12. アインシュタインの就職願書 (木原武一著 1994年発行)
『相対性理論で有名な物理学者アインシュタインの場合は、安定した職場を確保するために生涯において、少なくとも二回、自分を売り込まねばならない立場におかれた。最初は、大学を卒業して、特許局に就職するときである。
「……学業も終りになったとき、私は突然すべての人から見捨てられ、人生を前にして途方に暮れていた。そのとき友人が助けてくれ、特許局の吏員になった。もしこの助けがなかったら、私は野垂れ死にはしなかったろうが、精神的には萎縮したことだろう」とアインシュタインは当時を回願いている。
1901年、二十二歳のとき、「スイス連邦工業所有権局」に提出した就職申込書というのが残っている。「私こと署名者が、本書状をもって、工業所有権局の二級技官に応募することをお許し下さい。私は1896年~1900年までチューリッヒ連邦工科大学に在籍して数理物理学部門の専門課程をとり、物理学および電子工学の分野の専門知識を習得いたしました。……」
それから六年後、ベルリン大学に論理物理学の教授のポストが新設されるのを知ったアインシュタインは新たな就職活動を展開することになった。学者の場合、自分を売り込む材料は研究成果しかない。当時すでに彼は相対性理論に関する論文を発表していた。
教授資格審査のために提出した論文の中にはもちろん物理学に新しい時代をひらくこの論文もはいっていた。ところが、この論文は審査員にはほとんど理解されず、また、提出書類の形式がととのっていなかったということもあって、申請は却下さててしまうのである。
これに失望したアインシュタインは、一時、大学での研究生活を断念したほどであったが、翌年、ふたたび申請を出し、ようやく新しい職業を確保することができたのであった。』
アインシュタインは、読字障害があったと言われ、12歳の時に、ユークリッド幾何学と微分積分学を独習したと言われる。1895年に一度チューリッヒ連邦工科大学の受験に失敗したが、アーラウのギムナジュウムに通うことを条件に、来年度の入学資格を得た。
アインシュタインの相対性理論は、 E=mC2 、エネルギー(E)= 質量(m)x 光速度Cの2乗 で表され、核分裂、核融合のエネルギーの発生した分、質量が減少し、エネルギーと質量は、上記の式で表される。
皆既日食時、太陽の重力場を通過する星の光が、太陽の重力により、僅かに曲げられることにより、アインシュタインの相対性理論は証明されれた。そのためアインシュタインは、湯川秀樹らとともに核実験反対運動を行った。さらにブラウン運動が、熱運動媒体の分子の不規則な衝突による現象とした。(ブラウン運動とは、空気中の煙の粒子がゆっくりではあるが、ランダムな運動をすること)
『自己を売り込むにも、自分を高く売りつけるための「余裕のある」方法と、ワラにでもしがみつくような「絶望的な」方法との二種類がある。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの場合は絶望的な典型である。
彼は十四歳のとき、ほんのわずかなお金を懐に、故郷をあとにした、コペンハーゲンにやって来て、故郷の名士に書いてもらった紹介状をたよりに、ある舞踏家を訪れる。物もらいと間違えられて、やがて通されるが、彼女は、紹介状の主のことをまったく知らなかった。
芝居にはいりたいという衷心からの希望を言うと彼女はどういう役が出来るかとたずねた。そこでタンブリンのかわりに帽子をたたきながら演じ歌ったが、気ちがいだと思われた。それからは、売り込みの毎日だった。王立音楽学校に新しい校長が着任した時、出掛けていった。
これがだめなら故郷に帰るという悲愴な決意だった。この必死の売り込みが、功を奏し、歌の練習を始めるが、やがて声がわりで、声がつぶれて歌えなくなった。故郷に帰って手織りでも習ったほうがいいといわれ、振り出しに戻った。
アンデルセンに残された道は、脚本を書くことであった。そこで、悲劇の一幕を携えて、シェイクスピア翻訳家の所に乗り込むが、まるで相手にも、されずに追い返されてしまう。アンデルセンほど若い頃から自分を売り込むことに日々明け暮れて、その屈辱を味わった人もまれであろう。
その体験記はすべてのセールスマンにとってなぐさめの書でもある。』
アンデルセンはフューエン島のオーデンセに生まれました。父はまずしい靴職人でしたが、子どもの彼に、よく「千一夜物語」などの話を読んで聞かせていました。
彼は父から詩的才能を、祖母からは空想を、母からは信仰心をうけついで成長しました。貧しくも、あたたかい家庭の中で彼は少年時代を過ごしました。しかし、1812年に父は、出兵して、帰ってきた父は病気となり、33歳の若さで亡なります。
その後、彼はコペンハーゲンに出て歌手、俳優を志しますが失敗。しかし、王立劇場支配人コリンの援助でスラーゲルセの高校に入学。続いて、貧しい暮らしの中からコペンハーゲン大学を卒業し、イタリアに旅行して、そのときの印象と体験をもとにして、1835年に「即興詩人」を書き、一躍有名になっていきます。
美しくも、悲しい、「絵のない絵本」「親ゆび姫」「みにくいあひるの子」「赤い靴」など、多くの傑作童話は人類の宝とさえいわれ、童話の父として今も世界中の子ども達に親しまれています。また、自叙伝「わが生涯の物語」は自伝文学の名作といわれています。(第13回)
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