を描いていた)、賢治同様に父親に反対され断念して職を転々とし、農民運動に関心を寄せたりしている。
結局、賢治が亡くなった昭和8年に上野池之端の宮内幸太の写真場に住みこみ、そのあと名取洋之助の「日本工房」に見習い入社して、写真家として立つことを決意した。26歳である。
日本工房とは、ずいぶんものすごいところに潜りこんだもの、ここはそのころ最もラディカルで本格的な報道写真集団だった。木村伊兵衛、原弘、亀倉雄策らがひしめいていた。日本宣伝誌「FRONT」もつくっていた。ただ土門はまだ考古学に憧れていて、当初から古いものを撮ろうとしていた。
そこで考える。古いものを撮っているのは報道ではないのか。古いものを撮っても、それはニュースではないのか。古いものは「新しい日本」ではないのか。
この答えはどこにもなかった。写真家たちにも、日本工房にも、報道社会にも、答えられる者はいなかった。そんな写真など、誰も見たことがないからだ。そこで土門拳がこれに挑むことになる。
いつも建っている寺の門、昔からの仏像、ただの壷、部屋の中で立ち塞がる襖、舞台で次々に動いていく文楽、雨が落ちる社の屋根、しーんとしたままの庭の苔、誰も上り下りしていない石段‥‥。ここにはどんなニュースもない。 が、土門はこれらを撮りつづけた。しかるに、このニュースにならない写真から、たとえば室生寺の真底が、土門によって“報道”されたのだ。古いものこそニュースだったのだ。 』 (千夜千冊 松岡正剛 910夜「死ぬことと生きること」土門拳より)
私(ブログの作成者)が、感心するのは、著者は、自分に訪れたチャンスを着実に自分のものとして、さらに次のステップにつなげていることです。本物の骨董、本物の日本建築(古民家)、本物の人間、本物のおもてなし、本物の美、本物の暮らし、とこれらは、私たち一人一人が大切にし、そして追求することよって、豊かな人生がおくれるのではと考えます。(第71回)
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